第40節
              と ら わ れ
悲愴、虜囚の少年帝

                         



運命の9月1日・・・・ 9歳劉協
       第13代・後漢王朝
皇帝に即位した
ーー天下(世間)が此の事を、どう取り沙汰しているのかは・・・・
たった9歳(満では8歳)の劉協に、判ろうよすがも無かった。
          
また董卓と云う男の評価も、どう下して良いものやら皆目かいもく判らな
かったし土台、有無を言う事など許される筈も無かった。
其れよりも劉協が、 少年の実感として大きな衝撃を受けたのは、
この
2日後に起きた出来事であった。
ーー
9月3日、我が子を皇帝の座から引きずり降されて半狂乱と
なった、あの 『
何皇太后』 が、丸で指先で小虫でも潰すかの如く、
いともあっさりと殺されてしまったのだ(毒殺)・・・・
同じ【
】でもケタが違ったのだ是れを暴挙とささやき合う者も居た
が、劉協にすれば、母親(生後すぐに毒殺された王美人)の憎っ
くき仇を討って貰った事になる。ーー然も自分を皇帝にもして呉れ
た・・・・何がし、世の董卓評とは異なる感情・恩義の様なものが、
少年帝の心の中に芽生えかけていた。 実際、董卓の傍若無人
ぶりは相当なものであったし、 劉協など丸っきりのガキ扱いでは
あったが、 こと個人的には、丁重で気配りも充分であった。単に
獰猛なだけの男では無かった。 己の政権基盤が確立する迄は
忍ぶべきは忍んでいる様であった。滅茶苦茶忙しそうで、以後は
殆んど言葉を交わす時も無い程であった。その間、董卓は好きな
様に官位を吊り上げてゆく。
ーー11月にはとうとう、『
相国しょうこく』と云う、漢王朝400年の間、誰も
就いた事の無い、伝説的宰相職に就いた。その上・・・更に・・・・
讃拝上 吊さんぱいふめい』・『入朝上趨にゅうちょうふすう』・『剣履上殿けんりじょうでん』を要求してきた。 つまり、
皇帝と丸きり対等な立場を、今更ながらに求めて来たのである。
そんなものは事実上、最初から彼は行っていたが、世間の手前、
公式に特権者で在る事を強調したいらしかった。
董卓と云うモンスターは、鼻っから是れ等の権威・礼儀を無視して
いるが、これら臣下の礼を免除された例は、漢王朝(前漢・後漢)
400年を通じても、
蕭何しょうか王莽おうもう梁冀りょうきの、僅か3人しか無かった。
劉協(献帝)の周囲はかまびすしかったが、劉協自身はどうと云う事も
思わず、あっさり許可した。土台、拒む事など出来る筈も無かった。
ーーだが、
12月になると・・・・周囲の雰囲気が少しずつ変わっ
ている事に、献帝劉協は気付き始めた。どうも、若手の有力武官
(父・霊帝が死ぬ年に創設した『西園の八校尉』) 達が、次々と郷
里の本貫地へ逃げ去り始めた様であった。宦官を全滅させた
袁紹えんしょう
袁術えんじゅつそれに「曹操そうそう」とか云う男などが、都から姿をくらましたらしい。
《自分が皇帝と成った事を、心よく思っていない者達もいるのだな》
 と云う事が、何となく察せられた。そして其れを決定的に思い知
らされたのはーー年改まった翌月・・・即ち
初平しょへい元年190年1月
の事であった。正月だと言うのに、慶賀の雰囲気など丸で無く、殺
気立った大部隊が次々と洛陽の城門から出撃してゆくのが見えた。
聴く処に依ると、先月消え去った『
曹操そうそう』と云う男や、『張超ちょうちょう』などと
云った者達が全国に
げきを飛ばして反董卓連合を結成したらしい。
《ーーどうやら、是れ等の者達は、ちんが皇帝で在る事に異議を唱え
ているのでは無く、独断で其れを為した董卓の事を憎んでいる様
だな・・・それにしても、勝手に「密勅を奉じ」とは、よくやるものだ。》
その連合軍の盟主には『
袁紹』が推され、合計した兵力は数十万
にも及ぶと言う。だが其れに対し董卓はグラつく事も無く言い放った。
「フン、寄せ集めの〔にわか連合〕など、何程の事が出来ようか
            互いに足を引っ張り合うのが関の山じゃわい。」
そして其の董卓の予想は、ピタリと適中した。互いに、己の兵力を
温存し合い、まともに戦おうとする者は居無い様であった。今は連
合しているものの、いずれ国へ戻れば互いに敵同士に成るのだか
ら、そっちの方が気になるらしい。・・・・そこでやした「曹操」
とか云う、下っ端の武将等が 突っ掛かって来たが、逆にコテンパン
にやっつけたらしい。 ーー何しろこちらには、董卓と親子の契りを
結んだ『
呂布』が居て、吊馬「赤兎」に乗ると滅法強く、その武勇
は天下無双だと言う。普段は董卓の護衛をしているが2メートル余
もある巨体の、一寸、暗い処のある無口な将軍であった。 確かに
あの男ならば強いに違い無いと思えた。その上、連合軍とは言って
も、全ての者が加わっている訳でも無く各地では群雄が、のっぴき
ならぬ潰し合いを展開中との由。とても一つにまとまりそうも無い、と
言う事であった。
・・・・だが程無くすると、董卓の顔付きが急に険しく変わり始めた。
《何か戦局に重大な変化が生じたな?》 と、劉協にも判る程、董
卓の眼がギラつき、直ぐカッと成った。少年帝の眼の前で、呂布に
手戟しゅげきを投げつけた事さえあった。
「あのイライラの原因は、《江東の虎》が現われたからですヨ・・・・《
と、こっそり教えて呉れる者が居た。今まで集結して居た諸国軍
とは別に、やや遅れはしたものの、たった独りで北上して来たのは
江東の虎と呼ばれている『
孫堅』と云う男だそうな。この孫堅の軍
だけは日和見せずに本気で、真一文字に突っ込んで来ているとの
事。 北上途中に次々と兵力を糾合して、今や単独でも数万余の兵
を率いており、 しかも
江東の虎と恐れられる程に強いと言う。遂に
は単独で「
陽人ようじん《に攻めのぼり、呂布将軍に次ぐ と言われた華勇かゆう
将軍
の首を挙げてしまう。ーー其れを見た諸軍は俄に触発されて
活気づき、総攻撃体勢に入ったのだと言う。
そして此の男も亦、曹操以上に忠烈なる士だと言われているらしい。
《ーー
とは何なのだ 朕の方に向かって攻めて来る者が忠義
者だとすれば、朕を皇帝に就けて呉れた董卓は上忠者なのか

10歳にも満たぬ劉協には、よく解らない。・・・だがそんな少年帝の
疑問に明快な答えを出させるかの様に、 この月の間に、大事件が
引き起こされた。
兄の劉弁が毒殺されたのだ。ーーこの事件は、流石に
少年帝を打ちのめした。如何に腹違いであったとは言え、一緒に
遊んだり学んだり、彷徨さまよったりした思い出と実感がある兄であった。
しかも、廃位されたとは言え、皇帝で在った人である。
《ーーやはり董卓と云う男は、悪しき者であったか・・・》
改めて、董卓の本性を見た気がする劉協であった。 が、事は其れ
だけに留まら無かった。一旦仮面をかなぐり捨てるや、董卓の図太
くも、おぞましい蛮行が、次々に露わにされていった。
廃帝殺 し』の次は、歴代皇帝の墓荒しであっ た・・・・・
献帝・劉協』は、兄の殺害で哀しみを、そしてこの墓荒し
では
憎しみを、董卓と云う男から与えられた。そして更には、
怒りをも、この男から受け取る事となった。
          
洛陽ここを立ち退いて、
長 安ちょうあんに移って貰うぞ
遷都せんとと云う世紀の大事件を、その男は事も無げに、突然、
そう通告して見せた。
「ーーッ、洛陽を去るのか 劉協少年が、皇帝
として初めて、臣下である董卓に、異議を唱えた一瞬であった。
「そうだ。逆賊共の所為せいで、
         どうでも此処を引き払う事態に成って来たのだ。」
それはイヤじゃ洛陽は朕が生まれ育った故郷である。
 漢王朝の永遠の都であるぞ

「ーーほう~~お前は、この董卓の決定に文句を付け様と言う
のかア~~
」董卓はこの抗弁に一寸意外そうに眼をひんいた。
「陛下が御自身で、新しい都を創られれば良いではありませぬか。
そもそも漢の都は本来、長安で在ったでは御座いませぬか。陛下は
漢の高祖の偉業を、美事復活なされるのです

                 こんな吊誉な事は又と有りませぬな。」
この男が丁寧な言葉使いをする時こそ、かえって本当に激怒してい
る時であった。それを劉協は知っていた。だが、献帝たる劉協はひる
まず言い返した。あの夜★★★段珪だんけいに抵抗した事といい、この董卓への
抗弁といい、一見、華奢きゃしゃにしか見えぬ此の少年の裡には、時として
相手を驚かせる様な、強靱きょうじんな意志の発露・綺羅キラめきが顔を出す・・・
いや違うぞお前の失政の所為せいではないか
 それに付き合わされるのは御免 被る
何を~~この小僧めがこの儂に、
 お前の首が落とせぬとでも思って居るのかア

遂に董卓は、最後の決め台詞ぜりふまで吐き散らし、今にも両手で劉協の
首をへし折らんばかりに激怒した。もし、近従がスッ飛んで来なけれ
ば、あわや
と云う一幕になった。
「この恩知らずの糞ガキめが~
                代わりに近従がブッ飛ばされ、即死した。
《ーーよく判らぬ・・・・未だ9歳の自分が大人に成る迄、その代りに
摂政役となって呉れるのが、そんなに悪い事なのか
》・・・・・と
思っていた 幼帝も、遂に、事ここに至っては、明確な結論を、己の
裡に出さざるを得無かった。ーーそして改めて、その視点に立って
物を観ようとした時、献帝・劉協は、己の置かれている位置
と、その状況の深刻さに慄然りつぜんとした・・・・



  
   *       *       *

たてがみと尾を朱色に染められた4頭の白馬が、
 青い天蓋てんがい金の華飾りの付いた、朱塗り車輪の、
金華青蓋いて、洛陽宮の城門を西に向かって
 去ったのはーー初平元年(190年)2月の事であった・・・・
陳留王・劉協が新皇帝と成った日から、数えて僅か半年にも満た
ぬ、
長安遷都への旅立ちの日であった。
            
献帝・劉協は、最早人前では涙こそしなかったが、その小さな身は
引き裂かれる様な哀しみと、無念さとに包まれていた。何度も何度
も振り返っては、その建た住まいや、数々の思い出を噛み締める
のだった。《ーー朕は必ず此処に戻って来てみせる・・・・

それが、この少年帝の、唯一の励みと成ってゆく。ーーだが、だが
然し・・・・董卓は、その少年帝の最後の希望すら打ち砕く、最悪の
暴挙に出たのである。・・・・帝を先発させた直後・・・・・
董卓ハ、自ラ兵ヲ率 ツレ、南北ノ宮殿・宗廟・政府ノ蔵・民家ニ火ヲ
放ッタノデ、洛陽城中ハ完全ニ灰燼ト帰シテシマッタ。

ーーその瞬間、劉協の中で、何かが消え、崩れ去っていった・・・・
そしてその後、少年帝は心神喪失状態で体調を崩し、長い病いの
床に着いてしまった。それはそうであろう。
母は亡く〕、 〔父を失い〕、 〔兄は殺され〕、
育てて呉れた祖母も死に〕、
ちかくに在った宦官達も 皆殺し にされた。その上
ーー・・・せめてもの思い出が詰まった
我が住まい(王宮)までもが焼き尽くされ』 のだ・・・
僅か9歳の幼い身に、これだけの事が、立て続けに襲い掛かった
のだ。その残酷な宿命に堪え忍べ、と言うのは、
それこそ「
あはれ」である。
「・・・・洛陽・・・私の洛陽・・・・《 
高熱の中、 うかされた様な少年帝の、 切なくも寄るない思いが、
その林檎の様な赤い唇から零れ落ちた・・・・
長安遷都から、1年と2ヶ月・・・・董卓のやる事は無茶苦茶
にエスカレートしていった。
ーー
だが・・・・・192年(初平三年)4月23日ーー
暴虐の限りを欲しい儘にしていた
董卓が、未央宮びおうきゅう階段きざはしの下
で、
暗殺された!!献帝・劉協の、長い病床生活が快癒して、
それを慶 賀する祝典の日の出来事であった。

「ーー
董卓・・・殺された」俄には信じられぬ報告であった。
何故なら、万一失敗した時の事をおもんぱかった【
王允おういん】 は、事前の相談
や計画の存在を一切、幼帝には明かしていなかったのだ。何しろ、
相手は帝位を狙う董卓である。もし暗殺が失敗した場合、『
密勅
が出ていたとなれば、激怒した董卓は其れを理由に即座に幼帝を
弑逆しいぎゃくするであろう。だから呂布に持たせた
みことのりも、ひとえに王允一身
の責任に於いて出したものであり、幼帝には何の関わりも無いもの
とした。
《成功しさえすれば、どうとでもつくろえる。それより、帝のお命が第1だ》
だから劉協は、心底から驚いたのである。 
「間違い、・・・・謀略ではあるまいな

「本当で御座いまする
我が眼の前で、然と見届けた事実に御座
いまする
それに外の、あの皆の万歳!の声をお聴き下さいませ
念を押し、確答を得ても尚、実感の抱けぬ少年帝である。
ーーあの、自信に満ち溢れた巨躯と眼光・・・何千何万もの人間の
命を、思いの儘に殺し尽くし、 それを煮て、平然と喰らった怪物で
ある。 白昼堂々、 朝廷内で公主こうしゅや宮女達を犯しまくってはばからぬ、
獣の如き野性であった。そして、素手で将軍を叩き殺す豪力・・・・
『力』と『傲岸ごうがん』の権化ごんげとも思える
悪の化身・・・それが殺される
あの頑強な生命体に
など有り得るのか・・・・ーーだが、
殺した相手が
呂布であると聴かされた時《それなら有り得る》と
初めて感じられた。もう一つの獣性・・・・それが呂布であった。
「司徒の
王允おういん殿の、はかり事で御座いま す
そう聴いた時、献帝・劉協の心は随分ホッとした。
《ーー王允であれば、信頼は出来るな・・・》そう言えば以前、見舞い
に昇殿して来た
王允は、帰りぎわに耳元でこうささやいた。
「この地上に晴れぬ曇天は御座いませぬ。人の世に悪逆が長続き
した例も在りませぬ。 陛下の御病気も、近いうちに必ずや、この
王允の祈りで快癒させて御覧に入れましょう。どうぞいま暫くの間、
御自愛なされて居て下されませ・・・・。」
嗚呼ああ、あれが王允の忠節で在ったのか
》 一瞬、重圧から解き
放たれた様な、えも言われぬ気分に成る少年帝であった。
《ーーこれで洛陽に帰れるかも知れない・・・・》
なぜか上意に、政治向きの事より、先ず其の事が心に浮かんだ。
だが、物心ついた時以来、成人であっても耐え難い様な、数々の
辛酸を既に嘗め尽くして来ている、この利発な少年帝は、直ちに
新事態を歓迎する様な、軽率な気持にはなら無かった。・・・・僅か
11歳にして、最早、無邪気な子供心は、この少年の中から、無残
にも消えていたのである。『ーー政変には悲劇が付きまとう・・・』と
云う事は、イヤと言う程、身に沁み着いていた。
《この儘すんなり紊まるとは思えぬ・・・・王允は大丈夫で在ろうか

新政権担当の認可を受ける為に昇殿して来た王允の顔をしみじみ
眺める劉協であった。果たして、少年帝の其の危惧は適中してゆく
王允・呂布政権は己の軍事基盤が危弱だったにも拘わらず
いや危弱だったからこそ、事を急ぎ、やり過ぎてしまったのである・・・
乾坤一擲けんこんいってきの一発クーデターが成功した此の際とばかり、董卓人脈で
あった
涼州りょうしゅうの復活を恐れて、徹底弾圧を一挙に加えたのである。
然し、そもそも長安に居た者の90パーセント以上は涼州人だったの
だから、これはヤブヘビ・寝ている子を起こす事と成ってしまった。
長安城下で会戦となった。城側の者達は数こそ少なかったが、
『帝をお守りするのだ
』と奮戦する。ーーそして激闘すること10日
・・・・遂に、少数派の王允側に破断界はだんかいが訪れた。
ーー実は、長安城の城壁は、200年前の《
赤眉せきびの乱》で焼き払わ
れ、崩れ落ちた儘に放置されて来ており、至る所で大穴が空いて
いたのだ。これでは、城としての有利さは半減する。・・・市街戦と
なり、王允が頼みの綱としていた『呂布軍』も多勢に無勢。とうとう
持ちこたえることあたわず、追い詰められ・・・・破れた。
直後、李寉りかく郭巳かくしが城門を突破し、ついに南宮の掖門えきもんに本陣を
進めた。そして後は残敵の掃討戦へと移り、 魯馗ろき太僕たいぼく)・周奐しゅうかん
大鴻臚だいこうろ)・ 少帝の先導役を勤めた崔烈さいれつ(城門校尉)・王キ(越騎
校尉)ら、多数の官吏・民衆が殺された。

王允が駆け付 けて来た。
「陛下、私はこれ迄で御座います。こうなれば唯、私には陛下の
お命だけが心配で御座います。然し無念ながら今や私には其の
力も無くなりました・・・。」 眼には涙が滲んでいる。と、王允はつと
半歩進んで、しっかと幼帝の手を握って言うのだった。
「陛下、宜しいですか。此処が正念場と云うもので御座いますぞ

美事、御自分の御威光を以って、彼等を従わせるので御座います。
その舞台は、この私めが選んで差し上げます。宜しいですな。陛下
なら、必ず彼等を従わせることが出来ましょう。御自身が大漢帝国
の皇帝で在られる事を、高らかにお告げなさるのです

「ーーウン、解った
自分の力が何れ程のものであるのか・・・
皇帝の威光とは何であるか・・・・朕(ちん)自からも識りたいと思って
いたのだ。ーー安心いたせ、美事やって見せようぞ

「おお、陛下
よくぞ、よくぞ申されましたな・・・・未だ未だ、幼気いたいけ
ないお子とばかり思って居りましたものを・・・

王允の老顔(55歳)に涙がほとばしった。
「王允よ、子師よ。今まで永い間、我が王室の為に尽くして呉れた
そなたの忠節、その誠。・・・・心底から深く礼を申すぞ・・・

「嗚呼、その御言葉!この王允子師、もはや此の世に思い残す事は
御座いませぬ
」そうして居る間にも、敵兵の足音が近づいて来た。
宣平門せいへいもんに参りますぞ
其処から彼等残党どもに陛下の御言葉みことば
お掛けなさるのです
」言うや王允、老体とは思えぬ膂力りょりょくで劉協を
抱き上げると、一気に城門の上へと駆け昇った。
「皆の者、よ~く聴け~イ
そして、よ~く拝めイ此れにわす
のが
天子様なるぞ畏れ多くも、お前達に、直々じきじき
大漢皇帝陛下
からの御勅意がたまわられる。慎んで臣下の礼を
以ち、直ちにこの御門の下に集まるのじゃ~

それを聞くや、李寉りかくはじめ、主だった者達がせ着けて来た。
ーー幼い劉協の姿が、急に巨きく成っていった。
通天冠つうてんかんの宝玉が、陽光にキラキラ輝く。そして其処には・・・・
人間・劉協では無く、
天の子が立って居た

李寉りかくラハ門ノ下ニぬかズキ、
              地面ニ平伏ひれふシテ叩頭こうとうシタ

ーー献帝】 は、言った。
「そなたら臣下は、刑罰・
恩賞の権は降るっては成らぬ筈じゃ。それを、兵を放って勝手な
真似をするとは、どう云う心算りじゃ

かたわらにひかえる王允が感動する程に、堂々たる王者の姿で在った。
誰も、何ひとつ教えても居無いのに、この巨きな在り様はどうだ

9歳で帝位に就いてから2年・・・・僅か11歳の少年 のたたずまいとは、
とても思え無い。
《おお、是れだ
此の貴尊けだかい心の在りようと、此の聡明さこそが、
帝御自身を守り通してゆくのじゃ・・・・

一方、宣平門せいへいもん下の李寉りかく郭巳かくしらは《我こそが一番の忠臣である!》 
と、云う事を互いに競い合う心理に成っている。 何故なら、次の
政権が自分達のものである事は、 もはや明々白々となっていた
からである。ここが己等の正当性を認めて貰う、初めての機会・場
であった。あだや疎かには出来無い。
緊張にしゃちょこって、慎んだ態度で答える。
「元もと、董卓は陛下に忠誠で在りましたのに、故も無く呂布に殺
されました。私どもは、董卓の為に復讐しただけで、謀叛を起こし
たのでは御座いませぬ。事が終わりましたなら、廷尉の元に出頭
して処罰を受ける所存で御座いまする。」
「ーーその申し様に、偽りは在るまいな

「ハハーッ、決して其の様な事は御座いませぬ~

ひたいが割れる程に叩頭こうとうして見せる李寉たち・・・・
「ーーでは、政治向きの事は、朕が加冠(成人)する迄の間、暫く
そち等の遣り方を見て居よう。宜しく朕を補佐致すように・・・・

これで劉協は、9歳で即位して(させられて)以来、
董卓』→『王允』→『李寉 と、僅か3年の間に、3度の
政変・激変を味わう事となった。そして、其の何れもが、本人には
全く選択の余地など無い、末期的な時代状況下での出来事であった。
ーー王允の進退はきわまった。
「・・・・陛下、よくぞ御立派に責を果たされましたな

              これで此の王允、安心して死ねまする。」
言うや
王允子師、サッときびすを返すと、劉協の元を辞去し、
表に出て李寉らと会った。ーー李寉は、王允はじめ、其の妻子
一族10余人を処刑し、心有る人々の涙を誘った。ーー192年
(初平3年)6月の事であった。董卓暗殺から僅か2ヶ月・・・・・
王允・呂布政権は、《泡沫うたかたの政権》と成って消えていったーー。
それは同時に
第2次長安政権の誕生でもあったが・・・
是れを巨視的に観れば・・・・この一連の事件は、もはや漢朝廷・
皇帝とは・・・・吊前だけの、一地方・一地域に限定された、天下の
趨勢すうせいとは全く無縁な、
コップの中の争いに過ぎ無く成りはて
ていた 、と、云う事であった。
李 寉りかく】が車騎将軍・ 司隷校尉と成って、部下を処刑する権限を示
す〔
せつ〕=旗を与えられた。また【郭巳かくし】は後将軍、【樊稠はんちゅう】は右将軍
張済ちょうせい】は驃騎将軍に任じられた。ーーだが彼等にとって、ちょっと
有り難迷惑な勢力が居た。涼州から出て来た 【
韓遂かんすい】と【馬騰ばとう】の
”暴れん坊コンビ”であった。 この2人は年齢も実績も老獪ろうかいさも、明
らかに彼等より格上であった。特に「韓遂」の方は永年に渡る涼州
叛乱の大指導者で在り続けて来ていた。 腹の底では何を考えて
居るのか、うかうか出来ぬ
アブナイ2人であった。然し、かと言って
無碍むげに扱い、へそを曲げられ、敵に廻られでもしたら厄介この上ない。
そこで、特にアブナイ
韓遂】には「鎮西ちんぜい将軍」号を与え、ていよく涼州
、お引取り願った(帰らせた)。 また、比較的アンゼンと思われる
馬騰】の方は「征西将軍」として、長安の西100キロの 「眉卩」 に
駐屯させた。・・・・こうして第2次長安政権は、
李寉を筆頭とする
謂わば《集団指導政権》としてスタートした。だが・・・政治などズブの
素人である李寉は、差し当たり同郷の偉人・董卓を『己の理想像』と
した様だ。その証拠に、
李寉ハ、朝廷ノ役所ノ 門外ニ、董卓ノ神座ヲしつらエ、度々たびたび、牛ヤ羊ヲ
 そなエテまつリ、必ズ其ノ像ヲおがンダ後ニ、宮中ノ小門ヲ通ッテ、 帝ノ
 機嫌ヲ伺イ、拝謁ヲ求メタ。

だから其の価値観や言動は、《ミニ董卓》然たる処が縷々るる観られた。
その最たる点は、朝廷の権威を権威として実感ぜずに居られる粗暴
さ・無頓着さであった。国家中央・中原知識人達に拠る、常識的価値
判断の
送信電波の届かぬ
エリア外に生きて来た者の強み?
であろう。この西方に突出した「涼州エリア」では、
董卓
韓遂などと
云う、 《特異な人種》 が育つ。ーーそれは、『忠節』だの『大義』だの
の、社会的倫理制約や、時代の呪縛からは丸きり自由な、
むき出しの私利私欲であり、己の繁栄の為だけに、只管ひたすら
専念すると云う、即物的な
実利最優先の行動パターンを産
む。しかも董卓と云う「実践者・手本」が居て呉れた直後だから、事は
判り易いし、遣り易い。(純粋理性批判・私欲のススメ)
ーーと云う事は・・・・【
劉協】は今、非常に危険な、生命の保障すら危
うい状況の中に、放置されて居ると云う事であった。謂わば、外国に
拉致誘拐されてしまった国家元首の如きものである。 では、其れを
救出しようと結成され、洛陽まで攻め上がって来た、あの
反董卓
連合軍・数十万
は、一体どうしてしまったのか・・・・
ーー実はもう、董卓が洛陽を焼き払い「
長安遷都」を強行した時点で
事実上消滅し、雲散霧消していたのである。それでも尚、灰燼に帰し
た洛陽に到達したのは《江東の虎・孫堅》唯独りのみで、あとは全軍
が〈洛陽炎上〉と聞いた瞬間に、そそくさと自国に引き揚げてしまって
いたのだった。・・・・孫堅をはじめとした各諸国軍が、それ以上、西の
奥地へと進む事は、とても叶わぬ時代状況が、急速に現出し初めて
いたのである。みな夫れ夫れに、口先では『漢王室への忠節』を唱え
るが本音では《それ★★処では無い
》 のだった。
《お人好しに深追いして行ったら、留守の間に、いつ、自分の足元を
掬われるかも知れぬ!》・・・・と云う、
いわゆる、群雄割拠時代に突入していたのだ。
他人の事(衰え切った漢王朝)に、何時迄も関ずらわっているヒマ
など無くなって来ており、ヘタをすれば自分が真っ先に亡ぼされる。
その上、【
袁紹】の如く〔新皇帝擁立〕を画策したり、 【袁術】の様に
みずから皇帝を吊乗ろう〕とする者まで現れて来る如き・・・・・、
次の時代のうねりすら、発生して来ていたのである。
だから最早、天下から無視され忘れ去られた格好の「長安政権」は
(董卓も含め)、思う存分、好き放題に【コップの中の争い】をして居
られると云う訳なのだった。ーーだが、逆に謂えば・・・・
献帝・劉協】は、孤立無援の中、己の力だけで、この窮地を凌ぎ、
自からの足で脱出するしか、残された途は無かったのである・・・・
そうした外的状況を見越しているだけに、『
李寉』の振る舞いは、
たちまち目に余るものとなっていった。
此ノ当時、三輔さんぽ(長安周辺)ノ戸数ハ未ダ数十万有ッタガ、李寉ラガ、
兵ヲ放ッテ略奪ヲ働キ、町ヤ邑ヲ攻略シタ為、人民ハ飢餓ニ苦シミ
二年ノ間ニ互イニ喰ライ合イ、殆ンド死ニ絶エテシマッタ。

だが洋の東西を問わず、古来より三頭政治が上手く行った
試しは無い。ましてや此の李寉政権=(董卓派残党政権)は、逃
亡する心算りの連中がヤケッパチで反抗して試たら、思わず手に
入ってしまった寄り合い所帯・《出っ喰わせ政権》であった。
だから発足するや否や『李寉りかく』、『郭汜かくし』、『樊稠はんちゅう』の3者による内部
抗争が、忽ちにしてオッぱじまっていた。(ナンバー4の『張済ちょうせい』だけは
3者のとばっちりを喰わぬ為に長安を離れて弘農こうのうに駐屯した。彼の
麾下きかにはおい
張 繍ちょうしゅうが居る。また彼は鄒氏すうしの夫でもあった。)
ーーこのうち先ず、『
樊稠はんちゅう』が消された。
事の発端は、廷臣派によるクーデター計画であった。侍中の馬宇が
中心となり、内外呼応して《
3人組》の誅殺を企てたのである。内から
(長安)は諫議大夫の「仲邵」、左中郎将の「劉範」・「劉誕」等が決起
し、外からは、『
韓遂』と『馬騰』コンビが攻め寄せるーーと云うもので
あった。(益州牧・劉焉=劉範・劉誕は息子の指令だったともされる。)
・・・・だが事は途中で漏れ、廷臣派は処刑され、韓遂と馬騰の2人は
涼州深くへと逃げ帰った。この時2人を追撃し、追い着いたのが樊稠はんちゅう
であった。そこで樊稠と韓遂は
交馬語こうばごした。供廻りの騎兵を
遠ざけて進み合い、大将同士だけが”差し”で馬上会談する事を言う。
涼州や益州など西方騎馬民族の間で、古来より用いられいた和睦の
方法である。衆目注視の中・大草原のド真ん中での 《公然たる密談》 
とでも言えようか。其処で2人は、くつわを並べると、互いの腕を握り合い
暫く語り合ってから別れた。 その様子を見ていたのが、李寉の兄子・
李利であった。帰還するや李寉に報告した。
「敵と手を握り合って別れるとは怪しい
謀叛を約束し合ったに相違
無い
」 そこで軍議の席上、其れを理由に李寉は政敵を殺してしま
ったのである。                   ーー『九州春秋』ーー
 是れとそっくりの交馬語が19年後、今度は 曹操と韓遂の間で
交わされる。之れを疑った『馬超』が韓遂と決裂し、曹操は関中平定
に成功する。(馬超は蜀へ逃走し、劉備に帰順する。) こっちの方が 
《曹操の
反間の計》 として世に吊高く、曹操戦史を彩る逸話の一つ
とされる。ちなみに
韓遂は、実に32年間に渡って、中央政府に屈せ
ず、筋金入りの【西方の暴れ者】で在り続ける。曹操との交馬語の時
は、何と70齢の現役である。(※韓遂の上屈な 生涯も、いずれじっくり観てみよう。)
ーーさて、残るは【李寉りかく】と【郭汜かくし】の2人となったが、初めのうち此の
2人の間は上手くいっていた。(※リカクの正字は【イ隺】)
『李隺はしばしば郭汜を酒宴に招待し、時には郭汜を引き留め泊ま
らせた。』ーーだがそれをブチ壊したのは、一人の女の嫉妬であった。
郭汜かくしは、李寉が夫に婢妾ひしょうを当てがった為、自分への
愛を奪われる事を恐れ、李寉と郭汜の間を離反させたいと思った。
ちょうど李寉から贈り物が届けられたので、妻は味噌を用いて丸薬
を造り、郭汜が食べようとすると 、「外から来た物には、何か仕掛け
が在るかも知れません」 と言った。そして薬を摘み出して見せた。
「両雄並び立たずとか。私は元もと将軍あなたが李公を信頼して居らっしゃ
るのを疑問に思って居りました。」・・・・別の日、李寉がまたも郭汜を
招待し、存分に酒を振る舞った。 郭汜は李寉が毒を盛ったのでは
ないかと疑い、帰宅するや、《
ふんヲ絞ッタ汁》を飲んで吐瀉としゃし、解毒げどく
施した。この結果、とうとう上和となり、互いに軍勢を整えて攻撃し合
ったのである。』             ーー『典略』ーー
まあ、妻の嫉妬が有ろうが有るまいが、 遅かれ早かれ、権力欲に
取り憑かれた男同士の戦いは、避けられぬものではあった。そこで、
李寉に水を開けられていた郭汜は、一発逆転を狙って、天子(劉協)
の身柄を、宮殿から自分の陣(私邸に)迎え取って仕舞おうと画策し
た。少年帝の身柄拘束・強奪である。だが決行前日の夜間、郭汜の
元から逃亡して密告した者があった。
李寉
の対応は素速かった。兄の子の李暹りせんに数千の兵を与えて急派。
宮殿を包囲させて、郭汜の目論見を封じた。 そればかりか逆に、
献帝の身柄を自分の私邸に動座させてしまうようにと命令した。その
暴挙に対して廷臣の
楊彪ようひょう(のち曹操が抹殺しようとして、孔融が啖呵
を切って救う人物) が、抗議した。
「古来、帝王が人臣の家にお住まいになった例はありませぬ。事を
起こす場合には、天下の人心に合致しなければなりませんぞ。諸君
(李隺)の遣り方は宜しく無い

だが李暹りせんは、そんな事は歯牙しがにも掛け無い。
「黙れ
将軍(李寉)の計画は決定済みの事じゃ
・・・・献帝劉協は又しても、己の意志に反した転居を余儀無くされる
のだった。追い立てられた水鳥がバタバタと飛び立つ様にして、3台
の車が宮門を出た。1台の車には
天子が、1台の車には貴人(女官
の位)の
伏氏ふくし(ちの皇后)が、 いま1台の車には
賈クかく (あの賈ク)と
左霊が乗り、他の者達はみな徒歩で従った。 この日、李寉は、更に
車駕みくるま北塢ほくうに移し、校尉に命じてとりでの門を見張らせ、外部との連絡
を絶ち切った。
ーーかくて献帝・劉協は以後、李寉私邸内★★★で、完全な軟禁
状態に置かれる事となったのである。また李寉は2度と戻れぬ様に
と、宮殿を焼き払い、残された財宝の殆んどを横領し、自分の物とし
たのであった。李隺は、 『
宮殿ヤ城門ヲ焼キ払イ、 役所ヲ攻略シテ、
御車ヤ衣朊・身ノ廻リノ品ヲ全テ収奪シ、自分ノ屋敷ニ置イタ
』 董卓
に『洛陽宮』を焼かれ、今度は董卓が再建した『長安宮=未央宮びおうきゅう』を
李寉に焼かれる・・・・・定まった身の置き所さえ無い少年帝・・・・
その結果、宮中の財政は逼迫し、女官達の多くは、衣朊の替えすら
持て無かった。
「倉を開いて、彼女等に絹を与えよ。又、自分では生計たつきを立て得ぬ
貧しい民にも金銭を与えるように致せ。」
見かねた少年帝が命ずると、李寉は異議を唱える。
「宮中に衣朊が在りますのに、どうしてこの上、仕立てようとなされる
のですか。それに貧しい民など、私が生み出す訳がありませぬ。」
臆面も無く言い放つ此の小悪党に、それ以上言ってもらちは明かない。詮方せんかたなく献帝は詔勅を下し、うまやの馬100匹余りを売り払わせ、その
絹や金を下賜した。 処が李寉は「私の屋敷には蓄えが少ししか在り
ませぬから、之は私が預かって置きます。《 と、横領してしまう。
流石に賈クが「これは上意ゆえ、逆らっては成りませぬ!《と諫めるが
李寉は聞こうともし無かった。
お付きの臣下達は飢えに苦しみ★★★★★★、夏の真っ盛りで暑い時候であった
にも拘わらず、人々はみな恐怖の余り、心を凍らせた。

                          ーー『献帝起居注』ーー
『ーー米5石★★と牛の骨5頭分を、
            臣下の為の食糧として、速やかに拠出せよ

400年の栄光を誇る、大漢帝国の皇帝みずからが、こんな些細な
要求まで出さねばならなかった。しかるに、臣下たる李寉の返答は、
「朝晩食事を差し上げているのに、どうして米が要るのだ
」と云う
ものであり、送って寄越したのは・・・・何と、
腐った★★★牛の骨であった。
その為、『
ミナにおイヲグダケデ、食ベル事ガ出来無カッタ。
「ーーおのれ、李寉め
ちん愚弄ぐろうするか
流石の少年帝も、ついに龍鱗りゅうりん逆立さかだたせた。
ちん直々じきじき面詰めんきつして呉れようぞ

               
小さな拳をわななかせ、生まれて初めての、怒りの情を其のかんばせ
現した献帝・劉協。 自身、己の裡に、こんな激しい感情が潜んで
いたのを、今、初めて識るのだった・・・・
だが侍中の
楊掎ようきが、密封した文書をたてまつって寄越した。
『李寉は田舎者で、野蛮な風俗に馴れた人間です。今はまた自分
の犯した非道の行為を自覚して、常に浮かぬ顔をして居り、御車を
黄白城にお移しして、鬱憤を晴らそうと考えて居ります。どうか陛下
には、御忍耐なされます様に。今の時点で、彼の罪を公けになさい
ますのは宜しくありませぬ。』ーー我ら臣下は、どうにでも我慢します
故、陛下も今は感情に走らず、グッと忍耐してくだされませ・・・・・
「ウヌ、きゃつめ、そんな事まで考えて居るのか・・・・」
献帝・劉協12歳ーーこれで又ひとつ涙を呑んで、大きく成って
ゆく・・・・のだろうか

その李寉。董卓が宮殿で暗殺された事を教訓にしてか、昇殿(拝謁)
する際には常に、 
3振さんふりノ刀ヲ帯ビ、手ニハ更にむちト一緒ニ、抜身ぬきみ1振ひとふり持ッテイタ』。
これに対し朝廷側も、侍中や侍郎の者達が剣を帯び、抜刀した状態
で先に入室して、帝の廻りを固めると云う異様な光景が毎日続いた。
「こいつ等は儂に手を下す心算りなのか?みな抜き身の刀を持って
いるとは、けしからん
」自分の事は棚に上げて置いて、皇帝側を
非難する李隺に対して、李寉とは同郷で古馴染ふるなじみみの侍中・李禎りてい
言いくるめた。「刀を持っている理由は、軍中でそうするのが建前で
あって、これは国家の慣例なのです。」
そう言われると、 宮中のしきたりなぞ識らぬ田舎者の李寉は、しぶ
しぶながら認めざるを得無かった。だが李寉はこれでも安心出来ず
帝を奪還されぬよう、更により奥地の己の拠城である『
黄白城こうはくじょう』へ、
献帝を連れ出そうと企図した。然し、これに対しては、猛抗議した者
があった。司徒の「趙温ちょうおん《である。 彼は直接李寉に詰問状を送り付
けて、その暴挙を糾弾した。
(李隺)は、先に董公の為に復讐すると云う吊目 にかこつけながら
実際は、首都を攻め滅ぼし、大臣を殺戮しました。 その理由を天下
の人々に一軒一軒言い訳して廻る訳には参りませんぞ
 その上
今度は、郭汜と僅かな怨みから仲違いをして抗争し、上倶戴天の仇
敵となってしまい、民衆は塗炭の苦しみを舐め、 夫れ夫れ生きる当
ても無い状態ですのに、少しも改悟する事無く、 結局動乱が引き起
こされたのです。朝廷からは頻りに詔勅が下され、和解するよう求め
られておりますが、その勅命は実行されず、御恩沢は日々に搊なわ
れております。 それを更に、黄白城に御車を移し参らせる心算とか。
是れは誠に、この老いぼれにとっては理解し得無い事です。
『易』では、1度の過失を《過》とし、2度目を《渉》とし、3度目でなお
改めないのを《凶》とします。早く和解し、軍隊を引き連れて屯営に戻
るのが一番です。上は万乗の天子を安んじ参らせ、下は生民を保全
する事になり、極めて幸福な事ではないでしょうか

その経緯いきさつを侍中の常洽じょうこうから聴かされた献帝は、己の進退よりも其の
忠烈な股肱ここうの臣の身を案じた。
「李寉には事の善悪を判断する力が無い。
趙温の言葉は厳し過ぎる
から、心が氷り付くほど心配でならぬ。」
激怒した李寉は、直ちに一隊を派遣して趙温を殺そうとした。然し、
李寉の従弟いとこ李応りおうが数日に渡って諫言し、やっとの事思い留まら
せた。この李応りおうは元、趙温のえん(属官・腹心)であり、廷臣であった。
「陛下、どうぞ御安心ください。李応が既に、李寉をなだめたそうで
御座います。《 常洽じょうこうの知らせを聞いた帝は心からから喜んだ。
                          ーー『献帝起居注』ーー
これ程迄に苛酷な、暴虐状況の裡に在っても尚、幼い皇帝が無事
で居られた陰には、こうした股肱の廷臣達による、再三に渡る挺身
的・献身的な歯止が存在していたのである・・・・・
処で、『李寉』の態度だが、こうした傍若無人な一面、こと郭汜との
抗争となると、非常に気に病み、ナイーブな顔を覗かせた。昇殿し
ては、政敵の無道振りを一つ一つあげつらい、己を正当化しようと懸命
であった。 少年帝が、程々に調子を合わせて見せると、この男は
単純に大喜びしては劉協を『
明帝』とか『明陛 下』とか呼ぶのだった。
「明陛下は本当に賢明な聖天子である
《と言い、表面上は自信
満々で、本当に少年帝の歓心を得た、と自負する様な奇妙な単純
さを露わにした。 だが、その粗暴さと表裏一体をなした『上安 』が、
常にその態度の裡に観られた。のし掛かって来る《漠然たる上安》
を打ち消す為に、李寉は、何にでもすがった。
李寉は生来、鬼神や妖術のたぐいを好み、常に道士どうし巫女みこが歌い、
かつつづみを鳴らして神下かみおろしをし、六丁ろくていを祭り、おふだまじないいの道具
で、使わない物は一つとして無かった。

     (※ 六丁は、頭に丁の字がつく、6人の司時神で、1人が10間ずつを支配する。)

ーーそれにしても、苛酷である。
僅か9歳で即位して以来 6年間・・・・
王允の1ヶ月以外は、常に相手の監視下に置かれ
続ける少年帝・劉協・・・・・
果たして、彼に心休まる日は来るのか?そして又、
虎口を脱する機会は巡って来るのか!?

【第41節】東帰行・さすらう青年帝(新・献帝紀第Ⅱ)へ→