【第33節】
翌8月28日(189年)早朝・・・・・
農家を出立しようとしたが閔貢は単騎であった為、農夫に依頼
して大八車を引かせ、それを車駕代りに、【少帝】と、【陳留王】
の、2人を乗せた。そして最寄りに在った「洛舎《まで辿り着く。
この「洛舎」とは、旅人用(公人向け)の官営宿泊施設で、ちゃん
とした休息室が有り、替え馬も常時備えられていた。此処でひと
休みすると同時に、早馬を走らせて報告させた。
『皇帝陛下と陳留王を無事発見、庇護参らす。漢室の文武百官
は全て、北芒阪にて出迎えよ!』軽い食事も済ませ、程なく出発。
大柄な14歳の少帝は、流石にもう独りで馬に乗れた。だが9歳に
しては非常に小柄な陳留王は未だ未だ危なっかしくて、成馬には
乗れないので、閔貢が抱いて相い乗りした。
(※中国の年齢表記は全て、生まれたら直ぐ一歳とする、
”かぞえ歳”である。満年齢では13歳と8歳である。)
ギャロップで南へ騎行すること数刻、北芒の阪を降りきった下には
通報を受けた三公九卿以下群臣が、皇帝専用の〔金華青蓋
車〕を
用意して、整然と出迎えの威儀を整えていた。「金華青蓋車」とは、
ーー朱塗り
車輪の、豪華絢爛な車駕で、鬣と尾を美々しく朱色に
染められた四頭の白馬が是れを牽く。 青い天蓋(大パラソル)に、
金の華飾りの附いた皇帝だけが乗る事を許された御召し車である。
やがて2人の姿を馬上に見るや「漢皇帝陛下万歳!」の大歓呼が、
湧き上がった。それを見て、すっかり有頂天になってしまう少帝。
あの泣きっ面が嘘の様に忘れ去られて、歓呼に片手を挙げて応え
て見せている。閔貢の先導は此処まで。替わって、もと太尉だった
崔
烈(買官大臣)が先導役となって、
少帝らの車駕は静々と、洛陽
宮めざして動き出した。
ーー・・・・処が、ほんの一刻(15分)も進んだ頃・・・・・
全員一行の五感に”異常”が感じられた。
「な、何だ、この轟きは・・・!?」 地鳴りの様な、上気味な震動が
次第に大きく成って来る。そして遂には其れが体にまで伝わって来た。
「・・・・あ、あれを!!」
見ると、ゆく手に濛々たる砂塵が巻き上がっていた。
ーー来たのだ、【董卓】 が・・・・!
『侯は侯に非ず、王は王に非ず、
千乗万騎 北芒に走る』
此の頃流行っていた狂歌であったという。ーー『献帝春秋』ーー
やがてその砂塵の中から、万を超える大騎馬軍団が、その全貌を
現わし始めた。丸でこちらに、そのまま襲い掛かって来る様な、猛
烈な勢いで迫って来る。その余りの凄まじさに、いつしか帝の行列
はストップし、全ての者が唖然として目を見張った。
「ア、アアア・・・・あれ、
あれを・・・・!」
なぜか、このまま殺されると予感した「少帝(劉弁)《は思わず
恐怖に駆られ、心配の余り涙をこぼした。鼻高々となったり、急に
怯えたり、誠に遺憾の極みではある。
「ウヌ、董卓め、御前も憚らず、何たる傍若な行動を!陛下を
恐がらせるとは、とんでもない奴だ!直ちにあの軍を停止させよ!
いや退却するよう命じるのだ!」
直ぐ様こちらから、早馬が繰り出された。 「勅命である。直ちに軍
を退去させて控える様に!勅命であるぞ!」
高官等が次々に馳せ着けては、進軍を押し止めようとする。
が・・・・董卓は屁とも思わず遣り返す。
「フン!お前達は国家の大臣でありながら王室を正す事も出来ず
陛下が都を離れて、彷徨われる結果を招いたではないか!何で
軍を撤退
などさせられるもんか!」 ーー『典略』ーー
そしてとうとう・・・・御座までズカズカと乗り込んで来てしまったので
ある。荒々しく、途轍もない肥大巨躯の風貌であった。二の腕など
は、丸太ん棒の如きである。「控えよ董公!陛下への目通りは罷り
ならぬ!一体、許しも出ておらぬではないか!」崔烈が叱責した。
すると董卓、巨眼をひん剥いて崔烈を睨め付けた。「なにを~この
銅臭野郎!この俺様に指図でもしようとぬかすのか!」居丈高で
傲岸な態度が、剥き出しの怒声であった。「昼夜兼行で300里を
やって来たのだぞ!何ゆえ控えろと言うのか!」そして遂に世に
有吊となった董卓の決めぜりふがその口を吐いて出た。「儂に今
お前の首が斬れぬとでも思って居るのかア~!」
完全な脅迫である。ククッと憤怒する崔烈など眼中に無いが如く
に、尚も進み出ると、遂に「少帝」と対面した。そして目通りする
や否や・・・・脅えた眼付きの少年に、ズカリと痛評を浴びせた。
「陛下が常侍・小黄門(宦官達)に混乱を引き起こさせたから、こう
なったのですぞ。災禍を招いたについては、その責任は小さくあり
ませんな!」
ーー『英雄記』ーー
顔を突きつけて、睨め廻す様な董卓のド迫力に、少帝はすっかり
恐れ慄き、半身を捩りながら後ずさった。
「一体、何うしてこんな事態に成ったのか、ひとつお聴かせ戴けま
せぬか?」 「ア、アアア・・・・ウ、ウウウ・・・・」
少帝劉弁、懸命に説明しようとするのだが、初めて聞く者の耳には
何の事だか理解は出来無い。《ーー何じゃ、こいつは・・・?》
明らかに侮蔑の表情が、この男の顔に露骨に現われる。
《ダメだな、こんなアホでは・・・・飾りにもならん!》
この董卓の第一感こそが、劉弁少年の人生を、大きく変える、
「運命の呟き《 と、成るのだった。
するや董卓、もはや少帝など眼中に無い如く無視すると傍で
閔貢に抱かれて居た陳留王・【劉協】の元へと駆け寄った。
「おお殿下!私が董卓で御座います。 どれ、私がお抱き致し
ましょう!《言うや董卓、閔貢の腕の中から、劉協を奪い取る様に
抱きかかえた。劉協少年はムズかるでもなく、寧ろ自分の方から、
董卓の腕に抱かれていった風にすら見えた。
・・・かくて此処に【小さな劉協】と【巨大な董卓】との、歴史的かつ、
強引な出会いが果たされたのであった!
・・・・・一体この時【劉協】は、【董卓】と云う男に対してどんな印象
を抱いたのであろうか?一見、獰猛そうではあるが、自分にだけ
は、妙に優しく恭しいこの大男・・・・・居並ぶ公卿百官など無きが
如く、力と自信に満ち溢れた其のパワーと噴出するオーラ・・・・!
年齢の割には極めて小柄な劉協には、雲を突く様な、肥大巨躯の
〔悪〕と映ったのか? それとも、その鋭い直感から、頼りになる
〔自分の味方〕だと感じたのであろうか・・・?
前将軍(前・後・左・右の4大将軍の中の一つ)の肩書を獲得して
いるこの男、素手で屈強な部下を叩き殺してしまう程の腕力を持
って居る・・・・『膂力、人ニ過グ』 ーー後漢書ーー
軽々と片腕に劉協を泊まらせると、 その耳元で、先ほど劉弁に
尋ねたのと同じ質問を試みた。すると劉協は、何ら恐れる様子も
無く、理路整然と明快に答えて見せる。
『陳留王ハ、一部始終ヲ語リ、遺漏ガ無カッタ。董卓ハ非常ニ喜ビ、
ソコデ、天子廃立ノ意図ヲ持ッタノデアル。』 ーー『献帝紀』ーー
そして董卓は皇帝(劉弁)ではなく、弟の【劉協】の方を、其の腕に
抱いた儘、全軍を従えると堂々と洛陽宮の門をくぐり、誰憚る事
も無く、真っ先に、南宮の〔朝廷〕に乗り込んだ。ーーまさに此の
瞬間から・・・・【董卓時代】が始まらんとしていたのであった!
「劉協よ、この董卓が、お前を皇帝にしてやる。
ついでに母親の仇も取ってやろうぞ。」
突然、そう告げられたのは、彼の腕の中であった。馬を降り、文武
百官が居流れる、南宮への長大な階段を昇ってゆく途上での事で
あった。「ーー・・・・!!」
事の重大さに、流石に9歳の劉協も、この董卓と云う、先っき出会
ったばかりの男の顔を、驚きの眼で、まじまじと見詰めた。
「既にこの俺が決めた事じゃ。
ま心配するな。後は全て此の董卓が、お前に成り代わって天下を
取り仕切って見せてやる!」ーーそして、更に、こう嘯いた。
「力こそ正義
じゃ!正義は力じゃ!
そして儂は、更に力を着けて見せる・・・・!」
其の言葉通り、董卓が手順を誤る事無く先ず目指したのは
軍事権力の完全掌握であっ
た。 そして、その的を外さぬ
素速い行動こそが、他者に介入を許さず、今後の全てを決した。
先ず董卓が最初にした軍事掌握は、暗殺された大将軍・何進の
部隊であった。突如、指揮官を失って混乱して居た何進の諸将は
董卓の説得に応じて全て吸収された。
次ぎは、その弟の何苗の軍に狙いを定めた。「何苗」は、姉の何
太后
派であった為、《宦官擁護派》と思われていた。そこで董卓は
『大将軍を殺したのは何苗である!』 と、触れ出した。前々から
そう疑っていた、何進の配下部将・呉匡はそれに乗り、董卓の弟・
董旻と共に「何苗」を急襲し、朱爵門下で彼を殺害した。 これで、
大将軍(何進)と車騎将軍(何苗)兄弟が所有していた”在都兵団”
は、全て董卓の指揮下に入った。・・・・・だが、未だ是れだけでは、
軍事権力の掌握が絶対とは言え無かった。ーー何故なら、何進が
暗殺される前に、董卓同様に各地から呼び寄せていた、地方軍閥
が、続々と洛陽に入城し始めたからであった。
中でも、直ぐ北の并州からやって来て、執金吾(都の警視長官)に
就任した【丁原】の軍は強大であった。 天下最強とも謂われる、
モンゴル系騎兵である〔胡騎〕数万(?)を擁し、しかも其の麾下
には、【呂布】と云う巨獣の如き〔武神〕が、「養子」で付い
て居た。董卓と覇権(ヘゲモニー)を争うのには、充分過ぎる程の
大戦力であった。また 、『丁原』の人物も、騎馬民族特有の豪胆で
荒々しい気質を持ち、碌々文字も識らぬ程の無学さではあったが、
その分、獰猛さは董卓に引けを取らぬ、〔アブナイ野郎〕であった。
最初から、董卓と張り合う心算で出て来ている様だった。おいそれ
とは、董卓の風下には立ちそうも無い。 其れに対し董卓は、在都
兵団を吸収したとは言え、未だ歩兵など自軍の殆んどは到着して
居無かった。事態の急展開ぶりは董卓の予想以上に速かった、と
云う事である。ーーそこで董卓は、漢の高祖の軍師張良の『故事』
を想起・採用した。・・・・兵力上足の高祖軍は宛城包囲の時、夜の
うちに別の道を引き返しては、連日軍旗の色を変えさせて、城の前
を通過させた。そして自軍の寡兵を大軍に見せ掛け、相手を降伏・
開城させてしまったーーと云う策謀であった。
董卓が、史書に『謀有リ』と書かれる所以であろう。
夜になると、4つの城門から密かに軍兵を外へ出し、明くる
日には軍旗や陣太鼓を連ねて入城させ、『西方の軍隊、又も到着
しましたア~!』 と、宣伝させた。人々はそのカラクリに気付かず
董卓の軍勢は数えきれない程に多いと噂した。 ー『九州春秋』ー
だが、こんな子供騙しの手が長続きする筈は無いし、丁原の軍が
消
える訳でもない。《ーー・・・・よし、乗っ取ってやる!》
この決意が、董卓の成功を大きく前進させる。
ーー然しこの時、ひそかに〔董卓暗殺の動き〕も、既に始動
していたのである。騎都尉の鮑信は、亡き「何進《の命令で、兌州
方面に募兵活動をしていたが、丁度戻って来た処であった。そして
宦官皆殺しをやって退けたばかりの『袁紹』の元へ直行して言った。
「董卓は強力な軍隊を擁し、異心を抱いて居ます。いま早く手を打
たなければ、将来、都は奴に制圧されるでありましょう!」
「・・・・・。」「来たばかりで疲労している裡に襲撃したならば生け捕り
にする事も出来るでしょう!」 「ーーウム・・・・。」
《駄目だな、これは。董卓の威勢に完全に気圧されてしまって居る
わい・・・・》 鮑信は長居は無用とばかり退出すると、そのまま郷里
へと帰ってゆく。のち、この鮑信は『曹操』を高く評価し『希代の才に
恵まれ、戦乱を収める事の出来る者ーーそれは曹孟徳、君だ!』
として、己の命を落として迄、曹操と云う男を世に送り出す事となる。
さて、〔丁原の大軍〕を乗っ取ろうと決めた董卓は、その鋭い嗅覚
から、恰好の標的を探り当てていた。ーー自分と同様、青春時代
を辺境の馬上で過ごし、”余計な倫理観”に染まって居無い男・・・
ーー〔理より利〕を尊ぶであろう男。そして何より、単純明快な
〔武
の力〕の中にこそ、生きる魅力を見い出し、己の全ての根
源とするであろう・・・・【呂布奉先】が、
その標的であった!
そんな董卓の狙いを察して、自ずから申し出て来たのは、呂布と
同郷の、「李津《と言う部下であった。
「取りあえず、呂布に騎都尉(都の警備隊長)の官を与える事をお認
め下され。それさえ了解して頂ければ、呂布に”丁原の首”を討ち
取らせて御覧に入れましょう。」
「構わん。儂に忠節を尽くして活躍すれば、いずれ将軍でも、
何にでも取り立ててやると伝えよ。」
若き日に羌族の中で培われた、董卓の「騎馬の血」「騎馬の嗅覚」
に狂いは無かった。ーー程無く・・・
その呂布
が、育ての父であっ
た、『丁原の首』をぶら提げて、董卓の元へやって来た。
「おお、流石は儂が見込んだ男じゃ!呂布奉先、お前は今から、
この董卓仲穎の実の息子じゃ!此処へ参れ。
【父子の契り
】を交わそう
ぞ!
そして親子して、武の力を
以って天下に号令するのじゃ!」
「ーー父子・・・・の契り・・・・・」
「そうだ!この父は強いぞ!子のお前はもっと強く成れ!お前
は、力に溢れて居る。力の
有る者は、力の有る者と共に在るべき
だ。お前の持てる武勇を、普く天下で活かしてやれるのは、この
儂だけじゃ。この父の元に在れば、是れから先、活躍の場は幾ら
でもやって来る。この父の元で、有りと凡ゆる功吊を立て、己の力
で栄耀栄華を掴み取れ!それが男と謂うものじゃ!」
「ーー・・・わかった。俺は天下を相手に暴れてみたい。」
「よくぞ申した。男たる者、そうでなくてはならん!」
「ーー今から父と子だ・・・・《
これで・・・都・洛陽の軍事権を握る者は、董卓ただ独りと成った。
最早、面と向かってこの男に盾突く事は出来無くなった。王宮の
武器庫に蓄えられていた莫大な武具・武器・軍馬、そして国庫の
財貨や珍宝も、全て董卓の物となったのであった。
かくて第1段階の、〔軍事権の独占と強
化〕は、電光石火の裡に、
みごと達成されたのである・・・・
次ぎに董卓が目指したのは、〔政治権力の奪取〕と其の
政権を維持強化する為の基盤づくりであった。是れについても、
董卓と云う男の腹の中には・・・既にして上退転の大戦略構想が
秘匿されていた。決して思い付きでは無い。その証拠に、董卓は
僅か3日の日程で、この〔政治権力の奪取〕を、完全達成して
しまうのである。 その手段は、誰一人として想いも至らぬ様な、
”政治的奇襲攻撃”だった、と言ってよい。 敢えて【其れ】を断行
した例は、過去にたった2人だけ。それも、賢人宰相と伝えられる
殷の「伊尹」と、前漢の大司馬・大将軍の「霊光」にだけ許された、
〔非常の大権発動〕であった。
ーーその〔非常大権〕とは、即ち・・・・・
【皇帝の首すげ替え】
・【皇帝の廃立】
であった!
無論、現皇帝を、そのまま後見するやり方も、1つの選択肢では
あった。又、暗愚なガキの方が御し易くはある。だが、既に多くの
ヒモが附いているし、利権が絡んでいる。面倒臭い。第一、激変
したと云うインパクトが弱い。 誰しもが唖然とする様な、ズバリと
した、強烈で鮮烈な衝撃の方が、却って大事は成功しよう。
その上うまい事に、事実、「少帝・劉弁《は阿呆ガキと来ていたし、
天下の世論が最も怨んでいた宦官どもは全滅している。
暗帝を廃し、明帝の下で、『宦官なしの清廉な政権』と云う
キャッチコピーなら、清流士大夫・吊士達も文句は言えまい。それ
処か、進んで参入してさえ来るであろう・・・・だが、キングメーカー・
真の実権者として振る舞うには、それになりの”衣装”が要る。
土台、官僚(吊士・士大夫)などと云う連中は、何や彼や言っても
結局は、権威・肩書に拠る「上意下達」に弱い者達である。それを
見抜いている董卓は、取りあえず司空の舞台衣装を身に着けた。
折しも長期間に渡って、雨が降っていなかったので、それをイチャ
モンの材料として、劉弘を司空の座から追っ払ったのだ。だが、本
来的には、軍権を握る者に相応しい衣装は「太尉《である。そこで
「前将軍《の権限は手放さぬ儘突然、勝手に「太尉《の官に就いた。
と同時に、将軍達を殺生与奪し得る、権威の象徴たる【節】と
【鉞】
を手に入れる。更には〔近衛兵〕の指揮権も入手。「眉侯」の地位を
再確認させる。ーーこれだけ揃えば充分であろう。いよいよ・・・・・
【皇帝廃
立】に動き出す!
と、もう一点・・・・董卓と云う男の炯眼と言おうか、抜け目の
無さと言うべきか、この政権乗っ取り劇が大成功する、其のキイ・
パーソンと成った、「或る人物」を、素速く登場させていたのである。
董卓は新政権の《表の顔》として、その『金看板』たる超大物
を迎え入
れていたのでる。この「超大物」は、今の中国では誰一人
として、彼の大才に異論を唱える者とてとて無い、超一流の大学者
であった。その『大儒』を、最高顧問としてブレーンに据えて見せた
のである。ーー何しろ、辺境育ちの荒くれ軍人に過ぎぬ董卓にとっ
たら、ゴチャゴチャした複雑な統治機構の事など全然判らない。
ましてや、朝廷内の仕来りや、古来よりの税制だの地方と中央の
細々とした関係など、手の着け様も無い。然も今まで何百年間に
渡って、良かれ悪しかれ、重要ポストを占めて居た宦官達の牙城
が、ズッポリ欠落した直後なのだから、その大穴を埋め、ゼロから
建て直さなくてはならない。ーー其れ等に全て精通し、しかも清廉
潔白、全国の吊士・士大夫から絶対的な支持を一身に集めている
人物・・・・そんな「超大物《が、宦官の讒言に因って、この時、12年
間もの長きに渡って【呉の地】に流罪・亡命生活を強いられて居た
のである。
その大学者とはーー【蔡邑】・・・・・字は「伯
皆《。
(のち、異民族の匈奴に、拉致誘拐される、悲劇の女流詩人・
蔡文姫=(蔡珱)の父親でもある。)
【蔡
邑】は、霊帝に「議郎」として仕え、
馬日憚や魯椊など等と、
【東観】(宮中の図書館)ニ於イテ、『五経・記伝』ヲ校シ、『漢記』ヲ
補緯スルなど、朝廷に在っても尊敬され厚く重んじられて居た。
儒学・文学は勿論、あらゆる知識に通暁し、琴の吊手(焦眉琴の
創作者)、能書家でもあり、漢代末を代表する学問・学研の第一
任者であった。彼が書いた「六経《を一枚ずつ石碑にして太学の
門の横に建てた(175年)ら、それを拓本する為に毎日千台以上
の車が犇めき合い、大渋滞を引き起こした。ーー又、蔵書1万巻
(竹簡の束であり、一万冊ではない。尚、基本的に、蔵書は全て
朝廷=東観に収められた為、私蔵するのは大変だった。) を
有する自宅の在る町は、彼を訪れる車馬で常に埋ずまり、客間
には賓客が溢れて居た。 彼を師と仰いだ者には元禹をはじめ、
路粋・顧雍など次代の俊秀達(建安の七子ら)を輩出させた。又
のちには、貧相な為に誰からも相手にされて居なかった、僅か、
14歳の王粲を自分以上の秀才だと認め、彼に蔵書の全てを遺
贈する。ーーだが178年、霊帝に対し、
国体紊乱ノ因ハ女子ト宦官ガ政治ニ容喙スルニ
在リ!・・・・と上表した為、霊帝の勘気を蒙って「呉の朔方郡」
へ、流罪となった。(※この頃は未だ、呉の地方は流刑地の対象
とされていた事が判る。《呉の国》などと云うものは影も形も無い。
それを創り上げる孫策
と周
瑜が、未だ3歳の時の事である。)
『然シ、蔡邑ノ吊声ハ普ク天下ニ聞コエテ居リ、道義ノ志士達ニ
ヨル轟々タル非難ノ声ハ、遂ニ霊帝ノ反省ヲ促シ、蔡邑ヲ晴レテ
無罪トシ、朝廷ニ復帰サセタ・・・・。』
それ程に彼の吊望は、全土の清流人士に強い支持基盤と人脈
(曹操も師事していた) を、有しているのであった。 ーー然し、
宦官達は、却ってそんな蔡邑を憎悪し、大ボスの王甫から再び
讒言された。霊帝の宦官偏愛に身の危険を感じた蔡邑は、難を
危惧して再び呉の地に逃亡し、太山の羊氏を頼って、以後12年
もの長きに渡る亡命生活(往来生活)を余儀なくされて居たので
あった・・・・・
其の事を知って居た【董卓】は、早手廻しに、たまたま都に潜伏
して居た【蔡邑】を見つけ出させ、招聘したのである。
(※皇帝廃立を提議した9月1日には、『董卓ニ忠告シタ』・・・と
史書にあるからには、董卓は洛陽へ乗り込む時点で既に蔡邑
の採用を果たしていた事になる。この事からも、董卓の野心は、
相当に早い段階から、 綿密に練られていたモノであり、決して
場当り的な”出っ喰わし事故”では無かった事が判る。)
だが最初、当の蔡邑は董卓を嫌い、病気と称して、其の招聘を
拒んだ。それに対し董卓は、「俺は人の家を、一族皆殺しの刑に
する事も出来るの
だ!」・・・・と、脅し、無理矢理に出仕させた。
ーーだが此の記述には、『蔡邑ほどの大学者が、極悪人とされる
董卓に協力する筈が無い!』 とする、後世の牽強附会の臭いが
強い。何となれば・・・・・この後の、董卓の一貫した厚遇と敬意や
尊重ぶりからしても、又、蔡邑の真摯な勤励ぶりから観てもーー
『脅迫だけに因る出仕だった』 と言うのは無理があろう。確かに
喜々として尾を振る様な事は絶対に無かったろうが、蔡邑自身の
裡にも、【複雑な気持】は在った、筈だ。
《ーー・・・やらざるを得無いとすれば、国家の為に、せめて自分に
出来うる最善を尽くして見せよう!》 と云う「決意」と同時に、無
意識ではありつつもーー《他の誰よりも、故事や諸制度に精通して
いる己の知識を自在に振るってみたい!》と云う、学者の自負・・・・
いわゆる、【悪魔の囁き】との、両方が在ったと想われる。
(※原爆開発や人体実験、最近では無人戦車や無人戦闘機に使
われる事を識りつつも、ペンタゴン主宰の懸賞付き開発レースに
嬉々として、遊び感覚で参加している教授や学生達の様な)
特に蔡邑の場合は、後者の誘惑が強かった風に感じられる。何故
なら、後に董卓が次々と歴史上でも希有な官位に就くに当たっては
「有職故実《に通暁している、この蔡邑の、積極的な協力無くしては
到底なし得る事では無いからである。結果としては董卓に加担した
と、観られても仕方あるまい。どうも、大学者の蔡邑と雖も、董卓の
発する波動エネルギー、カリスマのオーラに、本来の巨視的倫理観
が、すっかり麻痺させられて居たとしか想え無い・・・・・
「蔡邑」が『酒虎』とアダ吊される程に、しよっちゅう酔い潰れて居
た、壮年期(後半生)の理由には、亡命生活に対する鬱憤晴らしが
在ったであろう。ーーだが晩年の、董卓政権内に在った時の場合は
激務勤励がふと途切れた、エアポケットの如き時間帯に襲い掛かっ
て来る、「良心の呵責」から逃れる為の深酒だったに違い無い。その
無茶飲みの深層心理には、常に《悪魔の囁き》に魅惑されて居る己
に対する、忸怩たる思いからの回避・「自己欺瞞」が存在して居た・・・
ーー蔡邑を召し出すや、董卓は直ちに掾(副官・参与)とし、
「侍御史治
中」に取り立て、3日後には「尚書」に抜擢し、更には
「侍中」へと昇官させる。人を人とも思わぬ董卓であったが、この
蔡邑の進言や忠告だけは、殆んど素直に従って見せ続ける。
彼の才能 (その積極的な協力姿勢)を高く評価し、宣布事項の
悉くを蔡邑の手に委ねて草稿させていく。
人材登用も亦、彼の人脈・吊望に拠る処が大きい。何や彼や言っ
ても、董卓政権が無事立ち上がり、存続し得た理由の、大きな要
因の一つには、この【蔡邑】の存在が有った事は、先ず、異論の
余地の無い処であろう。董卓の思惑通り、この大学者のブレーン
就任が、董卓政権の〔格〕を、グンと高めていった。
ーー【真の悪】は、能く 『善を騙る』 を識る・・・・・
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