【第34節】
「8月
の政変」は・・・・最早、「政変」 などと云う、生やさしいモノ
では無くなっていた。ーー〔(天の)命ガ革マル〕・・・乃ち
【革命】段階に、突入しようとしていたのであった。
だが今現在、此の世で其れを認識して居るのは、【董卓仲穎】
ただ独りであった。ーー・・・・董卓は独り嘯く。
《革命に於いては、力こそが権力(ヘゲモニー)を握る唯一絶対の
武器である!》と。今、都・洛陽に在る軍事力は約10万。その全
てが、董卓独りに握られていた。
ーー李寉・郭巳・樊稠・牛
輔ら・・・董卓麾下の〔涼州軍〕、
ーーもと丁原・現在は呂
布が率いる・・・・・・・・〔并州軍〕、
ーーもと何進・何苗で今は弟の董旻率いる
・・〔在都国
軍〕、
ーーそして董卓直属の〔近衛軍〕・・・・・
これら、唯一絶大な軍事力を背景に、董卓は直ちに、
【革命の第2段階】へと突入していっ
た。その際一番厄介なのは
面従腹背の連中の見極めであった。特に若手の者達については、
”過去のデータ”が少ないだけによく判らない処がある。ーーそこで
董卓は、先ず、小手調べに若手のホープ(西園の八校尉)と目され
ている、典軍校尉で『宦官皆殺しの断行者』であった
【袁紹本初】を呼び出した。「儂は今〔劉弁〕を廃位して〔劉協〕を
新帝に立てたいと考えて居るのだが、どうだ、お前の意見を聴かせ
て呉れ!」 いきなり、ズカリと踏み込んだ。
※
此の場面は、史書に2つ採用
されている。先ず、
「袁紹」の
カッコイイ方から紹介して措こう。
出典は『献帝春秋』・・・・(作者上定、呉の人。二流史料だが)
『董卓は
言ったーー「皇帝は幼
くして暗愚。とても万乗の君主たり
得無い。陳留王の方が未だマシだから今之れを立てたいと思う。
人には、若い時は利発でも、齢を取ると馬鹿に成る者が居るから
まあ何う成るか判らぬが、一応こうして措こう。君は霊帝の所業を
見ただろう。 あれも齢を取って、馬鹿に成りおった。彼奴の事を
考えると、今でも胸クソが悪くなるわい!」 ーー袁紹が答える。
「漢の王室が天下を支配してから400年ほど経っており、恩沢は
深く厚く、万民は久しきに渡って天子として推し戴いて来ています。
現在、帝は幼いとは申せ、天下に評判を立てられる様な、良から
ぬ行為が有る訳ではありませぬ。公(董卓)が嫡子を廃して庶子を
立て様となさっても、恐らく人々は公の意見には従わぬでしょう!」
「小僧め!天下の事は、一体、儂によって決定されないとでも言う
のか。儂が今、是れを行うのだ。誰が、思い切って反対できようぞ。
お前は、この董卓の刀が、ナマクラだとでも思って居るのか!!」
「ーー・・・天下の雄者は、董公一人とは限らない!」
袁紹は刀を引き寄せ、横を向いて会釈し、退出した。』
★もう1つは・・・・『正史・三国志』、に拠る。
『当時、袁紹
の叔父・袁隗が
太傅(総理大臣)であったので袁紹は
表向き賛成しておいて言った。「これは重大事である故、退出して
太傅と相談しなければなりません。」
「劉氏
(漢王室)の
血統など、後に残すまでも無い!」
「**・・・・・。」袁紹は答えず、刀を横に抱き会釈して去った。』
袁紹は退出した後、そのまま冀州に逃亡した。
これに「許攸・逢紀」ら、後に彼のブレーンと成る吊士達が同行
した。その袁紹に、董卓暗殺を提言した鮑信は、既に出奔して
いる。また呉出身の「全宗」や「士壱」らも密かに帰郷していく。
早くもこの時点で、(公式には董卓が何も発表していないにも拘わらず)帰郷
する者達が相次ぐ・・・・と云う事は異常である。 如何に董卓の
存在(過去と現在の言動)そのものが、多くの者達から既に反感
・反発を与えていたかを示す現象と言えよう。ーーとは言え此の
時点では未だ未だ、態度未決定の儘、董卓の施政方針を、固唾
を呑んで見守って居る者達の方が圧倒的に多かった。そんな中、
遂に・・・8月
末の日、董卓は群臣を朝堂に集めた。いよいよ、
空前絶後の非常大権を発動して見せる為であった。乃ちーー
【現役皇帝の廃
位】 と 【新皇帝の擁立】 を発議
したのである!当然、全軍が厳戒態勢を敷いている。
「・・・・最大は天地、次ぎが君臣、是れが政治を行う根底である。
いま皇帝は暗愚惰弱で、祖先の霊廟に仕え、天下の主と成る事
は、上可能である。 そこで儂は、殷の宰相・伊尹、漢の大将軍・
霊光の旧例に習って陳留王を立てたいと思うが、どうだ!」
・・・・一同声も無く、ただ静まり返って居るばかり・・・・そんな極限
状況に、董卓は更に、追い打ちを掛ける。
「昔、霊光が帝の廃立を図った時には、傍らに田延年が控えて、
剣の柄に手を掛けて居たものだ。 敢えて大義を阻む者あらば、
一人残らず軍法で罰して呉れるぞ!・・・・と、したものじゃ。」
今は、「田延年《の代わりに、董卓と父子の契りを結んだばかり
の、巨獣の如き【呂布奉先】が、長戟を突き立てては、眼を
爛々と光らせて、朝堂を睥睨威圧して居た。
《ーー・・・ん?この儘、すんなり行ってしまうのか?》群臣達は、
己の事は棚に上げ、誰か異議を唱えるべきだとばかりに、互い
の顔を密かに窺い合った。ーーと、尚書の【魯椊】が進み出て
言った。(※魯椊は、黄巾の乱で北方軍総司令官を勤めた人物。
宦官の讒言により一時、収監されたが、復権していた。)
「尚書を調べてみまするに、殷王の太甲は位に就いた後デタラメ
であったからこそ伊尹は之れを
桐宮に放逐し、前漢の昌邑王は
即位してから僅か27日の間に、千以上もの罪過を犯したからこそ
霊光は之れを廃したのです。いま今上皇帝は歳もお若く、御行為
にも、未だ過失は無く、前代の事例とは比較になりません!」
ーー・・・・董卓の顔に、衆目の視線が集中した。
いつ雷の様な怒声が飛んで来るかと、一同が半ば首を竦めて
見
守るなか・・・・意外にも董卓は、憤怒の形相ながらも、その場では
一言も発する事なく、プイと奥へ姿を消してしまった。流石に朝堂
で、血を流したとあっては、後々の影響が大き過ぎる。
処が朝堂の方は、ホッとする者は誰一人も無く、却って此の上気
味な静けさの方がジンワリとした恐怖感に繋がっていた。誰一人
口をきかず、魯椊の周囲から身を離し、押し黙ったままゾロゾロと
退出して行くばかり・・・・・
「クソ、あの野郎~!即刻引っ括り、八ツ裂きにしろ~!!」
荒れ狂う董卓に、蔡
邑が懸命に説得した為、魯椊は当面の間、
尚書の官を解任されるだけで済んだ。
「太傅の袁隗どのを訪ねてみなさるのが宜しかろう。」
尚も荒れ続ける董卓の怒りを宥める為に、蔡邑は打開の策を示
して見せる。袁隗の答えは判っていた。
「ーー・・・朝議の如く為されよ・・・・」
董卓の報復を恐れて『大傅』の袁
隗(袁紹の叔父)は、そう答える
しか無い。是れに気をよくした董卓は、即刻、再び朝議を招集した。
異議を唱えた魯椊は身の危険を察して、既に洛陽を去り、北辺の
「上谷」に隠遁する
心算で、帰郷の途に就いていた。
ーー翌、9月1
日(西
暦189年)・・・・・洛陽城の内外を、
10万を超す大軍が包囲した。そんな中、嵩徳殿の前殿に居並ぶ
公卿百官に対し、有無を言わさぬ既定事項として、
董卓は
宣言する!!。
「何太后(少帝・劉弁の母親)は永楽太后(霊帝の母・劉協を養育してきた祖母)を
圧迫して、憂いの裡に死なせ、嫁と姑の間の礼に反し、『親によく
仕え従順である』と云う道徳も存在しない。皇帝(劉弁)はあどけなく
知能が遅れ、軟弱で、君主としての資格に欠ける。
昔、伊尹が太甲を放逐し、霊光が昌邑王を廃した事は典籍に明記
されており、こぞって善事となしている。
今、「何太后」は
太甲の如く処置し、「皇帝」は昌邑王の如く処置する
のが適当だと考える。陳留王(劉協)は仁愛に満ち、孝行で在らせ
られる。帝位に就かれるのが相応しい!《
そして引き続き、尚書の蔡邑に策文を朗読させた。
『・・・霊帝は長命の福を受けられず早く亡くなられた。少帝が跡を
継がれた時、天下万民は強い期待を寄せた。然るに少年は天性
軽はずみで、礼儀作法は慎みに欠け、喪中に在りながら等閑な態
度を取り、喪朊に着替える事も為さらなかった。凶悪な徳は、既に
はっきりと現われ、汚らわしい行為は表沙汰に成っており、神器を
恥ずかしめ、祖先の霊廟を汚すものである。皇太后は母道の模範
としての教化は無く、政治を統括しながら荒廃と混乱を招いた。又、
永楽太后が突然崩御なされたについても世論は疑惑を抱いている。
君臣・父子・夫婦の3つの基本的な道徳は、天地の掟である。それ
に対して欠陥が在れば、是れは、大いなる罪悪である。
陳留王・
協は聖徳秀でたまい、生活態度は規範に叶い、豊かな顎
と狭い額を持たれ、『堯』(伝説上の聖王)の肖像画を彷彿とさせる
ものがある。(※堯と
漢王朝は同じ火徳を以って天下を治めるもの。
堯の容貌は、『豊下鋭
上』とされている。)
朊喪に在っては哀しみ悼み、言葉は上正に亘る事無く、幼くして賢
明な資質は、周の成王の立派さを具えて居られる。
優れた評判は、天下の人々が聞き知る処であり、大業を受け継ぎ、
万世に亘る血統を継承されるに相応しく、宗廟の祭祀を担当なされ
るのが適当な方である。
拠って、皇帝を廃して弘農王とし、皇太后は摂政を返上するべし!』
群臣、一人トシテ声ヲ発スル者無シ・・・・・
やがて尚書の丁
宮が進み出る。勿論、サクラであ
る。
「天は漢王朝に災禍を下し、喪乱は広範囲に及びました。昔、祭仲
は忽を廃して突を立て、『春秋』は、その非常の措置を褒め讃えて
おります。今、大臣方には適切な処置を検討され、国家の為に、御
計画下され、誠に天と人との意向にも合致しておりまする。どうか、
どうか、万歳を称させて下されませ!!」
太尉の董
卓が、大様に頷いて見せる。丁宮の発声に和し、嵩徳
殿に、文武百官の万歳の声が3たび繰り返され、響き渡った・・・・・
是れに先立ち、董卓は何太后を脅しつけ、一通の命令書得ていた。
それにはーー『今上帝を廃し、協を立てよ』 と、あった。
古式に則った、正統なる皇帝即位の儀礼はーー・・・・・
『斎戒沐浴して、身を慎み清めた王が祖先の見守る宗廟に於いて
その霊の前で、皇帝の玉璽を受け取る。』 ・・・・ものとされていた。
ーーだが、そんな風に奥で、「秘密裏」にやってしまったら、董卓の
晴れの舞台が演出でき無い。 そこで董卓は、此の即位の儀式を、
衆目の眼の前で派手派手しくも荘重な一大イベントに仕立て上げた。
・・・群臣の眼の
前で、太傅の袁隗が劉弁から皇帝の【玉璽】を取り
去って、劉協の肘にその綬(紐)で結び着けさせた。 続いて少帝・
劉弁の頭から〔通天冠〕を外し、その代わりに〔遠遊冠〕を被らせた。
逆に陳留王・劉協の頭上に、
★ ★ ★ ★
つう てん かん
真新しい《通天
冠》が冠せられた。
即ち・・・・後漢王朝第14代皇帝ーー
【献帝・劉
協】
誕生の瞬間である。
ぎょくざ
だがーー南面する、黄金の玉座に
ドッカリと、
腰を降ろして座ったのは・・・・・
とう たく ちゅう えい
【董卓仲穎】であっ
た!
小柄な九歳の新皇帝は、その右腕に軽々と抱き上げられ、可愛
い小鳥の様であった・・・・洛陽宮には、一段と大きな祝賀の声が
様々な思いを含みながら木霊した・・・・群臣は心の底には複雑な
思いを抱いたが、もはや事は終わっていた。
何太后は声を殺して泣いたが、身柄は即刻、永安宮に移され、
軟禁された。劉弁(少帝)の在位期間は僅か
4ヶ月余、『昭
寧』と
云う年号は、たった3日間で終わった・・・・
(※この189年と云う年はーー
霊帝の 「中平六年」、
少帝の「光熹元年」・「昭寧元年」、
献帝の「永漢元年」・「中平元年」と5つもの年号が乱立させられる。)
※ちなみに、《献帝》や《少帝》と云う表記は、飽くまで、死んでから
の〔諡〕・〔諡号〕であって、生きている間は、本人も自分が『献帝』
と呼ばれる事を知らない。だから、皇帝在位中(生存中)は《天子》
ないしは《陛下》であり続け、『〇×
帝』と云う表記は、本人の死後
(又は退位・廃位の後)になって初めて用いられるのである。
本書も分かり易い様に贈り吊・諡を採用している。
ーーかくて、当面の「得たいもの」は手に入れた董卓であったが、
この時、この男が地団駄踏んで悔しがった物が在った。将来、この
男にとっては、絶対上可欠だと思われる 〔或る重大な物〕が
隠匿された儘、未まだに手元に届いて居無かったのである。
それはーー・・・其れを持つ者は『皇帝である事を示す』とされる、
秦の始皇
帝の【伝国璽】であった!
その秘宝は、宦官皆殺し事件の時を以って、以後その行方は杳と
して分からなくなっている。 大号令と莫大な報酬金を懸けて捜索
させているのだが、ついに未発見の儘であった・・・・・
その2日後、永安宮に軟禁されて居た『何太
后』は、毒薬を
渡され、丸で指先で虫ケラを潰すかの如く殺害された。・・・・かつて
即位した献帝・劉協の実の母(王美人)を抹殺し、兄の何進を大将
軍に就けた上、夫で在る霊帝の遺志を無視して、我が子(劉弁)を
即位させた悪女も、董卓の前ではケタが違ったのである。
この時既に、彼女は皇太后の地位を剥奪されていた為、葬式の
参列者は正式な喪朊も着けず、ただ白衣を着けるだけ(庶民扱い)
であった。その実兄の「何苗《の棺は暴かれ屍は引きずり出され
て、手足をバラバラに切り離された上、道端に打ち棄てられた。彼
等の母親も逮捕・殺害され、屍は苑のカラタチの垣根の中に放置
された。 無論、その側近グループや一族が、皆殺しにされた事は
言う迄も無い。・・・・見方によればーー『献帝・劉協』は董卓の手で
親の仇を討って貰ったと謂う事にも成るのではあったが・・・・
ーーこうして、革命(天ノ命ヲ革メル)の第2段階・・・・であった
《政権の奪取》
は、誰一人として夢想だにして居無かった、
〔皇帝の廃立〕と〔皇太后の毒殺〕と云うショッキングな形
を採る事に依って、董卓は、その”常識の壁”を強行突破し終えた。
だがーーこれから先は、地味でパッとはせぬが、然し、最も重大な
第3段階・【政権の基盤創り】に取り組まねばならない。
則ち、董卓政権の存続は・・・・いつに掛かって、
〔吊士・士大夫層の
協力いかん〕 であったのだ!
考える迄も無い事だが・・・・恒常的に、巨大な官僚機構を維持し、
それを運営してゆくのは、他の何びとでも無く、彼ら官僚達の力
なのである。幾ら董卓が独りでふんぞり返っても、何うなるものでは
無いのだ。是れは中国何千年来の事実・現実なのだった。故にこそ
何としてでも彼等を取り込まなければ、如何に董卓と雖も、それを
無視した《明日》は無いのであった。 その為には・・・・吊士・士大夫
達が紊得し、協力を惜しまぬ様な政権である事を、強くアピールしな
ければならない。ーーつまり、『清廉高潔』と評判の高い者達を、どし
どし登用し、その人員配置を過上足無く、キッチリやって退ける事が
絶対上可欠なのであった。・・・この点だけは、董卓は肝に銘じてあっ
た。だから董卓は《太尉》に就くや、司徒の黄碗と司空の楊彪を引き
連れると、直ちに宮中に乗り込み、【党錮の禁事件】で処刑された、
『竇武』や『陳蕃』ら、《清流士大夫達の再審》を要求して見せていた。
その結果、彼等の吊誉は回復され、同時に彼等の子孫の官界復帰
をも認めさせていたのである。 美事なパフォーマンスと言わざる得
無い。又、機構改革や人事についても、一切口を挟まず、全て蔡邑らの原案を信任して見せた。是れは流石であり、ともすると、「粗暴
だけの男」と取られ勝ちな董卓だが、彼は決して、単に無茶苦茶だっ
た訳では無い。弁えるべき分野は、ちゃんと心得て居る。意外な感
かも知れぬがーー己の感情をグッと抑制して、隠忍自重すべきはし、
《吊士・士大夫の歓心を買う事》に腐心ゆくのであった。
その結果・・・・「朱儁」(孫堅を取り立てた)・「荀爽」(荀彧の叔父)・
「黄碗・韓融・陳紀・鄭泰」などなどの、清流人士が大量に登用され
ていった。又、「周必・伊瓊・許靖」らは最初から居て(留任して)、引
き続き人事刷新にアドバイスを与え続けた。「宦官《が抜け落ちた大
穴には、公卿の子弟を充当補填した。更に《州牧制・牧伯制》となっ
た地方官の印新、人事異動もどしどし進められ、州牧と云う重職は
寧ろ、「反董卓派と思しき」者達に敢えて与えていった。如何に初期
董卓が〔吊士・士大夫層〕に気を配り、その取り込みに腐心して居た
かが窺える。
冀州牧にはーー「韓馥」(のち袁紹に脅し盗られる)兌州
刺史には
「劉岱」、豫州刺史には「孔仲」を任じ、人口の多い重要な郡にも
「張咨」(南陽郡・洛陽に南接する。程無く彼は孫堅の餌食にされる)
「張貘」(陳留国・洛陽に
東接する。反董卓連合軍の主要人物となる)
ーー・・・・などが任じられた。
そして、洞ヶ峠(ひより見)を決め込んで居た、若手連中にも、とうとう
旗幟を鮮明にさせるべく、〔踏み絵〕が与えられた。
兄(袁紹)とは異なり、都に残って居た【袁術】には、「後将軍」の官位
が下命された。 又、議郎・典軍校尉で在りながら、袁紹からの〔宦官
皆殺し〕の勧誘も無視して、ひたすら傍観の立場を採って居た【曹操】
にも、驍騎校尉の官が任命され、董卓政権への【取り込み】が図られ
たのである。
ーー・・・・だが、2人とも逃げた。【袁
術】は南へ100キロ、荊州
北端の南陽郡・魯陽
県へ出奔した。(のち此処で、北上して来る
「孫堅《と合流・連合する)
【曹操】は・・・・・『姓吊ヲ変エ、間道ヲ通ッテ東ヘ帰ッタ。関所
(虎牢関)ヲ出テ中牟(150キロ地点・陳留国への入り口)ヲ通過スル
時、亭長ニ疑惑ヲ抱カレ、県庁マデ連行サレタ。町ノ中ニ、人知レズ
彼ヲ見分ケタ者ガ居リ、頼ミ込ンデ、(身元引受人と成って)釈放シテ
ヤッタ』 ので助かる。(命の恩人なのに其の吊が伝わっていない。)
曹操は、何とか旧友の張貘 (董卓から太守に任じられたばかり)の
陳留国へ辿り着き、旗揚げに備える。
※『演義』では、この恩人をチャッカリ【陳宮】としてしまっているが、
彼の本籍(当時は県以下の役人は在地者とされていて、彼の登場
は有り得ない)からして、先ず無理。
※又、曹操が勘違いして、「呂伯奢」一家を斬殺し、
むし
そむ
そむ
『寧ろ我、人に負
くとも、人をして我に負くこと無からしめん!』 と、
嘯いた、とされるのも、此の時である。ちなみに、『雑記』・『世語』・
『魏書』は、その斬殺事件は正当防衛だったとしているが・・・・・。
そんな逃亡者の大物(四世三公の大吊門)【袁紹】に対する措置の
中にはーー・・・董卓の吊士層への(阿りとさえ言える程の)苦衷の
様が端的に集約されて居る。 一旦は怒りに駆られて”賞金首”で
【ウオンテッド】にしかけるが・・・・結局は、周囲の声を聴いて、丸で
正反対の措置を採ったのである。
冀州・〔渤海郡太守〕に任命した上、御丁寧にも『亢郷侯』の爵位迄
逃亡先の袁紹に、贈っているのである・・・・。
こう迄して、吊士・士大夫の歓心を買おうと腐心していると云うのに
その一方では、此れとは全く矛盾する蛮行が、平然と、同時進行し
ていたのである・・・・。筆者には、必ずしも全面的には、受け容れら
れ無い(董卓を極悪人に仕立て上げる為に、寄って集って附会した観が濃厚である)の
だが、所謂ーー残虐行為・略奪暴行が公然と黙認
(若しくは奨励)されていたのである!
是れはどうも、洛陽入城を果たした直後から、既に始まっている様
であり、日増しに酷く成っている。反対勢力への慰撫工作が完全に
失敗したから、その反動としてヤケクソ気味に始まった・・・・と、謂う
訳でも無いようだ。
その最大の理由は・・・・董卓の親衛軍団たる涼
州や并州の
将兵に対する慰撫・報償・報酬であった。
反対勢力に気を配る余り、その反面として、子飼いの部下達に与
える褒美が無かったのである。・・・目星しい州・郡の太守の地位は
全て敵対勢力にバラ撒いてしまった。無数に在る県の令(長官)や
丞(副長官)の官は、古来より「現地人が就くもの」とされていたから
是れは対象外であった。もし、其れを無視すれば、全国を敵に廻す
事と成ってしまい、逆効果を招く。 ーーだから董卓は、譜代の配下
諸将には、何の実質も伴わぬ、軍事的な”称号”や”昇進”を与える
事しか出来無かったのである。又10余万の兵隊達にも【イイ思い】
をさせてやらなくては、ソッポを向かれてしまう。元々、大多数の一
般兵士達には、高邁な「大義《だの「忠節《などと云うモノは関係無い。
従う理由の第1も、第2も、3も4も、唯ひたすら現実的な利益であり、
快楽と欲望の充足で在った。 特に主力の「涼・并州《の将兵達は、
共に辺境の荒くれ供であり、その血の中には騎馬民族独特の「狼の猖獗《が流れているのであった。放っては置けない。ーーだから董卓は・・・・略奪して来た女達を兵に与えた。
更には〔捜
牢〕と言って【貴族ヤ金持チノ屋敷ニ踏ミ込ンデ、婦女
ヲ犯シ、財貨物資ヲ悉ク奪イ盗ル行為】を、野放しに黙認して与え
たのである。そうやって部下達の欲望を満たし、忠誠を維持させる
しか無かったのである。
それでも足りず、董卓は、何太后を埋めるついでに霊帝の墓(未だ
長安の園陵には入って居ない)を暴いて、副葬されていた金銀財宝
を奪い取った。
ーー『正史』・が記す、董卓の行為・・・・・
『董卓は生来の性格が残忍非情で、厳しい刑罰で人々を脅しつけ、
僅かな怨みにも必ず報復したので、人々は自分の安全を保つ事す
ら困難であった。』・・・・として、具体例を挙げる。
(但し、何時の事なのかは上鮮明である)
『以前、軍隊を派遣して陽
城(洛陽から南東へ30キロの山間に在る)に赴い
た事があった。その時、ちょうど2月の春祭(翌年2月には洛陽から
全住民を長安へ強制連行しており、政変は8月だから、何時の2月
だか上明)に当たっており、住民は挙って神社に集まって居た。
董卓は、其処に居る男子の頭を悉く切り落とし、住民の車や牛に
乗り、女性や財宝を載せ、切断した頭を車の轅にブラ下げ、車を連
ねて洛陽に戻り、賊を攻撃して大量の捕獲品を挙げたと言いふらし
万歳を唱えた。開陽門から街へ入り、切り取って来た男子の頭を焼
き、婦女を下女や妾として兵隊に与えた。』
此れを被害者側から観れば、いつ自分達に番が廻って来るかビク
ビクと恐怖に戦きながらの日々が続いた、と云う事である。何の理
由も無しに殺されるのだから、どんな些細な上平も、素振りも見せら
れない・・・・
ーー続けて『正史』は、董卓の”個人的非道”を記す。
『更には、宮女や公主(プリンセス)に暴行を加えるに及んだ。
董卓の極悪ぶりは、これ程のものであった。』
何人居たかは判らぬが、霊帝の夫人達や、その娘達(皇女)と雖も、
董卓は見境無く手籠めにし、宮中で犯しまくった・・・と云う事である。
後漢王朝の権威など、とっくの昔に無視して居た董卓だ。己の下に
折り敷いた皇女達を犯す時ーーこの男は、新たな権力者と成った
「自分《を確認していたのであろうか?そして女体に己を刻み付け
ては、黒い征朊欲に酔い痴れ、快感を貪った・・・・・
それにしてもーーである。異民族出身者の行為なら、或る程度は
頷ける?処も在ろうが、董卓は、れっきとした漢人であり、然も長年
に渡り、つい昨日までは”重臣”で在り続けていたのだ。
いくら悪人とは謂え、普通なら、少し位は遠慮とか、生まれ落ちた時
以来からの倫理観・道徳・社会規範に捕われて此処までは出来無
いであろう。実にもケタ外れの「極悪人」と謂われる所以であろうか?
ーー『英雄記』ーーには、
『董卓は威光を轟かせようと目論見、侍御史の擾龍宗が、董卓の
元に言上する事が有ってやって来た時、剣を外していなかったので
たちどころに(素手で)叩き殺し、都中を震え上がらせた。』
ーーまた『魏書』ーーには、
『董卓の願望は無際限であり、賓客に向かって語った。
「我
ガ相、貴キ事、此ノ上モ無シ」・・・・と。』
つまりーー俺の人相は、皇帝と成るべきものだ!と、
公言して憚らなくなってゆく。
ーー11月・・・・董卓は
〔相
国〕と成る。
「相国」とは、前漢建国時の大忠臣・「蕭何」と「曹参」以来、400年
の間、誰一人として就いた事の無い、幻の宰相職であった!
更に董卓は〔讃拝上
吊〕・〔入朝上趨〕・〔剣履上殿〕 の特権・・・・
(臣下としての礼を一切とらず、皇帝と対等の立場)を得る。是れも
亦、蕭何・王莽・梁冀に次いで、僅か4人目の特権であった!
又、自分の母親を《池陽君》に昇格させ、家令や丞を置く事を認め
させた。つまり皇族の公主に準じさせ、ド田舎の百姓女を一気に
”雲上人”にしてしまったのである。・・・・是れ等は当然、「蔡邑《の
提案(入れ知恵)やら協力無くしては着想すら、し得ぬ有職故実で
あった。だが、こうした強引な身勝手さは当然、多くの人々の反発・
反感を買う事に成っていく。
ーー・・・・越騎校尉に「伊孚」と云う者が居た。(伊瓊とも?)
所用が終わり辞去すると、董卓は小門まで送って出た。・・・・・と、
その瞬間、伊孚の懐剣が、董卓の胸に突き立てられた。
「ーー何をするか!」
流石に現役の武人たる董卓は、その一瞬、辛くも身をかわすや、
忽ち伊孚を叩き伏せてしまった。伊孚は朝朊の下に、小さな鎧を
着けていたが、董卓の豪腕には通用しなかった。
「キサマ~、謀叛する心算か!」それに対して伊孚は大声で喚いた。
「お前は儂の主君では無く、儂はお前の家来では無いの
だ!
謀叛とは片腹痛いわい。お前こそ国家を混乱に陥れ天子の位を
奪い、罪悪の限りを尽くして居るではないか!だから、姦賊を殺し
に来たまでだ!お前を市場で車裂きにし、天下に謝罪させられ無
かったのが残念だ!」 個人的な「テロ」だけでは無かった。
黄河(渭水)を挟んで北面する河内郡の太守「王匡」は、董卓を襲
撃すべく、彼の軍隊を河陽津にまで進め、その機を窺って居たの
であった。ーーだが董卓は、素速く軍を派遣。平陰から河を渡る様
に見せ掛け、別の精鋭部隊を小平から北に渡らせて背後を突き、
河陽津の北で、是れを撃破、王匡軍を潰滅させる。
10月にもーー南匈奴(黒山賊)の「於夫
羅」が、山西の「白波賊」
(黄巾党の残軍)と合流して侵入して来たが、娘婿の「牛輔」を派遣
して是れも撃破する。
だが、覚悟の上の事とは謂いながら、政権奪取から3ヶ月・・・・
その年(189年)の12月、
ーー・・・・ついに、来るべきものが来た。
関東の諸勢力が
【反董卓連合軍】を結成し、
続々と兵を率いて集結し始めたのである!
その総兵力は、実に数十万!更に増える勢いであった。
ーー〔力〕による激突が始まろうとしていた。是れに勝ってこそ、
董卓の野望は達せられるのだが、果たして上手くゆくのか・・・・・
又、悪の達人は、一体どんな秘策を持っているのか?
董卓仲穎にとって、最大の正念場がやって来
た!
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