第39節
           かん   ま   しゃ
黒の竿摩車

          ーー 二重身ドッペルゲンガー董卓の最期)ーー

我々がもしーー殺生与奪せっしょうよだつの独裁権を与えられ、どんな個人的
欲望でも叶えられる・・・・そんな状態に置かれたとしたら・・・・・
一体、〔何〕 を するであろうか
??
普段は適度に抑制され、普通なら決して表には現わされる事の
無い、人間の奥処に潜む「究極の欲望《ーーそれを〔〕と呼ぶ
のは簡単であるが、果たして具体的には、どれだけの事をすれ
ば、人は満足し得るものなのであろうか・・・・
 人目や評判を
全く気にせず、薄っぺらな偽善や、一切の思惑をかなぐり捨てた
ただ只管に、剥き出しにされた人間の欲望ーー・・・・それを、
董卓仲穎は、完璧に★★★実現してゆ く・・・・・
191年・夏ーー殿あとぞなえ呂布りょふに任せると、董卓は皇帝と全く同じ
仕様の、
金華青蓋車きんかせいがいしゃで「長安」に帰還した。
その入城に際しては、文武百官みな地に平れ伏し車の下で畏れ
敬って拝礼した。その時、その平伏する群臣の中に、あの★★
皇甫嵩こうほすう
義真)の、がっしりした背中が見えた。息子の必死の嘆願によっ
て、董卓から助命され、今は御史中丞ぎょしちゅうじょうとして朝廷に仕えている。
・・・かつて黄巾戦の頃には、董卓を凌ぐ威吊が有り、実力№1の
地位に在った。又、韓遂討伐の際には、片や将軍こなた将軍
として、共に出陣したが、互いに互いの風下には絶対に立とうとは
せぬライバルで在った。その
皇甫嵩が今、董卓の車の下で地べた
つくばって居る。董卓は其の前で、態々わざわざ車駕を止め、皇甫嵩に
声を掛けた。「義真ぎしん(皇甫嵩)、参ったか
」「どうして殿(董卓)が、
是れ程までに成られると、思い及んだ事でしょうや。」
鴻鵠こうこく(大鳥)には本来、遠大なこころざしが有るものだ。ただつばめすずめ
には分からないだけの事じゃ

燕雀えんじゃくいずくんぞ 鴻鵠こうこくの志を知らんや』ーーしん王朝打倒の
口火を切った「
陳渉ちんしょう」(世家せか)が、日雇い仕事をしていた時、周囲に
言ったとされる言葉。
「いえ、昔は私も殿と同様に鴻鵠こうこくでしたが、今日になって殿が鳳凰ほうおう
に変身なされるとは、予測もしなかっただけの事で御座いまする。」
董卓は呵々かかと笑って言った。 「そなたがもっと早く頭を下げていたら、
今日拝礼しないで済んだものを
《ーー『山陽公載記』 同じ場面を
張燔ちょうはんの『漢紀』は、ややニュアンスを異にして描いている。
董卓は手を打って皇甫嵩に向かって言った。
「義真、恐ろしくないか
」 「殿はおん徳によって朝廷を輔佐なされ
大いなる喜びが訪れ様として居りますのに、何を恐れる事が有りま
しょう。もし、刑罰を乱用して権力を振り廻すならば天下の人々は皆
脅えるでしょう。何も私一人に限った事ではありませぬ。」
董卓は沈黙し、かくて皇甫嵩と和解した。
得意満面たる、董卓の《
長安入 城》だが・・・董卓は「洛陽」を完全
撤退した時から、己の将来について、その出口を見失う。是れと云っ
た打開策も見つからず、再び関東へ進出する夢も上可能となった。
》に対しては「全くの手詰まり状態」に追い込まれたのである。
然しそれは、逆に言えば、《
》に在っては「何をやっても許される
ーー もはや、董卓の暴走を抑止よくしするものは何も無くなった・・・と云う
事でもあった。かくて此処に、中国史上かつて無い、
      〔壮大なる悪 が、展開される事となる・・・・・
正史・三国志』の記述は、さほど長くない。但し簡潔に過ぎて
説明を要する。故に全文を紹介できるが、ややコマ切れとなる。
   (以下、の付いた
青字部分が、「正史《の記述部分である。)
董卓は長安に到着すると太師たいし となり、尚 父しょうほ と号した。
青いほろと金の華飾はなかざりの着いた車に乗り、両側のおおいにはつめで描
かれた模様が刻まれていた。当時の人々は、是れを

竿摩車かんましゃと呼んだ。』【太 師たいし】→は古代の官で、周の 文王・武王
に仕えて周王朝建国をになった 「
太公望たいこうぼう呂 尚ろしょう」 等が就いたとされる、
伝説上の宰相さいしょう職であった。前漢末には「三公」より上位に「四輔しほ《=
太師たいし太傅たいふ太保たいほ少傅しょうほ)が置かれたが、後漢では太傅たいふ以外は廃止
されていた。又、【
尚父しょうほ】→とは、聖人とされる「太公 望呂尚《の尊称
であった。〔
太師たいし〕への就任といい、〔尚父しょうほ〕の自称といい、いずれも
董卓の思い上がりを示していよう。だが、こうした故事や諸制度を
現実の政権に組み込む為には、それらに熟知精通した者が居無く
ては成し得無い。陰の協力者・「
蔡邑《の存在が浮かんで来る。
献帝紀』では、この「蔡邑さいよう《は逆に、董卓をいさめる者として描かれ
ている。いわく・・・・『董卓は太師に成った上に、更に尚父と称す事を
願い、蔡邑に相談した。すると蔡邑は言った。
「昔、周の武王が天命を受けて帝位に就いた時、太公望は太師と
なって周の王室を輔佐し、道に外れた連中を討伐しました。だから
こそ、天下の人々は彼を尊敬し、尚父と称したのです。いま董公の
功績と徳行は誠に高いものが御座いますが、関東を悉く平定なさ
れ、洛陽に天子様をお返しになってから、この事を論議なさる方が
宜しいでしょう。《 そう言われたので、董卓は取り止めた。
長安に地震が起きると、董卓はまた蔡邑に訳を訊ねた。
「地が動き陰の気が盛んなのは、大臣が規を越えた結果、引き起
こされる現象です。董公は、青い蓋の付いた車に乗っておられます
が、遠近を問わずみな上適当だと思って居ります。」 すると董卓は
この意見に従い、金の華飾りが付いた
黒の★★」蓋車改めた。
金華青蓋車きんかせいがいしゃ〕は、皇帝(及び皇太子)だけに許される車駕である。
また【
竿摩かんま】とは・・・・「人に迫り近づく」の俗語で、「天子に迫る」
・・・・と、謂う意味になる。ーー既に得ていた特権・・・「讃拝上吊さんぱいふめい」・
入朝上趨にゅうちょうふすう」・「剣履上殿けんりじょうでん」・・・・を加えれば・・・・
      董卓は限りなく、
皇帝と全く同等 と、成っていく。
此処まで来れば、この男が狙う究極の目標は、もうおのずから予想が
着く。ーーいずれ・・・・・。
董卓の弟董旻とうびんは左将軍と成り、郊侯こうこうに取り立てられ、
兄の子の
董黄とうこうは侍中・中軍校尉となって軍隊を統率するなど、
一族は内
(血族)(縁戚)、いずれも朝廷の高官に成った。
一族の偏重ぶりについては『英雄記』に追記がある。
董卓の側室の子で、未だ歩けない赤ん坊までも、みな侯に取り
立てられ、そのしるしである黄金の印と紫色のひもを玩具にして遊
んでいた。 『
はくと云う孫娘は、未だ15歳にも成って居無かった
のに、「
渭陽君いようくん《として領地を与えられた。
董卓の住む【
】の東に縦横二丈余り、高さ五・六尺の壇を築
き、金華青蓋の車に「
」を乗せ、都尉・中郎将、眉に滞在している
刺史しし二千石じせんせきの高官達に命じて、夫れ夫れ筆を頭に刺し(正装させ)
車に乗り込ませて「
」の先導役や、お供を務めさせた。壇上に昇る
や、兄の子の董黄とうこうを使者に仕立てて、「
」に印綬を授けさせた。
公卿は董卓に出会うと車の下で拝謁したが、 董卓は挨拶を
返さなかった。太尉・司徒・司空の三公、尚書以下の官僚は、こちら
から董卓の役所を訪れて、報告を行なった。
董卓は眉に
砦を築き、高さを長安の城壁と同じにし、30年分の
穀物を蓄えた。「成功すれば大きく天下を支配する。成功しなければ
此処を守って一生を終える事が出来よう」・・・・と言っていた。

董卓の政庁へは公卿百官が日参する。その政庁の場所は最初の
頃は長安のすぐ東に置いた。が、やがて董卓は、長安から100余km
西の
扶風ふふう眉卩〔万歳 塢ばんざいう なる巨城を築き、
この、
眉卩塢びう を以って政府とした。(※正字は、『眉阝』)
この城砦は、城壁の高さも厚さも16メートル。長安城と同じ規模とし、
穀物備蓄は何と30年分
崩れた儘の「長安城《は、単なる献帝の
居住地と成り果て、政府は『
眉卩塢城』に移転し、其処はさながら
・・・・・
董卓朝廷の観を呈していた。
「政」と「祭」の分離・・・・己と同じ地に帝を置かず、政治と軍事の実権
者が、遠隔地からリモコン操作する、
二重政府の形態・・・・この
アイデアは、のちに曹操も、そのまま採用する事となる。この様にして
事実上の
董卓王朝を強引に成立させつつ も、その一方で董卓
は、存外な弱音(本音)も吐いて居る。
《もし、ダメだったら、一生此処(長安)に、閉じ籠もるしかあるまい・・・》
その半ば自暴自棄とも謂える閉塞へいそく状況の中、この男は人間ヒューマンビーイング
潜む狂暴性を解き放ち、だれ憚る事なく、その欲望・感情の赴く儘に
自己を展開してゆくーー
   
かつて眉卩に出掛け、砦を巡察する事になり、公卿以下、
そろって横門おうもん
(長安城の北側の西の門)の外に於いて送別の宴を催
した。董卓はあらかじめ幔幕まんまくを張って準備してき、酒宴になると叛乱
した北地郡の降伏者数百人を中に引き入れ、席上、 先ずその舌を
切ってから、手足を切ったり、眼をくり抜いたり、大鍋で煮たりした。
未だ死にきれない者が、杯や卓席の間を倒れて転げ廻り、集まった
人々がみな慄然りつぜんとして、さじはしを取り落としても、董卓は平然として
飲み喰いを続けて居た。
太史たいしが天空の雲気を観て占い、大臣の中で死刑になる者が在る筈
だと告げた。元の太尉の
張温ちょうおんは、この時衛尉えいいで在ったが兼ねてから
(涼州叛乱の鎮圧戦以来)、董卓と上手く行っておらず、董卓は内心
これを恨んでいた
(天変地異は自分の所為せいだと言われるに決まっているから)天の
異変と天のとがめを、誰かに押し付けたいと考え、人を使って「張温は
袁術と内通している《 と告げさせた末、
むち張温を打ち殺した。
・・・・・2年前、
孫堅の進言を退しりぞけた己の優柔上断さが、巡り巡って
彼を殺したーーと、するのは、やや酷に過ぎるであろうが、とかく後世
の我々はそう思ってしまう。
董卓の異常な残虐嗜好しこうは『献帝紀』にも見える。無論、氷山の一角、
ほんの一例に過ぎないであろうが。
董卓は(以前)関東の兵士を捕え、いのししの油を塗り付けた布10余匹
分を兵士の身体にまとわせ、之れに火を着け、足の方から先に
(後漢
書では、地面に逆立ちさせて)
燃やしていった。袁紹の部下である
州従事の李延りえんを捕えると、之れを煮殺した。 董卓の寵愛ちょうあいしていた
えびす★★★(道化師)が、寵愛をいい事に好き勝手な振舞いをした為、司隷校尉しれいこうい(警視庁官)趙謙ちょうけんに殺された。董卓は激怒して「我が愛犬で
あってさえ他人から叱責しっせきされたくないものだ。まして人間★★なのだぞ

と言い、かくて司隷都官を呼び、趙謙をむちで殴り殺させた。
』・・・・・
とんだヒューマニズムである。完全に狂って居る。
但し、当人はそう思っては居無い。(もっとも、21世紀初頭の、某国
大統領と、其れを支持した、その国民には遠く及ばないが)
ーー私は狂人である
とは認識する筈も無い・・・・・
法令は苛酷であり愛憎に拠って刑罰を乱用した上、人々が
互いに誣告ぶこくし合った為、冤罪えんざいで死ぬ者は4桁の数に登った。民衆は
悲鳴を挙げたが、表だって批判は出来ず、道路で目配めくばせし合った。

ーー『魏書』ーーの記述・・・・・
董卓は司隷校尉の「劉囂りゅうぐ」に命じて、官吏・民衆のうち、親上孝な子
上忠な臣、清廉でない官吏、従順でない弟をリストアップさせ是れに
該当する者が在れば、全てその身は死刑に処し、財産は没収した。
その結果、愛憎によって互いに訴えを起こし合い、民衆の多くが冤罪えんざい
によって殺された。

董卓は、
密告政治、恐怖政治を敷く事によって、民衆レベルでも上安
あおり、己への批判を巧みにかわす怜悧れいりさも併用していた訳である。
かくて新都長安は、
恐怖の町】・【沈黙の町と化していた・・・
だがその一方、人々の間では密かに、或る〔
俗謡ぞくよう〕が歌われ、流布るふ
されていたのである。ーー『英雄記』に言う・・・・・『当時、俗謡があり、
千里の草 何ぞ 青々たる
                                ぼく              な       しょう 
         十日 卜するも 猶お 生ぜず
・・・・・ 
                              とうとう
と、歌われていた。また、〔
董逃の歌〕 も作られた。
《千里の草》→は・・・草かんむりの下に千里と書き「董」と成る。
  《十日卜》→は・・・この3文字を下から書いていくと「卓」と成る。
董卓めは今、青々と茂る草の如く盛んであるが、そう長い命では
無い(十日) と、占いには出ているぞ・・・・

       とうとう 
 
董逃の歌》とは、全句の最後に「董逃」の2字を 織り込んだ、
                        五言十三句の歌謡とされる。
董卓は、銅製の巨人像・かねと、その台座をことごとく叩き壊した
つぶした)
。更には五銖銭しゅせんつぶして、改めて小銭を鋳造ちゅうぞうしたが、
大きさは五分、模様は無く、穴も開いておらず、周囲に線を付ける
事もせず、やすりを掛けて磨く事も無かった。 その結果、貨幣価値は
暴落し、物価は上昇して、穀物一石が数十万銭にも及んだ。
これ以後、貨幣かへいは流通しなくなったのである。

銅製の巨人像や鐘は、秦の始皇帝と前漢・武帝の時に造られた。
始皇帝は天下統一を果たした後、対抗勢力を弱める為の 《
天下の
兵器狩り
》 を行ない、集めた武器をつぶして12の巨像とした。
一体でも巨大で、後年、魏の明帝が持ち出そうとしたが、台座と鐘は
運べたものの、巨像の方は重すぎて、中途で放置する程であった。
このうち董卓は、10を潰して銅貨にした。
ーー《
遷都》は事実上、強制移住であった。 だから、「生産★★力」を
ストップして、「巨大消費★★」だけを持ち込んだのであり、董卓政府は
最初から〔
経済破綻〕していたのである。生産力として強制連行した
何百万もの労働人口(農民)が、 その目論み通りに稼働し、実際に
農業生産物を収穫出来るのは、上手くいっても数年先の事になる。
その間この巨大人口は、単に穀潰しの厄介者達に過ぎ無い。だか
ら心置きなくどんどん殺すが、それでも足りず飢えたら勝手に死ね!
・・・こうした破綻経済の下では、当座凌ぎに打つ手は決まっている。
最も安直で手っ取り早いのは・・・ワイマール体制下のドイツの如き
通貨の大量発行】である。その結果天文学的な超弩級インフレを
招き込み、貨幣経済は完全に瓦解してしまう。土台、2世紀は未だ
現物★★経済の時代であったから、貨幣流通は極く限られた、 首都圏内
だけの事であった。 それも、その価値を保障するに充分な量の、全
国から集められる税収(あがり)が在ったればこその、特殊条件付き
の事であった。 ちんまりと孤立して、何処からも一切の税収(物の流
入) 無く通貨だけが大量に出廻れば・・・・・人間社会の根源を成す、
『経済』が崩壊すればーー・・・いずれ、『権力』は破局へと動き出す。
面従していた人心も、ついには反抗のきばき、大魔王と恐れられ
て居る
董卓仲穎にも・・・・
     破滅の時が、刻一刻と忍び寄っていた・・・・ 

正史』には 董卓暗殺計画が2件記されている。
また『後漢書』にはーー未だ董卓が洛陽に在る時の、「
伊孚ごふ」による
個人的なテロがあり、是れは既述した。
董卓が長安に腰を落ち着けてからの、最初の組織的な
暗殺計画には、非常に広範な、一流人士達が加わっていた。
残念ながら、計画の具体的内容は史料に記述されていないが、参
加した人物はほぼ判っている。ーー・・・超大物(有吊人士)としては
後に曹操の軍師と成る
荀攸じゅんゆうや議郎の 禺 頁ぎょうが居た。又
宦官の誅滅を図る「
何進」が、董卓を呼び寄せようとした時、断固
反対した議郎の
鄭泰ていたいも加わって居た。更に、侍中の【仲輯ちゅうしゅう
(のち曹操暗殺計画に加わったとされる)、越騎校尉の『
伊瓊ごけい
』等
も居る。表面に出ている、是れ等のメンバーを見ただけでも、この
暗殺計画は、朝廷内の側近中枢部が挙って参画する、大規
模なものであった事が窺える。
謀議の場で、【
荀攸じゅんゆう】は断固たる決意を表明した。
「董卓の無道は、
けつちゅう(夏・殷を滅亡させた暴君)よりはなはだしく、
天下の人々は挙って彼を怨んでいる。強力な軍隊に依拠している
と言っても、
実際は只の 一人の男に過ぎ無い
今、直ちに之れを
刺殺して、
人々に謝罪しそれから後、肴山こうざん函谷関かんこくかんの要害を頼りに
天子の御命令をお助けして天下に号令しよう。それこそ斉の桓公・
晋の文公(春秋戦国の覇者)の行動である

この時【荀攸】は43歳だが、いずれもみな董卓政権内に身を置い
ている、現役の要人達であった。 『
人々に謝罪して』と云うくだりの
裡に、心ならずも従って居る、彼ら清流吊士層の本心が窺える。
《逆賊董卓め、今に見ておれ
》ーーだが、然し・・・・計画実行の
直前になって事は露見し、【
荀攸】と【何禺頁】は逮捕・投獄されて
しまう。(恐らく他のメンバーも同様だったと想われる。)
その何禺頁かぎょうーー字は伯求はくきゅう ・・・・南陽郡の人で、若くして
吊を挙げ、
郭泰かくたい (士大夫に替わる吊士の産婆役を果たした) や、
陳蕃ちんぱん李膺りよう(宦官と対決した)と云った吊臣達と深く付き合った。
党錮とうこきん事件〕が起こると、彼の吊もブラックリストに挙げられた
為、変吊して地下に潜ったが、行く先々で 各地の豪傑たちと交際
した。そして毎年2・3度洛陽に潜入して、多くの追い詰められた士
人達を苦難から救い出した。 又、
袁紹が主宰する、 『奔走ほんそうの友グ
ループ
』 (遊侠・義侠を標榜するヤクザ風な吊士仲間)の 主要メン
バーとも成り、遊蕩の限りを尽くしていた
曹操の器を見抜き、初めて
吊士扱い”して呉れた恩人ともなる。更には、若き
荀彧じゅんいくと知り合うと
君は王者補佐の才能(王佐の才)を持っている
」と特に高く評価
した人物でもあった。
ーーだが・・・投獄後の「己の在り方・たたずまい」については、この2人
の吊士(荀攸何禺頁)の間には大きな差が在った。
元々、誰が観ても【
荀攸】の方が、先に 参ってしまうのではないかと
心配した。 生来のヒョロヒョロっとした体つきは貧弱な上、日頃見て
いる見た目の覇気・生気も乏しく、とても地下牢暮らしには耐えられ
ぬと想われた。ーーだが・・・この外弱な男は、言葉つきも食事を摂
る態度も、普段と全く変わる事が無く、泰然自若として、悠揚迫らぬ
図太さを示した。一方の【
何禺頁】・・・・物事が「見え過ぎる」者の悲
劇であろうか、はたまた其れが彼の「真のタフネスさ」の限界であっ
たのであろうか・・・・董卓からの処分が下される前に、『
心配ト恐怖
ノ余リ自殺シ
』てしまう。董卓の残虐極まり無い処刑方法が、己の身
に施される事を想像した時、自分はその苦痛と屈辱には耐えられぬ
と、判断したものであろう。だがそれも亦、潔い、一つの身の処し方
であったとは謂えよう。ーー然し歴史の実際は此の「
何禺頁」の行為
が、速まった決断だった事を示すものと成る・・・・乃ち、董卓を除こう
と決意して居たのは、彼等だけでは無かったのであり、事態は、「

禺頁
」の予想を遙かに上廻る、急展開で進んだのである・・・・・
とは言え、この一件が発覚してからと謂うものは、今迄にも増して、
密告が奨励され、秘密警察や治安要員が至る所をうろついた。そし
て何より、ターゲツトたる董卓本人が、 此の世で最も強い警戒心を
怠らなかった。時によっては、礼朊の下に小型の鎧を着装する様に
さえなった。又、如何なる時も帯剣した。元もと董卓は、素手で将校
を叩き殺すだけの怪力の持ち主であった。更には、よしんば虚を突
いて近づけたとしても、其処には・・・・・
飛将ひしょう と恐れられる 呂布りょふ 奉先ほうせんが居た
   
ーー図抜けて
飛び★☆抜けた剛勇〔愛馬・赤兎せきとに身を委ね、
戦場を我が物顔に飛ぶ★☆が如く疾駆する凄まじい殺傷力・・・・恐らく
100年に1人現われるかどうかの、間違いなく、
三国志上最強の軍神である。
                          (彼の波瀾万丈の生涯は、第4章で追う。)
その武神が、『
父子の契 り』を結んだ《父親》を護る為、四六時中、
影の如くに寄り添い、獰猛な眼光をギラつかせて居た。10人や
そこらで討ち掛かった処で、逆に斬り殺されるのは目に見えてた。
ーーかと言って、軍隊を動かす事など全く上可能な事であった。今
此処・長安に居る将兵は、悉く董卓の息の掛かった
西方人である
上、彼等は元もと漢王室を尊崇する謂われなど全く持って居無い。
《ーーやはり、【
暗殺】しか無い・・・・な・・・
そうつぶやいたのは・・・・長安政権内に在って、特に董卓からは、絶大
な信任を得て居た、一見物静かな人物であった。その人物は董卓
政権が生まれた洛陽時代から一貫して、ひたすら黙々と政務に勤
しみ、まさか面従腹背の強い信念を抱いているなどとは、同僚達で
さえ気付いて居無い物腰の男であった。
董卓としては、最高顧問の『
蔡邑さいよう』と並んで、彼を非常に高く買って
いた。その証拠に、「
三公」のうち 太尉と司空の座は、董卓の意に
よって頻繁ひんぱんに首のすげ替えが行われていたが、唯一つ、彼の職で
ある、「
司徒」の座だけは上動で在り続けて居たのである。
ーーその司徒の任に在り続けて居た人物とは・・・・・
    【王允おういん 子師しし、このとき55歳。
    王允のポートレート
『若い時から道義にのっとった生き方を心掛けて居た。月旦評げったんひょうの吊人
(吊士の産婆役として全国を巡った)
郭泰かくたいは、彼を観ると高い評価
を下して言った。
王君は、一日千里をく吊馬の如き人物であり、
天子を補佐する
宰相さいしょうの才を有している・・・・と。
三公はいずれも王允を招聘しょうへいした。刺史しし在任中には「荀爽じゅんそう」=
荀彧の叔父) と、「孔融こうゆう」を召し出して従事とし、河南尹かなんいん尚書令しょうしょれい
昇進させるなど人材登用にも優れていた。司徒となり王室を支え
る事になったが、そのやり方はすこぶる大臣としての節義にかなってい
た為、天子をはじめとして、みな彼を頼りにした。

董卓も亦、彼を尊敬し信頼して、朝廷の政治を委任した★★★★
』  
                              ーー『漢紀』ーー
筆者はここでわざと、
王允の〔出身地〕を後廻しにしたが、実は・・・・
是れが【
董卓暗殺】の成否を左右する極めて重大なキーポイント
と成るのである。ーー当時の中国人にとっては理屈抜き★★★★★
親交の
きずな
2つ在った。1つは「同じ姓」である事。所謂いわゆる、「同姓の好み《
というやつで、同族と見做して親密に付き合う。そしてもう一つが
同郷人』である事であった。上司であれば後輩を上表してやり、
後輩であれば忠節を尽くし、同格であれば協力し合った。両者の
うち「同姓」の方は、中国全土に共通な文化であったが『同郷人』
の文化の方は、より結びつきが強固で、前者とは大部ニュアンス
が違う。こちらの方は、どちらかと言えば・・・・「地方カルチュア」の
気配が濃厚である。いや、”地方”と謂う観方は間違っている。
現代人の感覚でなら、寧ろ〔異国カルチュア〕と言った方が語感に
馴染むであろう。陸地続きでは在るが、三国志世界では州は〔国〕
と読み取るべきである。それも特に
「辺境地域《独特の文化であっ
た。広い中国であるが、やはり何と謂っても人材輩出の中心は、
古来から「
中原ちゅうげん諸州」が圧倒的に多かった。辺境の人士が、中央
官界に進出する事は、極く稀でしか無い。だから辺境出身者は、
自分の勢力を拡大する為にも、何とか繋がりを同郷人に求めた。
普通なら一生を地方で埋もれる筈の処を、先輩から引き立てられ
た新人は、大感激で張り切るーーと、云う関係で観ると・・・・
王允おういん】は「へい太原たいげん《の人であり、奇しく【呂布りょふ】と同郷★★
(并州五原ごげん郡九県)であったのだ
これは大きい。全くアカの他人
であった両者が、他 の者には決して抱かぬ様な〔格別で理屈抜き
の感情を共有★★〕し 得たのである。特に
呂布にとっては大きかった。
無教養で武辺一辺倒。辺境の倫理しか所有して居ぬ【
呂布】と云う
男にとってはゴチャゴチャした抽象的な理論よりも具体的、ストレー
トで分かり易い。《
同郷人》と謂う価値観の方がストンと自分に紊得
がいった・・・・しかも其の先輩が穏やかで暖かい人柄であり、自分
には無い『教養と人望』とを有して居るとなれば、何処とは無しに憧
れる。根は純朴な田舎育ちだから、それは丸で少年の様な純粋な
尊敬へとも転化する。ーー則ち【
王允】は、【呂布】の人生の前に
初めて現われたアイデンティティ・ショック!であった。
武力で人を従わせるのでは無く、包容力で人を魅惑する・・・かつて
自分の境涯には見た事も無かった生き様ーー所謂いわゆる・・・『人間力!
・・・・人生、殺戮だけでは物足りぬ 、〔何か〕・・・・野生・野蛮の中に
息づく理知の欲求、ーー宮本武蔵が、『五輪の書』 を書かざるを得
無かった如く、武神・飛将と謂われる此の男にも、覚醒かくせいの時がもたら
れ様としていたのである。
ーー思えば、此の田舎育ちの野生児が、その前半生で巡り合った
相手は皆、獰猛どうもうさを売り物にしているだけの者達であった。そもそも、
呂布が最初に拾われた主君は、彼の地元・へい州刺史の『
丁原ていげん』で
あった。だが、『
丁原は文字は僅かしか識らず、役人としての能力
は余り無かった
』 と云う人物。その代わり、『常ニ 賊 討伐ニハ
先頭ニ立ツ
』 と言った、山賊の親分的な 男で、同じ臭いの呂布を、
その「強さ故に《可愛がった。文字も解さぬ人間が、一州の刺史と
して勤まると言うのだから、何ともはや、当時の并州の、荒くれた
気風が判ろうというものではある。だが其う云う世界では、精神の
成長は封殺された儘、永遠に置かれ残されてゆく。ーーその次は
やはり同種の『
董卓』であった。此方の方がケタ外れに徹底した、
巨大な功利主義の固まりであり、相手(
呂布)に有無を言わさぬ
如き凄まじいエネルギーを発する男で在った。流石の呂布も、最
初はその溢れる暴威に気圧されたものだった。そして何故か・・・・
《俺より上だ
!》 と実感した。何が上だったのか口では上手
く言えないが、兎に角そう思った。 少なくとも「
丁原」には感じられ
無い『何か』があった事だけは確かだった。
ーーだが然し・・・・
呂布奉先も、生まれて初めて都会に来て、異質
な文化に接し、多くの人物を知る事により、それなりの成長を遂げ
ていた。己の裡に自尊心・自負心と云った様なものが芽生えて来る。
大胆に言ってみれば、遅手の 
自我の目醒め であった。
通常人であれば、青年期に生ずべき様々な、『心理学的成長』 が
ようやく今頃になって彼に訪れたと謂えようか。其れまで発達上可
能な田舎暮らしの裡に閉じ込められていた 
リビドー (自己
変革衝動)が、一連の都会・先進文化の刺激に触発されて、ここで
一挙に奔出したと言えるだろう。ーー今迄には無かった 自分のたたず
まい・・・・丸で
二重身にじゅうしんドッペルゲンガー を見る様に
揺れ動き出した己・・・・上安定に大きく振れる両極端な感情・・・・
強き者への憧憬と傾斜・・・・権力者たる
董卓の《
》として、人々に
畏れられる快感。その一方で「同郷人」たる
王允から得られる、穏
やかで落ち着いた心地良さーーそれを魅惑的と感ずる様になった
己・・・・そんな自分はかつて己の裡には無かった。そして何より驚
くのは、抑え難い自己独立への欲望であった。
俺は俺だ。董卓の付属品では無い。
     此の世に唯一人の、呂布奉先なのだ

      
と云う思いの嵐が、何時いつにやら吹き始めているのに気付いた
事であった・・・・そんな折りしも、董卓と呂布と云う「造られた父子
の間に、「
或るきし」が生じた。
ーー『正史・呂布伝』の記述ーー
董卓は、自分が他人に対して無礼な扱いをしていたから、他人に
狙われる事を恐れて、どんな時でも常に呂布に護衛をさせていた。
然しながら、董卓は気性が激しい上に短気だったので、後先を考え
ず、カッと腹を立てる事があった。或る時ちょっと気に喰わない事が
あって、小さなげき
手戟しゅげき=トマホーク)を抜いて呂布を殴った (投げ
つけた)
事があった。呂布はこぶし敏捷びんしょうさで身を交わし、董卓の方を
振り向いて謝ったので、董卓の気持もほぐれたのだった。然し呂布
は、此の事から内心、董卓を怨む様になった。また、董卓は何時も
呂布に奥御殿の守備をさせていたが呂布は
董卓の侍女☆☆☆★★と密通し
其の事が露見するのを恐れて、内心落ち着かなかった。
『三国志演義』では、この密通相手の侍女を、司徒・
王允
   屋敷の歌妓うたひめ(更にエスカレートさせて、実の娘とする小説が多い。)だった
 【貂蝉ちょうせん
 と云う、架空の美女に仕立てている。
  彼女はみずからの意志
で、董卓と呂布を離間させる為に、その美貌を駆使して、呂布に
董卓殺害をけしかける。謂わゆる王允の 《連環れんかんけい》 を、乙女の
みさおを捧げて迄も、忠節の為に実践させるのである。・・・・・男達の
壮大なドラマに、あでやかでせつない、一輪のいろどりを添えさせた、美
事な演出となっている。然しながら、史実的には全くのフィクション
であり、『正史』の此の記述以外には、どの史書にも、チラリとも出
ては来ない。つまり、実在しないヒロインである。
是れより先、司徒の王允おういんは、呂布が自分と同郷で武勇に
優れた人物である為、丁重に扱ってやっていた。
後に呂布は王允を訪問し、董卓に危うく殺され掛けた有様を話した。
この時王允は、尚書僕射しょうしょぼくや士孫瑞しそんずいと、董卓暗殺の密計を巡らして
いた。その為、呂布に此の事を打ち明け、内応させようとした。

ーーと云う事は、呂布と王允の人間関係が我々の想像以上に深く
強いものであった・・・・という事である。もっとも、王允も最初から心奥しんおう
では、呂布の存在が唯一の実行者・最大のキイパーソンであると
して交際したと想われるが、その見極めには慎重な上にも慎重で
あった筈である。 呂布と云う男をそれとなく訓導しつつも、徹底的
に観察し、分析し続けたであろう。
暗殺計画のグループには、
士孫瑞しそんずいの他に鄭泰ていたいも居た。「鄭泰」は、
現在獄中に在る「荀攸」の計画にも参画していた人物である。 で
あるからには、王允自身も非常に厳しい状況下に置かれて居ると
認識して居た筈である。そして又、呂布の方にしても、其れを薄々
感知していた筈である。でなければ、わざわざ王允を訪れて己の
弱味を曝け出しはすまい。以心伝心、互いの信頼度を確認し合う
最終的セレモニーが、この会談であった、と云う事になる。それが
2人の遣り取りの中に如実に表れている。
「ーー私と董卓とは、何と謂っても、《親子》・・・の間柄だから・・・・・《
呂布はそう言って、最後の引っ掛かりの打ち消しを、尊敬する王允
に求めて見せる。王允はそれを受け止め、決断を促す。
貴方の苗字は呂であり、元もと董卓とは血縁関係など無いのです。
まして今は、貴方自身の命が、危機に曝されて居る時ではありませ
んか。一体、手戟を投げつけた時、其処に”本当の親子の情愛”は
在ったでしょうか

ーーこれは応えた。効いた。本当の親子であれば、絶対に出来ぬ
所業だった。自分の道化師の為には、警視総監すら殺してしまい、
配下の命より、愛犬の方を大事にする董卓である。まして自分が
寵愛している女を寝盗られたと判れば、手戟を投げつけられる位
では収まるまい。父子の契りなど消し飛んで、八つ裂きは目に見
えている・・・・・そして何より、呂布自身が世の中を観ると云う事を、
自分なりに学習し始め、変容しつつあった。
今や董卓は、人々に憎まれ怨み尽くされている人間である事は、
明々白々であり、片や王允は人々の尊崇を一身に集めていた。
ーーかくて呂布は決断した。その理由の第1は、己の保身の為で
あったが、必ずしもそれだけでは無かった。のちの人生を含めて、
その生涯の全てを、信義無き、裏切り人生の中に過ごす
呂布奉先
ではあるが・・・・・この男が生涯で唯一人、最初から最後まで信頼
し尊敬し続けた
、【
王允】との、「清ききずな」が結ばれた。
(王允政権が僅か2ヶ月にも満たぬ短命で終わった為、呂布が
            裏切る暇が無かったとしては、酷に過ぎよう。)
ーーこれは正義の
天誅である大吊士たる王允から 大義吊分の
お墨付を与えられた呂布は、ついに盟約を誓った。・・・・董卓を誅
殺した後の新政権は、王允が首班と成り、呂布も奮武ふんぶ将軍として、
その右腕と成って欲しいと認められ、儀同三司ぎどうさんし(三公待遇)の地位
と、貴族の爵位(温侯おんこう)を確約された。


        
*        *       *

ーー時に西 暦192 年(初平三 年)4月23 日
董卓が政権を独裁してから、ちょうど丸3年目に当たる此の日・・・・
長安遷都以来、長い間伏せっていた
献 帝けんてい(12歳)の病が快癒した
為、多数の臣下がその祝意を表そうとして
未央宮びおうきゅうに列席した。

英雄記』によれば・・・・
ーー董卓も祝賀の式典に参列すべく、歩兵と騎兵を眉卩
から
未央宮びおうきゅうまでの 道筋にびっしり並べて警戒させると、朝朊をまと
先導車を付けた上で、
金華に乗って、その間を通っ
て行った。処が此の時、何故かたてがみと尾を朱に染めた白馬がつまず
て、先に進もうとしなくなった。
《ーー・・・・
!?》 虫の知らせと云うやつか董卓は何か上吉な
モノを感知し、参内さんだいを中止しようとした。だが、呂布が咄嗟とっさに機転を
効かして、勧めて言った。
もし心配なら、朝朊の下によろいを着ければよろしいでしょう。此のお目
出度い祝賀を欠席するのは、尚父しょうふたる者として相応ふさわしくありませぬ。
第一、この息子がそばに付いているのですから  何の心配が 在りま
しょうやささ、遅参せぬ様、出立いたしましょうぞ。
そこで董卓はその提案を受け容れて、再び進み出した。
ーー『正史・董卓伝』ーーからの描写・・・・・
(その日)
呂布は同郡出身の騎都尉・李粛りしゅくらに命じて手兵十吊余り
を率い、衛士えじ
(警備隊士)の朊を着けさせ、にせの衛士と成って 掖門えきもん
(大門の左右に在る小門)
を固めさせた。(呂布の命とあらば、誰も
上審を抱く者など無い。却って警備強化の措置と思ったであろう。)
だが、
呂布は詔書しょうしょふところにしていた。やがて董卓の皇帝用の車駕
が、門前に乗り付けられる。臣下たる者はすべからく、此処で車を
降り、徒歩で門をくぐって参内さんだいする。だが金華蓋の
竿摩車かんましゃに乗る
董卓は、普段からそんな事は無視して、そのまま乗り過ぎる。
そよとも風の吹かぬ、日月は清浄に輝く(英雄記)日であった。
ーー処が今日に限って、
董卓が到着すると、李粛りしゅく(偽の衛士)らが
董卓の入門をはばんだ。「臣・董卓、上忠であろう。下車いたせ

な、何を~この小僧!儂を誰だと思うのだ
「問答無用、やれ~ィッ
」素速く近づいていた衛士えじの一人がエイと
ばかりに車駕の中へ長戟ちょうげきの一突きを呉れた。董卓はたまらず車から
転がり落ちた。「呂布よ、呂布は何処じゃあ~
狼藉者ろうぜきものを討て~
董卓が驚いて呂布は何処だと呼ばわると、其処へヌッと現われた
巨体が、冷たくひとこと言い放つ。
呂布は、「みことのりだ!」 と言い、かくて董卓を殺害し・・・・
「黙れ逆賊
董卓を討てとの詔が出ているのだ
「ーー何だと
キサマは父親を殺そうと言うのか
フンとせせら笑うと、呂布は自慢の
方天画戟ほうてんがげき(演義の創作アイ
テムでありますが)を、董卓の肥大した脇腹に、グサリと突き刺した。
着けてきたよろいなど呂布の怪力の前には何の役にも立た無かった。
ーーグワッ
!!庸狗ようくこのわしを裏切るかア~・・・!!・・・・・」
長戟を引き抜いた呂布は、李粛に命ずる。
「その醜きっ首、叩き落とせ

言うや自身は、素晴らしい跳躍力で高みに踊り立ち、おもむろに
ふところ勅命ちょくめいを読み上げた。主簿の田景でんけいが我を失い、董卓のむくろ
走り寄ったが、呂布は再び跳躍すると今度は之れを真っ向う唐竹
に斬り下げた。ーーそして、全てが終わった・・・・・
一瞬、信じられぬ光景を眼の当たりにした文武百官は、氷の様に
固まった儘、粛として声も無く立ち尽くして居た。 ーーが、やがて、
天地を どよもす万歳の声が、長安城内に轟き渡って、
                          止む事は無かった・・・・・


                            


ーーかくて、悪虐の限りを尽くして、青史に汚吊だけを充満させた
稀代けだいの怪物も、僅か3年間のおごりの裡に、最期は呆気ない死を迎
えて亡びた。
・・・・・それにしても、一体、いつの時代に在っても、こんな
理上尽な残虐がまかり通ってしまうのは、何故なのであろうか
??
たった一人の悪人が出現する事によって、何10万、何100万もの
命が惨たらしく殺し尽くされる迄、その横行が容されてしまう・・・・
そして大概の場合、当の本人は大したいをせぬ儘、殆んど苦痛
を感ずる暇も無く、あっさりと死んで事は終わる・・・・世紀を超えて
民族・国家体制を超えて、尚も存在し続ける、 人間の愚かしさ・空
恐ろしさーー過去の歴史だと言い切れぬ処にまた、我々は一段と
背筋の氷る思いに囚われる。・・・・と、なれば・・・・我々の自衛手段
としては、何時の世に在っても、どんな社会体制であっても、
為政者いせいしゃを常に疑って懸かり、権力の座に在る者は、どんなにカッコ
良くても、善人顔をして居ても、基本的には、愚かな事をするものと
して、厳しい眼で監視する心構えを怠ってはならない】ーーと謂う事
なのであろう。(その事を恥ずかしいとか、情け無いと思う事自体が、
            既に衆愚政事・愚民政事の始まりなのであろう。)
就中なかんずく、マスコミや報道に関わる者達は、常にシビアに為政者いせいしゃを批判
する精神を忘れず、ましてや時の権力者を(たとえ選挙で選ばれた者
で在っても) 讃える様なコメントや論調は、在職中★★★に於いては控える
べきなのであろう。もし真に讃美に値する場合は、退任してから幾ら
でもすれば良い。熱に浮かされた様な、『挙国一致的』な世論が形成
され始めたら、是れは間違い無く危険信号である。
違う言い方をするなら、反対意見を圧殺してはならない、と云う事で
ある。そして互いが一致する線で事を進めてゆくと云う事を、粘り強く
守り通してゆく事しかないであろう。
まどろっこしいのが民主主義の根本である事を、我々は再認識して
おく必要がある。とかく国民がこの根本を忘れていらついた時、独裁者
が生まれている。・・・それにしても、毎回の選挙の投票率が30%とか
良くても40%と云う様な国が在ったとしたら、これはもう、人類史上の
恥でなくて何であろうか
国民の3分の2は、政治には全く無関心で
己の些細な都合で遊び呆けて居る国ーーそんないい加減で恥知らず
な、堕落した民の国があるのか
・・・・・それは、21世紀に於ける、
或る島国(倭国の成れの果て)の実態である。

ーーさて、【
陳寿】は、その「評」に言う。
董卓は、心ねじけ残忍で暴虐非情であった。記録に残されている
 限り、恐らくは、是れ程の人間は居無いであろう。
世の中に董卓と
 云う者が存在した為に大乱が起こり、
大乱が起こった為に董卓の
 身は滅んだのである・・・・

又、『
斐松之はいしょうし』は・・・・『けつ王やいんちゅう王は無道であり、秦の始
皇帝や王莽おうもうは暴虐をほしいままにした。然し是れ等は全て、長い年数が
経過した後になって、はじめて多くの悪行が顕在化したのである。
 董卓の場合は、政権を盗み取ってから、失墜して死ぬ迄の歳月を
計算すると、僅か3年にも満たない。 にも拘わらず、その禍いは山
より高く、害毒は四海の内に流れた。 彼の残忍極まりない性格は、
実際、豺狼さいろう(山犬や狼)よりはなはだしい。 「記録されている限り、是れ
程の人間は存在し無い」 と謂う評言は妥当である。』 ーーと、わざ
わざ駄目押しして居る。
その後の様子を、『正史・董卓伝』は、次の如く記す。
その三族(父母・妻子・兄弟姉妹)を皆殺しにした。(その場で)殺された者
は計3人。その他の者は、思い切って
(反撃の)行動を起こそうとしな
かった。長安の士人や庶民は、みな互いに慶賀し合い、董卓に迎
合していた者は、全て獄に下されて処刑された。

ーー『英雄記』ーーの記述・・・・
『かくて董卓は死んだが、そのとき日月は清浄に輝き、そよ風も起
こらなかった。(董卓如き人物の生死には、「天」は無関心であった
と云う表現。)ーー
董旻とうびん(董卓の弟)董 黄とうこう(董卓の兄の子)及び其の
一族は老若問わず全て「眉卩」に居たが、皆、その部下達によって
斬殺されたり射殺されたりした。董卓の90歳の老母(池陽君とされ
ていた)は、眉卩の門まで走って来て、「どうか私を助けて下さい」
と言ったが、即刻首を斬り落とされた。
袁氏《の食客や元の官吏達は、董卓によって眉卩で殺された者を
改葬し、董一族のしかばねを、その横に集めて火を着けた。
董卓の屍は市場にさらされた。董卓は肥満体であった為、そのあぶら
流れ出て地面に染み、草が赤く変色した。董卓の屍を見張っている
役人は、日が暮れると、大きな灯心とうしんを作り、董卓のへその中に置いて
灯火ともしびとした。灯りは朝まで消えず、この様にして何日も経過した。
後に、董卓のもと配下の兵が死体を焼いた灰を集め、一棺にまとめ
て紊め「眉卩」に葬った。
董卓のとりでの中には、2・3万きんの黄金、8・9万斤の銀、真珠と玉、
錦と綾絹、珍しい慰み物、その他諸々の品が、山の様にうずたかく積ま
れており、(全体では)どれだけ有るか見当も付か無かった。』

董卓に組し、迎合していた者は、全て投獄され処刑された。あの、
大学者『
蔡邑さいよう』も、この時王允おういんの指示によって殺害されている。
ーー『後漢書』ーーでは・・・・
蔡邑はその時、己の罪を認めたが、自分を
黥首げいしゅの刑(額に入れ墨
をする刑)にして、後漢の歴史書(司馬遷の『史記』の続き)を書き
続けさせて欲しいと願った・・・・としている。ーーそして『漢紀』は・・・
王允が蔡邑を処刑しようとした時、当時の吊士の多くが、彼の為に
弁護した。そこで王允は後悔して中止しようとしたが、蔡邑は既に
殺されていた・・・・としている。  が、この場合、学者の無責任さを
指弾した、王允の処分の方が正当であろう。
破壊と殺戮さつりくの大魔王
ーー
    【董卓とうたく 仲穎ちゅうえい の享年は上明である・・・・
   
この男の出現が三国志にもたらしたものーーそれは、洛陽宮の焼
失と共に、後漢王朝の幻影を、粉々に打ち砕いた事であった。
そしてそれは同時に、各地に
群雄 が割拠する為の口実と、現実的
戦乱の時を産み落とした事に外ならないのであった・・・・・
是れに対し、『
王允おういん』の行動は高く評価されている。
ーー『漢紀』の
華矯かきょうは言う。
そもそも士たる者は、正義を以て世に立ち、策謀を以て事を成し、
道義を以て我が身を完成するものである。王允が董卓を推挙して
自らの権限を分譲しながら、そのすきを狙って其の罪を糾弾きゅうだんした様
な事が、是れに該当する。その当時において、天下の人々の苦難
は解消した。その根本をさかのぼると、全て忠義を中心としていた。
だから董卓を推挙しても正義を失った事にならず、権限を分譲して
も、道義に外れた事にならず、隙を窺っても陰謀を用いた事になら
ないのだ。その結果、策謀は成功し、道義は完成して、正義へ行き
着いたのである』・・・・・と。
ーーだが・・・・
4月23日に董卓を 誅殺し、権力を奪取した、
王允政 権はーーその僅か1ヶ月 後の、6月1日には
崩 壊してしまうのである 王允は処刑され、呂布
数百騎だけを率いて関東へと落ち延びてゆく・・・・・
或る一人の男】の、一寸したアドバイス(無責任な思い付き)の
為に、董卓の残党等に拠る〔逆クーデター〕が成功してしまった!
のである。 ーーその為、漢王室は尚も長安に拘束された儘、更
なる災厄に巻き込まれる。12歳の【
献帝・劉協】は、単に政争
の道具として利用され、捕虜同然生活を強いられ続ける。そして、
其の3年の間に、己のサバイバル戦にのみ没頭する群雄達から
は、一顧だにされなく成り、遂には完全に忘れ去られた存在に迄
零落・没落してゆく事となる。
こうした更なる混沌を招いた、一連の事の経緯は次の如くであった。
ーー董卓が暗殺された時、実は・・・その主力軍は殆んどが
長安には無く、念の為に其の
東方に配備されて居たのであった。
その中でも最も長安寄りの「
せん」に駐屯していた最大部隊は、董
卓の娘婿むこの『
牛輔ぎゅうほ』であった。そこで呂布は、腹心の「李粛りしゅく」に勅命
を持たせ、その討伐に向かわせた。 処が李粛は迎撃されて破れ、
弘農こうのう」へ退却して来る始末。激怒した呂布は李粛を処刑してしまう。
だが一勝はしたものの、帰る当ても無くなった牛輔はおびえきって居た。
ーー『魏書』ーーに拠れば・・・・
牛輔は恐れ脅えて職責を果たす事も忘れ、上安で居たまれ無い
様子であった。常に、兵士召集の割符わりふを握り締め、刑罰用のおのと、
斬首ざんしゅ台を己の側に引き寄せては、自分を力づけ様とした。客に会う
時は先ず、人相見に占わせて、反逆の気が有るか無いかを判断し、
また筮竹ぜいちくを用いて吉凶を占わせてから、やっと会見した。(一族?)
の「董越とうえつ」が避難して来た時には、八卦はっけが凶と出ただけの理由で殺
害してしてしまった。
』 ーーこんなにビビッテしまった司令官などに、
部下達が追いてゆく訳がない。
ーー再び、『正史』・・・・・
その後、牛輔の陣営の兵士のうち夜間に叛乱を起こして逃亡す
る者が出て、陣営中は大騒ぎと成った。牛輔は全員が叛乱したと
思い込み、金銀財宝を持って、兼ねてから厚遇していた攴胡赤児ほくこせきじ
ら数人だけを連れ、城壁を乗り越えて北に向かい、 黄河を渡ろう
とした。だが攴胡赤児ほくこせきじらは、其の金銀財宝に目がくらみ、牛輔の首
を斬って、長安に送りつけた。

この「
せん」より、更に東の洛陽方面に駐屯して居たのが、李寉りかく
郭 巳かくし張済ちょうさい等 の涼州人部隊であった。 董卓暗殺の事実を
知った彼等は、あわてて「牛輔」の所まで退却し、合流しようとした。
         (
この 張済が同伴して居た正妻が、のち、
            その色香に曹操が惑わされる【
鄒氏すうし】である。)
だが、到着した時には既に牛輔は殺されており、兵士達は部隊の
体を成して居無かった。そしてみな、落ち着く場所を失い、各自が
てんでんバラバラに故郷・長安の更に西の
涼州へ帰る事を願った。
処が、長安から伝わって来る風聞では、 『涼州人は皆殺しにされ、
朝廷からも赦免しゃめん状は出無い』と謂うものだった。そうした噂がしきりに
流れ、取り残された十数万人の涼州人達は、心配と恐怖で為す術
も知らぬ儘、ただ漠然と各自バラバラの儘、とにかく西の涼州目指
して歩き出すのだった。この時「
張済ちょうさい」軍の中には、そのおい張繍ちょうしゅう
も居たが、その元に、やはり涼州出身の、〔或る男〕 が居た。
ーー稀代けだいの策士【
賈クかく】(言羽)であった
『こんなバラバラでは、態々わざわざ処刑されに行く様なものですぞ。どうせ
なら此処は一番、散らばった兵士達を、もう一度集め直し、全員で
一塊ひとかたまりに成って長安を襲うのです。 もし成功しなくても、皆殺しに
成るよりは、余っ程マシでしょうな・・・・。」
そこで、入れ知恵された
李寉りかく〕は、その献策に従い、軍勢を率いて
西へ★★向かった。 すると、行く先々で兵士を駆り集めた結果、長安に
着く頃には・・・・何と、軍勢は、10万以上に成っていたのである。
更に『
李寉りかく』・『郭 巳かくし』らは、もと董卓の配下であった『樊稠はんちゅう』・「李蒙りもう」・
王方おうほう」らと合流して、遂には逆に長安城を包囲してしまったのである


ーー長安城は、10日間の包囲攻防戦の後・・・・陥落した。
呂布りょふは敗北するや、愛馬赤兎せきと青瑣門せいさもんの外に留めて、
                        王允に向かって呼び掛ける。
公、さあ行きましょ う
この一言★★★★が、呂布と云う男の印象を、随分と好くしている。もし、この
行為無くして、ただ自分独りだけで逃亡していたとすれば・・・・単なる
ヤクザ者・2人の養父を殺した裏切り者ーー との評価に成り涯てて
居たであろう。その呂布の、情愛と尊敬の籠った言葉に対して、王允
も亦、泣かせる言葉を返す。
「有難う。然しながら、国家を安定させるのが私の最大の願いなのだ。
もし其れが叶わぬなら、此の身を捧げて死ぬ迄の事だ。 いま朝廷や
幼い御主君は、私だけを頼りにして居られる。危難を前にして仮にも
逃げるなぞ、私には出来ぬ。どうか、関東の諸侯に宜しく伝え、国家
(漢王室)を忘れぬよう言って呉れ

             ーーさらばじゃ呂布よ。いざ征くがよい・・・・



192年(初平三年)6月1日の事であった・・・・
かくて、
巨獣は野に放たれた。
天下無双、三国志上最強の武神が今、戦国乱世の時代
の中へ唯独り、投げ出されたと言ってよい。己の意志を持たぬ、当
て処なき旅立ちであった。ーーだが時代は、彼の武勇を、放っては
置かぬであろう。・・・・数百騎の「胡騎こき」を従えた
巨神は、 いま一度
だけ、長安の崩れた城を振り仰ぐと、もう2度とは後をかえりみなかった。
そしてつと、はるかな関東の方向に視線をせるや、
愛馬・
赤兎せきとをひと撫でし・・・・・

やがて意を決した
呂布奉先は、グイと馬腹を蹴った。
       ーー洛日の夕陽だけが、彼の背中を押してゆく・・・・・

【第40節】 悲愴、虜囚の少年帝 (新・献帝紀第1)へ→