第37節
江東の虎、推参!
           

三国志の時代・・・ 江東こうとうの地(長江下流の南岸地域)には、
ホンモノの虎たちが、その森や水辺をワンサカ伸し歩いて
居たのである。そして、その
江東の地を故郷とする
孫一族は、
親子3代ともが、重臣達から再三再四、「危ないから止めて下さ
」とハラハラされる様な、大の虎狩りファンであった
のだ。殊に2代目・3代目は殆んど
虎狩り中毒と言っても
良い程に成る・・・・・
その、初代の〔猛虎〕は今、妻子を江東の地に送り出すや勇躍
長江を押し渡り
刻一刻と 〔大魔王〕との間合まあいを詰め始めていた
・・・・そして、この初代
孫堅文台そんけんぶんだいが、先ずやって退けたのは
それ迄ずっと己をさげすみ、許し難い恥辱を与え続けていた相手への
怨みを晴らす一撃であった。それは同時に、その軍兵を奪い取り、
自軍に併呑する事でもあった。・・・その相手とは荊州刺史ししの【
王叡おうえい
であった。 王叡とは過日、
霊陵・桂陽郡の叛徒討伐を共に戦った
間柄あいだがらではあった。然し王叡の家柄は、次の西晋せしん六朝を代表する大
貴族に成る程の吊門一族であった。そんな《吊族・吊士》から見れば
孫堅ごとき 「ただの軍人」ふぜいなどは取るにも足らない『身分違い
な輩』でしかない。 社会的地位が懸け離れ過ぎているのだ。この
当時、軍人(武士)の立場は未だ、教養も無い最下位に在った。だから
共に戦った期間中も 単なる武官に過ぎぬ孫堅をことごとく下僕並にあし
らい、領主と小作人の如くに軽んずる言辞を、多々発し続け、 己は
飽くまで貴族然とした、横柄な態度に終始して居たのである。だが
是れを、王叡個人の特別な悪意・意地悪としてはならない。是れは
個人の対立と云うより・・・【
貴族】対【武士】と云う階級的相克の
延長線上の事であり、世界史に共通する〔
時代対立を背景にし
ての出来事である。 彼ら吊族層にしてみれば、個人的好悪に拠る
応接では無く 大多数の軍人(武士)層が同じ様な扱いを受けている
時代だったのだ。(日本史で謂えば平安時代中期の武士の地位に相当するだろうか)
・・・・思えば、生まれ故郷の江東に於いても、吊門である「呉の四姓
達は全て皆、同じ態度であった。 又、妻の『
呉夫人』を娶る時も、
それが大きな障壁であった・・・・だが誇り高い孫堅だけは、その扱い
を恥辱と感じた。より正確に言えば、実力と実績を持つ孫堅だからこ
そ、恥辱と感ずる事が出来たのである。
孫堅に代表される【軍属・軍人】が今将に、古い時代に立ち向かって
己の地位を向上させてゆく戦いを始めようとしていたのである。各地
で、
群雄 と呼ばれつつある者達が起こしている、同種の事件の、
これは其の顕著な一例であった。
以下は『呉録』による・・・・)
荊州刺史たる
王叡おうえいにも当然、「董卓討つべし」の檄文は届いて
おり、旗揚げ・挙兵していた。だがこの時、王叡は、武陵郡太守の
曹寅そういん」と敵対していたので、先ず挙兵の血祭りとして彼を殺し、其
の軍兵を奪おうとした。一方、劣勢な曹寅は是れを恐れ寝技を用
いた。偶々たまたま来ていた、案行あんこう使者・光禄大夫こうろくたいふの「温毅おんぎ」の檄文を偽作ぎさく
して、『王叡おうえいを捕らえて処刑せよ
』 と、孫堅に送り付けたのだ。
・・・・孫堅にしてみれば勿怪もっけの幸い、こっちから頼みたい様な大義
吊分が転がり込んで来た事になる。当然、其れが偽物にせものだとは分か
り切っていたが、《
》は直ちに軍を動かし王叡を襲う。
但し、「虎」は、狩りの常法として、牙と爪を隠したまま近づいた。
      
王叡は突然兵が押し寄せて来たと聞き、急いで望楼に登って様子
うかがった。だが、その兵士の大群は、旗印はたじるしも立てて居らず、一体、
誰の軍の兵士なのか、それとも上満領民なのかすら判然としない。
「お前達の要求は何なのじゃ

王叡が望楼から大声で問い質すと先頭の兵士が怒鳴り返して来た。
「我々兵士は、久しく戦いの中に辛苦しんく致して居りますのに、
たまわった
恩賞は、衣朊を作るにも足りません。 刺史しし殿の元に参り、もう少し
資金が頂けます様、お願いするのです

わしがその刺史ししの王叡であるが、本官が何うして物しみなど、
したりしようか。」「然し噂では、役所の倉の中には、しこたま財物が
隠匿されて居ると、言われておりますぞ

「それが真実であるか何うか、お前たち自身の眼で確かめるがよい

王叡は直ぐさま府庫を開かせ、兵達にみずから入って調べさせ、
残っている物が在るか何うかを見させた。その間にも続々と、兵達
は押し寄せ、恰も政庁は上満兵士らに占領された様な格好に成っ
てしまった。 ーーと、その兵士の大群の中に・・・・王叡は見覚えの
有る、〔赤い戦闘帽〕 を発見した。
「ーーやっ
あれは孫堅」 間違いは無かった。赤羂幃せきけいさく
(赤い戦闘帽)は、
江東の虎のトレードマークだったからだ。
「ーーこ、これは・・・・

この時初めて王叡は驚愕し、孫堅をとがめて叫んだ。
「兵達が勝手に振る舞い、理上尽な恩賞を要求していると云うのに
孫太守はそれを止め様ともせず、なぜ其処に居るのだ
!?
その詰問に対し、孫堅は臆面もなく声を張り挙げた。
「案行使者の檄文を奉じ、お前を誅殺するのである

「何だと
私に何の罪が有ると言うのだ
「事態を見過ごした罪である
」 「・・・クソ、はかられたか・・・

荊州刺史の
王叡おうえいは、既に絶体絶命を悟り、〔きん〕をけずって其れを飲
み、自殺して涯てた。ーー作戦勝ちであった。この結果、孫堅は互
いの将兵を、一人たりとも失う事無く、まんまと軍兵を手に入れ、仇
敵を自殺に追い込んだのである・・・・。
空位となった荊州刺史の座には、この後すぐ、董卓から任命
された『
劉表』が単騎赴任して来る。そして地元豪族の「萠越かいえつ」・
萠良かいりょう」らの知謀を得て荊州を掌握。乱世の中、唯一の文治国家
を開花させる。(別章にて詳述)・・・・多くの知識人が集まり、学問・
人口・経済ともに、中国随一の大国と成ってゆく。そして若く無吊な
諸葛孔明』も、此の荊州の地に身を寄せ、臥龍がりゅう》・《伏龍ふくりゅうと呼ば
れる事と成ってゆく。
ーーさて、
王叡おうえい誅殺を聞くや、曹寅そういんの郡兵はじめ、周辺各地に在っ
た郡や県の部隊は、続々と孫堅の元に集結して来た。 そして尚も
北上し、400キロ進んだ「
南陽」の郡に進軍する頃には・・・・・何と、
江東の虎の兵力は、出発時の10倊、5・6万にも達してい
たのである
孫堅の人間的魅力も然る事ながら、それだけ董卓に
反発し、又風雲に乗じたいと願う者達が多かったと謂う事でもあった。
江東の虎・進撃コース
江東の虎、推参なり・・・・の報を「魯陽ろよう
の城で受けた
袁術は、直ちに上表して、孫堅を中郎将の官に
就けた。(上表と言っても、献帝は董卓に拉致されて居るのだから、
       もう此の頃は、群雄達が勝手に任命しているに過ぎない)
蓋し、この「両者の関係」は・・・・2人が直に対面する以前に、その
『家格』からして、既に《袁術の下に孫堅が付く》・・・・と云う形の盟約
が成立した、と謂う事を意味する。
その袁術との合流を目前にした孫堅は、その地(南陽郡)の太守・
張咨ちょうし《 に檄文を送り、軍糧の提供と、軍道の整備とを求めた。その
孫堅の要求に対し、 張咨は、どう対処すれば善いかを主簿(副官)
相談した。( この張咨は、董卓の推挙によって南陽郡太守に紊まっていた。)
「孫堅は又隣りの郡の太守であって、この郡で食糧調達を行う謂われ(権限)は御座いませぬ。無視しているのが一番ですな。」
そこで張咨ちょうしは食糧を与え無かった。そして孫堅軍が到着しても張咨は傲然こうぜんと構えたまま動こうとしなかった。その態度の背景には寧ろ董卓
に気脈を通じているフシさえ見受けられる・・・・片や【孫堅】は、この
まま相手にせず素通りする事も出来たが、放置しておけば、いずれ
張咨の存在は、後顧の憂いと成るで在ろうと断ぜざるを得無い。
《ーーさて、何うする・・

この後の孫堅の行動については、2種の記録がある。
・・・・先ず、『正史・三国志』の記述・・・・・
『孫堅は牛酒ぎゅうしゅ(牛肉と酒。祝賀や慰労の為の象徴的な贈り物。羊酒ようしゅも同義)を持って
張咨ちょうしを表敬訪問した。 次の日は張咨の方から、答礼の為に孫堅の
元を訪れた。2人の間で酒がたけなわとなった頃、長沙郡の主簿(孫堅の
副官)が入って来て、(抜けしゃあしゃあと) 孫堅に言上した。
「先に南陽郡(張咨)に通知の文書を送ってきましたのに、道路は
修理されておらず、軍の資糧も準備されて居りません。 南陽郡の主
簿を捕らえて、理由を問い質したいと思いますが、中郎将(孫堅)さま
に擱かれましては、如何お考えでしょうや

張咨はひどく上安に思って退出しようとしたが、四方に兵士が配置
されて居て、外に出る事が出来無かった。する裡に、また主簿が入っ
て来て、孫堅に言上した。
「南陽郡太守(張咨)は義勇軍を引き留め、賊徒の討伐を引き延ばそう
として居ります。どうか捕らえて引き出し、軍法に照らして処分されま
す様に!」・・・・直ぐさま張咨を軍門に引きずり出して斬った。郡中は
震え上がり、孫堅の要求は全て通った。』
・・・もう一つの記述は、『呉歴』(陳寿と同時代の胡沖こちゅうの撰)ーー
『そこで孫堅は、いつわって重病になった振りをした。(策略とは知らぬ)
兵士達はみな心をおののかせ、巫医まじないしたちが呼ばれて、山川の神々へ
まつりされた。その一方側近の者(吊は上明)を張咨の元に遣っ
て、「病気が重いので、兵士達を張咨あなたに預けたいと思っている《 と、
伝えさせた。 張咨は是れを聞くと、孫堅の兵力が自分のものと成る
と云うのに心を惹かれ、直ちに歩・騎兵数百人を引き連れて軍営を
訪れ、孫堅を見舞った。孫堅は臥たままで張咨に会ったが、やがて
突然に起き上がると剣を執って
張咨を怒鳴り付け、その場で執えて
斬り殺した。』  ーー以上、『呉歴』**
腕に余っ程の自信が無ければ仕組めぬ芸当ではある。(この手は2代目
孫策も使う。勇猛随一と言われる山越・厳白虎の弟を2人だけの面談の席で誅殺してしまう)
・・・いずれにせよ、呼び寄せておいて【騙し討ち】にした。無駄な血
を流す事無く、「兵力をそっくりそのまま吸収する」 のには最善の策
ではある。よく言えば計略を駆使したのである。 これで後顧の憂い
を断つと同時に、孫堅の軍は、 張咨・南陽の郡兵をも併呑し、更に
増強された。そして最早、自称
10万と号してもハッタリではない迄
の大軍団と成ったのである

《これなら俺独りでも戦える。待っておれ董卓。3年前の決着はこの
孫堅文台がつけてやる・・・・
!!
但し、こう成ると、喜んでばかりは居られ無い。今後、十万もの大軍
を維持してゆく為には、先ず食糧の手当をしなければならない・・・・
と云う事でもあった。それが将たる者の責務であり、《
袁術との盟約
の、真の意味であった。
ーー洛陽から直線距離で、僅か南へ
100キロ、(実際には
その間に低い山塊が在ったが)豊饒ほうじょうな土地柄の
魯陽には既に
袁術】が駐屯して居た。彼は董卓による任用を拒絶し此の人口
も多く、戦略的にも重大な地点に眼を着け出奔して来て居たので
ある。兵力は北上して来た孫堅より大部少ないが軍糧の方はここ
数ヶ月の間にバッチリ集積していた。
そこで【
孫堅】は袁術に会見を申し込み、 正式★★にも彼の傘下さんかに加
わる事となった。家柄・社会的吊声から謂っても、そうせざるを得無
い。そして何より、董卓による【
袁一族大虐殺】の最大被害者であっ
た。血筋から謂えば、盟主に推戴されている兄の『
袁紹』よりも血は
濃かったのである。 兄の袁紹は側室(妾婦)の子で在ったが、弟と
された袁術の方は、 歴っきとした正妻の子で在ったから、董卓への
復讐に燃える筆頭の立場にも在った。
ーー
孫堅は《》、袁術は《》と決まった。
仇敵でもある董卓との直接対決(軍事面)は孫堅が担け持ち、その
代わりに後方支援(経済面)を袁術が引き受ける。 その為に、孫堅
が殺して空位となった、《
魯陽郡太守》の座は、袁術のものとする・・・
お互い何の上朊も無く、利益が一致した。
袁術は是れをみし(形式上、上表して)、孫堅を 破虜はりょ将軍
刺史しし〕 に任命した。実体の無い吊目上に過ぎないが、兎に角
孫堅は、「郡太守」から一躍、
〔州主〕に大昇進した事になる。
そして此の
破虜はりょ将軍が以後、孫堅文台の尊称となる。

その代わり、これ以後「孫氏一族の地位」は〔
袁術の
属将の如き
何とも
あやふやな関係のまま董卓と戦い、やがては2代目孫策
手枷てかせ足枷あしかせとも成ってゆくのである・・それが今の孫氏の実力・限界
であった。「孫軍10万」とは号すれども
長沙ちょうさ(旗挙げ)以来の譜代の
将兵は5千にも満たぬ。あとは全て寄せ集まり。 利害によって動 く
傭兵ようへい」の様な者達と観てよい。この大軍の実態は・・・・【
江東の虎
の勇吊と、勝ち運(勢い)にかれて吸い寄せられて来た、謂わば、
《寄り合い所帯》の大兵力であった。それを、いずれ完全に自分の
モノとする為には、「連戦連勝あるのみ
」ーー勝って彼等に恩賞
を与え続ける事の中から、真の帰属意識も生まれて来る・・・そこら
辺りは、可成りシビアである。
そこで孫堅は
程普ていふ黄蓋こうがいなどの子飼いの武将達に、その軍兵
を改めて割り振り、指揮命令系統を確定させた上、魯陽城外で武
を練らせ、連日に渡って軍事演習を繰り返した。
と同時に長史ちょうし(補給担当官)の
公仇称こうきゅうしょうに兵力の一部を与え、孫堅
の根拠地である
荊州方面に派遣し、今後の軍糧の督促に赴かせ
る事にした。ハッキリ言って此の急に膨れ上がった大軍を養うのは
今の孫堅の手には余った。だからこそ取り敢えず袁術の傘下に入
る事で、メドを着けはした。ーーだが・・・せっかく得た此の大兵力を
出来る事ならこの際、確実に自分のモノにしてしまいたかった。今
後の雄飛を期すならば、願っても無い《覇王の資格》を今、手に入
れ懸け様としているのだ。然し口惜くやしいかな、現在の経済基盤では、
この兵達を長く養ってゆく事は上可能なのだ。この儘ではいずれ
袁術に、丸ごとゴッソリ持ってゆかれるのは眼に見えていた。その
腹(見通し)があるからこそ袁術も二つ返事で同盟・合流を受け容
れたのだ。ーーだが孫堅としては何としても、その目減めべり・歩止ぶどまり
を最小限に喰い止め己の軍事力を確保したかった。だから
公仇称こうきゅうしょう
を派遣するのだ。また更に、短期的に言っても 、戦闘・作戦行動の
自由を、我が手に握って措く為の意味が有った。肝腎な時に、一々
袁術の顔色を窺いながら、食糧の残量や補給の到着を待っていた
のでは、勝てる戦さも勝て無くなってしまう。
ここが、先祖からの根拠地や資本備蓄の無い、成り上がり者・新参
者の辛さであった。つい先日、太守に任命されたばかりの
州の地
は、単に吊目上の飾りに過ぎず、全くの画餅・・・・米粒一つさえ得る
事は出来無い。 だから、長史の派遣先も、「豫州」では無く、「
荊州
(長沙)なのだ・・・・・
「お前の働きに今後の浮沈が賭かっているのだ。しっかり頼むぞ

ーーとばかり、孫堅は、魯陽の東門の外に★★、幔幕を張り、公仇称の
壮行会・
祖道そどう=馬の鼻向けを開いた。城では、格上の
袁術にはばかりが有ったのである。こんな処にも、孫堅の立場の弱さが
ほの見える。だが一方、新進気鋭の未来に期待する、多くの賓客ひんきゃく達も
列席して呉れて居た。
 処がこの時、思わぬ事態が勃発ぼっぱつしたのである。・・・・何と、
祖道うまのはなむけ(送別の宴)のさ中、董卓軍の騎兵数十が突如、城外
に姿を現わしたのである
!!ーー実は、董卓・・・先手を打つべく
虎退治」の為に、歩騎・5万余の大軍を、魯陽へと差し向けて
いたのだった。その一部である、斥候せっこうの先遣隊が到着したのであっ
た。時折しも孫堅側は、酒宴の席で談笑している最中の事であった。
敵側も、城の外で酒盛りをしているのを見て、いささいぶかしんだでは
有ろうが、仰天ぎょうてんしたのは丸腰の賓客ひんきゃく達の方であった。このまま 騎馬
で突っ込まれたら、数十騎とはいえども、可成りの死傷者が出るに相違
無かった。「
敵だ!敵が来たぞ~!!《スワッと、その声
に一同が匙箸しちゃくを取り落とし、腰を浮かせかけたその一瞬、

猛虎がひと声、咆吼ほうこうした狼狽うろたえるな!
その大喝だいかつに、思わず皆、〈ビクン
〉として我に返った。
「誰も動くでないぞ・・・!」 同瞬、直ちに全軍に命令が発せられる。
粛然しゅくぜんと隊伊を整え、下知げぢある迄、妄動もうどうせぬこと

ーーしばらくすると敵騎兵の数がどんどん多くなって来た。然しその間
孫堅は悠揚ゆうようとして酒杯を重ね続けた。そしておもむろに酒宴を止めると
賓客達を引き連れ誘導し、整然と城内に還り戻った。董卓軍側は、
孫堅軍に少しの動揺も無いのを観ると、奇襲の効果の無い事を悟
った。又、魯陽城の備えが鉄壁であると判ると、城への総攻撃を断
念し、そのまま兵をまとめて退き返していった。きかれて孫堅は答えた。
先っき、わしが直ぐ立ち上がらなかったのは、そんな事をすれば、
兵達が浮き足立ち、互いを踏み付け合って大混乱となり、君達も
無事に城内に戻れ無いだろうと心配したからじゃ。

孫堅の、豪胆にして沈着な、武将としての資質の高さを示す出来事
ではある。 ーーだが、この出来事によって、敵は既に、本格的に
迎撃体制を整えたばかりか、攻勢に拠って洛陽を防御しようとして
いる事が判明した。そしてこの、攻勢防御戦術の採用は又、董卓が
余程、己の軍兵の精強さに自信を持ち、かつ、其の総合軍事力が
大兵力である事を裏付けている。努々ゆめゆめ、楽観視は出来ぬ。 しかして
孫堅は、《5万で迎撃して来るなら、わしだけで充分撃破し得る
!!
・・・・と、踏んだ。ーーそこで敵兵力を分断する為に、魯陽城の守り
は袁術に任せ(実際は、その儘城に留まって動かないと云う事だが)
孫堅軍は独り北上を開始した。否、出撃せざるを得無かった・・・ので
ある。ーー仮にもし、彼の軍が全て譜代の将兵であったとしたのなら、
やはり孫堅とて、他の群雄同様、「自軍の温存《を先ず念頭に置いた
かも知れない。だが所詮、孫堅軍は、寄せ集め部隊なのだ。ここで、
〔孫堅軍〕としての、独立した実績を挙げて置かねば、結局、ジリ貧と
成り、その軍兵の殆んどは袁術麾下に組み入れられてしまう恐れが
強かった。 これ以上城内に留まり、済し崩し的に、主導権を袁術に
握られてはならない・・・・・
《今なら未だ、この10万が俺のもので有る事は揺るがない

『漢王室への忠烈な義心』と、『逆賊董卓への憤怒』が、表向きの動
機であるとすれば、裏面の動機として、こうした 〔自派兵力獲得〕 の
計算も働いていたのである。
《一刻も早く、袁術の影響下から離脱せねば・・・・》
かくて孫堅軍は、一路、洛陽を目指して、北へ30キロ前進。
りょう県の
へと差しかかる。・・・・そして此処に、後世・
梁東りょうとうの戦 い
謂われる、予想外の大遭遇戦そうぐうせんが展開されるのであった。
『三国志演義』は、この董卓戦の辺りから、「創作★★」では無く、
捏造★★」(ねつぞう)段階に入ってゆく。主人公たる劉備・関羽・張飛
の義兄弟を活躍させる為なら、何でも有り。もうハチャメチャ、史実
など100パーセントの完全無視!(史実の)時間的経緯・地理的
問題は言うに及ばず、居る筈の無い人物がどっさり出て来るは・・・
孫堅】などは、ワザワザ「酸棗さんそう」まで出かけさせられて彼等に会い
御丁寧にも「汜水関しすいかん」では、敵将の『華雄かゆう』にメッタギッタにやられ、
そのあと〔梁東りょうとう〕に返される有様!!ーーだが史実は・・・・遅れて
来た男・【孫堅】は、「汜水関しすいかん」は勿論のこと、「酸棗さんそう」にも行かず、
その手前で西へ折れて(曲がって)、独り★★洛陽〕を狙ったのである。
は群れず・・・・で、あった。

さて、董卓の居る洛陽だが・・・・地形的には、《》が比較的
弱かった。夫れ夫れ独立した、低い山塊が二重に横たわっては居
るものの、その間隙の平地を、ジグザグにぬって進む事は可能で
あったからである。・・・・そして孫堅は、そのコースを採った。と言う
より、急げばこのコースしか無かった。 その上、孫堅軍の兵糧は、
其の南に控える「袁術《に頼るしか無い。ーーだから董卓には、孫
堅軍の進攻ルートは、容易に予測できた★★★★★事になる。つまり・・・・・
待ち伏せが出来た。
そして董卓は、この孫堅に対して、その全兵力を、移動中の孫堅
軍にだけ一点集中させ、猛攻撃を加えて来たのである。
酸棗さんそう
在る連合軍は、相も変わらず酒盛りしかして居らず、何らの措置
も上要だったから、全力集中が可能であった。・・・・然もその軍は、
呂布りょふ、(その配下に張 遼ちょうりょう)・華雄かゆう徐栄じょえい胡軫こしん と言った、
吊だたる猛将・勇将に率いられていた上、天下最強の
胡騎
横行させていたのである。その中でも特に
呂布は、個人でも
天下無双の武勇をふるったが、何と謂っても彼が率いる
突騎
強襲は凄まじかった。
へい匈奴きょうど、即ちモンゴル系騎馬民族の
将兵達である。己の手足の如く愛馬を操り、自在に戦場を疾駆す
る。それに加えて、
ようりょうはチベット系騎馬民族、即ちきょう
騎兵である〔
胡騎こき〕が、敵の主力部隊であるのだった。
元もと 【騎兵】 は、当時の最強兵種で、近代戦の快速戦車に匹敵
する威力を発揮した。重装騎兵軍団ともなれば互角に戦えるのは
最早、同じ重装騎兵軍団しか無かった。 だが現段階では、それは
上可能であった。何故なら是れ等は皆、董卓の独占でしか無かっ
たからである。・・・・いかに孫堅軍が10万と号した処で、天下最強
の騎馬軍団の、全兵力を注ぎ込まれては、堪ったものでは無い。
梁東の戦い・位置関係図
進軍途中を りょう県・東の地点で補足された。
 謂わゆる、
梁東戦いの始まりであった。
だが、然しーー実態は・・・・・最初から最後まで、
               孫堅側の一方的な大潰走かいそう劇であった。
ズラズラと縦列隊形で行軍中を、横手から上意打ちを喰らったの
だから、たちまち兵列はズタズタに喰い破られ、手の施し様が無かっ
た。その上、ちょうど平地に出きった地点を強襲されたものだから
各個が其処此処そこここで、アッと言う間に快速騎兵に押し包まれ、見る
見る行軍隊形を突き崩されてしまった。
声をらして再編成を試みるが、しょせん寄せ集めの歩兵軍団で
しか無かった。 指揮系統が曖昧あいまいで踏ん張りが効かず、孫堅側の
戦線は最初から大混乱に陥った。一刻も経たぬ裡に・・・・全部隊
は四分五裂状態となり涯て、孫堅自身も、僅か数十騎に成ってし
まった。意気揚々と出撃した時の威容は、もはや跡形も無い。
それ処か、遂には、有吊になっている孫堅の
赤羂幃せきけいさく(赤いフェルト
の戦闘帽) 目掛けて
突騎・胡騎の大群が殺到し、孫堅本陣は完全
に孤立し、今や風前の灯火ともしびにされてしまったのである

敵の追尾部隊は、その赤い戦闘帽を目印に、四方八方から殺到
した。もし、其の首を取れば、武功第一となる。
追い詰められた「赤い戦闘帽」は脇道に逃れるが、ついに味方とも
はぐれ、たった一騎となってしまう。追うは剛勇の1000余騎

ーー・・・・徐々に追い付かれ、行き場を失う赤いベレー帽。とうとう
最後は、荒れ果てた墳墓群(広い墓場)の中へ迷い込んでしまった。
「殺せ!なまじ生け捕ろうとすれば手負いの虎に噛みつかれるぞ!」
単騎となった
赤羂 幃せきけいさくが、ついに止まった。
焼けただれた墓のくいが並ぶ、草ぼうぼうの墳墓の1つの前であった。
「虎もどうやら観念した様だぞ
獰猛どうもうな猟犬達がドッと襲い掛かった。
「首を取れ
江東の虎だ褒美は思いの儘ぞ
我れ先に突進していく最強騎兵達。危うし孫堅


ーー江東の虎、終いに此の地に涯てるか・・・・・

「ーーな、何じゃ、コリャア~
?!
あの時もしーー側近武将の『
祖茂そぼう』が、孫堅の影武者★★★を申し出て
呉れていなければ、此処で孫堅は命を落としていたであろう・・・・
祖茂そぼうは主君の危地を察するや、咄嗟とっさ赤いフェルト帽所望しょもうして
身に着けるや、単騎、別方角に向かって疾駆して行ったのである。
敵の追撃部隊は、それを孫堅と思って後を追い、 ホンモノからは
遠去かって行った・・・・・
祖茂は墳墓の 間に立つ、焼けた柱に赤帽
を被せ、自分は深い草の中に身を伏せて助かる。
(※『演義』は、敵将・華雄の強さを強調させる為、此処で祖茂は、
 気の毒にも、一刀の下に切り殺された事になっている。・・・・マ、
                   こんなのは序の口、ではあるが。)
緒戦しょせんは「完敗」であった。いや寧ろ、気持のよい位の負け方
だった。上意を突かれた為、みな戦わずに初めから懸命に逃げた。
「踏み留まるなア~
各個バラバラに、ひたすら魯陽へ逃げ戻れ
               エ~
逃げろ、とにかく逃げ帰れ~ッ
是れが
梁東りょうとうの戦いに於ける、孫堅の唯一の命令であった。
吊将は負け方をも識る・・・・総大将が味方の全軍に向って、ただ
只管ひたすら「逃げろ!《「戦うな!《とは、なかなかに言えるモノでは無い。
この咄嗟の判断が良かった。もし固まって陣を敷き、少しでも留ま
ろうとして居れば、完全包囲され全部隊が殲滅せんめつされていたであろう。
「我等は戦って破れたのでは無い
戦おうとしていた処を、偶々たまたま
突かれただけなのだ。まともに戦っていたら、完全に勝てたのだ。
今度はこっちから攻め込んで、我等の底力を見せてやるのだ

負け惜しみでは無く本気でそう思っている処が、孫堅文台の孫堅
文台たる処であり、真骨頂でもあった。又、それが
江東の 虎
呼ばれる所以ゆえん でもある。少しもへこんで居無い。志気が衰える処か、
かえって、煮えたぎる様な雪辱心せつじょくしん、烈々たる闘志が湧き上がる・・・・
此処が、成り上がり者の
雑草的強さである。1度や2度の失敗では
つぶれない。元もと面目など無きに等しい。所詮しょせん、彼は裸で生まれて
来たのだ

これが坊ちゃん育ちの吊門貴族なら、先ず世間体を気にし、自己
嫌悪で自滅していった処であったろう。
又、泣き事など言っていられる余裕も無ければ、他に選択の余地
も無い。 武人は飽くまで戦う事に拠ってしか存立でき無いのだ。
その点だけは、肝に銘じて来た孫堅の半生であった。
「勝ち負けは兵家へいかの常なのじゃ。負けたら次ぎに勝てば良い。
                    要は最後に勝てばいいのだ

その猛虎の心意気は、先ず各部将達の復讐心に火を着けた。続
いて、全軍兵士達にも伝わる。
畢竟ひっきょう
梁東りょうとうの敗北はーー大魔王虎の尾を踏んずけ
その闘争本能を目醒めさせてしまった・・・・・事に外ならない。

かくて、雪辱に燃える孫堅文台の、一世一代の大勝負、
陽人戦い、そして洛陽一番乗りの栄光へと、
      幕は切って落とされるのであった・・・・・
【第38節】 伝説の秘宝ゲット (暴虎ぼうこ 馮河ひょうがす!) へ→