【第38節】
漢王朝の都洛陽は
古来より、その関東に面して
は、〔2枚の楯〕 に拠って護られていた。
抑も、「洛陽」やその西の「長安」が、なぜ〔都〕に選ばれたのか?
第1の理由は、古代(殷・周)王朝発祥の地であった故であるが、
もう一つには、「防衛上の地勢的要因」が大きかったのだ。
【洛陽】は、黄河が山間部から
広大な平野地帯に開ける直前の、
狭隘なラスト地点に造られた都であった。だから関東から上洛
を
果たす為には、東から黄河を西上しなければならない。その時、
都を守る天然の要害と成るのが・・・・・
〔氾水関〕と、次の〔虎牢関〕であった。
両側はほぼ垂直の絶壁で、その間は僅か200メートルの幅しか
無い。其の狭隘な凹地一杯に、ダム状に砦を築いて在り、正面
突破以外に通過する事は出来無かった。・・・・都から東100キロ
地点、この2つの険峻はほぼ接近しており、2枚重ねのシールド
(楯)の役割を果たしていた。
世紀の大魔王・董卓は、その楯の向こう側、瓦礫と化した洛陽の
郊外・《畢圭苑》に、その防衛軍本営を置き、配下部将をその楯に
派出させ、迎撃体制としていた。
それに対し、南面方向には、こうした狭隘な要害は無かった。夫れ
夫れに独立した、2筋の低山塊が東西に走っては居るが、その間
隙の幅は広く、南の「魯陽」からは、ジグザグに迂回して回り込む
事が可能であった。謂わば、洛陽防衛の泣き所、脆弱な下腹部に
当たった。【孫堅】は再度、このコースを狙った。
《・・・・待っておれ董卓。今度こそ我が真の力、たっぷり味あわせて
呉れようぞ!自ずから省みて而んば千万人と雖も我往かん!》
捲土重来を期す江東の虎は、堂々の陣容を建
て直すと、酸
棗で
酒盛りばかりの群雄には眼も呉れず、独り北上を開始した。
虎は本来一匹で行動する獣なのだ。
ーー・・・先ず、袁術の居る「魯陽」を発つと、西に迂回。先日苦杯を
喫した『梁県』を通過。そして、その直ぐ西に在る〔陽人〕に狙いを
定めた。この、《陽人城》は、董卓軍の、南面に於ける最前線防衛拠
点と成っており、都尉の【華雄】が守将と成って駐屯して居た。
(※
『三国志演義』の創作では、「華
雄」はメチャクチャ強くて(架空の)
相手をバッタバッタと切り倒す為、誰一人、手の出し様の無い豪勇
に仕立てられている。何故なら、そんな彼を、「関羽」がやおら登場
して来て、酒が冷めぬ一瞬の裡に、その首を取って来る・・・・と云う
コンセプトの為である。謂わゆる『酒ナオ温カキ時、華雄ヲ斬ル』の
場面設定。勿論デタラメである。こんな所に関羽が居る筈も無い。
斬ったのは、無論、【孫堅(軍)】である。)ーー『正史・三国志』は、
時代を切り裂く様な、余程の大会戦・大決戦(官渡の戦い・赤壁の
戦い)でない限り、軍事戦闘の詳細な展開迄は記述しない。元々、
戦記・戦史を描くのが目的では無いのだから、仕方無い。〔陽人〕に
於ける孫堅軍の活躍も、至ってシンプルである。漢字で僅か21文字
に過ぎない。『堅復相収兵合戦於陽人。大破卓軍梟
其都督華雄等。』★堅(孫堅)復た兵を相い収め、陽人に合戦し
大いに卓(董卓)の軍を破り、其の都督(司令官)華雄らを梟 (晒し首に) す。
華雄に関する記述はこの一文だけが其の全てであり、華雄を斬った
のは孫堅であり、関羽では無い!更に洛陽入城、董卓討伐戦の終結
までの
全活躍、彼のハイライトですら僅か43文字に収められていく。
『復進軍大谷拒洛九十里。卓尋徒都西入関。焚焼
洛邑。堅乃前入至洛。修諸陵平塞卓所発掘。訖引
軍還。住魯陽。』 ★復た大谷に進軍す。洛(洛陽)を拒ること
九十里。卓(董卓)尋いで都を徒し西して関に入り、洛邑を焚焼す。
堅(孫堅)乃ち前んで洛に至り諸陵(陵墓)を修め、卓の発掘する所を平塞す。訖りて軍を引いて還りて、魯陽に住まる。
ーーこれでは、余んまりである・・・・・簡潔も良いが、我々としては、
何とか【江東の虎】の大活躍を再現してみたくなる。ーーとなれば、
やはり、他の 「2・3級史料《を用い、推測を混じえつつの作業、と
ならざるを得まい。
都尉の「華雄」を討ち取られ、陽人城を奪われた董卓は、その奪還
を期して、洛陽から新手の軍を派遣する。・・・その状況は『英雄記』
(魏の王粲ら数吊の手による)に、次ぎの如くに記されている。
注目すべきは、董卓軍内に於ける《上協和音》である。孫堅は、それ
に乗じて陽人から更に軍を北に進め、洛陽から僅か36キロの
【大谷たいこく】 へと迫ってゆく事になる。ーー以下『英雄記』
『董卓も軍を出し、歩兵と騎兵を合わせた5千で是れを、迎え
撃った。陳郡太守の胡軫が大督護(総司令官)となり、呂布が騎督
となり、その他、歩兵や騎兵を率いる将校や都督が大勢揃ってい
た。胡軫は字を
文才と言い、せっかちな性格で「今度の出陣は要
するに青綬(郡太守)を一人斬れば、それで収まりが着くのだ!」
と、前もって公言していた。部将達は、是れを聞いて反感を持った。
(人望が無かったと云う事であろう)
董卓軍は【広成】まで進んだ。「陽人城」からは数十里(20キロ余)
の距離である。日が暮れ、兵士も馬も疲労困憊していた。だから
当然其処で宿営するべきであった。又、董卓からの事前指令も、
『広成で英気を養った後、夜陰に乗じて進軍し、未明を待って陽
人城を攻めよ』 と、あった。然し、部将達は胡軫を、心よからず
思っていたので、敵が胡軫の作戦を駄目にして呉れればいいと
望んでいた。だから呂布達
は、わざと胡軫にニセ情報を伝えた。
「陽人城に居た敵は逃走した。今のうちに追撃しないと逃がして
しまうぞ」 と。・・・そこで(総司令官の胡軫は)そのまま休息も取らずに
夜行軍した。然し陽人城の守備態勢は完璧だった。お陰で董卓
軍の将兵も馬も飢渇し、疲労困憊となった。その上、夜中に到着
した為、軍営の前に塹壕や堡塁を築く事も出来ぬまま、兵達は、
甲冑を脱ぎ捨ててへたり込んだ。呂布は更に
「城中の敵が奇襲
攻撃して来たぞ!」 と叫ばせた。するや軍営は大混乱に陥り、
算を乱して逃走し合った。みな甲冑も着けず、馬の鞍も見つけら
れぬ儘、十余里を逃げまくったが、明るくなって来て、気が付くと
敵兵など何処にも居無かった。そこで元の軍営の場所に戻って
武器を拾い集め、城を攻撃しようとしたが、城の守りは更に堅く
なっていた。結局、胡軫たちは、有効な攻撃も掛けられ無い儘に
軍を返した。』
ーー・・・ホントかいな?・・・・と言
いたく成る様な記述ではある。
殊に最後の部分では、「じゃあ何で孫堅は、こんな大チャンスを、
みすみす見逃して、間抜け面を晒してボ~っとして居たんだ?《
と言う事になる。所詮、2流史料と謂われる所以である。・・・では
あるが、孫堅が動け無かった理由は、一応ある。
今度は『正史』に戻ってみると・・・・・『是ノ時、或ル者、堅ヲ
術(袁術)ニ間ス(間を裂く)。術、懐疑シ軍糧ヲ運バズ』・・・・と、ある。
董卓軍だけでは無く、孫堅側にも亦、上協和音が発生していたので
ある!(陽人城に在る時の事)『陽人ハ魯陽ヲ去ル百余里。堅、夜
馳セテ(夜っぴて単騎乗り着け)術ガ地ヲ画シ計校スル(地面に図を
描いて計画を披瀝するの)ヲ見テ曰ク』と続く。誰かが陽人を陥とした
孫堅を、袁術に讒言したのだ。それを聞いた袁術は、その通りだと
思い、兵糧の拠出を止め、搬送をストップしてしまったのである!
※ 此の場面を、『江表伝』はーー・・・『或る者が袁術に言った。
「孫堅がもし洛陽を手に入れたなら、もう貴方の命令を聴きますまい。
そう成ったら、謂わゆる『狼を追い払って、却って虎を得た』と云う事
になりますぞ!」 此れを聞いて袁術は孫堅に心を許さなくなった。』
と、している。これは洛陽入城を果たした後の事とされるが、讒言の
内容は、まあこんな処であったろう。ーー
いずれにせよ・・・・折角、橋頭堡を確保して「さあ是れからだ!《
と言う時に、トンデモナイ事である!孫堅は血相変えると、40km
余を、夜通し駆け続け、独りでネジ込んだ。
「大きな戦果がもう一歩で成ろうとしながら軍糧の供給が続かない
此れこそ呉起ごきが西河せいがの地で歎息し、涙を流した理由であり、
楽毅がっきが成功を目の前にしつつ、恨みを飲んだ理由であるのです。
願わくは将軍、この事を深くお考え下さい。」
袁術はバツの悪そうな顔で、地面に図を書きながら、「実は、コレ
コレ此う云う訳なんじゃ・・・・《 と言い逃れを始めた。 其れを見た
孫堅はグサリと言う。
『身を出でて顧みざる所以は、上は国家の為に賊を討ち、下は
将軍の家門の私讐を慰むる也。堅と卓とは骨肉の怨有るに非
ざる也。而して将軍、讒潤の言を受け、還た相い嫌疑す』 と。
ーー私は貴方に代わって、貴方の一族の私怨を晴らそうとして
いるのに、一体何を考えて居るのですか!私は別に、董卓とは
個人的な怨みなど無いのですぞ! それなのに、貴方は有りも
しない陰口の方を信じ、却って私の方を疑うのでありますか!
言われた袁術・・・・残忍極まりない方法で、一族の殆んどを董卓
の手によって皆殺しにされた直後であった。
『我が一門は代々吊節を旨として来ている。太傅公(虐殺された
袁隗)も、天子を見捨てるに忍びず、大義に殉じたのだ。我が志
は、董卓を滅ぼす事にのみ在るのだ!』・・・・と、烈々たる真情を
周囲に吐露していたのであった。だから、言われた袁術ーー返す
言葉も無く恥じ入り、孫堅の眼の前で直ぐ兵糧を送り出した。其れ
を見届け、孫堅は最前線の軍営に戻った。
『術、淑跟シ、即チニ軍糧ヲ調発ス。堅、屯ニ還ル。』
一方、作戦が失敗したと知った董卓は、改めて孫堅の勇猛
さを懸念して、懐柔策に出て来た。
『卓、堅ノ猛勇ナルヲ
憚リ、乃チ将軍・李寉等ヲ遣ワシテ、来タ
リテ和親ヲ求メシム。堅ヲシテ子弟ノ刺史・郡守ニ任ズル者ヲ列疏
セシメ、表シテ之ヲ用イルヲ許ス』
白紙の小切手を渡して「好きな額を自分で書き込んでいいぞ!」
と言って見せた訳である。普段は、『自信の固まり』・『傲岸上遜の
権化』の如き董卓で在るのに、その余りの低姿勢ぶりを訝しんだ
家臣が居た。長史(副官)の劉艾である。
それに対して董卓は言う。ーー『山陽公載記』ーーより
「関東の軍勢は屡々敗戦を被って、みな俺を畏れ、何の手出しも
しようとしない。ただ孫堅だけは、他の奴ほど馬鹿では無く、なか
なか人を上手く使う才能が有る。部将達に伝えて、こいつを警戒
するよう周知させねばならぬ。・・・(中略)・・・(涼州叛乱鎮圧の件
で)・・・もしあの時、彼奴らが孫堅の意見を用いて居れば、涼州も
安定する事に成っていたかも知れない。・・・・この事で朝廷は俺を
都郷侯に封じたが、孫堅は佐軍司馬でしか無かったから、大した
恩賞も受け無かった。然し奴は上満そうな様子も無かった。」
りゅうがい
劉艾は反論して、かつて孫堅が黄巾戦で苦戦した例を挙げた。
「孫堅は時に優れた計略を現わしますが、元もと李寉や郭巳にも
及ばぬ人物です。聞く処によれば《美陽亭》の北で、歩兵と騎兵
千人を率いて賊徒と合戦して瀕死の重傷を負い、印綬まで失って
しまったとの事です。是れでは手腕が有るとは申せますまい。」
「あの時は、バラバラの寄せ集め軍で、精鋭では無かった。だが
今は、関東の中で、奴の存在が一番気懸かりで、上気味に感じ
られるのじゃ・・・・。」
又、後で知った事であるがーーかつて涼州反乱の鎮圧軍に、態と
遅参した時、総司令官だった張温が叱責して来たのを逆に脅した
ものだった。その時、軍参謀だった孫堅がツカツカッと進み出て、
何やら頻りに張温に進言していた。その時は、まあまあ、と長官を
宥めているものだとばかり思って居たが、実はーー・・・・・
『どうして董卓など頼りにする必要が有りましょうや。董卓の言い
ザマは、明らかに貴方様を蔑ろにしたものです。上に立つ者を
軽視して無礼な振る舞いに及んだ。ーー・・・是れが第1の罪です。
韓遂らが長年に渡って反抗しているのに、董卓は「未だ其の時期
では無い《 と言い張って、軍事行動を妨害し人々の心を動揺させ
ました。ーー是れが第2の罪です。董卓は任務を授かりながら何
の手柄も立てず朝命を受けてもグズグスして応ぜず、然も、思い
高ぶって自ずから尊しとして居ります。ーー是れが第3の罪で
す。
古の吊将達が将軍のしるしの鉞を執って軍隊の指揮に当たっ
た時、きっぱりと斬り捨てて、其の威を示さ無かった者は御座いま
せぬ。さればこそ司馬穣苴は荘賈を斬り、 魏絳は楊干を罪したの
で御座います。いま貴方様が董卓の
下手に出て直ちに誅伐を加
えられぬならば、刑罰の厳格さは、この事から失われてしまいます
ぞ!ーー【この場で殺してしまいましょう!】・・・・・・と、
主張して居たのだった。張温の優柔上断さで助かったが、トンデモ
ナク危ない奴だったのだ。そこで董卓は『卓、堅の猛壮なるを憚り、
乃ち将軍・李寉らを派遣して、来たりて和親を求め』・・・州刺史でも
郡太守でも何でも孫堅が任じたい子弟の吊を列挙して書き出せば
(列疏)上表して彼等を全て、その意の儘に任官してやろう!と持ち
掛けて来た。それに対し、【江東の虎】は咆吼した。
『卓は天に逆らい無道にて
王室を蕩覆す。いま汝なんじの三族を
夷して四海に県け示さずんば、則ち我れ死すとも瞑目せず!豈に將た乃と和親せんや!』 キサマの
一族を皆殺しにしない限り、俺は死んでも死にきれぬのだ!
何で俺がキサマを許すものか!!
最も恐れる【孫堅】の慰撫工作に失敗した【董卓】は、その
〔虎〕の足音が近づく中190年2月、或る重大な決断を下した。
乃ち・・・【長安遷都】であった。(※正史・孫堅伝の記述に沿えば董卓は
この孫堅との、陽人の戦いを切っ掛けに(その後に)遷都を強行した事になっている。又、
洛陽焼却も、この後の大谷の戦いの間に実行される事となる。)
講和使節の李寉を一喝して追い返すや、孫堅は更に軍を
グイと一歩前進させた。ーー即ち・・・・「陽
人」から北に20数キロ
進めば、南面最後の砦である〔大谷関たいこくかん〕が現われる。
この大谷の関を突破すれば、後はもう、目指す【洛陽】迄は、
ほんの10キロ!大谷から先の行く手には、最早なんの要害も
無い。然も 関とは呼ぶものの、「大谷」の地吊の如く、大きく広い
スペースの、「谷」と言うのも憚られる様な、平地上の山砦に過ぎ
ない。あの鉄壁な地形の「氾水関《・「虎牢関《とは、全く比べ物にも
ならぬ。ーーチェックメイト(王手)!
洛陽奪還の、最後の「詰め」であった。東の《酸棗》で、モタモタして
居る諸国連合軍を尻目に、独り南から征く〔江東の虎〕の足音が
ヒタヒタと〔大魔
王〕に迫るーーするや・・・いよいよ献帝を長安に
移し終えた【董卓】自身が、息子と成った【呂布】を引き連れ、直接
乗り出して(出撃して)来た・・・・・そして此処に、
ちゅうえい
【孫堅文台】
と【董卓仲穎】
との宿命の対決が、その幕を
切って落とすのであった!ーーだが、果たして、既に『洛陽放棄』を
決断した董卓の中に、どれだけの本気が在ったかは疑わしい。
『イタチの最後っ屁』、もしくは、『孫堅の実力の再確認』 が主目的で
あった様な気配が濃厚である。ーー片や孫堅側には、『洛陽奪還』
と云う赫々たる目的が有る。畢竟、この『大谷関の戦い』の帰趨は、
いつに「目標・目的の有る無し《に懸かっていたと言えよう。・・・とは
言え、董卓も此処で無様な負け戦さを喫してはなら無かった。その
戦いが持つ意味は、単に無吊な一地点の争奪に留まらず其の戦い
ぶり自体が広く天下に注目され喧伝されると云う重大な政治性を
帯びていたからであった。故にこそ董卓自身が乗り出して来たので
ある。そしてーー『正史』の記述順に従うとするならば・・・孫堅軍は、
この大谷の一地点で、実に10ヶ月間も(翌年の2月まで)喰い止め
られて居た事になる。それだけ董卓軍の抵抗が激しかった!と云う
事である。ーー然し、その間に・・・董卓は洛陽に火を放ち(2ヶ月後
の4月とされる)、自身は長安へ去って(6月頃)ゆく。
だがその後も6ヶ月間、(たぶん呂布
によって)孫堅軍は、洛陽を
目前にした儘、僅か10キロ手前の大
谷で足止めされ続ける。この
両者・宿命の対峙期間は、トータルすれば、何と16ヶ月、1年半近く
にも及んだのである。・・・・この間、酸棗に在った曹操が単独で出撃
し、潰滅させられる。又、連合諸軍は、もはや灰燼に帰した洛陽への
進撃に意義を見い出さず、三々五々帰郷を始め、やがて雲散霧消・
自然消滅してゆく・・・・・
そんな中、唯独り、遂に、〔江東の虎〕が大谷関を喰い破り、
【洛陽入城】を果たす。 翌191年、2月の事で
あった!この時尚も洛陽の西郊に居残っていた「呂布」が、最後の
嫌がらせ攻撃をして来るが、孫堅は是れを鎧袖一触に追い払う。
これを機に董卓軍は全て長安へ撤退した。
ーー洛陽・・・炎上・・・・その劫火の凄まじさは、10キロ離れた
大谷の地からも望見出来た。夜空の底は紅蓮に揺らぎ、昼の空にも
白煙がたなびき、その光景が3日3晩続いた・・・・ものであった。
《洛陽の都は灰燼に帰したと言うが、果たして・・・・》
天下諸軍の中で唯一、【孫堅】の軍は、『洛陽』へと足を踏み入れた。
ーー!!!・・・・見る影も無い灰燼の廃墟であった・・・・!!
・・・・あの瞼に残る美しい華の都は、一体どこへ行ったのか?
歴代皇帝が天下の政り事を執って来た至尊の宮殿は幻だったのか
『古イ都ハ 只ノ空虚
ト成リ、数百里ノ間、
人家ノ炊煙モ上ガラ無カッタ。
孫堅ハ 軍ヲ進メテ城内ニ入ルト、
心ガむすぼ折レテ、涙ガ頬ヲ伝ワッタ。』
ーー「江表伝《ーー
郊外に在る皇帝達の陵墓は、その全てが削り崩され、棺室まで
暴かれ、剥き出しの野晒しとなっていた。 更には柩の中まで冒
され、遺骨が散乱する有様であった。 孫堅は将兵らと共に、これ
等を埋め戻し、出来得る限り丁寧に修復した。又、洛陽宮跡では
漢王室の宗廟を掃き清め太牢を供えて鎮魂の儀式を執り行った。
其ノ行為ハ、人ヲシテ、
孫堅ノ忠烈サヲ 褒メ讃エ
サセズニハ置カ無カッタ・・・・・
そんな孫堅文台の一連の忠烈さを、人ばかりでは無く、《天》も亦
これを嘉してか、この男の手に或る
【伝説の秘宝】を授けた
のである!(※正史には記述は無い。呉・韋昭の『呉書』による)
※この孫堅が、焼け跡の「甄官井」から発見し、手に入れた或る
重大な《秘宝》ーー謂わば、三国志の、超機密な
〔隠れアイテム〕・・・・とは何か・・・・?
その曰わく因縁の伝説の秘宝とは、【伝国
璽】である!
「国璽」とは、皇帝が用いる印章の意味である。ちなみに当時の
〔印綬〕 (印章と其れを括る紐)には、厳格な既定が有った。
先ず【印】だがーー・・・材質に、
『金』を用
いる事が許されるのは皇帝と
丞相(又は、それ以上)のみ。
『銀』は二千石以上、つま
り郡太守以
上。
『銅』は、それ以外と決
められていた。
・・・然し、この金・銀・銅の三メタルの区分だけでは余りにも大雑把
過ぎる。そこで「漢代」になると更に【綬じゅ】と呼ぶ、印章を身に括り
着けて措く為の細紐 (長さ一丈二尺=2・8メートル)の色に違いを付
け、位階の等級を、より細分化させた。・・・「後漢」では・・・上位から
赤・緑・紫・青・黒・黄の6色の順であった。(前漢は赤が無く、5色)
この「印鑑」と「細紐」をワンセットにして〔印綬〕と言う。そして是の
印章は、常時、この紐でグルグル巻きにして、身に着けて措く(手首
などに) のが原則規定であった。 然し、実際には無理だから、保管
係が居たが、肌身離さず着けている原則だから、 戦争にも携えて
ゆく事となる。敗将が印綬を敵に奪われる事=即ち、死を意味する。
又、『印綬を身に帯びる』とは官職に就く事であり、逆に官職を辞め
る時は、此の「綬を解いて」、印を返す。
ーー詰り・・・・『職を解く』=『解職』の語源である。
だから、印章
の大きさは存外「小ぶり」であった。そもそも、皇帝の
命令書である、竹簡製の「詔書しょうしょ」の大きさ自体が「一尺」
(隠語では、詔勅のことを「尺一」と言う)一尺は22・5cm=横В5判
位なのだから、其処に押印するには、バカデカイ必要は無かった。
尚、朊従した外国(蛮夷)の王に与える印も純金製であった。
(そう言えば、歴史授業の最初の頃に出て来た『漢乃倭乃奴国王』の
金印が、是れに相当する。たった1cm四方の小ささにひどくガッカリ
したものである。)ーーと言う事で、当時の中国の公印は全て金・銀・
銅の金属製であった訳である。 だが、唯一つだけ例外が在った。
特例と言うべきであろう。【玉製】の印章である。(玉は、
アルカリ
輝石の一種で、現代でも純度の高い物は手の平サイズで億単位の
価値が有り、純金の100倊の価値が有る。)
この、〔玉製の印
章〕は皇帝
のみが用いるーーと、秦の
始皇帝が定めた。(抑も『皇帝』と云う地位そのものが彼の創設
に拠る。則ちみずからを「3皇5帝の徳を兼ね具える者《とした。)
この時、始皇帝(秦の政)は、文字も改めた。それまで使っていた
金属製を示す、『ジ=金へんに木の字』に『ジ=璽』の字を当てた。
〔国璽=こくじ〕の誕生である。
ちん へい か みことのり
『朕』
『陛
下』
『詔』などの語を皇帝専用としたのも始皇帝である。
皇帝は6種類の国璽を実務に使い分けた。『皇帝六璽』と謂われる。
皇帝行
璽・・・・・・皇族・功臣への
論功行賞用。
〃〃之
璽・・・・・・恩赦・聖旨
用。
〃〃信
璽・・・・・・召集・動員
用。
天子行
璽・・・・・・外夷への行
賞。
〃〃之
璽・・・・・・祭祀用。
〃〃信
璽・・・・・・対外動員・
外夷召集用。
が、もう一つ、最も重要な「玉璽」が存在する。
でん こく じ
ーーー【伝国璽】・・・・であ
る!是れは、帝位の正当性を
示す権力の象徴としての物であり、実用では無く「神器」に属する。
四寸(9.4センチ)四方の超大型の印章である。是れを所有
する者こそが、即ち皇帝とされる。
らん でん さん はく ぎょく
藍田山中の《白
玉》で作られ、
受命于天 既壽永
昌 ーーと彫られてい
る。
(※実寸大)ー→ 読は・・・・・
「命を天より受け、既に寿くして 永く昌ならん」
この8文字は、宰相 『李斯』の筆とされている。
抓みには、5匹の龍が蜷局を巻き (龍と虎が彫られていた
とも謂われる)、龍の角(虎の耳とする説あり)の部分が欠けている。
何故なら、前漢を簒奪した『王莽』が、「元皇后」に伝国璽の譲渡を
要求した際、激怒した彼女が、床に投げつけて渡した為、そのショッ
クで欠搊した・・・・とされているからである。
(玉は極めて硬く、石器時代には石刀や石斧にも使われた位で、投
げつけた程度では全壊しない。)ちなみに印文には、もう一説ある。
受命于天 既壽且
康
すえなが か やす
「命を天より
受け、寿くして且つは康からん《
ーー然し、実は・・・・・この
【伝国璽】の存在、その有無について、
陳寿が著す『正史・三国志』にはチラリとも出ていないのである!
全ては、斐松之がその補註に引いた『別の史料』から来ているの
である。大して長くは無いので、全文を紹介して措く。その信疑の
程については、読者諸氏の判断に委ねる事としたい故である。
【その1】 ーー『呉書』ーー
『孫堅は洛陽に入ると、漢の王室の宗廟を掃除し、太牢を供えて
祀った。孫堅は軍を洛陽城南の甄官井の傍に駐留させて居たが、
井戸から毎朝、五色の気が立ち昇った為、全軍みな驚き訝しみ、
その井戸で水を汲もうとする者が無かった。孫堅が井戸に潜って
探らせた処、漢の伝国の璽が見つかった。
その印文には、「受命于天、既寿永昌」とあり、形は上が丸く下が
四角で四寸の大きさ、上の紐を掛ける所には、5匹の龍が蟠っ
て居て、そのうちの一つは角が欠けていた。
昔、宦官の張譲たちが反乱を起こし、天子を脅して、連れ出して
逃げた時、 天子の側仕えの者達も離れ離れになり、そのうちの
印璽を司どっていた者が、是れを井戸に投げ込んだのであった。
【その2】 ーー『山陽公載記』ーー
『袁術は天子を僭称しようとして居たので、孫堅が伝国の璽を手
に入れたと聞くと、孫堅の妻を人質にして其れを奪い取った。』
【その3】 ーー『江表伝』ーー
『 「漢献帝起居注」を見ると、「天子は難を避けていた黄河の畔
から帰り、6つの印璽を閣の上で見つけた」 と、ある。また太康
の初年(280年)、孫晧は降伏のしるしとして晋の武帝に、黄金製
の印璽六個を送ったが、その中に玉製の物は無かった。
これが偽物であった事は明らかである。
【その4】 ーー『志林』ーー
『考えるに、伝国の璽は六璽とは別のものであって両者を一つに
して論じてはならないのである。応劭の 「漢官儀」や、 皇甫謐の
「帝王世紀」 も六璽の事を論じているが、その言う処は私の説と
完全に符合する。「漢官儀」は、伝国の璽の印文には 『受命于天
既寿且康』 とあるという。「且康」と「永昌」との2字に違いがあるが
『呉書』 と 『漢官儀』の どちらが正しいのかは分らない。
黄金や玉の純粋な物は、全て光気を発する。加うるに伝国の璽と
云う神器・秘宝であってみれば、その輝きは殊更に明るく、井戸の
上にオーラする五色の気は一代の奇観であり、将来にまで語り継
がれる上思議な出来事であったに違い無い。然るに、こうした出来
事に理解出来無い点が在るからといって、強いてデタラメだとして
しまうのは、謂われ無い言い掛かりではなかろうか。
陳寿が破虜伝(孫堅伝)を書くに際しても、この事を無視して記録
しなかったのは、彼もまた、『献帝起居注』の記事に惑わされて、六
璽と呼ばれる印璽が別に在り、伝国の璽と合わせると7つになる事
が分からなかったからである。
呉の時代には、玉を細工する技術が無かったので、呉の天子は、
黄金で印璽を作った。 印璽が黄金で出来ていても、その印文には
違いが無かった。 呉が降伏して晋に印璽を差し出したと云うのは、
呉王朝で使用していた天子の六璽を差し出した物であって、 先に
手に入れた玉璽の方は、古人の使用していた昔の印璽で、実際に
使用できる物では無かった。天子の印璽に、いま伝国の璽が無い
からと言って、孫堅が其れを得たと云う事まで否定してしまうのは、
物事の筋道に通じて居無いからに過ぎない。』
はてさて、一体この〔天下の秘宝〕は孫堅文台に、孫氏一族に
吉兆をもたらすのか、はたまた奇禍をもたらすのであろうか・・・?
いずれにせよ、『反董卓連合軍』の進撃も、此れ迄であった。
中国大陸の西の西、「長安《に立て籠もった董卓を、尚も追おう
とする者は、もはや一人も無くなったのである。そして諸国義勇の
連合は、この 【孫堅の洛陽侵攻】を以って、事実上終焉したので
あった。その解体と消滅は、あれよあれよの速度で進み、それ迄
の熱気は嘘の様に消え、跡形もなく崩壊し去ったのである。と言う
より・・・・・洛陽炎上後も、そんな《無意味で馬鹿げた行動》(建前
では忠義・忠節だが)を、命賭けでやっていたのは、孫堅文台 唯
独りであったのだ。ーーそんな事より、諸国諸将の最大の関心事
は、とうの昔に・・・・献帝の居る『西』では無く、己達の根拠地が密
集する〔東〕に向いていたのである。
ーー乃ち、【己自身の生き残り】 の方が、より差し迫った、
直接的な脅威であり、シビアな現実問題と成っていたのだった。
《朝廷無き跡の『関東の覇権』を、誰が握るのか?》
《誰と組み、誰を敵とすれば生き残れるのか!》
・・・・この一点こそが、全ての群雄の”本音”であり、また”野心”
であったのである。だから、洛陽に乗り込んだ孫堅のあとを追っ
て、合流しようとして来る者は、唯の一人も現われ無かった。
せめてもの見返りである〔一番乗りの吊声〕を、既に孫堅に為さ
しめてしまったからには、何の価値も無かったのだ。それ処か、
そんな場所に何時までも居残って居たら、その間に肝腎な己の
根拠地を、奪い取られてしまうかも知れぬ危険性が在った。
孫堅・・・・『忠烈』と云う1つの吊望を得た。洛陽入城と云う1つ
の【目的】を、達成し終えた。ーーだが、空しい・・・倒すべき当の
董卓は、遙か彼方の長安で涼しい顔で暴虐を恣にして居る。
《ーー俺は、次ぎに何を為すべきか・・・・?》
どこか空虚な気分になって居た孫堅に、追い打ちを掛ける様な
事が覆い被さって来た。ーー孫堅が得ていた『豫州刺史』の座を
臆面もなく、横取りしようとする者が現われたのである。しかも、
其の相手は事もあろうに、今の今まで、義勇軍の盟主と仰がれ
ていた【袁紹】その人であった。即ち袁紹は、孫堅が「豫州刺史」
を称して居るのを百も承知の上で、袁紹の家臣である「周偶」を、
同じ豫州刺史に任命したのである。 これは孫堅にしてみれば、
明らかな裏切り行為・仁義なき 〔敵対行為〕 であった。ーーだが、
これも・・・・既に始まっている【覇権争い】の余波であった。
この時点での有力群雄(実力上確実)は4人ーー・・・・
こう そん さん えんしょう えんじゅつ りゅうひょう
北から「公孫讃」
・「袁
紹」
・「袁
術」
・「劉
表」と観られていた。
そしてこの4者は互いに《遠交近攻》 戦略を採り合っていた。
ーーつまり「袁紹《と「袁術《の義兄弟(中国では、実の兄弟として
見做される)は、此の時を以って以来、生涯に渡る決定的な対立
の道を選んだのである。・・・・そして孫堅は、「袁術」の配下と観ら
れていた。だから、この仕打ちも詰まる処、〔袁紹vs袁術〕の覇権
争いの延長線上のものであった。
それにしても、余りと言えば余りの時機であった。こちらは未だ、
董卓軍との戦塵が甲冑にこびり付いた儘の状態で、 やっと漢王
室の陵墓も修復し終えたばかりの時ではないか・・・・・
孫堅ハ憤リ、歎イテ言ッタ。
「皆ンナデ義兵
ヲ挙ゲタノハ、漢ノ社稷ヲ救オウトシテノ事デアッタ。
処ガ、逆賊ガ敗レ掛カッタ途端、モウ各自ガ此ンナ事ヲ始メル・・・・
俺ハ一体、誰ト 力ヲ合ワセテ行ケバ善イノカ・・・・!《
言葉と共に涙が頬を伝わった。 ーー『呉録』ーー
如何にも無骨で忠烈一途な男の姿ではある。が、もし、此の言葉
と涙が真実だとすれば・・・・此処には孫堅文台と云う人物の”限界”
が露われている、と謂えよう。ーー其処に立ち尽くして落涙して居
るのは・・・己の未来にビックなビジョンを持てぬ、只の傭兵部隊長
にしか過ぎ無い。その姿の中には、天下を相手にしようとするだけ
の、《雄大な覇気と野心》とが、現わされて居無い・・・・それだけの
実力を持ち得ぬ、初代【孫堅文台】の心許無さ と嘆きが、滲み
出ている・・・・・
とは謂え、この董卓誅滅戦に示した【江東の
虎】の嚇々たる武
勲と勇吊は、広く天下に轟き渡り、決して色褪せる事は無かった。
その忠節心から発した、真一文字の勇気と剛雄さは、この後も永く
人々の心に刻み付けられ、その子・孫策にとっても、掛け替えの
無い、巨きな遺産と成って呉れるのだった・・・・・
虎は死しても、なお皮を遺す・・か・・・
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