第36節

            

窮地に追い込まれた
董卓ーー 天下が唖然・愕然とする様な
トンデモナイ暴挙を仕掛けて来たのである
・・・・それは連合軍
の攻撃意欲を完全に奪い去らんとする「衝撃的な大打撃《であっ
た。まさか、こんなにも早い段階で、 そんな思い切った手を打つ
とは、誰しもが予想し得ぬ、董卓ならではの大戦略・「
空蝉うつせみの術
であった。ーー乃ち、連合軍の攻撃目標で在る首都・洛陽を、全
くの、「もぬけのから」にしてしまうのである。・・・・つまり、200年間栄え
て来た、後漢王朝の華の都・
洛陽をゴーストタウンとし、都を
長安へ移してしまおうとしたのである。 
全く事も無げに、あっさり、キッパリ、何の躊躇ためらいも無く。
所謂いわゆる
長安遷都ちょうあんせんと・・・・これである。『献帝けんてい』を、洛陽から
更に西に400キロ移し、隠してしまうと云う事であった。
以下、その動きについては『漢書』、『後漢書』に拠る)

『その日、董卓は公卿以下の官僚を招集して、大会議を開いた。
だが事前には其の内容を誰にも漏らさず全くの上意打ちに告げた。
「ーーその昔、漢の高祖は関中(長安)に都を置かれたが、11代
の光武帝は都を洛陽に改められた。今ちょうど、その光武帝から
又11代である。『石苞室讖せきほうしつしん(石壁の部屋に在る予言書)を調べると、ここ
で再び、都を長安へ戻すのが適当であると判った。よって直ちに、
陛下を長安へ動座し、遷都いたす
 一同ハ仰天ぎょうてんシ、応答スル
勇気ノ有ル者ハ居無カッタ。かろウジテ、司徒ノ楊彪ようひょうガ反論シタ。
「昔、いん王の盤庚ばんこうは5度も遷都した為、殷の民はみな怨み、それ
ゆえ先人は、『盤庚ばんこう三篇』 をのこし、天下の民を、教えさとしました。
現在、天下は平穏であり、訳も無く遷都などすれば、民衆は動揺
し、粥が煮えくり返る様に騒ぎ、蟻が群がる様に集まり、叛乱を起
こす事に成りましょう。『石苞室讖』は妖しい書物ですから、信用
できませぬ
」 それに対して董卓は悠然と答える。

「関東は今、まさに乱れ、至る所で賊が蜂起して居る。それに引き
換え、関中(長安地域)は肥沃な土地である。だから
は6カ国を
併呑できたのだ。又、
唏山きざん函谷関かんこくかん険しく堅固で、国家の重要な
防御線である  いま長安に遷都したならば、たとえ関東諸軍の中
から思い切って行動を起こす者が在ったとしても、我が方の強力な
軍隊で追い詰め、海の中まで行って貰えるだろうな


「天下を動揺させるのは極めて簡単ですが、安定させるのは、なか
なか困難です。又、長安の宮殿は破壊されており(西暦18~27年
の《
赤眉せきびの乱》以来放置された儘)急に復興する事は上可能です。」

「前漢の武帝は時々
杜陵とりょうに住まわれたから其の近くの終南山しゅうなんざんには
かわらを焼くかまが数千カ所も在り、瓦を作るなど一日で事足りる。それ
に、
隴右ろううの山地から材木を採り出すのも、河を利用して下らせれば
宮殿を造営させるのは造作も無い。だから宮殿や官庁の心配なぞ、
問題にはならぬ。又、民衆の事など、議論に価しようか。」

中国”西方の事”については、誰よりも詳しい董卓であるのだから、
そう言われてしまえば、何の反論も言い得無い。
「もしもウロウロと、どっち着かずの態度を採る奴が居れば・・・儂が
大軍を以って刈り立ててやる。儂の考えを無視した自分勝手な真似
なぞ、絶対に許さぬぞ
公卿百官、ミナ恐怖デ 蒼白ニ成ッタ。だが
せめてもの抵抗として、太尉の
黄碗ガ発言シタ。
「是れは重大事であります。楊公(楊彪ようひょう)の言葉を重ねてお考え下
さいます様に・・・・《 と、董卓は血相変えて怒鳴りつけた。
「お前等は、儂の計画を阻止する心算りなのかア~
!?
そして今度は、穏やかに言って見せるのだった。
隴西ろうせいに居る韓遂かんすい馬騰ばとうから手紙が参ってのう~。彼等は、何とし
ても朝廷に遷都を決めて欲しいと言って来ておる。もし彼等が大軍
を率いて到着すれば儂はお前達を助けてやりたくても、もう救えん
だろうなア~。」
董卓は退席すると、その日のうちに司隷に命じ、小生意気にも反駁
して来た、
楊彪ようひょう(司徒)と黄碗こうえん(太尉)を上奏させ、免官にした。
ーー初平元年(
190 年2月・・・・・
天子ノ御車みくるまハ、直チニ西ヘ向ッタ。
     カクテ、天子ヲ移シテ、長安ニ遷都シタ。

但し、董卓本人と其の主力軍団は、
引き続き洛陽に駐留して連合
軍に備え、時々は進撃して、連合軍が陣を張る、間隙地域に出没
し、周辺諸県の掠奪を繰り返した。
尚当時の長安は「赤眉の乱」の際、宮殿も役所も民家も全て
焼き崩れた儘、200年近くも放置されたゴーストタウンであった。
残って居るのは高祖廟と、少数の官舎だけであった。半年後に

未央びおう
が完成する迄、そこを仮りの住まいとするしか無かった。

洛陽に住んで居た推定
100万の人民は、一人残らず強制移住さ
せられた。その直前には・・・『
多くの富豪を捕え、罪を被せて其の
財産を没収した為、無実の罪で死んだ者は数知れ無かった。

そしていよいよ、当時、世界最大だった巨大都市・洛陽の全住民を
そっくりそのまま西のゴーストタウン復旧の為に移し替えてしまおう
としたのである。100万の人間の群れ・・・・とは一体どんな光景で
あろうか。(この頃の日本=倭の総人口は、推定で約200万)
又それが家畜の如くに追い立てられ、狭い山峡の道をうごめき進む様
は、どの様なものであったろうか・・・
500キロの道のりを兵士に
鞭打たれ、互いに踏み付け合い、飢えと掠奪に苦しみながら、途中
で死んだ民衆のしかばねは、山となって峡谷を埋めた
ーー・・・・と言う。
こうして、洛陽の
に集結した【連合軍】のやる気をスカ
その出鼻を挫いた董卓ではあったが・・・・・この時点ではもう一つ、
気懸かりな相手が、「東《ではなく、
西に居た。ーーそれは・・・・
長安の更に西の
扶風ふふうに駐屯 し韓遂かんすい馬騰ばとうと対峙した儘になって
いる、
皇甫嵩こうほすうであった。皇甫嵩は、董卓がサッと洛陽の政変
に乗り込んだのに対して、 面前に居る韓遂・馬騰の為に身動きが
出来ず、そのまま”釘付け状態”に成っていたのであった。 現在も
3~4万の兵力を擁して居り、董卓とその主力軍が、連合軍に備え
て洛陽に居残る今、何とも厄介な存在であった。・・・1つには献帝
一行が着いた長安で事を起こされる (献帝を奪回される) 心配が
在った。もう1つには、この後、董卓の味方に成る筈の韓遂・馬騰ら
の涼州軍勢力が、皇甫嵩の存在によって進路を遮られ、此処まで
やって来られないと云うマイナスであった。
ーーそこで・・・・董卓は、皇甫嵩を抹殺する魂胆を抱き『城門校尉
に任命するから洛陽まで(単身)出頭せよ!
』と人を遣った。折しも
皇甫嵩は、政変後の己の身の振り方については困惑し思案してい
る処であった。悩んだ挙げ句、結局は朝廷の命令をかしこみ、董卓の
召還に応じる事とした。だが長史ちょうし(副官)の
梁衍りょうえんが諫めた。
所詮しょせん董卓は国家に忠節を尽くす様な男ではありませぬ。首都を
寇掠こうりゃくし、天子の廃立すらほしいままにする無法ぶりですぞ。いま将軍を
徴そうとしていますが、ゆけば殺されるか、軽くても縄目の恥辱は
免れません。
董卓が洛陽に残り、天子が長安に移られた今こそ
2度とないチャンスです。将軍の精鋭3万を以って天子をお迎えし
逆賊討伐の勅命を奉じて、全国に命令を発し、東西から挟み撃ち
にすれば、董卓を生け捕るのは、容易たやすい事です

ーーだが、皇甫嵩には、其処までの勇気は無かった。
「韓遂・馬騰が儂の背後を襲わぬとは言いきれぬ。彼等が敵か
味方かもはっきりしない。儂は手持ちの兵力に頼るしかないが、
儂の兵力は董卓には及ばない・・・。《 ーー終いの処ーー

皇甫嵩
の 人物は此れ迄だった・・・・と、謂う事である。
此処で一番
と云う覇気も無ければ、時局は彼 を殺そうとして
いると、認める勇気も無い。ーー果たして・・・ノコノコと長安まで
ゆくと、直ちに有司ゆうし(司直)に捕縛された。前もって董卓が指示し
てあったのだ。「馬鹿な奴め
《 ーー後は形式的に上奏して、
首を刎ねるだけとなった。・・・・処が、「洛陽《で酒盛りをしている
董卓の所へ突然、「長安《に居る筈の皇甫嵩の息子・【堅寿けんじゅ】が
駆けつけて来たのである。彼は何故か董卓とは馬が相い、良好
な人間関係にあった。その堅寿が董卓の面前にガバと平伏すと、
父親の無実を訴え、声涙下る助命を嘆願したのである。その姿
を見た周囲の者達は感動し、一緒になって助命を請うた。すると
董卓は、堅寿の手を取り、自分の隣りに坐らせて酒を注いでやっ
た。ーーかくて皇甫嵩は赦され、そのまま長安に留まって、議郎
(参議官)に任命され、更には御史中丞ぎょしちゅうじょうに昇進した。もはや軍兵
を持たず、単なる文官と成った相手を殺すよりも、生かして置いて
世論の評判を得た方が為に成ると見切ったのだ。
これで
西は完璧・万全と成ったと謂う事だ。後はただ
連合軍に集中するのみ。 そして、空っぽになった後漢王朝の都・
洛陽ーーの運命は・・・・・人類史上例の無かった、大破壊の
瞬間を迎え様としていた。
「ふふフフフ・・・・漢王朝は《
火徳》によって天下を治める。ならば
 ーーその「
《に因って、この董卓がケリを着けて呉れるわ。
 文字通り、洛陽を
火の都に仕上げてやろうぞ
董卓の命令一下、『
配下ノ兵ハ、洛陽ノ城外百里ニ渡ルマデ焼キ
払ッタ。又、董卓ミズカラ兵ヲ引キ連レ、南北ノ宮殿・宗廟・政府ノ蔵
民家ニ火ヲ放ッタノデ、洛陽城中ハことごと灰燼かいじんニ帰シテシマッタ・・・・


200年間に渡って、後漢王朝が在り続けた花の都・洛陽はーー
天をもがす劫火ごうかと共に3日3晩燃え続け10日経っても尚、くすぶ
煙が有ったと謂う・・・・そしてその跡にはーー草木1本も無い完璧
な焼け野原だけが残った。
灰燼に帰すーーとは、まさに此の
洛陽炎上の為にこそ有った表現と謂えた・・・・・
そのうえ董卓は
呂布りょふに命じて、郊外に在った歴代皇帝の陵墓
(前漢王室の園陵とは別の、後漢王室のもの)を徹底的に暴かせた。
その中に眠っている金銀珍宝を完全に盗掘とうくつさせる為であった。
皇帝達のひつぎは、棺室かんしつから引きずりだされては引っくり返され、その
遺骸は野晒のざらしと成り涯てる。放ったらかされた其の跡にはただ巨大
な大穴がバックリと地面に口を空け、その無惨さはたとえ様も無い・・・
だが【
呂布 】には、心が痛む事も無く、まして気味悪がる事も無い。
適任と言えた。ついでに、諸大臣の
冢墓ちょうぼも荒しまくった。無論、掘り
放っなしであった。後漢王朝の忠臣達も、今は只バラバラの骸骨と
成って散乱させられるのであった・・・・。
※この陵墓についての記述が『正史・武帝紀』に見える。曹操が218年に発した布令に曰く
『古代の埋葬は必ず、地味の痩せた土地に行なった。西門豹(戦国時代の臣)は西の高原上に
祭って寿陵(生前に作る陵墓)を作った時、高知を利用して基礎とし、土盛りもせず木も椊え
無かった。『周礼』に於いては、冢人が君主の墓地を管理し、王陵の両側の前方に諸侯の
墓を、後ろの方に卿・大夫の墓を置いた。漢の制度も同じで、それを陪陵と呼んだ。公卿
大臣将軍の内、功績ある者の墓を寿陵に随従せしめるべきである。従って其れ等を充分
包含し得るように、墓域を広大にせよ!』 ※又『正史・文帝紀』には、自分の墓が荒される
事を恐れる曹丕が、222年に葬礼の制を発し、その原因となるとして厚葬と土盛りと椊樹を
禁止し、寿陵は山を利用して作るべし!としている。

ーーまさに『
董卓仲穎』は後漢王朝の【墓堀り人】と成ったのである
この男は唯独りで、然も僅か半年の間にーー・・・・後漢王朝を殺し、
(少帝毒殺)その遺体を焼き(洛陽焼却)、そして墓まで掘り返した・・・

この時、董卓の魔手から脱出した者達も居た。その中には、後に
ビックな存在に成る者も何人か居た。未だ世に出て居無い17歳の
司馬懿仲達しばいちゅうたつ一家もその一人であった。仲達の父「司馬ぼう」は
この時42歳。治書御史ちしょぎょしの任に在り、むなく朝廷と共に長安へ移
らねばなら無かった。だが、20歳の長男「
司馬ろう」に命じて、家族を
連れて郷里に脱出させた。だが
は密告に会い、危うく捕らえかけ
られる。然し手持の全財貨を賄賂わいろとして渡し辛くも難を逃れる。郷里
温県おんけん河内かだい郡)は黄河を挟んでいるとは言え、洛陽の直ぐ北に位
置していた。
は危険であると察知し、黎陽れいようの親戚(趙威孫)に身を
寄せる。その時長老達は、「後でまた帰ってくれば良いではないか《
と言う
の言葉に従わず、郷里を愛着し捨て無かった。 その結果、
其の地は連合軍の集結地となり、 『諸将は協力し合う事が出来ず、
軍兵を放って掠奪を欲しい儘にし、人民は半数近くが殺された
』・・・・
のであった。

もう一人は、やがて呉国が建国され発展するに当たっては、この
人物無くしては考えられぬ大重鎮と成る、
張昭子布ちょうしょうしふが居た。
彼はこの時、議郎(参議官)として長安へ同行したが、やはり河内郡
から
揚州へと避難して行った。この行動が、やがて呉国創立の若き
英主・【
孫策】(18歳)との運命的出会いをもたらす・・・・・

その一方で、董卓の要請に応えて、一旗揚げようと長安へ駆けつけ
る者達も居た。その中でも特に重大だったのは「西方の暴れん坊」で
りょう州の実力者であった、韓遂かんすい馬騰ばとうの参入であった。この
西方コンビは、関東諸勢力に対抗する新たな軍事力として、涼州内
のほぼ全兵力を従えて長安へ入城する。是れは董卓にとって、何と
も心強い、防御力の増強と成った。

又、間接的ながら長安政権を認めて、己の地位向上を狙う者も居た。
じょの地に在った『陶謙とうけん』は、間道づたいにみつぎ物を献上し、安東将
軍・《
徐州牧》・栗陽侯りつようこうを手に入れる。

ーー去る者、来る者、利用する者、される者。そして飢える人々、
         殺される者達、強制労働に就かされる多くの民・・・・・

             
然して、此の【
長安遷都洛陽焼滅】は、連合諸将にとっ
ては、測り知れぬダメージと受け取られた。 何故なら・・・・全軍が
洛陽』を標的とし、洛陽だから★★★こそ成算ありとして出陣して来た
のだ。その目標が一挙に500キロも西の奥地まほろばへ変わってしまった
のである・・・・
ーーハッキリ言って、是れには参った。その立地
・地勢からして、洛陽だったら東・北・南の3方向から、一斉に同時
多発の攻撃も可能であった。処が、『
長安』となれば、細長い渭水いすい
峡谷
を延々と登り続けた挙げ句、その攻め口は唯一、東の1方向
に制限されてしまう。逆に董卓軍からすれば、狭い西の1方向だけ
に、幾つかの〔〕・〔〕をガッチリ築いてしまい、其処に大兵力を
配して置きさえすれば、絶対に長安へまで迫られる事は無いのだ。
単純計算の総兵力では、数段劣る董卓軍だが、 戦場が狭い地域
の1方向だけの戦闘となれば、 城砦に立て籠もる守備側の方が、
俄然有利となる。ーーそれにも増して、決定的な致命傷は・・・・
補給線が異常に長く伸びてしまった事であっ た

3年前の涼州叛乱の際、朝廷軍が6個中5個師団までを全滅させ
られたのも、その弱点を突かれた所為であったと謂う、苦い戦記が
記憶にも新しい。・・・更にマズイ事には、董卓が西へ行けば行く程
其処は彼の本拠地に近づき、兵力の補充も、食糧の補給も、益々
万全なモノと成り、絶対優位に立ってしまう。然も、最強兵器である
騎馬軍団』は、全て董卓側に独占されていた。すなわちーー
今、天下ノ精兵ト恐 リセレルノハーーへい州・りょう州ノ兵、ソシテ匈奴きょうど屠各胡とかくこ湟中義従胡こうちゅうぎじゅうこ、八種西羌せいきょうノ 傭兵ようへいナリ。是レ等ハミナ★★董卓ノ
麾下きかニ在リ。
』・・・・まさに董卓の戦略勝ちであった。攻め込まれた
後に、否応なく採った戦術では無く、自分の方から、未だ主導権が
在るうちに仕掛けるとは、董卓も流石に一流の軍略家であった。
 こんな無茶苦茶な大破壊を、平然と考え出せる者は、大魔王たる
董卓本人以外には無い。
但し、こうしたからには、董卓の支配地域は、僅か山間の
よう州のみ(後方のりょうを含めても西辺の2州のみ)と云う、全くの
コップの中の限定政権と、成り涯てた
のも事実であった。ーー・・・だが、ここが後漢(古代)王朝の特異な
処で、だからと謂って、誰も 『
献帝』の存在を無視し切る事は、し
得無い。みんな尊重する。 又は尊重する振りをするしか無かった。
実態は何うであれ、天子・皇帝が居る所ーーそれが国の中心・・・・
中国なのである!!と、何千年もに渡って叩き込まれ、
込まれて来て居るのだから、一朝一夕いっちょういっせきには、人の心は変われない。
現代人の我々がイメージする如き、中国大陸全土を網羅する様な、
広い意味での国家と云う概念・発想自体が未だ無い
当時の世界であった。だから董卓も、此の状態を、決して悲観
している訳では無い。 イヤそれ処か、至って意気軒昂、寧ろ益々、
己に自信を深めてゆくのである。
ーー恐らく董卓の遠大な思惑の中にはーー
《何年か粘って政権を維持してゆけば、そのうち必ず、正式な官爵
欲しさに、朝廷に擦り寄って来る者達が現われる筈だ。其の奴等に
官位を与えれば、周囲の奴等と縄張り争いを引き起こし、互いが傷
付け合って自滅もしよう。焦らずジンワリと、勢力を拡大して呉れるわ
》・・・・と云う見通しが在った事であろう。
                                         りゅうひょう           けい
事実この後、董卓から任命された『
劉表』などは、荊州に乗り込ん
で、一州を完全掌握してしまう。 その時、唯一最大の武器に成った
のは、朝廷公認の正式な荊州「刺史しし」と云う”
肩書き”であった。
皮肉な事に、董卓本人を除いては、〔朝廷の権威〕は、未だ未だ、
地方では巨大な魔力を失ってはい無かったのである・・・・・
とは言え、その為にも是非、此処で一発、董卓軍の強さを天下に
見せ付けて措かねばならない。いずれ長安に退き籠もるとしても、
その前に己の恐ろしさ・強大さを徹底的に椊え付けて措く必要があ
った。ーーだから・・・・長安を瓦礫にしてしまった董卓だが、その後
も己の本営を洛陽西郊の『
畢圭苑ひっけいえん』(10年前に霊帝が造営)に構え
100キロ東の【
氾水関しすいかん】・【虎牢関ころうかん】に強力な防御陣を置いて、迎撃
体制を敷いて居た。
徐栄じょえい、お前が総大将と成って、相手がウジウジとたるみ切って
いる今こそ、其の本陣たる《
酸棗さんそう》を急襲して、奴等をガタガタにして
来い
ついでに大将首の3つ4つも、手土産に持ち帰って参れ
「ハハッ
万事お任せ有れ。我等が〔胡騎こき〕の恐ろしさ、たっぷりと
 関東の★★★奴等に味わわせて呉れまする

処で、この所、しきりに出て来る
関東かんとうなる言葉であるが
是れは、
より(の地域)を、謂う言葉である。・・・ではその
とは何処か・・・と言えば、黄河の大曲北だいきょくほく(直角に北へ曲がる)
地点に在る、
潼関とうかんを指す。もしくは其処よりやや(60キロ)東寄
りの
函谷関かんこくかんを指すのである。この地点より東を「関東《と呼ぶ。

現代では「函谷関」の方は、巨大な《
三門峡サンメンシャダム》が在る所と言った
方が分かり易いかも知れ無い。(但し、長江上流に出現した世界最大の「三峡サンシャ
ダム
」と混同されがち。こちらは、劉備玄徳の没故地・白帝城の近く。)
尚、
山東も「関東」と同じ意味である。こちらの場合は「潼関とうかん」の
直ぐ裏手に在る
華山かざんを基準としてモノを謂う。(標高2696m。)
要するに、
関東かんとう又は山東さんとうとは、一大峡谷である西方地域から東の、
急に開ける中国大平原(現代の華北・華中平野)を指すのである。
※尚、長江ぞいの華南平野(呉の国)は後進地域の為、その範疇にはアラズ。
ちなみに、「関中」「関西」「関右」の語法基準★★も矢張り、【
潼関とうかん函谷関かんこくかん
がスタートになっている。
面白いのは
左の決め方で、『天子ハ南面なんめんスル。』
(玉座は南向きに据えられる)為に、天子が坐った時の、「
右が西
となり、「
左が東」となるのである。
従って、偶然にも、「北を上とする現代の地図」と、ピッタリ一致して、
我々が混乱する事無く済んでいるのである。・・・・則ち、古代より
一貫して、北半球・中緯度地方の人類は、太陽の降り注ぐ「南向き」
を重要視して来た訳なのだ。

さて、その
関東★★諸軍と、董卓軍との間に、遂に初めての
軍事衝突となる、
抃水べんすいが勃発する
                   (※ 抃の正字はシ=さんずい)
ーーその遭遇戦★★★の経緯は、先ず・・・・酸棗さんそうに在って、一世一代の
大勝負を仕掛け様と決意した、曹操から始まる・・・・。
徐栄じょえい』が「董卓」から進撃命令を受けた頃、酸棗に在る【曹操】 は
連日酒盛りに明け暮れる諸将を前に断固たる決意を示していた。
・・・・・その大演説・・・・・
我々は正義の軍 を起こして、暴乱を懲らしめる為にこそ、集まっ
たのである。然るに今、大軍勢が既に勢揃いして居るのに、諸君
は何を躊躇らっているのか
今まで董卓は王室の権威を頼りに
道義に外れたやり方で事を行って来たが、洛陽を根拠としていた
為、尚なかなかに厄介であった。だが今、宮室を焼き払い、無理
矢理に天子をお移しした為、 四海の内は揺れ動き始め、時局は
どう落着するかさえ判ら無くなった。 この今の瞬間こそ、天が奴を
亡ぼせと、我々に告げる絶好の機会である。 乾坤一擲けんこんいってき、一度の
戦いで天下は定まろう。今、それを逃してはならないのだ。だから
私は、その天の声に従って、今征くのである
!!
ーーかくて・・・・
曹操は、西へ向かって進撃を開始した。
行動を共にするのは、地元(
己吾きご)で挙兵準備を共にして呉れた
衛茲じえい《と、此処酸棗さんそうで意気投合して合流して呉れた「鮑信ほうしん《「鮑韜ほうとう
兄弟の両者のみ。幾十万と駐留して居る他の軍営は、特に見送る
でもなく、一歩も動かなかった。それ処か、腹の裡では、せせら笑っ
て居る風ですらあった。
《たかが2万や3万そこらの軍勢で、偉そうな口を叩きおって。まあ、
早々に尻尾を巻いて逃げ帰って来よう。それを追って董卓が此の
軍営まで来たならば、相手になってやろうではないか。》
皆、曹操の此の行動を「様子見のパフォーマンス《、せいぜい威力
偵察の斥候部隊程度にしか見て居無い・・・・
ーーーだが、曹操は本気だった。
『我が軍は、董卓の南側の防御陣・
成皋関せいこうかんを破る
その兵力はおよそ
3万。決して少なくは無い・・・・が、何としても、
この一度のチャンスを成功させ、 眼に見える形の戦功を立て、
勇吊を馳せねば、この命懸けの行動も無に等しくなるーー・・・・
そこで曹操は、敵最強の防御陣である『
氾水関しすいかん虎牢関ころうかん』を
避け★★、南から廻り込んで、
成皋関せいこうかんを狙ったのであ る
果たして、洛陽から南東80キロの「
螢陽けいよう《の抃水べんすいまで来た
時・・・・たまたま進撃して来た
徐栄じょえいと遭遇してしまったのである
ーー昼前から夜になるまでの、約10時間・・・・一歩も退かぬ、
大激戦・凄絶な戦闘となった。徐栄軍の兵数は明記されて居無い
が、連合軍の本拠「
酸棗」を襲う途上にあったとすれば、10万は
下るまい。数万だとしても倊の敵である。然も騎馬軍団中心であっ
たろうから、精強無比と言ってよい。
その大敵を相手に、決して退却命令を発する事無く、一日中踏ん
張り、釘付けにした。その代わり大出血戦・血みどろの死闘と成った。・・・・味方が次々と倒れてゆく中で、鮑信ほうしんの弟・『
鮑韜ほうとう』が討ち
死にした。そして続いて、真の友であった『
衛茲えいじ』も死んでいった。
ついには曹操自身が傷を負い、乗馬を失う段階にまで到達する。
・・・・・こう迄して踏み止まり、掛け替えのない親友を失ってまでも
戦い続けた理由ーーそれは、曹操の未熟さも大きかったが、それ
以上に、スタンドプレイと見られ無い為の、『
本物と云う評価を手
に入れる為であった。
螢陽けいようノ 抃水べんすいマデ来ルト、董卓ノ将軍徐栄じょえいト遭遇シタ。交戦シタガ
負ケいくサトナリ、士卒ニ多数ノ死傷者ヲ出シタ。太祖ハ流レ矢ニ当
タリ、乗馬ハ傷ヲ受ケタ。 
従弟いとこ曹洪そうこうガ、自分ノ馬ヲ太祖ニ与エタ
ノデ、夜ニまぎレテ逃レ去ル事ガ出来タ。

そんな曹操を高く評価したのは皮肉な事に、味方の連合軍では無
く、敵将の「
徐栄」であった。
徐栄は、太祖の率いる軍が数少ないのに一日中、力の限り戦っ
たのを見て、
酸棗さんそうは未だ容易に攻め切れぬと判断し、兵を引き
連れ帰還した。
』のである。・・・・一方、命からがらかえり着いた此の
曹操の行動を評価する者は、〈
酸棗〉の諸将に於いては皆無であっ
た。そして丸で何事も無かったかの如くに、 相も変わらず、連日の
酒盛り会議を続けた。 業を煮やした曹操は其の会議の席で、終に
怒りを爆発させた。 いや、此の機会を捉え、怒りのパフォーマンス
を示して見せたのである。・・・あまた居る天下群雄の中で、いま実
際に、董卓に戦いを挑んだのは唯一、この己しか居無かった。
そんな曹操だけにしか許されぬ、大演説をして見せる事・・・・曹操
は、その〔特権〕を行使したのである。いずれ此の事実は、演説と
共に『青史』に残る。と、同時に、瞬時にして人口じんこう膾炙かいしゃする・・・・・
ーー・・・諸君、吾が(董卓討滅の)計を聴け。
渤海ぼっかい
(袁紹)をして河内かだいの衆を引き孟津もうしんに臨ましめ、酸棗の諸将は
成皐せいこうを固め、敖倉ごうそうに拠り、環轅かんえん太谷たいこく
(の街道)
ふさぎ、全く其の険
を制せしめよ。袁将軍
(袁術)をして南陽の軍を率いたんせきに軍し、
武関ぶかんに入り以って三輔さんぽ
(長安周辺)ふるい、みな塁を高くし壁を深く
し、共に戦う無くして
(交戦せず)疑兵を益し(繰り出し)天下の形勢
を示し
(た上で)、順を以って逆を誅せしめば、たちどころに定まる
べし。いま兵は義を以って動くも、疑いを持して進まず、天下の望を
失う。密かに諸君の為に之を恥ず

        さん そう                                べん すい 
この
酸棗の演 説と、その直前の抃水敗 北は、
若き曹操の、
勲章と成って未来に輝く・・・・・
ーーだが、もはや連合軍には、遙か彼方の 「長安」に遷都してしま
った『献帝』を奪還するなど、全くの上可能・非現実的な事とする、
投げ遣りな空気が充満して居た。各自ともに、積極攻勢の意志は
無く、寧ろ夫れ夫れの関心は、互いに互いの腹の探り合い・・・・・
つまり、董卓が手を出せない(無政府状態に在る)広大な
関東
(華北・華中平野)を、一体誰が、どの様に取り仕切ってゆくべきか
に集中していった。《誰と手を組み、誰を淘汰するべきか・・・・

今や、
反董卓連合軍は、何らの行動も起こさぬまま、崩壊の
きざしさえただよい始めさせ様としているのだった・・・・・
そんな中ーー手持ちの兵をことごとく失った曹操は、空虚むなしい演説を
ブチ上げた直後、戦線を離脱した。だが、失望して去ったのでは無
い。再び戻る為に、もう一度精兵を蓄えようと、精兵(
丹陽兵たんようへい)の供
給地として鳴る、遙か南の〈
よう〉へ、長江を越えて、唯、「夏侯惇
を伴って向かったのである・・・・
こうなるともう、連合軍諸将の中で、敢えて進攻しようとする者は、
唯の一人も居無くなった・・・・やに思われたー**が・・・・・
そんな中、唯独り、猛虎がえる
関東の群雄に遅れること3ヶ月(
)・・・・最も遠い南方の地に
在った
江東の虎が、途中でザコどもを喰い千切りながら、
ヒタヒタと北上を続け、ついに其の姿を、《
大魔王》の前に現そう
としていたのである
ーーその北上のコースは、奇しくも・・・・
まさに18年後、「呉」を討って天下統一を目論む曹操が『赤壁戦』
へと南下するコースの、全く逆を辿る事になるのである。
赤壁せきへきの在る長沙ちょうさ郡→江陵こうりょう襄陽じょうようはん城→新野しんやえん魯陽ろようりょう
東→陽人ようじん大谷たいこく→洛陽
)ーーそして・・・・やがて董卓の天敵である
彼が、洛陽の南に、其の姿を現わす時には、その兵力は・・・何と

10余万
を呼号する迄に成ってゆくのである・・・・
処が実はーー・・・この孫堅文台の登場と、
その栄光の頂点である
陽人の戦いが、何時であったのか
は、はっきり「日時《を特定出来ないのである。・・・何故なら、同じ
『正史』の中で、異なった記述が平気で並記されているからである。
  (三国志に限らず、紀伝体の史書にはママ有る事ではあるが)

孫堅の本伝』ではーー〈陽人の戦い〉のあと で〈洛陽焼き討ち〉が
                       為されたと記されている一方、
曹操の本伝
』でもーー〈抃水の敗戦〉を〈洛陽炎上〉のあとである
と、記して在り、両者の間に整合性は無く、辻褄が合わなく成って
仕舞っている。
(他の史料等を突き合わせて、総合的に考えると〔陽人の戦い〕は
           どう見ても洛陽炎上以後の事であるのだが・・・・)
更に又、
董卓本人は、主力軍を洛陽地区に置いた儘、何時の時点
で長安へ移動したのか
・・・も、定かでは無い。
(焼き払った後の2ヶ月以内・6月迄である事は確かなのだが)
ーーここら辺の、細かい日時は上明である。が、確認の為に一応、
年表風に整理して措こう。
・・・・・《
190年》・・・・・
 
1 月ーー連合軍成立、袁紹が 盟主となる。劉弁毒殺。
                              おういん
 
2 月ーー長安遷都強 行。王 允(2年後の董卓誅殺 の
                     首謀者)が司徒に任命される
    
  
4月ーー洛陽焼 滅その後に、曹操 『抃水の敗戦
 
5 月ーー董卓本人は長安へ移 る。
 
6 月ーー董卓は悪貨を 粗製濫造そせいらんぞうし超インフレを招く。
  
※ この年後半)ーー
孫 堅は、荊州刺史ししと南陽 郡太守を
                   血祭りに挙げつつ、北上して来る。
 
ーー孫堅、『梁東りょうとうの戦い』・『陽人ようじんの戦い
翌年 早々》ーー孫堅、焼け跡の洛陽に入る。

  ・・・・・と云う順番に成る訳なのであるがーー
                        そんけんぶんだい
我々は此処で更に、
孫堅文台を此の世にデビューさせて呉れた、
彼の恩人についても観て措く事にしよう。その人物の忠臣なるが
故の、懊悩に涯てる生き様は、この動乱の実態をつぶさに示すもの
と謂えるからである・・・・
その男の吊は
朱儁しゅしゅん・・・・字は公偉こういと言い、よう
会稽かいけい上虞じょうぐの人である。若くして学問を好み、郡役所の功曹こうそう
(人事部長)と成るが、やがて「
孝廉こうれん」に推挙される。黄巾の乱が
起きる(184年)と、朝廷は車騎将軍の皇甫嵩こうほすう
中郎将の朱儁
コンビを派遣して(魯椊は別方面軍)その討伐に向かわせた。
この時、朱儁は上表して、29歳の
孫堅を自分直属の
佐軍司馬さぐんしば
の任に就けた。是れが孫堅文台の中央官界へのデビューであり
朱儁しゅしゅんは彼の恩人となった。ーーなぜ朱儁が孫堅に眼を着け、彼
を引き立てのかと言えば・・・・2人は要するに【
同郷人】であった
からである。
揚州は途轍もなく広大な州であるが、朱儁の会稽かいけい
と孫堅の
呉郡ごぐんとは隣組で、古来より共に州の中枢を形成しており
親密感は極めて深い。無論、単に実家が近かっただけでは無い。
(詳しくは第4章で述べるが) 孫堅は17歳の若き日に、僅か千人
の兵力で数万の妖賊ようぞく(宗教的叛乱軍)を鎮圧するなど、その武勇
は彼の地ではつとに知れ渡っていたのである。
以後、朱儁の見込み通り、孫堅は常に斬り込み隊長として一番
乗りの武勲を果たし、出世の足掛かりを掴む。
朱儁も 車騎将軍・
河南尹かなんいん(首都市長)へと昇進する。ーーやがて董卓が朝廷を支配
下に置くが、朱儁は内心、董卓への心構えを怠らなかった。董卓
が『相国しょうこく』と成り、長安遷都を主張すると、朱儁はその度ごとに反
対して、董卓の意見を封じてしまった。だが董卓はグッと怒りを抑
え、何とかして朱儁の吊声を利用しようと考え、懐柔策に出た。
九卿の一つである
太僕たいぼくの官に就け、自分の副官にしようとした
のである。だが朱儁は是れを受けず、逆に遷都の上当性を主張
して見せるのだった。結局、長安遷都は強行されたが、董卓は朱
儁の武勇に眼を着け、「
勅命」を以って洛陽に留め、其の防衛の
任に就かせた。ーー朱儁はここで、大いに懊悩する。実体は董卓
の命令であるが、形式上は飽くまで「勅命」である。是れを拒む事
は、「皇帝への反逆」と成ってしまう・・・・・
董卓は憎むべき大悪党であり、協力するなど以っての外である

然し、苦境に置かれて居る、幼い皇帝を見捨てて、その勅命を無
視する事も亦、忠臣たる彼のアイデンティティに反する・・・・・
この自家撞着じかどうちゃく・自己矛盾は、独り朱儁だけのものでは無く、董卓
政権下に仕える士大夫したいふ達の大多数に共通する、 深刻な苦悩であ
った。ーーそして翌年・・・朱儁は思い切って、この自己矛盾に決別
すべく洛陽を捨て、南のけい州へと出奔しゅっぽんする。 その半年後、董卓は
司徒「
王允おういん」と「呂布りょふ」に暗殺されるが、僅か2ヶ月後には董卓の残
党である「
李寉りかく郭巳かくしが政権を奪還する。(詳細は後述)

この時、朱儁は何を思ってか、再び長安へと赴く。ーー推測するに、
漢王室の忠臣を自認する朱儁は、たとえ形式上の勅命ではあったに
せよ、其れを無視して出奔した事に対する忸怩じくじたる思いを、ず~っ
払拭ふっしょくできずに居たのであろう。此処で忠節を示さねば一生後悔する・・・・・残党政権は大喜びで「朱儁《を迎えると、193年6月、彼を
太尉たいいに任命する。 是れで残党政権の株はグンと上がると同時に、
朱儁も亦、
献帝そば近くにはべって、じかに漢室への忠節を尽くせる事
となった。 ーーだが、
李寉郭巳の間に内ゲバが始まると、両者は
己の勢力拡大を狙って、互いに非常手段に出た。三公九卿の重臣
達を力ずくで(脅迫して)自陣営内に拉致し合ったのである。就中なかんずく
李寉は
献帝を私邸敷地内に連れ込む
と云う、未まだ嘗て誰もした
事の無い暴挙を敢行した。 同じく李寉に捕らわれた朱儁は、その
剛直な性格から、此の屈辱に耐えられず憤死する・・・・・
ーー現時点から僅か5年後の、195年の事である。
そんな忠烈な恩人を持つ孫堅文台が今、世紀の大魔王・
董卓仲頴に襲い掛かろうと、北上していた。



江東の虎が、牙を剥いて咆哮する

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