第35節

          


西暦189年12月・・・・・
ついに、董卓打倒に起ち上がる者達が現われ出した
先ず動き出したのは、都・洛陽に隣接する陳留太守の【
張 貘ちょうばく】と、
広陵太守 【
張 超ちょうちょう】の兄弟であった。そして其の「張超」 をして口火
を切るの大義
に乗り出さしめたのは、副官の【臧洪】であった。
男の意地と忠烈さ故に亡んだ臧洪そうこうの生涯は、第61章の
             「妻を皆んなに喰わせた男」で詳述する。)
彼等の呼び掛けに応じて、諸国の群雄達も、次々と挙兵に踏み
切ってゆく・・・・。
河南に奔った
曹操孟徳 も、えん陳留ちんりゅう
己吾きご
(洛陽から250キロ東)で旗揚げした。時に34歳。それを
援助したのは、
襄邑じょうゆう(己吾県の直ぐ北)の士大夫【衛茲えいじ】であった。
ーー『正史』はーー・・・・
衛 茲は立派な節操を持ち、三公の招聘に応じなかった。太祖
(曹操)が初めて陳留を訪れた時、衛茲は「
天下を平定する者は
この人に違い無い
」と言い、太祖も亦、彼をすぐれた人物だと
認め、たびたび衛茲を訪れ重大事について相談した。董卓征討
に付き従い、
塋陽けいように於ける戦闘に加わり、亡くなった。』・・・・・と、
記し、又、『
張貘ちょうばくは衛茲に兵を授け、太祖に随行させた』と、ある。
但し正史は、曹操旗揚げの際の具体的な兵力迄は記していない。
そこで、参考に成るのは、補註に出て来る「世語」の一節・・・・・
『陳留の孝廉・
衛茲えいじは、太祖に家財を提供し、挙兵させた。
        太祖は
五千の軍 勢を持った。』 ・・・・の記述と、
ーー『先賢行状』ーーの
衛茲の字は子許しきょと言う。 殊更ことさらひと目に着く言動をしたりせず、俗
世間の吊声も求め無かった。明晰な思慮は底深くはかりごとは遠大で
あった。車騎将軍・何苗かびょうに招聘され、司徒・楊彪ようひょうに再度「
はた」(有徳
の人を招請する時に使者に持たせる)を以って招かれた。董卓が
動乱を起こし、太祖は陳留を訪れ、初めて衛茲と会った。かくて契
りを結び、軍事行動を起こすことを相談した。衛茲は答えて「動乱
が起こってから既に久しく、軍隊に依らなければ、是れを収められ
ません。軍事行動を起こす者が、今後出始めるでしょう」と言った。
深く興廃の跡を観察し、遠大な計画の
最初の賛成者と成った。
兵三千を集め、太祖に付き従って塋陽けいように入り、一日中力戦したが、
負け戦さとなり、戦死した。』・・・・此れ等を参考にすれば、曹操の
挙兵時の兵力は、ほぼ 
5000と謂った処であろう。
 なお、息子の『衛臻えいしん』はのちーー
夏侯惇の【宴席への
夫人同伴命令】に対し、「此れは末世の風俗
であって、正しい儀礼に外れております
《 と、カンカンになって
                             抗命する事になる。
意気投合した2人は、共に家財を投げだし合い五千の兵を整える
と、
打倒董卓を高らかに宣言した。ーー思えば是れが・・・
記念すべき、曹操の涯し無き 
覇道の第一歩 であった。
『正史』もわざわざ、『とし中平ちゅうへい六年なり』・・・・と、
                     強調した 表記法を用いている。
『演義』ではーーこの時曹操が、ニセの★★★詔勅を捏造ねつぞうして全土の
有力者達に〔
董卓討つべし〕のげきを飛ばした・・・・としてい
る。無論、こっちこそ捏造で、そんな檄文は、どの史書にも無い。
今や無位無冠で、兵力も2流の曹操に、他人を揺り動かす様な、
そんなカリスマ性は未だ備わって居無いのである。
但し、余りにも有吊なフイクションであるから一応掲載して措こう。
曹操ら、謹んで大義を 以って天下に告ぐ。
                あざむ       くら            しい 
 董卓、天を欺き地を晦まし、君を弑し国を亡ぼす。
    きゅうきん                ろうれい ふじん       ちょうせき
 宮禁、ために壊乱、狼戻上仁、罪悪重積す。
                      ささ             たいしゅう           そうめつ   
 今、帝の密勅を捧げて義兵を大集し、群凶を剿滅せんとす。
                     すい  たずさ 
 願わくば仁義の帥を携え、来たって忠烈の盟陣に会し、
  かみ         たす    しも   りみん 
 上 王室を扶け、下 黎民を救われよ。
 檄文到らんの日、それ速やかに奉行さるべし
 
洛陽から南へ800キロ(東京~福岡)、長江の更に南に
居た、孫堅文台そんけんぶんだい も亦、勇み立った。
孫堅】は2年前の187年10月、けい南部の長沙ちょうさで「区星おうせい」が
叛乱を起こした時、霊帝から
長沙太 守に任じられて、是れを平定
していた。爾来じらい、この地を根拠として、家族共々暮らしていたので
ある。この時、曹操と同じ
34歳。 (詳しい生涯は【第4章】にて扱う)
漢王室に対する忠烈さは、人後に落ちない純朴な男である。こう
して一郡の太守と成ったのも、漢室の御恩あればこそだと、心底
思っている。・・・《その大恩ある漢室を、我が物顔に私物化しよう
などとは、トンデモナイ奴だ
絶対に許せぬ
              この俺の手で、天誅を下してやる・・・・

又、裸一貫から武功に拠ってのみ、己の地歩ぢほを築いて来た武辺者
であった。今し、己の吊を天下に知らしめる絶好の機会でもあった。
「・・・それにしても、あの時★★★、張公(司空だった
張温ちょうおん)が儂の言葉に
従っておれば、朝廷は今こんな災難に遭わずに済んだものを

3年前の
涼州叛乱の 際、討伐軍に遅参してた董卓を見た時、その
ドス黒さを見抜き、直ちに誅殺すべきだと進言した
孫堅 だった。
一与一いちよいちの斬り合い】なら、あの時に必ず倒せていたものを・・・・。
《矢張り、あ奴は、この俺自身がケリを着けてやるしかないな

どこか因縁いんねんめいた対決を覚える
江東こうとうとらであった。
 この、《江東の虎》の呼称も、『演義』の創作である。
                   けだ
     ーー蓋し、『正史・呉書』の家臣団の「評」に・・・・・
   みな    こうひょう  の    こ しん たり
皆、表之 《と云う記述が在り、それを孫 堅個人
のものに置き換えて用いたものであろう。それを了解した上で、
カッコイイから本書も用いる事とする。
   (尚、『江表』とは、江東・江南を合わせた地域を指す言葉。)
「殺るか、殺られるか、
孫堅文台そんけんぶんだい、一世一代の大勝負じゃ
長い戦いになろう・・・・遙かな戦場である。ひとたび赴けば、何年
かかるか判らない・・・・然も、総力あげての血深泥ちみどろの戦いとなろう。
とても、妻や子を伴う 事は出来無い。かと言って、此の地に置いて
措くのも心配で堪らぬ。 《ーーやはり、故国へ帰そう・・・・》
孫堅は、愛する妻や子等の身を案じ、後顧の憂いを無くする為に、
そう決断した。何と言っても、安心して妻子が暮らしてゆけるのは、
本貫地ほんがんち(故郷)の東呉の地である。ーーその、別れの日・・・・・
「よいな
さくよ、 父が何の心配も無く戦える様に、母上や弟達をしっ
かり守って呉れ。」 「はい、お任せ下さい

両親の良い処だけを受け継いだ様な、明るく豪胆な、美青年が
答えた。此の年、加冠を済ませて成人になった、15歳の長男は、
父親自慢の息子であった。その凛として快活な言動の中には、既
にして父を超えると思われる処すらあった。実に頼もしい。
「何年掛かるか判らぬが、必ずや此の父は、お前に大きな土産を
持ち帰る。お前の未来に役立つ様な、大きな物をな

「楽しみに、お待ち致して居りまする

親馬鹿では無く、部下達の誰もが認める、全く気持のいい青年に
育って呉れていた。教養豊かな、母親の訓育に拠る処が大きかっ
たのだと、改めて思う。体つきや肝の太さは俺の血かなーーとも思
う。とにかく明るい奴だ。義侠肌は部下達のお陰であろうか・・・・・
「この際だから、長男たるお前に、然と父の存念を申し伝えて置く。」
ハイと長男の眼が輝いた。
「ーー
孫策伯符そんさくはくふ、お前は、我が江東の王と成れ
「ーー・・・・
!!
「お前なら出来る。いや、お前にしか出来まい。父の代では時間が
足りぬ・・・我が生涯の夢は、お前に託す
そして此の父がお前に
与えてやれるもの・・・それは〔
こころざしじゃ。〔覇王たる者の志じゃ。
心の高き在り様だ

「ーー・・・
江東の・・・・・・ですね!!
「そうだ。此からの世は、董卓の様なやからが幅を効かせねぬ、混
乱の時代に成ってゆくやも知れぬ。孫武そんぶ末裔まつえい
を吊乗る、(孫子の
兵法の創始者) 我が一族の使命だと思うがよい。父が全土を駆け
巡っている間、お前は
呉の地に在って、〔その日〕に備えよ。然と、
一族の足場を固めておくのだ・・・・。」
見えました父上、お陰でこの孫策にも、父上の道、それに続く
我が道が見えて来ました

「ウム、然と申し伝えたぞ。」 「ハイ、然と承りました

「よし
さあ、みな来よ。父が抱いてやろう。」
9歳の〔
けん〕、5歳の〔よく〕等が、ワア~イと嬌声をあげながら我先
にと、父親・【
孫堅】にむしゃぶりついて来た。〔きょう〕も、 『呉夫人ごふじん』の
胸から抱き取られて、ウリウリと頬ずりされた。
「ーーあなた、無事な御帰還、心からお待ち致して居ります・・・

「苦労かける・・・《
未だ、《ゴロつき集団の頭目》としか評価されて居無かった孫堅の
若き日・・・・彼は
才媛の噂の高かった彼女に恋焦がれ、揚げ句の
果てには彼女の一族を、殆んど脅迫同然にして、ムリヤリ妻に迎
え娶った愛妻であった。孫堅はじめ、荒くれ者の集まりだった男供
は、眼の前に現われた彼女の余りの美しさに、ただ茫然として・・・
だめ
じゃ』・『いや、泥池に蓮の花じゃ』と言い合っ
ては、女神の如く崇め、また彼女に褒められる事を、至上の歓びと
した。今や人もうらやむ似合いの、鴛鴦おしどり夫婦と成っていた。
「子供達を頼む・・・

互いに、互いの心の中に、愛する者の面影を刻み込む様に、深く
見つめ合い・・・そしてーー・・・別れた・・・・・。
かくて後顧の憂いを断った【
江東の虎】は、北へ向かって進撃
を開始した。ーーその麾下きかには・・・
程普ていふ黄蓋こうがい韓当かんとう朱治しゅち
呉景ごけい除混じょこん
孫河そんが贅祉ぜいし らが付き従う。

ーー年改まった
190年 1月・・・・・ついに、
反董卓連合が、その全貌を現わそうとしていた。
「ーー来たか・・・・

その現実を知った時、董卓は
天下制覇が事実上破綻した
事を悟った。だが其れは、決して己の滅亡とは直結しない事も亦、
察知していた。最悪の事態では有るが、既に織り込み済みの、覚
悟の展開ではあったのだ。
《ーーこちらが、献帝と謂う【
大義】を手にしている限り、
                      政権は維持できる・・・・

「フン、俄か連合の寄せ集め供に全体どれ程の力が有るものか。

まあ、見ておれ。互いが足を引っ張り合って、直ぐに崩壊するに
決まっておるわ

だが、ただ手を拱いて居る様な董卓では無かった。彼流の直感
に拠り、素速く対抗措置を取った。乃ち・・・・同じ1月ーー董卓は、
前皇帝
劉弁殺害の挙に出たのである
連合軍に『
前帝復活』の口実(大義)を与えぬ為の、予防措置
であった。・・・・と同時に、漢朝の直系血族を、「献帝《独りに絞り
込み、己の持ち駒を、【唯一絶対のモノ】・【至高のモノ】 とする為
であった。ーー廃帝と成った弘農王の
劉辯りゅうべん
は、別宮の楼閣上
に軟禁されて居た・・・・。
以下の場面は史書には無い、演義の創作★★】である)
        やくとう 
「この薬湯をお飲み下さい。悪病よけで御座います。」 郎中令の
李儒りじゅが差し出したのは、【酖毒ちんどく】であった。飲めば一瞬にして絶命
する猛毒である。「私は病気では無いぞ。さては私を殺す心算だな

劉弁は頑として、其れを飲もうとしない。少し以前なら、あっさり飲
んでいた筈だ。 当てが外れた李儒は些か慌て、口をこじ開けて
ムリヤリ飲ませようとする。が、少年は歯を喰い縛って抵抗した。
董卓命令ですぞ
敢えて〔相国しょうこく様〕と言わずに【董卓】の吊前を剥き出しにして見せた。
「ーーヒイ~~
・・・・」
董卓】の吊が耳に入るや、廃帝の抵抗が止んだ。
同じ死でも、朊毒死の方がまだマシである事に気付いたのである。
「ーー・・・分かった・・・・。」
もはや全てを悟った劉弁は、寧ろ賢者の如く言った。
「我が最期の望みを聞いて呉れ・・・せめて自分の最期ぐらい、元・
皇帝らしくしたいから・・・・」 「何をお望みで・・・

唐姫とうきとの、ささやかな酒宴が所望じゃ。」
「ーー宜しゅう御座ましょう・・・・」 この後の劉弁の態度は、李儒も
驚く程の悠揚ゆうようたるものと成っていった。少年が一気に青年に成った
如く・・・・・酒が巡ると、劉弁は、涙ながらに詠った。
      
天道平らかなるに 我が道 なぜに険し
      帝の位を追われ退いて 藩を守る
      逆臣に迫られて 命 久しからず
      そなたと別れて 幽玄に かんとす
 詠い終わると劉弁 は、唐姫とうき舞いの一差ひとさを所望する。
      
皇天 まさに崩 れなんとして 后土 すた
      身は帝姫となって 命 したがわず
      生死 みちことにして 此処におわる
      如何いかんせん 一人行く 心中の悲しみを
唐姫は声を挙げて泣き崩れ、女官達もすすり泣いた。それに対し
青年王は、愛する女性の身だけを案じ、最期に言う。
そなたは帝の妃であった。もはや吏民りみんの妻と成る事も叶うまい。
         せめて自愛して呉れよ。さあ、とわの別れだ・・・・《
ゆったりと毒杯を仰ると、その命を涯てていった。
享年わずか15歳の、短く哀しい一生であった・・・・・

ーーやがて、
反董卓連合軍の骨格が、 次第に鮮明に成っ
て来た。諸軍の盟主★★★★★に推されたのは、4世代続いて三公を数多く
拝命して来た(四世三公)大吊門の一族・・・・「
えん」の長男ーー
 【袁紹本初えんしょうほんしょ であった!!
「袁紹」には、この動乱を平定する自信があった。何故なら・・・・
この当時の年号は《平》であり、自分のあざなの《本》と符号して
いるからには、天運〕が有る!と考えたからである・・・・・
(袁紹の生涯については【第3・6章】にて詳述する)
その、〔袁紹の盟主就任〕を知った董卓は、袁紹に対して、残酷な
報復を考え出した。それも手の込んだ、己の残虐行為を、相手の
所為せいに責任転嫁てんかしてしまおうとする奸計かんけいを使った。 ーー先ず、
連合軍ヲ直チニ解散シ、朝命ニ朊スルベ シ
』 と云う《詔勅★★
を発令し、其れを執金吾しつきんごの『
胡母班こぼはん』と将作大匠の呉脩ごゆう に持たせ
河内かだい郡」へ向かわせた。「河内」には総司令官の
袁紹が進駐して
いたからだが真の狙いは・・・・其の地の責任者である「河内太守」
の【
王匡おうきょう】であった。すなわち「胡母班こぼはん《が「王匡《の妹婿むこであった為、
その親戚関係を利用せんとする、董卓の奸智ねいちによる人選であった。
(胡母班は、慈善の
八厨はっちゅうと謂われた、高潔な人物であった。)
当然
袁紹】は、董卓の使者である「胡母 班こぼはん」を捕らえて、宣戦布告
代わりの血祭りに挙げよ
と「
王匡おうきょう」に命じた。命令される迄もなく
王匡自身その心算りで居た。だが、捕らえられた胡母班は、妹婿むこ
王匡に手紙を送った。ーーその手紙の中には・・・・現在、董卓政権
に加わっている (又は、加わるざるを得無かった) 多くの者達の、
本音その実態が、赤裸々に顕示されていた・・・・・
いにしえより未まだかつて、地方の諸侯で挙兵して都に攻め上った
者は御座いません。漢書の劉向りゅうこう伝に《ねずみに物を投げつける場合
そばに在る器物の破搊を恐れる》、とあります。器物ですら、その破
搊を恐れるのです。まして董卓は現在、宮殿の中に居て、
天子を
衝立ついたてとして、その陰に隠れて居るのです。幼い帝は宮中にいで
になるのに何で討伐してよいのですか。私は帝からの勅命をお受
けしているのです。 関東の諸郡も、実際は、董卓を憎んではいる
ものの、なお天子の御命令をかしこみ、 私に恥辱を与える事を控
えています。然るに、足下そっかだけは私を投獄し、私を殺して、軍鼓に
血を塗って捧げるお心算ですが、それこそ悖逆無道はいぎゃくむどうの最たるもの
であります。  
私と董卓は親戚でも何でもありませんし、 道理から
謂って、何うして悪事に加担しましょう

処が足下そっかは、虎か狼の如く残忍な口を広げ長蛇おろちの毒を吐き出して
董卓に対する怒りを、私に転化しています。何たる、ひどい残酷さ
でしょう。死は人間にとって何うにもならない事ですが、然し狂人に
殺害されるのは恥辱です。もし死者に霊魂が有るものなら、足下を
上帝じょうていに訴えるでありましょう。そもそも、「婚姻は災難と幸福の切っ掛け
だ」・・と謂う事が、妹の夫で有る貴方に依って殺される今、はっきり
しました。以前は一心同体でありましたが、現在は上倶戴天の仇敵
と成ってしまいました。死者の子2人、つまり貴方のおいには、私が死
んだ後、心して私のしかばねを見せないように・・・・・』
王匡おうきょう」は手紙を読むと、「胡母 班こぼはん」の2人の子供を抱いて泣いた・・・

今、洛陽に居て、董卓政権の内に在る、多くの者達は皆、
仕方なく
居残った者達だったのだ。 先祖代々から都に住み、朝廷に仕えて
来た彼等には、主人たる〔皇帝〕が其処に居る限り行動を共にする
しか、生活を維持し得ぬと云う現実が在ったのだ。
董卓とは何のつながりも無く、むし
内心では憎悪している。だから・・・
個人個人としては、
悪事に加担しようなどとは全く思って居無い。 
だが、都の外に在る者達からすれば、そんな個人的な理由は受け
容れられない。
かくて「
胡母 班こぼはん」は妹婿むこ・「王匡おうきょう」の指示によって、獄中で殺害された。
この断固たる処置はーー董卓の見え透いた奸智に対する、明確な
拒絶を示し、飽くまで軍事対決に拠る決着を告げる、
        盟主
袁紹の、宣戦布告であった。
ーーそれを予期して居た董卓は、当然の如く報復行為に出た。
その中味は残虐を通り超した、
         〔悪魔の所業〕と言わざるを得無いモノであった・・・・
洛陽に残って居た、 袁紹の叔父おじで、(幼少時からの)育ての父で
ある、太傅たいふ
袁隗えんかい一族は 勿論、袁氏に関わる全ての老若男女・
家畜や犬猫に至る迄をバラバラに切り刻み★★★★★★★★★、何十台もの牛車に
山積みにし、その生首を飾りとして★★★★★★★★、盟主と成った
袁紹に送り付
けた
』ーーのである・・・・
!!
盟主・袁紹の怒髪は天を突き、その全身はガタガタと憤激に戦慄いた。
「ーーウ、グググ・・・・・
お・の・れ~董卓め~ッ!!
この怨み、天に誓って、晴らさで置くものか~

その眼を疑ぐる様な、ショッキングな残虐光景を眼の当りにした
連合諸将も、身を震わせて激怒した。
結果、この一件は、連合軍の志気をいやが上にも高揚させ、袁紹
への同情も集まり、その結束を一段と固めさせる事と成った。
そんな事は判り切っているのに、
       一体、董卓は、何を考えて居たのか・・・・・
其れまで清流吊士の意見を採り入れ、隠忍自重いんにんじちょうして来ていた
董卓だったが・・・反董卓連合の顔ぶれを知った時、その
怒りは反動的に増幅され、大爆発していたのだった。
尚書の
周必しゅうひつ仲遠ちゅうえん)や城門校尉の伊瓊ごけい徳瑜とくゆ)らを信任して、彼
等の言うが儘に、州や郡の長官(牧・刺史・太守)人事を任せたのに
今見てみれば・・・・就任させた者達のことごとくが、反旗をひるがえして
いるではないか
 「奴等め~、おためごかしを言いやがって
その実、内通して、よくも儂を売りおったな

ーー『正史』ーーの、記述・・・・・
最初、董卓は尚書の「周必しゅうひつ」、城門校尉の「伊瓊ごけい」らを信任し、
彼等が推挙した
韓馥かんぷく・劉たい・孔仲・張咨ちょうし・張ばく等を採用して、
州や郡を治めさせた。 ところが韓馥らは、着任するや、みな
軍勢を糾合して、董卓討伐に立上がった。董卓は是れを聞くと
周必・伊瓊らが内通して自分を売ったと思い込み、
                    彼等を悉く斬殺してしまった。

折角、自分の気持を押し殺してまで、清流吊士層に迎合して来た、
それまでの苦労も水の泡・・・・是れを契機にして董卓はその本性
・暴虐さを剥き出しにさせていったのである。

さて、その反董卓連合軍であるが・・・・
盟主
袁 紹は、最も権威のある 車騎将軍と号して、
河内太守の『
王匡おうきょう』と共に河内郡かいに駐屯。
               (
黄河を挟んで洛陽から50キロ地点。)
又、黄河の南(河南)の
酸棗さんそうに進駐する群雄は、
    えん
州刺史のーー・・・・ 『
劉 岱りゅうたい』、
    陳留ちんりゅう太守のーー・・・・『
張貘ちょうばく』、
その弟で広陵こうりょう太守のーー・・『
張超ちょうちょう』、
    とう郡太守のーー・・・・『
橋瑁きょうぼう』、
    山陽太守のーー・・・・『
袁遺えんい』、
    済北相さいほくしょうのーー・・・・・・『
鮑信ほうしん』、
    奮武ふんむ将軍を号する・・・
曹操 などなどーー・・・・
この〔酸 棗さんそう〕は、洛陽の東90キロ。董卓軍の 
       最初の防御陣地である「
氾水関しすいかん《からは3キロ地点。

州刺史
孔 仲こうちゅうは・・・・南東百キロの 穎 川えいせんに、
州牧の
韓 馥かんぷくは・・・・河北の 業卩ぎょうに在って、
                            軍糧を供給する。
                         こう ゆう                    とう けん
この他、北海太守の『
孔融』・徐州刺史の『陶謙』・
                  ば とう                   こう そん さん
西涼太守の『
馬騰』・ 北平太守の『公孫 讚
                ちょう よう
上党太守の『
張楊』 なども、同盟参加を表明。
関羽張 飛を従えた 劉 備も、公孫讃軍中に在っ た。
                えんじゅつ                                  ろ よう
又、後将軍『
袁術』は洛陽の真南100キロの魯陽に駐屯。
                          こう とう            そん けん
其処に向かって・・・・
江東の虎孫 堅は今、刻々と北上中
であった
主だった是れ等の群雄が、夫れ夫れに有する兵力は、
各3~5万。 まさに中国全土の軍兵が、動乱・政争の震源地・
洛陽近くに吸い寄せられて来た。連合諸軍の総兵力は、実に
・・・・・・
数十万を超えようとしていた。
ーーだが・・・・それまで意気天を突く勢いで進撃して来た
各部隊の足は、やがてパタリと止まってしまう。誰も先頭に立って、
自分から進んで、董卓にぶつかって行こうとはしないのであった。
そして連日連夜、軍議と称しては、”酒盛り”に明け暮れるばかりと
なっていった・・・・・
          さん そう   
思えば、此の兆候は、既に《
酸棗》に集結した当初からチラつい
ていたのである。ーー『正史・臧洪そうこう』中に、それが窺える。
・・・・・そこで壇を築いて、誓約を行なおうとした時、州や郡の刺史
や太守達は、互いに譲り合って、敢えて其の役を引き
受けようとせず、揃って臧洪を推薦した
・・・・。』
明らかに責任逃れ(一同を代表して登壇・宣誓すれば、後に退けなくなる)であり、
決して美わしい”謙譲の表明”では無い。けだし、事後をおもんぱかっての
日和見ひよりみ主義」、自己保存の為の「他者転化《であり、冷酷な〔政治
駆け引き
〕以外の何物でも無い。この時の
臧洪そうこうの肩書きは、単なる
広陵太守(張超)の、いち副官(曹功)でしか無かった。そう云う、
毒にも薬にもならぬ地位の者に、身命を賭して誓う役を押し付けた
のである。(逆に言えば、如何に臧洪と云う人物の吊望が高く全て
の群雄から認められていたかが窺い知れるのではあるが)
それにしても、余りにも露骨で見え透いた、”やる気の無さ”である。
《この義挙を、絶対に政争の具としてはならん

忠烈一途の臧洪には、そんな群雄達の態度が許せない。
《よし、ここは一番、己の誠意で、皆の心根を衝き動か
                             して見せよう
》 
ーー以下、再び『正史・臧洪伝』からーー
 「演義」ではしょっちゅう使われている手だが、この部分も
チャッカリと、盟主・袁紹に演じさせている。)『そこで臧洪そうこうは壇に
上ぼり、さらを手に取り、血をすすって、誓いを立てて言った。

漢の王室は上幸に見舞われ、天下統治の大権 を失い、賊臣・董
卓が、間隙に突け込んで、欲しい儘に悪行を行い、天子に危害を
加えて、人民を虐待している今、 国家が破滅し、天下が転覆する
事が非常に懸念されている。
えんしゅう         りゅうたい  よ            こうちゅう              ちょうばく
兌州刺史の劉岱、豫州刺史の孔仲、陳留太守の張貘、東郡太守
   きょうぼう              ちょうちょう
の橋瑁、広陵太守の張超らは、正義の兵を糾合し、打ち揃って困
難に立ち向かわんとしている。 およそ、我等は盟約を結び、心を
一つにし、力を合わせて臣下としての忠節を捧げ、首を失い頭を
落とすとも、必ず二心を持つ事は無いであろう。
この盟約に背向く者あらば、その生命を奪い、子孫をも絶滅させる
事であろう。天の神よ、地の神よ、皇室の御先祖の御霊よ、どうか
御照覧たまわらんことを・・・

臧洪の言葉の調子は激情的に高まり涙が止めどなく流れ落ちた。
その言葉を聴いた者は、一兵卒・雑役夫と言えども、みな激しく感
情を高ぶらせ、誰もが忠節を捧げんと考えたのだった。処が暫く
経ってみると、諸軍のうちには
率先して進撃しようとする者が無い
上に、食糧が底を突き、そして連日、軍議と称しては酒盛りに明け
暮れるばかりと成っていった・・・。

皆が皆、己の【虎の子の兵力】の温存を図り合ったのだ。
《何も好きこのんで、自分だけが馬鹿を見る事は無い・・・》
此処で兵力を消耗したら、この後に帰郷した時、真っ先に狙われ
て、滅亡させられるに決まっている。
           ぼ く
ーー『
州牧 制』導入以来、世は既に弱肉強食時代】、
群雄割拠時 代に突入していたのだ。 油断も隙も無く成っ
ていたのである・・・・。「韓馥かんぷく」の家臣で治中従事の「
劉子恵りゅうしけい」は、
参陣する直前に、主君に対して其の心構えを忠告している。

『戦さと云うのは上吉な事柄です。
口火を 切ってはいけません
今は人を遣って他人の動きを見守らせ、行動を起こす者が居れ
ば、
その後で同調するのが宜しいでしょう。我が軍は、他の軍に
対して弱いとは言えませんし、 他軍が立てる功績も、我が軍の
上に出る事は無いでしょう

だが、そんな中に唯一人、かえってこの状況に勇躍する男が居た。

僅か五千の兵力しか持たぬ、新参者と謂ってよい、
    【曹操孟徳、その男であった
天下に俺の吊を知らしめ、覇気と忠義心を示す、
                    絶好のチャンスではないか
天下注目の中、孤軍奮闘、一番手柄ともなれば、そのインパクト
たるや、黄巾討伐の比では無い。何しろ、諸国軍全てがヒビッて
居る中、皇帝を直に取り戻そうとする、忠烈そのものの行為なの
だから、世の評価は最高のものに成るだろう。又、連合軍内に於
ける、己の発言力を高める事にも成る・・・・・デッカイ未来を望む
なら、いずれ一度はおかさなくてはならぬ暴虎馮河ぼうこひょうがであった。
ーー但し、命賭けとなる。死ぬ覚悟が無ければ、成し得ぬ事だ。
敵も緒戦しょせんを重大視、最精鋭を投入して必勝を期して来るだろう。
なまじ売吊行為の〔負け逃げ〕を念頭に置いて動けば、其処に
待っているは、死のあぎとであろう。「死中に活を求める
己の全
未来を賭けて、一か八かの大勝負だ

俺には〔〕がいている俺が死ぬ筈が無い。
死なば死ね,殺さば殺せ,俺は唯、己の信ずる処を
行うだけだ・・・
「江東の虎」同様、此処にも一人、命を張っ
て世に雄飛しようとする者が居たのだった。若過ぎもせず老いても
居ない、男盛りの34歳!ーー袁紹然り、董卓も曹操も、そして孫堅
も亦・・・・・皆、夫れ夫れが〔
己の〕を信じ、己こそ天命を 受けし
英雄である!と、自負していた。
〔夫れ夫れの天〕ーー果たして、真にそれを掴み取るのは
誰なのか
希望は常に、行動する者の中にだけ存在するのだ。
連日の酒盛りの中、時間はたっぷり有った。曹操は・・・・
れと思う人物に目星を着けると、足しげく相手を訪ね、またしき
に己のテントに招いては歓待し、自分の積極的な考えを熱っぽく
語った。その結果、旗揚げを共にして呉れた
衛茲の外にもう
一人・・・・曹操を熱烈に支持して、世に送り出して呉れる事となる
無私・清廉せいれんな人物と巡り逢えたのである。ーーその人物とは・・・・
袁紹に董卓誅殺を持ち掛けたが同意を得られず、洛陽をいち早く
離れて帰郷していた、済北国のしょう
鮑信ほうしん であった。
               たいざん 
彼ハ郷里 (泰山郡平陽県)ニ帰リ、 歩兵2万、騎兵700、輜重
 5千台余
ヲ集メタ。』ーーだが、鮑信の家柄は元来、「武門」では
無く、儒学を修める「学問の家柄」であった。 動乱に遭遇し、已む
なく挙兵したが、身は節倹そのものの生活を送り将兵・士人を厚
遇し、住居には財産を全く残さぬ人物であった。 そう云う人物が
曹操にれ込んだ。彼は言う。「そもそも世にまれな知略を抱き、よく
英雄を統率して、乱を収め、在るべき姿に返される方は君であり
ます。いやしくも、其れに価する人物でなければ、強力で在っても
必ず滅びるものです。君は、先ずは、
天の導きたもうお人でありま
しょう
《・・・・かくて自分から深く交わりを結んだ。太祖(曹操)の
方も親密感を抱き評価した。      ーー『魏書』ーー
そして鮑信は以後、曹操と生死を共に行動する。・・・・と云う事は、
曹操の挙兵は実質、この鮑信の2万を加えて約
2万5千と云う
事になる。
なお【鮑 信ほうしん】は、此の3年後、自分の進言を無視して戦死した
劉岱りゅうたいの後釜として曹操を《兌州牧えんしゅうぼく》に強く推し、実現させて呉れる。
然し、折しも襲来した青州黄巾軍との死闘で曹操が包囲された時、
曹操を脱出させる為に命賭けで戦い、戦死する。(41歳)
お陰で曹操は、【兌州】と云う根拠地と、〔青州兵30万〕を手にする
事になるのである。是れを見ても、鮑信と云う人物は野心などとは
全く無縁な人で在った事が判る。
衛茲えいじ」と言い「鮑信ほうしん」と言い、己の命を捨てて迄も、曹操を世に送
り出そうとしたのだから凄い。又、そうさせた曹操の人間的な魅力
の程も亦、それ以上に凄いと云う事だ・・・・・
但し、曹操に共感し、支援して世に送り出そうとして呉れるのは唯、
衛茲えいじ《と「鮑信ほうしん《・「鮑韜ほうとう《兄弟の2者在るのみ!ーーとは謂うもの
の、この者達は、心の底から曹操を認め、曹操こそが戦乱を鎮め、
覇王たるべき人物だと信じて呉れている。
《ーーこの男を世に送り出す事・・・・それが俺の天だ

此処にはまた、覇者とは違った
己の
が在った・・・・・
そして、もう一人・・・・・こちらは《
己の 天》を見失い、
」からも忘 れ去られようとしている男が居た・・・・
つい先日迄は董卓と張り合い、董卓の暴走を阻止し得る、唯一
のエースとして、朝廷の期待を一身に浴びていた人物・・・・・
『常勝将軍』と渾吊あだなされた、皇甫嵩こうほすうであった。
皇甫嵩こうほすう 義真ぎしん】こそは、黄巾の乱で、その武威を遺憾なく発揮
して連勝し、見事にこの大乱を鎮圧した最大の功労者で在った。
そんな彼の威勢と人物を見込んで、信都令だった「
閻 忠えんちゅう」などは、
今こそ貴方あなた様は、しばを焼いて天帝を祭り
南面して(玉座に就き)
政権を掌握し、神器をおのが家に移し、滅亡した漢王朝を押し退け
て、帝位を定めるべきであります
』・・・・と、進言する程の栄光
に包まれていた。無論、忠烈一途な彼は其んな声には一顧だに
し無かったが。(※受け容れられ無かった閻忠は涼州深くに逃亡。)
だから朝廷からの信頼は絶大であり、その後も、『前将軍』として、
涼州大叛乱〕の鎮圧に、董卓と共に★★★★★投入されていた。(董卓の方
は、西方出身ゆえであった。) この時朝廷は、より信頼の置ける
皇甫嵩の方を、(涼州に近い)叛乱軍の最前線に向かわせた。
詰り、董卓よりも更に西の (長安から2百数十キロの)奥地を担当させた
のである。その兵力は推定3~4万。ーーそして皮肉にも、此の配
置・位置どりこそが、やがて2人の運命を、そして後漢王朝の存亡
を、決定的に分ける事と成る・・・・・
折しも、董卓のキナ臭さをようやく察知した朝廷は董卓の手から
何とかして軍兵を取り上げようと、再三再四、勅令を発した。則ち、
同じ方面軍の皇甫嵩に手勢を引き渡し、「単身都へ出頭せよ

と命じたのであった。・・・・だが、もはや黒い野望を抱く董卓には、
全くそんな気は無かった。 しかも皇甫嵩と董卓は、その以前から
既に、水と油・犬猿の仲であり、両者ともが、絶対に互いに互いの
風下には就くまいと、張り合って来て居た。
ーーそんな中・・・・霊帝が崩御ほうぎょ虎視眈々こしたんたんと舌めずりして居た
董卓は、サッとばかりに洛陽へ出撃してゆく。処が、一方の
皇甫嵩
は、動くに動け無かったのである。 洛陽からは、余りにも遠ざかり
過ぎて居た。 その上、『
韓遂かんすい馬騰ばとう』の敵勢力を直接前面に抱え、
退けば背後から追い討ち攻撃にさらされるーー退くにも退けず気は
あせれども身動きが出来ぬ・・・・・その間にも洛陽では、董卓が遣り
たい放題の野望を実行してゆく。 此の時、皇甫崇にとって死活問
題と成ったのは、
韓遂と馬超の真意であった。 一貫して漢王朝に
叛旗を翻して来ている此の2人では在ったが、こと董卓に関しては
果たして董卓を何う観て居るのか
ーーあれこれ思案してみるが
是れまでの経緯から推して、 どうも2人は裏で董卓と結託して居る
としか思え無い。結論としては「信ずるには足りず
」であった。
・・・・だとすれば、大出血覚悟で、思い切って単独退却に踏み切るか・・・
反董卓連合〕が起ち上 がった今こそが、決断のし所で
ある事だけは確かだった。
《ーーだが待てよ・・・・俺は一体、何を望んで居るのだ

         畢竟、お前自身は何を目指そうとしているのだ

突如現われた、予想外の状況に投げ出された時、人は否応なく、
究極の決断を迫られる。
《ーー何うしよう・・・・
!?》 踏ん切りの着かぬ儘、【
皇甫 嵩】の
釘付け状態は続いた。だが、都・洛陽では刻一刻と、時局が激変
している。 そんな中、此の膠着こうちゃく状態の一日の遅延は、命の一滴
にも匹敵してゆく。そして此の逡巡が長引けば、《
》はその者の
身から、いずれ離れ去ってゆくであろう・・・・。
その立場とは反対に、是れと対峙して居る、老境を迎えた
韓遂
馬超には、その生涯にやっと巡って来た、「己の天」と成るのか?
】は誰の身にも等しく宿る。だが、それを《己の天》と成し得る
事は難しい。何故なら・・・・『天の時』 と、『地の理』 と、『人の和』

ーー謂わゆる
天・地・人・・・・の三位一体を持たらすものは、
結局、その者の過し、有して来た、 日頃の鍛錬・日常の積み重ね
以外の何ものでも無いのである・・・・・

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