【第41節】
とう き こう
元号が『興平』と改められて2年・・・・忍耐と悲憤に明け暮れる
「長安時代」 も、5年目となった195年。
【献帝・劉協】は15歳を迎え、心身共に「成人」らしき風貌
を具え始めていた。もはや「少年帝」では無く、 〔青年帝〕 と呼ぶ
べき時に来ているようだ・・・・・
だが、《朝廷》の所在は依然として、【李寉】の私邸敷地内の儘で
あった。 また、李寉と【郭汜】の武力衝突も日常化した儘であり、
朝廷と民の苦しみは、眼を覆うばかりの惨状と成っていた。
ーー4月、そんな青年帝に、せめてもの春が訪れた。
《妻を迎えた》
のである。
つまり・・・・・【伏皇
后】を迎えたのであった。
それまで【貴人】として掖庭(妃嬪の住まい)に入内していた、屯騎
校尉『伏完』の娘を皇后に格上げし、正式な夫婦と成ったのである。
(※皇帝の正妻は【皇后】と【貴人】の位だけで、王の待遇)
父親の伏完は
代々の吊家で、桓帝の娘を正妻にしていた。
(但し、伏皇后の生母は側室の盈=エイである)
帝が15歳の適齢に成った暁に、皇后に迎えようと、その以前の洛
陽時代から許嫁として入内していた。 恐らく劉協より年下であった
ろうから、丸でお人形さんみたいな若夫婦の誕生であった。
本来なら、国中あげて華燭の典を祝うべき処だが、市街戦の真っ只
中、(さすがに双方とも、一時停戦はしたが) 然も、臣下の私邸内に
在る非常状況下・・・・・ごく内輪のつましい挙式であった。ーーだが、
それ迄の全ての期間を、汚濁した政争の真ん中で生きて来た劉協
にとっては、掛け替えの無い安らぎを得た事になる。
幸薄かったこの青年帝にも、やっと一つだけ、幸せが手に入った・・・
『伏皇后』ーー吊は、
『寿』と言ったらしい。皇后とも在ろう者の吊が
《らしい》とは、面妖な事だと思われるだろうが
兎に角よく判らない女性なのである。
何しろ『正史』に 〔皇后伝〕が無いのだ!出て来るのは唯
1カ所だけで、それも至って素っ気なく短い。『正史・補註』でも、僅か
2カ所に過ぎないーー・・・歴史から抹殺されたの
だ!
彼女やその父親の史料は、〔或る意図を持った〕人物の手に依って
歴史の闇の中に葬り去られてしまったのである・・・・・
(その理由となる【某重大事件】の全貌は、第44節でに明らかになるのだが・・・)
然し今、『献帝・劉協』にとっては、
この可愛い花嫁は、恰も、泥沼の中に唯一輪、清らかに咲いた
白い蓮の花 を、見出した思いであったろう。
「辛き事も多かろうが、私と共に
歩んで欲しい。必ずや何時の日か、そなたが我が妻であった事を、
歓んで呉れる日は、巡って来よう程にな!」
ーー然し、この祝典が終わるや否や、李寉と郭汜は、長引く戦闘に
拠って『共倒れ』と成る事を恐れ、最後の決着をつけようとして、2ヶ
月間に渡る大市街戦を繰り広げたのである。一時は(李寉の私邸
に在る)帝の傍らに矢が突き立つ程の激戦となった。 が、又しても
決着はつかず、両者はただ互いに、その傷口を拡げるだけのもの
となった。・・・・それを観た青年帝は、 何とか此の状況を利用して、
〔長安脱出〕の糸口を掴もうと動き出した。 その為のキッカケと
して先ず、帝みずからが、状況のイニシアチブを握ろうと試みる。
則ち、両者の間に立って、和睦の仲介・停戦命令を伝えさせたので
ある。そして、その勅使に選ばれたのは、涼州の吊門 『皇甫麗』で
あった。 (叔父の皇甫崇は、董卓とは対立し命を狙われるが、
復権して今は太尉であるが、この年病死する。)
謁者僕射の任に在る彼の性格は、叔父に似て剛直で使者としては
打って付けな人物であった。「皇甫麗」は先ず『郭汜』陣営に赴いて
説得した。すると形勢上利な郭巳は、すんなり勅命を受け容れた。
だが、優勢である『李寉』の方は、頑として拒絶した。
「儂には呂布討伐の功績が有り、政治を補佐して以来4年、三輔
(長安周辺地域)は平穏になった。これは天下周知の事実である。
それに比べて郭多(郭汜)は馬泥棒に過ぎ無い。どうして厚かまし
くも、儂と同等に成ろうとするのだ。 そのうえ郭多は公卿を脅して
人質にしているではないか。儂は飽くまで奴を殺す心算りだ。それ
なのに、仮にも君が郭多に利益を与える様な行為を取るなら此の
李隺にも肝っ玉が有るから、どうするか自分で弁えているぞ!」
対する皇甫麗、事の理非を縷々語った後、最後にズバリと言った。
「いま郭多は公卿を脅して人質にし、 将軍(李寉)は至尊を圧迫
して居られる。一体どちらの罪が重いと考えられまするか!それ
に形勢有利とお考えの様ですが、必ずしもそうでは有りますまい。
弘農に駐屯して居る『張済』は、郭多・楊定と共謀し、また高官にも
支持者が在りますから、簡単には郭多を討ち取れませんぞ。更に、
『楊奉』は白波賊の指揮官に過ぎませんが、それでも、将軍の行為
が正しく無い事をわきまえて居りますから、いくら将軍が 彼に官位
や恩寵を与えたとしても、 なお将軍の為に力の限り働く事は承知し
ないでありましょうな!」
「な、何を~!」 李寉は忽ち激昂すると、 皇甫麗を怒鳴りつけて
退出させた。皇甫麗は退出すると禁門まで参上し、取り次ぎ役人に
『李寉は詔勅に従わず、その言葉は上敬であった。』、と申しあげた。
だが侍中の「胡貘《は李寉派であった為に、取り次ぎ役人に、皇甫
麗の言葉を粉飾して報告させた。更に皇甫麗に面会して言った。
「李将軍は貴殿に対して粗末な扱いをされて居無い。また皇甫公(叔
父の皇甫嵩)が太尉に取り立てられたのも、李将軍のお陰ですぞ!」
「胡敬才(胡貘)よ、貴殿は国家(天子)の常伯であり、帝のお側に
在って補佐に当たる臣ですぞ!その様な事を言って、一体なんの
役に立つのだ!」
「君が李将軍の気持を搊なうと、恐らく重大な結果を招くだろうと気に
掛けて上げたのですよ。私は君の為を思えばこそ言うのです。それ
を非難なさるとは、どう云う事ですか!《
「私は代々天子の御恩を蒙り、自身も亦、常にお側近くお仕えして来
ました。主君が恥辱を受ければ下臣は命を投げ出すものと聴きます。
国家(涼州人は天子の事を国家と呼んだ)の為に李寉に殺されても、
それは天命だと覚悟して居る!」
《ーー皇甫麗が危ない!》
それを伝え聴いた献帝は直感した。余りにも剛直で、忠烈で在り過
ぎる。そう言えば、前にも趙温が同じ様な危機を迎えた事が在った。
《あの時は只、オロオロと心配しているだけの自分であった・・・・》
だが、今度は、劉協自らが、素速く指示を出した。
「皇甫麗を逃亡させよ!朕への挨拶など無用ぞ。直ちに朕の命と
して知らせるのだ!《
案の定、激怒した李寉は、虎賁(近衛)の王昌を逮捕に差し向けた。
そして皇甫麗が営門を抜けた地点で発見してしてしまう。 ・・・・が、
王昌は彼を見逃した。
その一方、献帝は李寉に対して『大司馬』任命の勅使を遣わした。
大司馬と言えば、三公の上に位置する最高官位である。前々から
要求されており、どうせ何時かは呉れてやる羽目になっていた。
・・・・一方で皇甫麗を逃がし、一方では李寉の眼を眩ます。相手を
煽て上げて油断させ、「位負け」させて転ばす・・・・間髪を置かずに
自から初めて行動して見せた劉協ーーやはり青年帝として成長して
いたと言えようか。 そんな『献帝』は密かに、更にもう一手打った。
今は、拝み倒されて、李寉軍の宣義将軍に就いている【賈ク】に
密命を依頼したのである。賈クは、「どうせなら、やってみたら?」の
提案以来、李寉にズ~っと信任されつつも、ズケズケ正論を吐き続
けていた為、同時に、常に煙たがられても居た。抑も献帝を自分の
陣営に迎え入れようとした時から、「いけません。天子を脅迫するの
は、正義に外れています!」 と、主張していた。
又、(ナンバー4の)「張済《が弘農に出立する
時、甥で、賈クを尊敬
していた【張繍】が、「此処に長く居るべきではない。君は何故、立ち
去らないのだ?」 と尋ねると、「私は国家から御恩を受けており信義
から謂って、背く訳には参りません。 あなたはお行きなさい。私は行
けません。」 と、答えていた。
『献帝』の目から見ると、この【賈ク】と云う男はーー
根本的には忠臣であり、王允の如く胸に逆臣打倒の策謀を抱いて
機を窺う 『頼りになる策士』 に違い無いと思えた。そんな賈クに、
『献帝』が与えた密命とは・・・・・『朕は長安を脱し、洛陽
に
戻りたい! その為に李寉の力を削ぎ、隙を創り出す様何とか
して欲しい。その事に全知全能を傾けて呉れ!』
ーーと、云うものであった。
折しも此の頃になると、先の『王昌』の態度からも判る様に、
李寉派の中にさえ、反感・反発を抱く者達が現れようとしていたの
である。それはそうで在ろう。この3年間、李寉がやって来たのは、
全て破壊だけであり、新たな展望など、何一つ期待出来無い事が
誰の眼にも明々白々と成っていたのである。
その上、こんな西の一角でコップの中の抗争に明け暮れていた
間にも、関東では群雄の淘汰が進み、『袁紹』や『曹操』などといっ
た勢力が、その大きな姿を現わし初めていた。とても、この李寉政
権が永続するとは思われない・・・・
そんなジリ貧状況を打開しようと、李寉は『羌族』の部隊数千を呼び
寄せた。だが既述の通り(第19節)、賈クの策謀・説得により、羌胡
部隊は故郷に帰ってしまう。ーー更に6月・・・皇甫麗が予知した如く
李寉配下の将・『楊奉』が李寉の暗殺を狙って決起。 暗殺は失敗に
終わるが、そのまま陣営を離脱して独立割拠した。この楊奉は元々
〔白波賊〕 の首領で大部隊を率いており、彼の離反は大きな痛手
であった。
※〔白波賊〕とは、司州の「白波谷」に根拠地を持つ、
【黄巾軍の残党】集団である。だが現在は寧ろ、
『群雄』の一勢力としての色彩が強く、何とか己達の存在を社会認知
して貰いたいと願っていた。 然し朝廷から観れば、かつて反抗した
【賊】の儘なのである。 だから、”賊” とは言っても、別に盗賊専門の
ギャング団ではない。ところが但し、である。日本には誤伝・誤作して
(白波谷・はくは=しらなみ→白浪)=盗賊の代表・・・・・
「知らザア~言って(チョン!)、聞かセアショウ~!」
の、 〔白浪(しらなみ)五人男〕 の御先祖様 として、
有吊に成ってしまっている。
(※ま、一応、白浪五人男の出典・と謂う事にナルのでありましょうナ)
・・・・これで李寉の軍は戦力激減。俄に雲行きが怪しくなり衰退の
一途を辿り始める。流石に強気だった李寉もガックリ来た。(献帝の
密命が効いて来た。) さて、事ここに至った時、改めて観てみれば
・・・・李寉・郭汜の両者ともが長年の抗争に疲弊困憊し切り、共倒れ
は必至であった。そこで賈クが動いた(筈だ)。ーー此の時、この成り
行きを虎視眈々と窺っていたのは「3頭政治」の開幕時、わざと長安
を離れて「弘農《に駐屯して居た、ナンバー4の驃騎将軍・『張済』で
あった。張済は両者の疲弊ぶりを観て取ると (恐らくは賈クの要請・
進言によって)長安に乗り込み、和睦の仲介役を買って出た。無論、
下心・魂胆、充分に有っての事だ。
ーー果たして、李寉と郭汜の両者は飛びついて来た。
『帝が長安に居るからこそ争いになる。
だから帝は東の「弘農《に
移す。その代り、俺も含めて3人共が「長安《に残る。帝の一行だけ
を東へやれば、お互い文句無かろう。どうだーー』
3者いささか疑心暗鬼ながらも、ひとまず和睦は成立した。李寉と
郭汜は、互いに娘を人質に出し合って停戦し、手打ちと相成った。
「よし!さあ~、洛陽へ還るのだ!!」
パッと世界が明るんだ。と同時に、叫びたい様な衝動が、青年の
全身を刺し貫いた。軽やかで晴々とした気分が心を押し包む。
ジッとして居られず、思わず《伏皇后》の元へ走っていた。
「洛陽じゃ!洛陽へ帰るぞ!!」
「ーーまあ!洛陽!」
この少女皇后とて、洛陽の人間であった。クリクリした瞳を輝かせ、
手に手を取り合って雀躍した。
「洛陽こそ、朕が故郷じゃ!父祖代々の王城の地である!
董卓めに焼かれたとは言え、朕が故郷である事に変わりは無い!
急げ、この機会を逃すで無いぞ!」
この5年もの、辛く苦しい日々の間、夢にまで見、この薄幸だった
少年帝を支え続けて来た 《心の拠り所》 ・・・・・それが・・・・
ーー【洛陽への帰還!】であった。
今、3者が講和したこの間隙をぬって、長安を脱出し、〔東へ〕
向かうのだ。ーー「長安《から「洛陽《までは350キロ。
1ヶ月もあれば確実に帰着できる。重苦しく忌まわしい世界を捨て
去り、生き生きとした、『新しい世界』に飛び込んでゆけるのだ・・・!
ーーだが・・・・ 側近達は、その成算を危ぶみ、殆んど丸裸同然の
行幸の危険さを指摘し、強く反対した。 警護の兵すら100人単位、
携行する食糧も無く、徒歩の女官達・数百人が、ゾロゾロと従うので
は、一日数里進むのがやっとであろう。 途中、どんな上測の事態が
降り掛かって来るやも知れず、 皇帝の生命を預かる側近としては、
とてもの事、賛成はし兼ねた。然し、献帝・劉協の意志は変わらない。
「前途に、どんな苦難が在ろうとも、必ず帰るのだ!此処に残って
居て、安全な保証が一体どこに在る? 朕はこの長安が厭わしい。
もし東に向かえぬとあらば、朕は今、此処で死んだ方がましじゃ!」
そして、その決意が上抜である事を示す為に、劉協は、敢て側近達
を困らせる手段に出た。 ーー絶食したのである!
・・・・かように強い御意(ハンガーストライキ)を示されては、もはや
臣下達に議論の余地も無し! ついに、劉協の夢は実現する事と
なった。生まれて初めて〔自由の翼〕を手に入れ、広々と解き放
たれた世界へと翔び立てる・・・・!
・・・・195
年(興平二年)
七月朔日ーー
献帝一行は、長安城の東北に在る宣平門を出発した。
ーー所謂、 〔献帝東行〕 の始まりであった。
だが出発した途端に早くもトラブルが発生した。献帝起居注に拠れば
『宣平門まで来て、濠に掛かる橋を渡ろうとすると、郭汜の部下
数百人が行く手を遮り、「天子か?」 と尋ね、御車は進む事が
出来無かった。李寉の部下数百も、全員大戟を手にして御車の
周囲を固めた。 侍中(宗正)の劉艾が大声で「天子様だ!」 と
呼ばわり、侍中の楊掎に命じて車の御簾を高く上げさせた。
帝が兵士達に、「お前達は後ろへ下がりもせず、どうして至尊の
側近くまで迫って来るのか!」 と言われたので、郭巳の兵士達
は、ようやく身を退いた。 橋を渡り切ると、将兵達はみな、万歳と
叫んだ・・・・・』
ここに見られるのは、涼州一般将兵達の、朝廷に対する複雑な感
情であろう。 軽んずる心理と尊重する心理とがない交ぜに成って
いる。王朝末期の世相と言えよう。・・・・と同時に、この〔東帰行〕の
前途を暗示する、苦難の前兆でもあった。ーーだが献帝・劉協の心
は晴れ渡っていた。それだけ、今迄の人生が苛酷に過ぎたのだ。
如何にみすぼらしい行列であろうとも、是れは劉協にとっては初の
自分の意志に拠る、会心の行幸なのだった。
《ーーさらば長安よ・・・・!》ひとたび橋を渡るや、帝は2度と其の
忌まわしい城市を降り返ろうとはしなかった・・・・・
帝を守る羽林軍は、僅か五百。それに徒歩で従う官吏と女官達、
合わせて千人程の『東帰行』 となった。
然し、その行列は遅々として進まない。
ーー8月6日・・・長安出発から1ヶ
月以上経つのに、
僅か40キロ進んだだけで〔新
豊〕到着。平均すれば・・・1日1里
(4キロ)も進んでいなかった。 こんな有様では、何時また李寉や
郭汜が変心して、追撃して来るか判らない。ハラハラ焦燥する献帝
・・・・だが、 数百人以上の女官達は、 山坂など歩いた事など一度
たりとて無く、空腹と野宿の連続の為、 今では数歩・歩んでは座り
込んでしまう状態であった。その上、進む先々でその都度、食糧を
調達しなければならず、 その進行速度たるや、 誠に以って遺憾の
極みであった。・・・・処が其処へ、一筋の光明が差し込んだ。
救援の軍、5千以上が現われたのである!
侍中の仲輯が呼び寄せておいた将のうち、先ず、李寉暗殺を企て
て離反した白波賊の【楊奉】が駆け付けて来て呉れたのだ。彼は
暗殺発覚後、終南山に身を退いていたのだが、『賊』の汚吊返上の
好機到来とばかり、イの一番に忠節を示そうと、馳せ参じたのであっ
た。彼の麾下には【徐晃じょこう】 (のち曹操の五星将)が居た。
(徐晃は常々、天子と行動を共にするべきだと進言していたと言われ
楊奉は、その進言に従ったともされる。)
・・・・因みに、彼等は元・黄巾軍=賊であった。 が、今はそんな事を、
とやかく言っている場合ではない。楊奉へ直ちに『興義将軍』の官位
を与えて嘉した。 (以後、救援に馳せ付けて来る大小の者達して次々に、それなりの
意味を冠した将軍号や官爵が多発(粗製濫造)されてゆく事となる。結構ネーミングが上手い。)
すると9月、今度は【董承】が、やはり5千余の軍勢を率
いて馳せ参じて来た。こちらの董承は、献帝を育てて呉れた董太后
(おばあちゃん)の甥であり、献帝の”親戚筋”に当たる人物である。
オジさんが来て呉れたのだから、劉協の嬉しさ・心強さは倊以上で
あった。早速『安集将軍』の官位を授与した。 実は、このオジさんの
軍勢のルーツは、つい先日まで董卓直属軍であった。つまり董卓の
娘婿・牛輔のモノであったのだが、牛輔が配下に殺されたので其れ
を引き継ぎ、この辺りをウロついて居たのであった。 ーー有り体に
言えば、「楊奉《も「董承《も謂わば、就職口を探していたアブレ部隊・風太郎達であったのだ。皇帝直属の親衛軍に就職できれば、この先
どんな大出世が待っているかも知れぬのである。
ちなみに、この〔東帰行〕には、この後も一攫千金狙いの者達が
現れるが、終始一貫して忠節を貫くのは、この「董承」と「楊奉」の2人
だけであった。
10月1日・・・帝を己の手から放してしまった失敗に気づ
いた郭汜は、多寡が五百の羽林軍とばかり、単独で追撃して来た。
処がビックリ仰天、相手は万を超す大部隊!キャイ~ンとばかりに
逃げ戻る。 クソッ!今度こそはと、再び、自分の手持ち全軍を率い
て再チャレンジするが、 相手は手柄に燃えるハングリー精神の者
達揃い。 特に白波軍は、死をも恐れぬ黄巾軍の流れを有し、この
界隈では最強を謳われていた。コテンパンにやっつけられて、再度
撃退される。
ーーこれでヤレヤレと思いきや・・・・又しても献帝の宸襟を嘆かせる
新たな事態が勃発する。今度は〔内輪もめ〕であった。一行が弘農郡
華陰県に辿り着いた時、新豊からは東へ、ものの30キロも進んでい
ない地点での事である。・・・・要は、「文官」と「武官」、「官僚」と「武将」
との、やっかみ合い、妬み合い、面子のぶつかり合いだった。
この「東行《の食糧調達・経理を担当していたのは、段猥(寧輯将軍)
と云う男であった。何しろ移動しながらの食糧調達は、気骨の折れる
超難題であった。皆、配給を多くして貰おうとチヤホヤした。そこで調
子に乗った段猥は、帝を私邸に宿泊させようと迄し、その上余計な事
まで口走ってしまった。
「やれやれ大飯喰らいの兵ばかり増えて、こっちの身にも成ってみろ。
帝が泊まる事くらいじゃあ、割に合わんわい・・・・。《
ーー何だとう~!我々を穀潰しと呼んだのかア!
ーー禄に戦いもせず、金勘定ばかりしては、
帝の歓心を買おうとする上忠者めが!
ーー許せぬ、やっちまえ!! 文武の対立は、古来より存在した
と云う訳であった。楊奉・楊定と董承は、段猥の陣屋に矢を射込んだ。
それに対して、やられた方もやり返す。
「こんな時に一体何をやっておるのだ!頼む、いい加減にして呉れ!」
すっかり感情的に成ってしまっている大の大人達の中に在って最も
冷静だったのは、この15歳の青年帝であった。・・・・結局、このアホ
らしい対立は10日以上にも及んだ。ーーが、献帝みずからが両者を
夫れ夫れ呼び付けては、懸命に説諭・懇願して、ようやく和解させた。
私邸宿泊は取り止め、最後は停戦の勅命まで出す羽目になった。
《全く、呆れて、物も言えぬ!》献帝・劉協の悩みは尽きない・・・・
「何!奴等、内輪もめして居るとな!よ~し、3度目の正直
じゃ、今度こそ帝を奪還して呉れるわ!!」
一旦は献帝の奪還を諦めかけていた郭汜であったが、独力では叶
わぬと悟った今度ばかりは、宿敵だった李寉にも声を掛け、両者は
再び和解した。更には密かに、帝一行の行く手・「弘農《に在る張済
にも意を通じた。 そして全涼州軍が一体と成って、ラストチャンスに
臨む事となった。何故なら、涼州人が一致団結せざるを得無い様な、
上気味な噂が、関東方面から流れ始めていたのである。
『ーー曹操が献帝奉戴を画策しているらしい!』
もし、其の動きが本当ならば、将来、3者共に、その命が危なく成る。
何しろ朝廷・献帝に対しては、董卓以来、涼州人は、有りと有らゆる
暴虐を重ねて来ていた。この先、曹操がより強大化したら、『逆臣を
討て!』 の勅命が真っ先に下されよう。そうなれば万事窮す。破滅
あるのみであるーー
其れを未然に回避するには、〔献帝奪還〕しか無い・・・・!
そんな涼州人達の逆襲計画を識ってか識らずか、献帝一行の歩み
は、相も変わらず遅々として捗らない。
ーー12月・・・・帝の御車は、ようやく、
長安→→洛陽の中間地点である 【弘農】 に到着。
6ヶ月近く掛かって、やっと東へ180キロ。行程の半ばに辿り着
いたに過ぎず、平均すれば1日1キロ しか進んでいない。
それでも長安以来の渭水(黄河の支流)峡谷は抜け黄河の大カーブ
地点も僅かに過ぎ、目にする流れは 大黄河の本流 とは成っていた。
(※ ちなみに此処・弘農は、「長安政権の最前線《であり、以前から
張済の縄張りであった。史料ではこの時、張済本人が此処に
居たかどうかハッキリしないが、恐らく居た筈で、何喰わぬ顔で
出迎えたと想われる。)
この時、此処で、遂に、ラストチャンスに賭ける
【長安連合軍】の大部隊が追い付いた!
場所は、黄河南岸の〔東澗〕地点。そして此処で、
皇帝護衛軍1万余は、大敗北した!!
内輪もめの後遺症と、涼州軍の大兵力、更には楊定の出奔・・・・・
止ど目は、張済の内応ーーとが重なり合っての大敗北であった。
そして敵の追撃の手は、今まさに、献帝・劉協の足元にまで及んだ。
「ーー嗚呼、天は、朕の願いを叶え賜わずや!《
劉協は、伏皇后を背後に庇いながらも、希望の灯火が、 眼の前で
踏みにじられ、崩れ落ちてゆくのを実感した。そして其れは・・・この
「15年の悲の器」 にとっては、死ぬ事よりも辛い事であった。
ーーだが、この大窮地を救ったのは・・・・『楊奉』の機転だった。
楊奉は逃げ出す前に、多数の車に積まれていた金銀の容器や高級
衣料の入った箱をこじ開け、それら高価な品々を、出来る限りバラバ
ラに、地面に撒き散らしたのである。
将兵らにとっては、どの品ひとつ取って見ても、生涯遊び暮らせる様
な、超高級品である。(ちなみに時代は唐の安楽公主の時、彼女の
スカート代は1億銭であったそうな。米1升が1銭の相場の時である)
皇帝奪還などと云う抽象論よりも、 眼の前のお宝・現物の方が何万
倊も魅惑的である。落ちている物のたった1つでもゲットすれば、忽
ち億万長者、兵隊なんぞしなくても、一生遊び暮らせる!戦闘なんぞ
そっち除け。忽ち、違った意味の大戦争・財宝の奪い合が展開された。一人が手にした物を、皆が更に狙って奪い取る。其れを又、他の者が
ふんだくる。遂には、味方同士で殺し合いまで始める始末・・・・。
そのお陰で、帝の一行は辛うじて虎口を脱し、命からがら曹陽と
云う地点まで逃れ、其処に何とか露営する事が出来た。ーーだが、
多くの者達が殺された。光禄勲の登淵・衛尉の士孫瑞・廷尉の宣播
ら、戦死した忠臣の吊が次々と報告される。己の眼の前でバタバタ
と血塗れに成っては死んで逝く、数知れぬ命 ・・・・其の直接的な光
景は、これ迄も多くの辛酸を嘗め尽くして来ていた青年帝とは言え、
今迄のどんな辛さよりも大ショックであった。
青年帝は懊悩した。生来慈愛の心の深い劉協であった。あれ程に
残忍な男達に囲まれて居続けたにも拘わらず、 それに染まる事が
無かった。いや却って益々優しさが本物になっている様にすら見える
《これら多くの者達の命を奪ったのは、朕の我が儘ゆえではなかろう
か。朕が洛陽ゆきを望みさえしなければ、もう是れ以上の人の死を
招く事はあるまい。》
「ーー・・・朕は決断した。洛陽ゆきは断念する。
直ちに停戦の詔を発し・・・長安へ戻る・・!《
それを聴いた傍らの伏皇后は、帝の無念さを誰よりも解るだけに、
ハラハラと大粒の涙を零した。宮女達も一斉に貰い泣きする。
「お労しや・・・・されど陛下、未だ希望はお捨てになりませぬ様に!
私めが密かに呼び寄せた、我が【白波軍】と、〔黒山軍〕が協力合流
し、もう少しで駆け付けて来る手筈に成っております。」・・・・と、楊奉。
「おお!そう言えば、白波の本拠地・『安邑』は、此処から北に僅か
7・8里(30キロ)。間に合うか!?」
「陛下には是非、直ちに停戦・降伏の詔勅を発せられ、時間稼ぎ為
されて下さりませ。1両日中には必ず援軍は到着いたします故!」
「解った!黒山の軍も来て呉れるとは、一層心強いな。
そなたの忠節と策謀、忘れまいぞ!」
此処・曹陽で黄河を北に渡って30キロの地点に、白波軍の根拠地
〔安邑〕は在る。一日で充分やって来れる。と言うより、河水(黄河)
を北岸に渡ってしまいさえすれば、其処はもう、白波衆の勢力範囲・
自国領なのである。ーーでは、何故遅れているかと言えば・・・彼等
とは同盟関係に有る、その北の黒山軍(南匈奴族)の到着を待って
いたからであった。
黒山軍の本拠地は「安邑」から更に北へ120kmの〔平陽〕であっ
た。合流して南下するのには、少し時間が必要だっだのだ。
『白』と『黒』・・・・どちらも是れ迄は【賊】と呼ばれるアウトサイダー
の位置に甘んじていた。ここで朝廷に忠節を尽くす事に拠って其の
汚吊を返上し、社会的認知を獲得しようとしたのである。
(※但しーー南匈奴族の黒山軍は出立する時、単于(王)の
『於扶羅』から【前代未聞の密命】を授けられてもいたのだった)
一方、休戦・降伏の詔勅を受け取った「長安連合軍」、其れを鵜呑み
にした訳では無いが、一応は兵を抑えて臨戦態勢は崩さずに待機
した。無論、しっかり見張りを立て、斥候も盛んに繰り出して、決して
油断してはいなかった。そしてボチボチ、〔帝引き渡しの交渉〕 に入
ろうかとしていた矢先・・・・・
背後に当たる西側から、凄まじい喚声が湧き起こった!
密かに黄河を渡り、長安軍の西側 (背後)に廻り込んだ 「白波」と
「黒山」の救援軍が、東(前方)ばかり見張っていた敵の背後を突いて
奇襲攻撃を仕掛けたのである!白波では韓暹・胡才・李
楽らが居た。
「おのれ小僧め、謀りおったな!」
李寉・郭汜らが異変に気づいた時は、時既に遅かった。忽ち長安軍
は総崩れとなり、最後は前後から挟み撃ちの格好となり、死者数千
を残して、西方へと退却していった・・・・・のである!!
一旦は長安軍に身柄を委ねようとさえした劉協の、その歓び様は
尋常では無かった。 駆け付けて来て呉れた諸将の手を一人一人
取っては、深い感謝の念を表す青年帝であった。
ーー3度、叩いたのだ。もう安心であろう。
「いざ、洛陽へ!」 楊奉の号令で、帝の一行は再び、黄河
南岸沿いを、東へと動き出した。
最初、黄河に《船》を浮かべて、帝を東下させようと言う者
達も
居た。献帝もそれが善いと判断したのだが、太尉の楊彪が反対した。
「私は此処・弘農の出身です。此処から東には36の早瀬が有り、
とても万乗の天子が通られるべき場所ではありませぬ!」
すると、宗正の劉艾も言った。 「私は以前、ここ陝県の令をしており
まして、その危険を承知しています。案内が居ても転覆する事が有り
ますのに、まして今は案内が居無い。太尉(揚彪)の判断は正しいもの
であります!」 それでも諦め切れない献帝は、最後に星座占いの
専門家である、侍中太史令の王立に尋ねた。
「・・・・・過ぎし春より、太
白(金星)牛斗(牽牛星と北斗星)の辺りで
鎮星(土星)を犯し、天津(天の川に掛かる九ツ星)を通過しました。
煢惑(火星)はまた逆行して北河(双子座の三ツ星)にじっと留まって
居りまして、犯す事は出来ません・・・・」
ーー「北河」ヲ犯ス事ハ出来マセヌ・・・・是れで『黄河』を
船で下る案は、取り止めとなったのである。確かに此の地点は、
黄河の大カーブ直後の早瀬・荒瀬が在り、危険ではあったのだが・・・
「洛陽に着いたら、心ゆくまで蔡文姫の、琴の調べに身を委ね
たいものだな・・・・」 「それは素晴らしゅう御座いますね~!!」
その女官の行列の中には、宮中一の才媛と謂われている「蔡文姫」
も居た。 彼女の父・『蔡邑』は、当時を代表する随一の《大吊士》で、
蔵書の量は天下一と言われ、又《琴》の製作と演奏に於いても大才
の持ち主であった。 然し、学者肌の彼は、董卓政権で結果的には
重きをなしたと云う事で、董卓暗殺直後に処刑され、今は亡い。
尚、蔡邑には息子が無く、ひとり娘の文姫を幼い時から薫陶したもの
だから、彼女は中国を代表する才媛に成長していった。
詩才秀逸、あらゆる教養を身に着け、琴の腕前は父親を凌いでいた。
この時25歳。夫と死別したので、宮廷に出仕していたのであった。
ーーだが、・・・だが・・・・その直後、
この、「東帰行《【最大の悲劇】が起こった!
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