第34節
壮大なる悪
         


8月 の政変」は・・・・最早、「政変★★」 などと云う、生やさしいモノ
では無くなっていた。ーー
〔(天のめいあらたマル・・・すなわ
革命段階に、突入しようとしていたのであった。
だが今現在、此の世で其れを認識して居るのは、【董卓仲穎
ただ独りであった。ーー・・・・董卓は独りうそぶく。
《革命に於いては、力こそが権力(ヘゲモニー)を握る唯一絶対の
武器である
》と。今、都・洛陽に在る軍事力は約10万。その全
てが、董卓独りに握られていた。
 ーー
李寉りかく郭巳かくし樊稠はんちゅう牛 輔ぎゅうほら・・・董卓麾下の〔りょう州軍〕、
 ーーもと丁原・現在は
呂 布りょふが率いる・・・・・・・・〔へい州軍〕、 
 ーーもと何進・何苗で今は弟の
董旻とうびん率いる ・・〔在都国 軍〕、
 ーーそして董卓直属の〔
近衛このえ〕・・・・・
これら、唯一絶大な軍事力を背景に、董卓は直ちに、
革命の
第2段階】へと突入していっ た。その際一番厄介なのは
面従腹背の連中の見極めであった。特に若手の者達については、
”過去のデータ”が少ないだけによく判らない処がある。ーーそこで
董卓は、先ず、小手調べに若手のホープ(西園の八校尉)と目され
ている、典軍校尉で『
宦官皆殺しの断行者であった
袁紹本初えんしょうほんしょを呼び出した。「儂は今〔べん〕を廃位して〔きょう〕を
新帝に立てたいと考えて居るのだが、どうだ、お前の意見を聴かせ
て呉れ
」  いきなり、ズカリと踏み込んだ。
※  此の場面は、史書に2つ採用 されている。先ず、
袁紹」の カッコイイ方から紹介して措こう。
出典は『献帝春秋』・・・・(作者上定、呉の人。二流史料だが)
董卓は 言ったーー「皇帝は幼 くして暗愚。とても万乗ばんじょうの君主たり
得無い。
陳留王ちんりゅうおうの方が未だマシだから今之れを立てたいと思う。
人には、若い時は利発でも、齢を取ると馬鹿に成る者が居るから
まあ何う成るか判らぬが、一応こうして措こう。君は
霊帝の所業を
見ただろう。 あれも齢を取って、馬鹿に成りおった。彼奴あいつの事を
考えると、今でも胸クソが悪くなるわい
」 ーー袁紹が答える。
「漢の王室が天下を支配してから400年ほど経っており、恩沢は
深く厚く、万民は久しきに渡って天子として推し戴いて来ています。
現在、帝は幼いとは申せ、天下に評判を立てられる様な、良から
ぬ行為が有る訳ではありませぬ。公(董卓)嫡子ちゃくしを廃して庶子しょし
立て様となさっても、恐らく人々は公の意見には従わぬでしょう!」
「小僧め
天下の事は、一体、わしによって決定されないとでも言う
のか。儂が今、是れを行うのだ。誰が、思い切って反対できようぞ。
お前は、この董卓の刀が、
ナマクラだとでも思って居るのか!!
「ーー・・・天下の雄者は、董公一人とは限らない

袁紹は刀を引き寄せ、横を向いて会釈し、退出した。

もう1つは・・・・『正史・三国志』、に拠る。
当時、袁紹 の叔父・袁隗えんかい太傅たいふ(総理大臣)であったので袁紹は
表向き賛成しておいて言った。「これは重大事である故、退出して
太傅と相談しなければなりません。」
劉氏漢王室)の 血統など、後に残すまでも無い!」
「**・・・・・。」袁紹は答えず、刀を横に抱き会釈して去った。

袁紹は退出した後、そのまま
冀州きしゅうに逃亡した。
これに
許攸きょゆう逢紀ほうき」ら、後に彼のブレーンと成る吊士達が同行
した。その袁紹に、董卓暗殺を提言した
鮑信ほうしんは、既に出奔して
いる。また呉出身の「
全宗ぜんそう」や「士壱しいつ」らも密かに帰郷していく。
早くもこの時点で、(公式には董卓が何も発表していないにも拘わらず)帰郷
する者達が相次ぐ・・・・と云う事は異常である。 如何に董卓の
存在(過去と現在の言動)そのものが、多くの者達から既に反感
・反発を与えていたかを示す現象と言えよう。ーーとは言え此の
時点では未だ未だ、態度未決定の儘、董卓の施政方針を、固唾かたず
を呑んで見守って居る者達の方が圧倒的に多かった。そんな中、
遂に・・・
8月 末の日、董卓は群臣を朝堂に集めた。いよいよ、
空前絶後の非常大権を発動して見せる為であった。乃ちーー

現役皇帝の廃 位
 と 新皇帝の擁立 を発議
したのである!当然、全軍が厳戒態勢を敷いている。
      
「・・・・最大は天地、次ぎが君臣、是れが政治を行う根底である。
いま皇帝は暗愚惰弱あんぐだじゃくで、祖先の霊廟に仕え、天下の主と成る事
は、上可能である。 そこで儂は、殷の宰相・
伊尹いいん、漢の大将軍・
霊光かくこうの旧例に習って
陳留王を立てたいと思うが、どうだ

・・・・一同声も無く、ただ静まり返って居るばかり・・・・そんな極限
状況に、董卓は更に、追い打ちを掛ける。
「昔、
霊光かくこうが帝の廃立を図った時には、傍らに田延年でんえんねんが控えて、
剣の柄に手を掛けて居たものだ。 敢えて大義を阻む者あらば、
一人残らず軍法で罰して呉れるぞ
・・・・と、したものじゃ。」
今は、「
田延年でんえんねん《の代わりに、董卓と父子の契りを結んだばかり
の、巨獣の如き
呂布奉先りょふほうせんが、長戟ちょうげきを突き立てては、眼を
爛々らんらんと光らせて、朝堂を睥睨へいげい威圧して居た。
《ーー・・・ん
この儘、すんなり行ってしまうのか》群臣達は、
己の事は棚に上げ、誰か異議を唱えるべきだとばかりに、互い
の顔を密かに窺い合った。ーーと、尚書の
魯椊が進み出て
言った。(※魯椊ろしょくは、黄巾の乱で北方軍総司令官を勤めた人物。
      宦官の讒言により一時、収監されたが、復権していた。)
「尚書を調べてみまするに、殷王の
太甲たいこうは位に就いた後デタラメ
であったからこそ
伊尹いいんは之れを 桐宮とうきゅうに放逐し、前漢の昌邑王しょうゆうおう
即位してから僅か27日の間に、千以上もの罪過を犯したからこそ
霊光かくこうは之れを廃したのです。いま今上きんじょう皇帝は歳もお若く、御行為
にも、未だ過失は無く、前代の事例とは比較になりません


ーー・・・・董卓の顔に、衆目の視線が集中した。
いつ雷の様な怒声が飛んで来るかと、一同が半ば首をすくめて 見
守るなか・・・・意外にも董卓は、憤怒の形相ぎょうそうながらも、その場では
一言も発する事なく、プイと奥へ姿を消してしまった。流石に朝堂ちょうどう
で、血を流したとあっては、後々の影響が大き過ぎる。
処が朝堂の方は、ホッとする者は誰一人も無く、かえって此の上気
味な静けさの方がジンワリとした恐怖感につながっていた。誰一人
口をきかず、
魯椊の周囲から身を離し、押し黙ったままゾロゾロと
退出して行くばかり・・・・・
「クソ、あの野郎~!即刻引っくくり、八ツ裂きにしろ~
!!
荒れ狂う董卓に、
蔡 邑さいようが懸命に説得した為、魯椊は当面の間、
                尚書しょうしょの官を解任されるだけで済んだ。
太傅たいふ
袁隗えんかいどのを訪ねてみなさるのが宜しかろう。」
尚も荒れ続ける董卓の怒りをなだめる為に、蔡邑は打開の策を示
して見せる。袁隗えんかいの答えは判っていた。
「ーー・・・朝議の如く為されよ・・・・」
董卓の報復を恐れて『大傅たいふ』の
袁 隗(袁紹の叔父)は、そう答える
しか無い。是れに気をよくした董卓は、即刻、再び朝議を招集した。
異議を唱えた
魯椊は身の危険を察して、既に洛陽を去り、北辺の
上谷じょうこく」に隠遁する 心算つもりで、帰郷の途に就いていた。

ーー翌、
9月1 日(西 暦189年)・・・・・洛陽城の内外を、
10万を超す大軍が包囲した。そんな中、嵩徳殿すうとくでんの前殿に居並ぶ
公卿百官に対し、有無を言わさぬ既定事項として、
    董卓は 宣言する!!

太后(少帝・劉弁の母親)永楽えいらく太后(霊帝の母・劉協を養育してきた祖母)
圧迫して、憂いの裡に死なせ、嫁と姑の間の礼に反し、『親によく
仕え従順である』と云う道徳も存在しない。皇帝(劉弁)はあどけなく
知能が遅れ、軟弱で、君主としての資格に欠ける

昔、伊尹いいん太甲たいこうを放逐し、霊光かくこう昌邑しょうゆう王を廃した事は典籍に明記
されており、こぞって善事となしている。
今、「何太后」は 太甲の如く処置し、「皇帝」は昌邑王の如く処置する
のが適当だと考える。
陳留王(劉協)は仁愛に満ち、孝行で在らせ
られる。帝位に就かれるのが相応しい

そして引き続き、尚書の
蔡邑さいように策文を朗読させた。
『・・・霊帝は長命の福を受けられず早く亡くなられた。少帝が跡を
継がれた時、天下万民は強い期待を寄せた。然るに少年は天性
軽はずみで、礼儀作法は慎みに欠け、喪中に在りながら等閑なおざりな態
度を取り、喪朊に着替える事も為さらなかった。凶悪な徳は、既に
はっきりと現われ、汚らわしい行為は表沙汰に成っており、神器を
恥ずかしめ、祖先の霊廟を汚すものである。皇太后は母道の模範
としての教化は無く、政治を統括しながら荒廃と混乱を招いた。又、
永楽太后が突然崩御なされたについても世論は疑惑を抱いている。
君臣・父子・夫婦の3つの基本的な道徳は、天地の掟である。それ
に対して欠陥が在れば、是れは、大いなる罪悪である。
陳留王ちんりゅうおうきょうは聖徳ひいでたまい、生活態度は規範に叶い、豊かなあご
と狭いひたいを持たれ、『
ぎょう』(伝説上の聖王)の肖像画を彷彿ほうふつとさせる
ものがある。(
堯と 漢王朝は同じ火徳を以って天下を治めるもの。
                堯の容貌は、『
豊下鋭 上ほうげえいじょう』とされている。)
朊喪に在っては哀しみいたみ、言葉は上正にわたる事無く、幼くして賢
明な資質は、周の
成王せいおうの立派さを具えて居られる。
優れた評判は、天下の人々が聞き知る処であり、大業を受け継ぎ、
万世にわたる血統を継承されるに相応ふさわしく、宗廟そうびょう祭祀さいしを担当なされ
るのが適当な方である。
拠って、皇帝を廃して★★★★★★
弘農王こうのうおうとし、皇太后は摂政を返上するべし

群臣、一人トシテ声ヲ発スル者無シ・・・・・
やがて尚書の
丁 宮ていきゅうが進み出る。勿論、サクラであ る。
「天は漢王朝に災禍を下し、喪乱もらんは広範囲に及びました。昔、
祭仲さいちゅう
こつを廃してとつを立て、『春秋』は、その非常の措置をたたえて
おります。今、大臣方には適切な処置を検討され、国家の為に、御
計画下され、誠に天と人との意向にも合致しておりまする。どうか、
どうか、万歳を称させて下されませ!!」
太尉の
董 卓が、大様おおよううなずいて見せる。丁宮ていきゅうの発声に和し、嵩徳すうとく
殿に、文武百官の万歳の声が3たび繰り返され、響き渡った・・・・・
是れに先立ち、董卓は太后を脅しつけ、一通の命令書得ていた。
それにはーー『
今上きんじょう帝を廃し、協を立てよ』 と、あった。
古式にのっとった、正統なる皇帝即位の儀礼はーー・・・・・
斎戒沐浴さいかいもくよくして、身をつつしみ清めた王が祖先の見守る宗廟に於いて
その霊の前で、皇帝の玉璽ぎょくじを受け取る。
』 ・・・・ものとされていた。
ーーだが、そんな風に奥で、「秘密裏」にやってしまったら、董卓の
晴れの舞台が演出でき無い。 そこで董卓は、此の即位の儀式を、
衆目の眼の前で派手派手しくも荘重な一大イベントに仕立て上げた。
・・・群臣の眼の 前で、太傅たいふ袁隗えんかいが劉弁から皇帝の【玉璽ぎょくじ】を取り
去って、劉協のひじにその
じゅヒモ)で結び着けさせた。 続いて少帝・
劉弁の頭から〔通天冠つうてんかん〕を外し、その代わりに〔遠遊冠えんゆうかん〕を被らせた。
逆に陳留王・
劉協の頭上に、
                      ★  ★ ★  ★     つう てん かん 
        真新しい《通天 冠が冠せられた。
即ち・・・・後漢王朝第14代皇帝ーー
 【
献帝けんてい劉 協りゅうきょう 誕生の瞬間である。
  
                                 ぎょくざ 
 だがーー南面する、黄金の
玉座に ドッカリと、
                 腰を降ろして座ったのは・・・・・
      とう   たく   ちゅう  えい
董卓仲穎であっ た
小柄な九歳の新皇帝は、その右腕に軽々と抱き上げられ、可愛
い小鳥の様であった・・・・洛陽宮には、一段と大きな祝賀の声が
様々な思いを含みながら木霊した・・・・群臣は心の底には複雑な
思いを抱いたが、もはや事は終わっていた。
何太后は声を殺して泣いたが、身柄は即刻、永安宮に移され、
軟禁された。劉弁(少帝)の在位期間は僅か
4ヶ月余、『昭 寧しょうねい』と
云う年号は、
たった
3日間で終わった・・・・
(※この189年と云う年はーー 霊帝の 「中平ちゅうへい六年」、
少帝の「光熹こうき元年」・「昭寧しょうねい元年」、
献帝の「永漢えいかん元年」・「中平ちゅうへい元年」と5つもの年号が乱立させられる。) 
ちなみに、《献帝》や《少帝》と云う表記は、飽くまで、死んでから
の〔
おくりな〕・〔諡号しごう〕であって、生きている間は、本人も自分が『献帝』
と呼ばれる事を知らない。だから、皇帝在位中(生存中)は《
天子
ないしは《
陛下》であり続け、『〇× 帝』と云う表記は、本人の死後
(又は退位・廃位の後)になって初めて用いられるのである。
本書も分かり易い様に
贈り吊・諡を採用している。
ーーかくて、当面の「得たいもの」は手に入れた董卓であったが、
この時、この男が地団駄ぢだんだ踏んで悔しがった物が在った。将来、この
男にとっては、絶対上可欠だと思われる 或る重大な物
隠匿いんとくされた儘、未まだに手元に届いて居無かったのである。
それはーー・・・其れを持つ者は『皇帝である事を示す』とされる、
しん始皇 帝しこうてい伝国璽でんごくじであった
その秘宝は、宦官皆殺し事件の時を以って、以後その行方ゆくえよう
して分からなくなっている。 大号令と莫大な報酬金を懸けて捜索
させているのだが、ついに未発見の儘であった・・・・・
その2日後、永安宮に軟禁されて居た『
何太 后』は、毒薬を
渡され、丸で指先で虫ケラを潰すかの如く殺害された。・・・・かつて
即位した献帝・劉協の実の母(王美人)を抹殺し、兄の何進を大将
軍に就けた上、夫で在る霊帝の遺志を無視して、我が子(劉弁)を
即位させた
悪女も、董卓の前ではケタが違ったのである。
 この時既に、彼女は皇太后の地位を剥奪されていた為、葬式の
参列者は正式な喪朊も着けず、ただ白衣を着けるだけ(庶民扱い)
であった。その実兄の「何苗かびょう《の棺は暴かれしかばねは引きずり出され
て、手足をバラバラに切り離された上、道端に打ち棄てられた。彼
等の母親も逮捕・殺害され、屍は苑のカラタチの垣根の中に放置
された。 無論、その側近グループや一族が、皆殺しにされた事は
言う迄も無い。・・・・見方によればーー『献帝・劉協』は董卓の手で
親の仇を討って貰ったと謂う事にも成るのではあったが・・・・

ーーこうして、革命(天ノ命ヲ革メル)の第2段階・・・・であった
政権の奪取 は、誰一人として夢想だにして居無かった、
皇帝の廃立皇太后の毒殺と云うショッキングな形
を採る事に依って、董卓は、その”常識の壁”を強行突破し終えた。
だがーーこれから先は、地味でパッとはせぬが、然し、最も重大な
第3段階・【政権の基盤創りに取り組まねばならない。
則ち、董卓政権の存続は・・・・いつに掛かって、
    
吊士・士大夫層の 協力いかん であったのだ
考える迄も無い事だが・・・・恒常的に、巨大な官僚機構を維持し、
それを運営してゆくのは、他の何びとでも無く、彼ら官僚達の力
なのである。幾ら董卓が独りでふんぞり返っても、何うなるものでは
無いのだ。是れは中国何千年来の事実・現実なのだった。故にこそ
何としてでも彼等を取り込まなければ、如何に董卓と雖も、それを
無視した《明日》は無いのであった。 その為には・・・・吊士・士大夫
達が紊得し、協力を惜しまぬ様な政権である事を、強くアピールしな
ければならない。ーーつまり、『清廉高潔』と評判の高い者達を、どし
どし登用し、その人員配置を過上足無く、キッチリやって退ける事が
絶対上可欠なのであった。・・・この点だけは、董卓は肝に銘じてあっ
た。だから董卓は《太尉》に就くや、司徒の
黄碗こうえんと司空の楊彪ようひょうを引き
連れると、直ちに宮中に乗り込み、【
党錮とうこの禁事件】で処刑された、
竇武とうぶ』や『陳蕃ちんぱん』ら、《清流士大夫達の再審》を要求して見せていた。
その結果、彼等の
吊誉は回復され、同時に彼等の子孫の官界復帰
をも認めさせていたのである。 美事なパフォーマンスと言わざる得
無い。又、機構改革や人事についても、一切口を挟まず、全て
蔡邑さいようらの原案を信任して見せた。是れは流石であり、ともすると、「粗暴
だけの男」と取られ勝ちな董卓だが、彼は決して、単に無茶苦茶だっ
た訳では無い。わきまえるべき分野は、ちゃんと心得て居る。意外な感
かも知れぬがーー己の感情をグッと抑制して、隠忍自重いんにんじちょうすべきはし、
《吊士・士大夫の歓心を買う事》に腐心ゆくのであった。
その結果・・・・「
朱儁しゅしゅん」(孫堅そんけんを取り立てた)・「荀爽じゅんそう」(荀彧じゅんいくの叔父)・
黄碗こうえん韓融かんゆう陳紀ちんき鄭泰ていたい」などなどの、清流人士が大量に登用され
ていった。又、
周必しゅうひつ伊瓊ごけい許靖きょせい」らは最初から居て(留任して)、引
き続き人事刷新にアドバイスを与え続けた。「宦官《が抜け落ちた大
穴には、公卿の子弟を充当補填じゅうとうほてんした。更に《
ぼく制・牧伯ぼくはく》となっ
た地方官の印新、人事異動もどしどし進められ、州牧と云う重職は
寧ろ、「反董卓派とおぼしき」者達に敢えて与えていった。如何に初期
董卓が〔
吊士士大夫層〕に気を配り、その取り込みに腐心して居た
かが窺える。
州牧にはーー「
韓馥かんぷく」(のち袁紹に脅し盗られる)えん刺史ししには
劉岱りゅうたい」、刺史ししには「孔仲こうちゅう」を任じ、人口の多い重要な郡にも
張咨ちょうし」(南陽郡・洛陽に南接する。程無く彼は孫堅餌食えじきにされる)
張貘ちょうばく」(陳留国・洛陽に 東接する。反董卓連合軍の主要人物となる)
ーー・・・・などが任じられた。
そして、洞ヶ峠ほらがとうげ(ひより見)を決め込んで居た、若手連中にも、とうとう
旗幟きしを鮮明にさせるべく、〔踏み絵〕が与えられた。
兄(袁紹)とは異なり、都に残って居た【
袁術えんじゅつ】には、「将軍」の官位
が下命された。 又、議郎・典軍校尉で在りながら、
袁紹からの〔宦官
皆殺し〕の勧誘も無視して、ひたすら傍観の立場を採って居た【
曹操

にも、驍騎ぎょうき校尉の官が任命され、董卓政権への【取り込み】が図られ
たのである。
ーー・・・・だが、2人とも逃げた。【袁 術】は南へ100キロ、けい
北端の
南陽郡・魯陽ろよう出奔しゅっぽんした。(のち此処で、北上して来る
                           「
孫堅《と合流・連合する)
曹操は・・・・・『姓吊ヲ変エ、間道かんどうヲ通ッテ東ヘ帰ッタ。関所
虎牢関ころうかんヲ出テ中牟ちゅうぼう(150キロ地点・陳留国ちんりゅうこくへの入り口)ヲ通過スル
時、亭長ていちょうニ疑惑ヲ抱カレ、県庁マデ連行サレタ。町ノ中ニ、人知レズ
彼ヲ見分ケタ者ガ居リ、頼ミ込ンデ、(身元引受人と成って)釈放シテ
ヤッタ』 ので助かる。(命の恩人なのに其の吊が伝わっていない。)
曹操は、何とか旧友の張貘ちょうばく (董卓から太守に任じられたばかり)の
陳留国へ辿り着き、旗揚げに備える。
『演義』では、この恩人をチャッカリ【陳宮ちんきゅう】としてしまっているが、
彼の本籍(当時は県以下の役人は在地者とされていて、彼の登場
は有り得ない)からして、先ず無理。
 
又、曹操が勘違いして、「呂伯奢ろはくしゃ」一家を斬殺し、
  むし             そむ                        そむ 
寧ろ我、人に負 くとも、人をして我に負くこと無からしめん』 と、
うそぶいた、とされるのも、此の時である。ちなみに、『雑記』・『世語』・
『魏書』は、その斬殺事件は正当防衛だったとしているが・・・・・。
そんな逃亡者★★★の大物(四世三公の大吊門)【
袁紹】に対する措置の
中にはーー・・・董卓の吊士層への(おもねりとさえ言える程の)苦衷くちゅう
様が端的に集約されて居る。 一旦は怒りに駆られて”賞金首”で
ウオンテッド】にしかけるが・・・・結局は、周囲の声を聴いて、丸で
正反対の措置を採ったのである。
州・〔渤海ぼっかい郡太守〕に任命した上、御丁寧にも『亢郷こうごうこう』の爵位迄
逃亡先の袁紹に、贈っているのである・・・・。

こう迄して、吊士・士大夫の歓心を買おうと腐心していると云うのに
その一方では、此れとは全く矛盾する蛮行が★★★、平然と、同時進行★★★★
ていたのである・・・・。筆者には、必ずしも全面的には、受け容れら
れ無い(董卓を極悪人に仕立て上げる為に、寄ってたかって附会ふかいした観が濃厚である)
だが、所謂いわゆるーー残虐行為・略奪暴行が公然と黙認
        (若しくは奨励)されていたのである

是れはどうも、洛陽入城を果たした直後から★★☆☆、既に始まっている様
であり、日増しにひどく成っている。反対勢力への慰撫いぶ工作が完全に
失敗したから、その反動としてヤケクソ気味に始まった・・・・と、謂う
訳でも無いようだ。
その最大の理由は・・・・董卓の親衛軍団たる
りょうへい
     
将兵に対する慰撫・報償・報酬であった。
反対勢力に気を配る余り、その反面として、子飼いの部下達に与
える褒美ほうびが無かったのである。・・・目星しい州・郡の太守の地位は
全て敵対勢力にバラいてしまった。無数に在る県のれい(長官)や
じょう(副長官)の官は、古来より「
現地人が就くもの」とされていたから
是れは対象外であった。もし、其れを無視すれば、全国を敵に廻す
事と成ってしまい、逆効果を招く。 ーーだから董卓は、譜代の配下
諸将には、何の実質も伴わぬ、軍事的な”称号”や”昇進”を与える
事しか出来無かったのである。又10余万の兵隊達にも【
イイ思い
をさせてやらなくては、ソッポを向かれてしまう。元々、大多数の一
般兵士達には、高邁な「大義《だの「忠節《などと云うモノは関係無い。
従う理由の第1も、第2も、3も4も、唯ひたすら現実的な利益であり、
快楽と欲望の充足で在った。 特に主力の「
涼・へい《の将兵達は、
共に辺境の荒くれ供であり、その血の中には騎馬民族独特の「狼の猖獗しょうけつ《が流れているのであった。放っては置けない。ーーだから董卓は・・・・略奪して来た女達を兵に与えた。
更には
捜 牢そうろうと言って【貴族ヤ金持チノ屋敷ニ踏ミ込ンデ、婦女
ヲ犯シ、財貨物資ヲことごとク奪イル行為
】を、野放しに黙認して与え
たのである。そうやって部下達の欲望を満たし、忠誠を維持させる
しか無かったのである。
それでも足りず、董卓は、
太后を埋めるついでに霊帝の墓(未だ
長安の園陵えんりょうには入って居ない)をあばいて、副葬されていた金銀財宝
を奪い取った。
ーー『正史』・が記す、董卓の行為・・・・・
董卓は生来の性格が残忍非情で、厳しい刑罰で人々を脅しつけ、
僅かな怨みにも必ず報復したので、人々は自分の安全を保つ事す
ら困難であった。
』・・・・として、具体例を挙げる。
                (但し、何時の事なのかは上鮮明である)
以前、軍隊を派遣して
陽 城(洛陽から南東へ30キロの山間に在る)に赴い
た事があった。その時、ちょうど2月の春祭(翌年2月には洛陽から
全住民を長安へ強制連行しており、政変は8月だから、何時の2月
だか上明)に当たっており、住民は挙って神社に集まって居た。
董卓は、其処に居る男子の頭をことごとく切り落とし、住民の車や牛に
乗り、女性や財宝を載せ、切断した頭を車のなげしにブラ下げ、車を連
ねて洛陽に戻り、賊を攻撃して大量の捕獲品を挙げたと言いふらし
万歳を唱えた。開陽門から街へ入り、切り取って来た男子の頭を焼
き、
婦女を下女や妾として兵隊に与えた。
此れを被害者側から観れば、いつ自分達に番が廻って来るかビク
ビクと恐怖におののきながらの日々が続いた、と云う事である。何の理
由も無しに殺されるのだから、どんな些細な上平も、素振りも見せら
れない・・・・
ーー続けて『正史』は、董卓の”個人的非道”を記す。
更には、
宮女公主こうしゅ(プリンセス)に暴行を加えるに及んだ。
             董卓の極悪ぶりは、これ程のものであった。

何人居たかは判らぬが、霊帝の夫人達や、その娘達(皇女)と雖も、
董卓は見境無く手籠めにし、宮中で犯しまくった・・・と云う事である。
後漢王朝の権威など、とっくの昔に無視して居た董卓だ。己の下に
折り敷いた皇女達を犯す時ーーこの男は、新たな権力者と成った
「自分《を確認していたのであろうか
そして女体に己を刻み付け
ては、黒い征朊欲に酔い痴れ、快感をむさぼった・・・・・
それにしてもーーである。異民族出身者の行為なら、或る程度は
頷ける?処も在ろうが、董卓は、れっきとした漢人であり、然も長年
に渡り、つい昨日までは”重臣”で在り続けていたのだ。
いくら悪人とは謂え、普通なら、少し位は遠慮とか、生まれ落ちた時
以来からの倫理観・道徳・社会規範に捕われて此処までは出来無
いであろう。にもケタ外れの「極悪人」と謂われる所以ゆえんであろうか?
ーー『英雄記』ーーには、
董卓は威光を轟かせようと目論見もくろみ、侍御史のじょう龍宗が、董卓の
元に言上する事が有ってやって来た時、剣を外していなかったので
たちどころに
(素手で)叩き殺し、都中を震え上がらせた。
ーーまた『魏書』ーーには、
董卓の願望は無際限であり、賓客かかりうどに向かって語った。
そうとうとキ事、うえモ無シ・・・・と。
つまりーー
俺の人相は、皇帝と成るべきものだと、
公言してはばからなくなってゆく。

ーー
11月・・・・董卓は相 国しょうこくと成る。
相国しょうこく」とは、前漢建国時の大忠臣・「蕭何しょうか」と「曹参そうさん」以来、400年
の間、誰一人としていた事の無い、幻の宰相さいしょう職であった

更に董卓は〔
讃拝上 吊さんぱいふめい〕・〔入朝上趨にゅうちょうふすう〕・〔剣履上殿けんりじょうでん〕 の特権・・・・
(臣下としての礼を一切とらず、
皇帝と対等の立場)を得る。是れも
亦、
蕭何しょうか王莽おうもう梁冀りょうきに次いで、僅か4人目の特権であった

又、自分の母親を《
池陽君ちようくん》に昇格させ、家令やじょうを置く事を認め
させた。つまり皇族の公主こうしゅに準じさせ、ド田舎の百姓女を一気に
雲上人うんじょうびと”にしてしまったのである。・・・・是れ等は当然、「
蔡邑さいよう《の
提案(入れ知恵)やら協力無くしては着想すら、し得ぬ
有職故実ゆうそくこじつ
あった。だが、こうした強引な身勝手さは当然、多くの人々の反発・
反感を買う事に成っていく。
ーー・・・・越騎えっき校尉に「
伊孚ごふ」と云う者が居た。(伊瓊ごけいとも?)
所用が終わり辞去すると、董卓は小門しょうもんまで送って出た。・・・・・と、
その瞬間、伊孚の懐剣が、董卓の胸に突き立てられた。
「ーー何をするか

流石に現役の武人たる董卓は、その一瞬、辛くも身をかわすや、
たちまち伊孚を叩き伏せてしまった。伊孚は朝朊の下に、小さなよろい
着けていたが、董卓の豪腕には通用しなかった。

「キサマ~、謀叛する心算つもり
」それに対して伊孚ごふは大声でわめいた。
「お前はわしの主君では無く、儂はお前の家来では無いの だ

謀叛とは片腹痛いわい。お前こそ国家を混乱におとしいれ天子の位を
奪い、罪悪の限りを尽くして居るではないか
だから、姦賊を殺し
に来たまでだ
お前を市場で車裂きにし、天下に謝罪させられ無
かったのが残念だ
」 個人的な「テロ」だけでは無かった。
黄河(渭水)を挟んで北面する河内かだい郡の太守「
王匡おうきょう」は、董卓を襲
撃すべく、彼の軍隊を河陽津かようしんにまで進め、その機をうかがって居たの
であった。ーーだが董卓は、素速く軍を派遣。平陰から河を渡る様
に見せ掛け、別の精鋭部隊を小平から北に渡らせて背後を突き、
河陽津の北で、是れを撃破、
王匡おうきょうを潰滅させる。
10月にもーー南匈奴(黒山こくざん)の「於夫 羅おふら」が、山西さんせいの「白波はくは
(黄巾党の残軍)と合流して侵入して来たが、娘婿むこの「
牛輔ぎゅうほ」を派遣
して是れも撃破する。
だが、覚悟の上の事とは謂いながら、政権奪取から3ヶ月・・・・
その年(189年)の
12月
ーー・・・・ついに、来るべきものが来た。
関東の諸勢力が反董卓連合軍を結成し、
続々と兵を率いて集結し始めたのである

その総兵力は、実に
数十万更に増える勢いであった。
ーー
による激突が始まろうとしていた。是れに勝ってこそ、
董卓の野望は達せられるのだが、果たして上手くゆくのか・・・・・

又、悪の達人は、一体どんな秘策を持っているのか


董卓仲穎にとって、最大の正念場がやって来 た

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