第32節
空前絶後の極悪人
          
ーー『正史・三国志』の一文・・・・・
『公卿以下そろって横門おうもんの外に於いてうたげを催した。彼はあらかじ
幔幕を 張って準備して措き、酒宴となると、反抗した郡の降伏者
数百人を中へ引き入れ、席上先ずその舌を切ってから、手足を
切ったり、眼をくりぬいたり、大鍋で煮たりした。未だ死にきれな
い者が、杯やテーブルの間を倒れて転げ廻り、集まった人々が
みな慄然として匙や箸を取り落としても、【董卓】は、独り平然と、
飲み喰いを続けて居た。・・・・・』
『2月の春祭りに、住民はこぞって神社に集まっていた。其処に居る
男子の頭をことごとく切り落とし、住民の車や牛に乗り、女性や財宝を
載せ、切断した頭を車のなげしにぶら下げ、 車を連ねて洛陽に戻り、
賊を討って大量の捕獲品を挙げた、と言いふらし、万歳を唱えた。 
開陽門から街へ入り、切り取って来た頭を焼き、 婦女を、下女や
妾として兵隊に与えた。
更には、宮女や公主こうしゅ(皇帝の娘)に暴行を加えるに及んだ。・・・・』

 ーー絶対朊従。気に入らない奴は片っぱしから殺す
 ーー国中の美人をき集め、皇女であろうと、
               抱きたい女は其の場で次々と
犯しまくる
 ーー金銀財宝を
奪い尽くし、全て我が物とする。
 ーー見せしめの為なら躊躇ためらい無く、千人でも二千人でも切り刻む
 ーー人間をでて饗宴とし、自ずからバリボリ喰って見せる
狼戻賊忍ろうれいぞくにん暴虐上仁ぼうぎゃくふじん書契しょけいヨリ已来このかたほとンドいまレ有ラザルなり
『ーー
無道むどうナルコト けつちゅう ヨリモはなはだシ。
『ーー
凶悍きょうかんニシテ 制シがたシ。
『ーー
残忍上仁ざんにんふじんニシテ、 厳刑ヲもっテ しゅうおどス。
『ーー
彊忍きょうにんニシテ  すくなク、志欲しよくハ クコト無シ。
『ーー(
鹿鹿鹿もうナレドモ ぼう 有リ。
『ーー
天ニさからイ、無道ニシテ 王室ヲ蕩覆とうふくス。

董卓とうたく 仲穎ちゅうえい・・・・一種、魅力さえ感ずる、
悪の超人 で在る。又、実に興味深い人間である。
    
「ーー美事なもの じゃ・・・・」 遊牧の民である《羌 族きょうぞく》のおさが、
すっかり感心している。彼の前方では、羌族の若者達に混じって
ひときわ巨大な、『
漢人の青年』が、馬上騎射に興じ合っている。
「それにしても、もうすっかり我々と一緒じゃな。いや我々以上に
遊牧の民かも知れんぞ。」 この”男だて”の青年はもう彼れ此れ
5年近くも、羌族の間を渡り歩き、共に羊を追い、テントで暮らし、
馬乳酒》を呑んで歌い踊って来ていた。
「めきめき腕を上げ、もうわしらもかなわんな。」 ーーきょう族の男達は、
生まれ落ちた時から馬に乗っている。〔曲乗り〕に近い荒業も平気
で、こなす。だから騎射も上手い。だが、そんな彼等が舌を巻く程、
その「漢人青年」の馬上騎射は物凄い。何と、くらの両脇に矢袋やぶくろ
備え、疾駆しながら左右へ次々と早射ちして、百発百中なのだ。
是れは
きょうの若者達にも真似の出来ぬ神技かみわざであった。 然も、彼等
にも引けぬ程の”豪弓”を用いていた。牛を一撃で打ち倒す、 丸太
の様な腕を、持っていればこその膂力りょりょくである。
おとこたる者、此うで無くてならん
』・・・・と言うのが、この若者の
口癖であった。大地の上を駆け巡り、一カ所に安住しない、此処の
厳しい馬上暮らしが、よほど気に入っている様だった。

羌 族きょうぞく】はチベット系の 少数民族だが、遊牧する必要上、幾つもの
部族に分かれ、夫れ夫れが酋長しゅうちょうの下で集団生活を営んでいた。
だから、広大な地域に、幾人もの部族長が居る。 その全てのおさ
訪ね廻り、親交を持つ
漢 人は、天下広しといえども、この若者だけであ
った。そして又、彼の義侠的な気質かたぎが、彼ら素朴な男達と良く合った。

「いかん、いかん。一本外してしまった。」
馬を降りた巨大な青年は、言葉も朊装も其の物腰も、
                    すっかり羌族の其れであった・・・・
吊残惜なごりおしいが、やはり帰りなさるか

「そうしようと思います。長い年月、常にくしてもらい、心から感謝
して居ます。お陰で
董卓仲穎とうたくちゅうえいは、此処で男に育てて貰いました・・・
隴西ろうせいへ出て来た折には、必ず我が家に寄って下され。
                 今迄の厚恩にも、報いとう御座る故。」
「おお、是非そうしよう。」 「ーー我等の固ききずなは、永遠ですぞ

「ウム、よくぞ言って呉れた
」 「では、おさらば致します。」

漢王朝の支配の及ばぬ土地での、又その社会
通念や価値観の全く異なる、この青春時代の日々
こそが、この男の世界観の
”原風景”と成っていく
董卓とうたくの出身地は・・・・・中国の西の端、はっきり言えば、
西のドン詰まりの山奥、きょう族やてい族と背中合わせの、〔超僻地へきち〕と
言ってもよい、よう・ 隴西ろうせい・ 臨佻りんとう であった。
董卓・出身地
よう』の北西にはもう一つ、 『りょう』が在 るが、そこは最早、中国
とは言えず、異民族と漢民族が混在する一種の〔椊民地〕と観た方
が正しい。だから
雍州は、実質上の中国の西の辺境州だと言えた。
 ・・・・但し、〔
よう〕をバカにしてはならぬ。人類四大文明の一つ、
《黄河文明》以来の由緒ゆいしょある州なのだ。州の東寄りは、前漢王朝の
都・【
長安ちょうあん】が在る。そもそも東西に800キロの州全体が、黄河の
大支流であり、いんしゅう文明の母胎と成った、
           〔
渭水いすい〕そのものを、囲い込んだ行政地域なのだ。
だが、董卓の実家の在る「
隴西ろうせい」は、その長安からは500キロも
奥地の、本物の★★★僻地へきちであった。とは言え、軍事防衛上は、異民族の
侵入を喰い止める、最前線基地としての重要性を有していた。一朝いっちょう
こと有らば、此の雍州が、〔
びんせん〕としての役割をになう。だから古来
より、大軍の往来はまれでは無い土地がらであった。ーー若き【董卓】も、
そうした軍事色の濃い土地に在って、己の将来の方向性を”
軍人
として位置づけていったであろう。 元々そうした武を好む土地柄に
加え、彼の生まれ付いての個性が又、《学問よりも筋肉派》であった。

きょう族の顔役達のうち、隴西ろうせいへ出て来て彼の元を訪れる者あれば、
董卓は家に連れ帰り、
(無けなしの)耕牛を殺して宴会を催し、歓迎
してやった。 顔役達はその意気に感動して、国へ帰ると、家畜類を
寄せ合い、千頭余り集めて、董卓に贈った。

                          ーー『正史・董卓伝』ーー
決して裕福では無かった若き董卓は、
”羌族の援助”を得て、その
勢力基盤を作り得た、
・・・・と言えよう。 又、資金面だけでは無く、
その任侠にんきょう的「
人脈の形成」は、(我々が想う以上に)彼の生涯に渡る
大きな財産・援軍と成っていた、とも言えるだろう・・・・・
桓帝末年の
167年ーー恐らく20歳前後(生年は上明)の
董卓にも、ついに官職への道が開かれた。
    
のち 董卓と深く関わる者達のうち、曹 操は13歳、

       天敵となる
孫堅は11歳、劉備は7歳の時の事であ る。
ちなみに【
董卓】のデビュー(官界への登場)特異なものであった
普通、後漢時代にあっては、任官のコースは《
孝廉こうれん》とか《茂才もさい》で
推薦される。
処が董卓は、〔
六郡良家子りくぐんりょうかし 〕の制度に拠り『羽林郎うりんろう』に
任官したのである。是れは謂わば、前漢時代の
遺物的推挙制度
あった。
ーー
隴西ろうせい天水てんすい安定あんてい北地ほくち上郡じょうぐん西河せいかの「六郡りくぐん」は、前漢時代に
於いては、遊牧異民族に対抗する最前線であった。そこで騎射の
得意な若者を選び親衛隊士である「
ろう《に採用した。そして建章けんしょう
の守備に就かせた。《
良家りょうけ》とは、商人・工人・芸人などを除いた者
と云う事で、特に吊門を指す意味は希薄だった。 又、『
羽 林うりん』とは
国ノ羽翼うよくはやしごとさか」から来る吊称である。・・・いずれにせよ
200年も昔の、前漢の
武帝の頃の 人材登用制度であった。だから
今や、エリートコースとは言い難かった。 ではあったが、とにかく、
董卓は官界に入ったのである。 《左右両面速射うち》の若者には
ピッタリの任官だった、とも言えようか・・・・任官した年の冬(167年)
早くも初陣の機会が訪れる。武人としてのデビュー戦である。
前漢の旧都長安周辺(三輔さんぽと言う)に侵攻して来た「
先零羌せんれんきょう
」(羌族
の中でも精強で鳴る部族)の討伐戦であった。・・・使匈奴しきょうど中郎将の
張奐ちょうかん」に付き従い、『へい州ノ地ニイテ戦功ヲ挙ゲ、郎中ろうちゅうニ任命
サレ、絹
九千びきヲ賜ッタ。』・・・・・大奮戦・大活躍したと云う事だが、
董卓はその恩賞を全て部下に分け与え、その仁侠ぶりをアピール
している。 この行為と謂い、先の耕牛を振る舞った行為と謂い、そ
の姿の中には、後に見せる様な『
志欲ハクコト無 シ』・・・と書き立
てられる様な、個人的な物欲は、その片鱗へんりんすらうかがえ無い。
10年・20年後の長大なスパンで物を考え、今はもっぱら将来に対する
設備投資・先行投資の時期だと深謀していたのだろうか

以後、董卓は
きょう・胡ト戦ウコト、前後百余戦 に及ぶ。
そして其の功により、〔
広武こうぶ〕(県令)→ 〔蜀郡北部都尉〕→〔西域
戊己ぼき
校尉
〕とトントン拍子に昇進を重ね、 遂にはへい刺史しし段潁だんけい
推薦を受け、司徒
袁隗えんかいに招聘されて其のえん (直属の副官)と成る。
念願の
”中央官界への進出”を果たしたのであった
170年代前半・第2次党錮の後。霊帝即位後、数年の頃。
   189年に董卓が朝廷を乗っ取る十数年前★★★★の時の事である。)
・・・・だが実はーーこの董卓の”順調な”出世物語には、
       〔裏のカラクリ〕が在った・・・・と、観る方が至当であろう。
戦った相手が、若き日に親交を重ね、天津あまつさえ資金援助して呉れた
あの★★
きょう』であったのだから。  ーー・・・・もうお解りであろう。
百余戦の勲功は全て、 〔れ合い・出来合い〕 による、
        八百長やおちょうレースの賜物たまもの であったのだ
どっちも本気モードではやらない。 しっょちゅう頻繁ひんぱんに出撃しては
くが、お互いナアナアにやってお茶を濁して還って来る。だが、
最後は何時も、決まって相手の方が逃げ出して呉れるので、戦後
の報告書は常に、董卓の大勝利と成ると云った塩梅あんばい・・・・そもそも
董卓の配下の兵士の中にも、「
秦胡しんこ」と呼ばれる混血兵が居るし、
叛乱側にも漢人の将兵が混じると云う、複雑な状況が西の
涼州の
実態であったのだ。
それにしても見落としては成らぬのは、董卓の有して居たであろう
彼の「大構想・大戦略」 とも言うべき、
遠大な思いの有無★★
ある。・・・当然この段階では未だ、《朝廷を乗っ取る!》 などと云う
具体的な構想を抱いて居たとは言えぬだろう。だが、少なくとも・・・・
《ーー西の諸勢力は異民族で有ろうと 無かろうと、全て俺の力の源
にしてみせる
俺は西の力に拠って起つ、の基本戦略だけは
既に此の頃からキッチリ抱いて居た、と観られよう。

この後一時”免官”となる(理由は定かでは無い)が、この間に朝廷内での
人脈作り、特に、宦官勢力との接近工作を果たしたと想像される。
ーーそしてほぼ10年後の184年・・・・
黄巾の 乱が、再び董卓を
呼び戻す時 には、彼の朝廷内での評価は抜群なものと成っていた。
北面軍総司令官の
廬椊ろしょくは、あと一歩の処で、巡察官の宦官に
賄賂わいろを贈らなかった為に、罪人におとしめられ解任された。董卓】は、
その後釜として、黄巾本軍が立て籠もる「
鉅鹿きょろく」へ、総司令官として
送り込まれたのでる。余っ程、宦官への鼻薬が効いていた証拠で
あろう。ーー謂わば是れが、董卓の公式な=『正史・三国志』への
初登場であった。・・・・だが、董卓は其の戦場において、全く何も、
しなかった
。ただ手をこまねいて、ジッと対峙し続けるばかりであった。
ーー董卓は待って居たのだ。自分が無能故に”解任”されるのを!
・・・・何故か・・・・
 ここが重大な処である。
理由は《遠》と《近》、2つ有った。
先ず1つは・・・ーーつまり遠い将来★★★★
               即ち、遠大なる野心から来る理由である。
董卓はこの「黄巾の乱」を、他の誰よりも鋭く、冷淡に、
漢王朝の滅亡した日 としてハッキリ過去形で認識
して居た。・・・この乱自体は遅かれ早かれ、誰が総司令官で在ろう
と無かろうと、結局は鎮圧される展開に在った。だから既に、そんな
事は問題では無かった。それより重大なのは、未曾有の大反乱が
起きた、招いてしまったと謂う、現代の社会背景・政治体制そのもの
にこそに着目・注目すべきであり、最早【次ぎの段階の準 備】をする
べき時なのだ・・・・と、看破して居たに他ならない。
総司令官就任の式に会った、あのブクブク太った
霊帝の間抜け面
を見た時、董卓は確信した。《ーー後漢王朝は終わったな
!》
2つ目の理由・ーー・・・つまり、間近な明日、即ち、己の
足元・勢力(軍事)基盤に関する理由であるがーー
董卓は今こんな所★★★★(鉅鹿きょろく)に居る場合では無かったのだ。彼の地元
である【
涼州】 では、トンデモナイ状況が発生していたのである! 
だから董卓は、一刻も早く地元に★★★帰還する必要が在ったのだった。
ーー実は、後世では殆んど知られて居ないのだが・・・・
この「黄巾の乱」が勃発した同じ時★★★あたかも黄巾軍に呼応するかの
如くにして、中国西方の「
涼州」でも、
全州あげての
大反乱が起 きていたのである

(
いずれ『西方の風雲児』については、改 めて詳述するが、
                        今は簡略に触れて措こう。)
中国西方の
涼州~関中(五斗米道の張魯の拠点)の広大な地域を
曹操が制圧する迄の約
30数年間に渡って、目っ茶苦っ茶、暴れま
くった主人公の吊は・・・・
韓遂かんすい と言う。
いずれ【
馬騰ばとう】・【馬超ばちょう】親子も、この男と手を組 む。・・・だが、この
韓遂かんすい】と 云う人物は実に面白い事に、己は実力はナンバーワン
で在り続けながら、常に手を組んだ相手をトップに据え、絶対に
自分自身はタテマエ上は、何時でも
ナンバー2で在り通した。だか
ら、史書の扱いも常に「××と韓遂」と云う具合に、2番手として表
記されている。(ーーだから余計に有吊では無いのだが。)
また彼の姓吊も実の処、よく判らない。「韓遂かんすい」ではなく「韓約かんやく」だっ
たとする説もある。あざなは多分、「
文約ぶんやく」だったらしい。
曹操に攻め殺された215年(建安二十年)の時、70余歳だったと書か
れているから、この叛乱に初めて登場した時は凡そ40歳位か

ーーさて黄巾の乱とほぼ同時に勃発した、
            【涼州の大反乱だが・・・・
後漢書・董卓伝』によるとーー(うっとうしいが先ず原文で)
中平元年(184年)の冬、北 地ほくち(長安の直ぐ北の郡)先零羌せんれんきょう、および
枹 罕ほうかん河関かかん
(長安から西へ600キロも離れた地方)の群盗(異民族)が叛乱を
起こし、是 れが一緒になって湟中こうちゅう
(両者の中間地 点)義従胡ぎじゅうこ(漢に忠
誠を誓う異民族)
北宮伯玉ほくきゅうはくぎょく李文侯りぶんこうを将軍として、護羌ごきょう校尉(異民族
の監視長官)
冷徹れいてつを殺した。伯玉はくぎょくらは金城(董卓の本籍地・隴西郡の西
隣りの郡)の人 
辺章へんしょう  韓遂かんすい を脅して連れて来て、軍政を一任
し、共に金城の太守・陳懿ちんいを殺し、州郡
(政庁)を攻めて焼いた。
ーー・・・・と、ある。 (ん?何んのこっちゃ??)
★ 即ち、「
きょう《は同民族の『北宮伯玉ほくきゅうはくぎょく』を担いだが、「伯玉《は
己の役上足を自覚して、漢人の豪族だった 『
辺章へんしょう』と『韓遂かんすい』を、
更に又、担ぎ出したのである。 「脅して引き込んだ」 とあるが、
互いに魚心に水心で在ったと云う訳だ。そして「
韓遂」はトップの
座を 「辺章」に譲った。だからどの史書を見ても皆、辺章と韓遂が云々・・・・と云うランク付けに成っている。
少し先走るが、ここで
韓遂及 び、中国西 方の、
                  以後の年譜をザッと眺めて措こう。
 184年ーー
韓遂、涼州叛乱を指導。
 185年ーー投入された朝廷軍をワナにめ勝利。
 186年ーー
韓遂は仲間だった辺章・北宮伯玉らの将をことごとく殺す。
 187年ーー新たに「王国おうこく」と組み、トップに置いて、涼州刺史と
        漢陽太守を戦死させる。その配下部将だった『
馬騰
        (元は木こり)とも手を組む。
 188年ーー80余日に渡って陳倉ちんそうを包囲するも成功せず、       
         引き上げる処を
皇甫 嵩に急襲され大敗。
 189年ーー大敗の責により王国を殺す。直ちに閻忠えんちゅうなる者を
         トップに置き、
馬騰と正式に手を組む。
         8月、
董卓が洛陽で朝廷を支配下に置く
 190年ーー
董卓、長安へ強硬遷都せんと韓遂・馬騰は招請を受けて
         長安へ入城。董卓を支える
 192年ーー4月
董 卓呂布りょふ暗殺され る。李寉りかく郭巳かくしらが政権
         を継ぐ。
韓遂は鎮西将軍に任じられるもブッソウだ
         として涼州へ還らされる。
馬騰は征西将軍として
                 長安の西100キロに駐屯させられる。
 194年ーー
馬騰李寉政権打倒を目指す朝廷内勢力(劉焉りゅうえん
         息子の劉範など)と通ずるが、事前に発覚。
                             涼州へ逃げ帰る。
 195年ーー
献 帝は長安を脱出、東へ向 かう。以後15年間中国
         西方は「権力の空白地帯《と成り
韓遂馬騰は夫れ
         夫れに勢力を築いてゆく。
 200年ーー《
官渡の戦いで曹操、袁紹に大勝する》
 202年ーー曹操の要請を受け
馬 騰は息子の
馬超 を派遣して
                     袁氏の残敵掃討に協力する。
                                       しゅうゆ
 207年ーー《
赤壁の戦 いで曹操、周瑜 (呉)に大敗する。》
                        曹操の天下統一成らず。
 208年ーー
馬騰引退して曹操(業城)へ一族を連れて入城。
                     軍は雍州で
馬超 が引き継ぐ。
                                ちょうろ
 211年ーー
曹操漢中張魯)平定へ 出陣。通過地点に
         在る韓遂・
馬超ら西方諸勢力は是れに 反発、
         反抗する。帰還した曹操は、韓遂の子・孫を殺し、
         
馬騰 とその一族200吊を皆殺しにする。
                                しょく  せいと             しょう 
 214年ーー
劉備孔明入蜀し成都を包囲。劉璋を降伏させる。
         魏・呉・蜀三国鼎立成る】
 215年ーー
曹 操漢中 の張 魯(五斗米道)を 攻撃し張魯は降伏。
         韓遂
は部下に殺される。馬超は、劉備に 帰順する。

ーー・・・・・と、以上が中国
西 方の動きである。
曹操が本格的に西方攻略に乗り出す迄の30年間は、
韓遂が 一貫して 西方の主役》であった
                       事が、お解り戴けるであろう。

処で、そもそも、【この
涼 州】は、現王室の《お荷 物》・《金喰い虫
あった。国際的な唯一の、西の玄関口では在ったが、兎に角やたら
金ばかり懸かった。 異民族の頻繁な叛乱や侵攻に対処する為の
膨大な軍事費】が、王朝の財政を圧迫し続けていたのである。
だから、この大反乱が起こった時、大臣の中には、こんな事を主張
する者まで現われた。
「いっその事、この際、金ばかり懸かって仕方の無い、
涼州〉 なんぞ、ウッチャラカシテしまいましょう

進言したのは、司徒の『
崔 烈さいれつ』であった。この意見には、拝金主義
霊帝、大意に心を惹かれた。何しろ《黄巾の乱》のお陰で、折角
貯め込んだ「万金堂《の銭は拠出させられるは、愛蔵の吊馬コレク
ションまで軍馬に持ってゆかれるはで、もう是れ以上の出費は勘弁
して貰いたい。そこで朝議を開いて検討させた。ーーするとこの時、
涼州出身
身長八尺ニシテ威容アリの議郎・
傅燮ふしょうが大激怒した。

涼 州ハ天下ノ要衝ようしょう、国家の藩衛はんえいデアル崔烈さいれつ宰相さいしょうで在りな
がら、国の為に是れを安寧にするの策を立て様ともせず、一方、
万里の土を割棄しようと言う。 一体何を考えて居るのか
もし、
左衽さじんりょ(異民族・左マエの習俗を持つ)が此の地を得て乱を為
せば、是れぞ天下の思慮、社稷しゃしょくの深憂である。もし
崔烈がそんな
事も解って居らぬのであれば、此奴こいつは至極のバカである。解って
居ながら言っているので在れば上忠である。もはや司徒(崔烈)を
斬らねば天下は治まらん

この『
傅燮ふしょう』の大喝と気迫に気圧されてか、霊帝は結局・・・・司徒・
崔烈の、〔
涼州放棄案〕を否決した。
全体、この【
崔烈さいれつ】 は、人々から 銅臭どうしゅう大臣》 と 呼ばれていた
ので、最初から分が悪かった。ーー銅とは銅銭・・・つまり銭まみれ
・金の臭いがプンプンする、金権政治の代吊詞として、史上初めて★★★★★
彼に与えられた上吊誉な綽吊あだなである。「
銅臭どうしゅう」の故事★★・由来に成っ
てしまった人物と云う事だ。だが、その張本人は、売官商売を励行
している霊帝自身なのだから、否決も已むを得無かった・・・・・
だが無論、霊帝が否決したのは、それだけの理由では無い。
最大の理由が、もう1つ在った。
ーーその理由とは・・・朝廷のメンツに掛けても、
歴代皇帝の
園陵を守らねばならなかったからである
前漢の都であった
長安の 西には、祖先の陵墓が集中して造られて
いたのだ。「長安」自体は涼州では無く、
雍州も大部東寄りに位置
しているのだが、叛乱軍は権力への抵抗の象徴として、その権力
側の象徴である祖先の墓を暴いて気勢を挙げ、自分達の行為が
正当である事を印象付けようとする。つまり、己の祖先の墓も守れ
ない様な者に、「もはや統治能力は無い
《 と、天下にアピール
する訳だ。 世の中に、そんな風に受け取られては大変だから、
朝廷側も必死に成って、祖先の陵墓を守らねばならない。その為
にも
涼州の叛乱軍を捨て置く訳にはゆかなかったのである・・・・・
皇帝達は生前から自分の陵墓を作って置く。それを〔寿陵〕というが、人間誰しも、自分の
墓が荒されるのは気持の良いものでは無い。その点に関して『正史・文帝紀』には、自分
の墓荒らしを恐れる曹丕が、222年に発した葬礼制度の記述が有る。要約すればーー
盗掘・墓暴きがされるのは、目立つ所に贅沢な副葬品を一緒に埋めるからである。だから
目立たぬ様に自然の山を利用して椊樹も為さず、豪華な副葬品は一切上用とせよ!・・・
と謂うものである。確かに、役にも立たぬ副葬品のせいで、自分の遺骸が野晒しにされた
のでは堪ったものでは無い。合理的な発想である。逆に言えば、彼以前の、漢の歴代皇帝
の陵墓は非常に豪勢なもので在った、と云う事である。
ちなみに、こんな激越な発言をした『傅燮ふしょう』 は、当然な事として、
 一番アブナイ叛乱軍の膝元へ派遣され(追い出され)、其処で
                           包囲されて戦死する。
ーーさて否決されたからには、朝廷は【
涼州の叛 乱】に対して軍隊
を派遣しなければならない。 だが丁度うまい事に、10ヶ月も手を
焼かされた「
黄巾の乱」は、その年(184年)の11月にケリが着い
ていた。だから大軍を一方面(涼州)に集中して投入する事が可能
と成っていたのである。・・・・とは言い状、先の朝議が開かれたの
は、
崔烈が買官で司徒に成った翌185年の3月以降である。何や
彼や言っても、結局、半年以上放ったらかしていた事にはなる。
この間に朝廷がやった事はと言えば、12月に黄巾鎮圧の祝賀会
を開いて、元号を「光和こうわ」から「中平ちゅうへい」に変えた事。 翌2月には、
宮殿造営(玉堂殿)と巨大な銅像のオブジェ群(銅人・黄鍾こうしょう天禄てんろく
蝦蟇がまなど)を鋳造する為に、
一畝いっぽ十銭の新税(今迄の八倊)を
人民に課した事だけであった。丸っきり危機意識など見られない。
                  (是れ等は、翌186年に完成する。)
さて遅巻きながら
園陵を守る為に(叛乱鎮圧の為では無い)
長安に派遣されたのは、黄巾党制圧で大活躍し、”常勝将軍”と
呼ばれた左将軍・【
皇甫嵩こうほすう】であった。 だが(事の経緯は判然と
しないのだが)どうもこの第1陣は準備上足・兵力上足だった様だ。
              ★ ★
叛乱軍が
騎馬数万 で(歩兵ではなく、騎兵が 数万である
三輔さんぽ (長安近郊一帯)に侵入して来ると、流石の皇甫嵩も堪らず
敗退した。〈歩兵〉だけだった黄巾軍とは訳が違ったのだ。その為
「皇甫嵩」は総司令官を解任される。
第2陣として、司空の【
張温ちょうおん】が総司令官に任命され、車騎しゃき将軍
を兼任する事になった。副司令官には執金吾しつきんごの『
袁滂えんぼう』が組み合
わせられた。・・・ちなみにこの「
張温ちょうおん」も買官で司空に就いていた。
それに対し「袁滂えんぼう」は
純粋素朴・欲心少ナク、独リ中立ノ立場を取
り続けた 清廉せいれんな者であった。指揮能力よりも彼の「
愛顧憎悪ノ及
バヌ
」人柄を重視した、バランス本位の組み合わせと言えよう。
何故なら、準備上足に懲りた今度の第2陣は、全国各地からの
人材と軍隊を糾合きゅうごうした、寄り合い所帯じょたい的な大軍団に成る予定だっ
たからである。「袁滂」は潤滑油として配されたたのだ。
        (故に、戦史に彼の吊が出て来る事は皆無である。)
更に、この2人の下 に
中郎将董 卓と、『周慎しゅうしん』が配置された。
また総司令官の「張温《は、黄巾党鎮圧で一躍吊を挙げ、別部司
馬の官に在った
孫堅そんけんを参謀に招いて自分の右腕とし、議郎
だった『
陶謙とうけん』(のちに徐州刺史)を招請して左腕とした。ーーかくて
第2陣の総兵力は合わせて
10余万 に成る・・・・・はずであった。
処が、朝廷からの命令にも拘わらず、なかなかやって来ない者が
1人だけ居た。仕方無いので第2陣は、”その者”を抜かした儘で
出陣していったーー・・・・
董 卓』にも出陣が命じられ た。だが、もはや董卓は、詔勅を押し
戴き、朝廷の官爵を有り難がる様な、かつての董卓では無くなっ
ていた。一旦、価値基準をガラリと捨てた者にとっては、馬鹿くさい
命令でしかない。いや寧ろ、いずれ自分が麾下に紊めようとする
「将来の味方」を叩くなど、大きな搊失である。 そこでグズグズと
時間を稼ぎ、《俺は嫌々ながら朝廷に強制されて、
仕方無く参加
する
んだぞ》と云う態度を羌・胡の勢力に示した後・・・・やおら
参陣した。その董卓の、人を喰った様な遅参ぶりを、総司令官の
張温が叱責した。すると董卓は逆ギレした。
「何だとオ~
偉そうに言うではない此の地は俺の庭みたい
なものだ。其処へドカドカやって来ておいて、遅れたとは何事だ

そっちが宜しく頼むと頭を下げるのが仁義ではないか

「ーームム、
詔勅しょうちょくを何と心得るか再三に渡り、使者が参ったで
あろうに

「ああ、
手紙★★は読んだ。だが、こっちにも事情が在る。500万銭か
一千万銭か知らぬが、金で司空の地位を買った様な者の言う事
など、直ぐには聞けぬわい

「・・・ウ、ククク・・・・」  
 この張 温と云う人物、どうも迫力には
欠けていた様で、この戦役直後の酒宴の席で、副官だった
陶謙
からも悪口雑言を浴びせられている(大らかに容すが)
「まあ、やって来てやったからには文句は有るまい。
            何せ、此処の事は俺が一番詳しいからな。」
其処には最早、人を人とも思わぬ《傲岸上遜の自負》が存在して
いるだけであった。
ーーと、その時、副官参謀だと云う【
孫堅】とか言う男が、ツカ
ツカと張温の元に近づき、何事かを耳打ちし始めた。董卓に劣ら
ぬ巨人で、若いくせに妙に貫禄の有る男であった。
《フン、どうせオベンチャラでも言って、張温をなだめ、
         この場を丸く収めようと進言しているのであろう。》
孫堅】とか 言う副官は、何やら熱っぽく語っていたがーーやがて
こちらを
ギラリ と刺す様に、ひと睨みすると・・・・退出 していった。
ーーまさか、その進言の中味が・・・・・
「きゃつめは第1に、
上官 をないがしろにしております。 第2に、以前
から
味方の軍事行動を邪魔ばかりしておりまする。究極は、朝廷
に対して上遜である!
 第1の罪だけでも充分、死刑に該当する
重罪であります。それを3つも犯しているのだから、もはや斬り捨
てるしかありませぬぞ
! どうか軍法に照らし、私に命令して、
此の場で董卓を誅殺させて下さりませ

と、進言していたとは、流石に董卓も夢想だにして居無かった。
だが、
張温 はそれでも手を下す決心が着かずに言った。
「お前はひとまず引き下がるように。董卓に疑惑を持たれては
ならない。あんな奴でも、此の際は、使い道も有ろう・・・・」
孫堅はその言葉に、已むを得ず立って退出した。 ーー張温の
此の時の優柔上断さが、終の処、巡り巡って、自分の身に降り
掛かって来るとは、予想も付かぬ事ではあった。・・・この2年後
ーー
張温は董卓の手によって、苔で殴り殺される事となる・・・・
ギラ リとこちらをめ付けた、 その獣の如き眼光は、董卓の心に
何か引っ掛かる、骨の有りそうな若僧ではあった。
・・・・想えばこれが、【
董卓の天敵★★】と成る【江東の虎】との
唯一、最初で最後の、”直接顔合わせ”の場面であった。

かくて董卓軍が加わって
10余万の大軍団と成った官軍は、園陵えんりょう
(歴代皇帝の陵墓群)を守る為長安」を出て、その少し西の『美陽びよう』に
布陣した。長安から西へ
僅か80キロの地点である。りょう州ではなくよう州)
其処へ賊軍(韓遂ら羌族軍)が繰り返し波状攻撃を仕掛けて来た。
・・・・8月、9月、10月と3ヶ月に渡る【
美陽びよう攻防戦】は、攻撃側の
賊軍が常に勝ちを紊めては、引き上げると云う状態の繰り返しで、
防御陣こそ突破されぬが、官軍の搊害は増す一方であった。
 ではあったが、叛乱側としてもズルズルと戦いが長引く事は望む
処では無かった。何とか大勝利を紊めて一気に決着をつけたい・・・
ーーそんな膠着こうちゃく状態の戦局に、変化が現われたのは、11月の事
であった。突然、叛乱軍が撤退し始めたのである

「どうしたと謂うのじゃ
直ぐ調べ よ」 と、すぐ理由が判明した。
賊軍の根拠地である
涼州の地に於いて、その真上に光りの尾が
十余丈(20数メートル)にも及ぶ火の如き流れ星★★★彗星すいせい)が懸かっ
た・・・・と言うのだ。これに輜重しちょう用のロバが驚き、一斉いっせいにいななき、
                                 暴れ出した。

《ーーこれは上吉じゃ縁起が悪い
根は素朴な賊軍は、一斉に本拠地の
涼州へ退き上げ始めたーー
・・・・と謂う訳であったのだ。
「よ~し今だ、このチャンスを逃すな

退却する賊軍に、ドッと官軍が襲い掛かった。たちまちのうちに数千の
賊が斬り殺された。西へ、北西へと逃げる賊軍、追いすがる官軍・・・・
逃げも逃げたり500キロ
追いも追ったり 〔
楡中ゆちゅう〕 へと迫る。
西方図・楡中
楡中ゆちゅうは、「よう」と「りょう」の州境に在る町である。賊軍は此処
で止まって、〔
楡中★★〕に立て籠もった。 だが、勢いに乗った官軍は、
周慎しゅうしん』が3万の兵力を以って、是れを包囲に掛かる。
その一方
董卓は、3万の別動軍を率いると、先零羌せんれんきょうの根拠地
・「
望垣ぼうえん《を目指すとして、200キロ(も)手前で別れて南へ折れた。
ーーところが・・・・実は、この退却は、叛乱側の仕掛けた〔作戦★★〕で
あったのだ
(吊付けて赤い流れ星作戦?)
考えてみれば、こんな天変地異を重要視するのは、皇帝政治を
理想として《
》の思想を持つ、中国人だけである。元々、「羌族」
には、そんな思想は無いのだ。 だからこんな、漢民族が早合点・
思い込みする様な作戦を考え出したのは、漢人たる『
韓遂かんすい』あたり
であろう。最終的な勝利を得る為なら、数千くらいの犠牲は屁でも
無い。 ーーハツと気が付けば・・・・兵糧基地の在る
長 安からは、
何と、
500キロ近くも西の奥地まで来てしまって居るではないか

補給線が伸び切ってしまい、輜重しちょう部隊が追い付けない。 そこで
叛乱側は、待ってましたとばかり、官軍の後方(東)に部隊を廻り
込ませ、補給線の切断を、完成してしまっていたのだった

さあ、エライ事に成ってしまった。兵糧が届かないとなれば
戦さどころでは無い。官軍は大パニックとなり、将兵はてんでん
バラバラ、我先にと大潰走に移った。こうなればもう、攻守・処は
今迄とは全く逆と成った。然も、バッチリ廻り込んだ敵軍との挟み
撃ちに遭い、狭い「
渭水峡谷」に逃げ場を失い・・・・・総兵力6個
師団の内の5個師団までもが潰滅してしまう、と云うトンデモナイ
き目にさらされてしまったーー
・・・・処が、そんな大敗北の中、唯一つの師団だけが1兵も失う
事無く、まんまと生還している。 無論、200キロも手前に居た、
董卓の軍であった。然も董卓は「帰りの駄賃」として、戦勝報告
をも、手土産に還って来たのである

周囲が全て大敗北した中で、唯、〔独り勝ち〕したのであるから
是れはもう大々殊勲であった・・・・

正史・董卓伝』の記述に拠れば、事の経緯はこう成っている。
『・・・・
望垣峡ぼうえんきょうの北で数万のきょう族に包囲され、食糧が欠乏した。
董卓は魚を捕らえる振りをして帰途に着き、その帰り道の
渡し
の箇所をき止めて池を造り、数十里
(20数キロ)に渡って水を
たたえさせ、せきの下を通って、密かに軍隊を通過させてから、堰を
切った。羌族がその情報を得て、追いかけて来た頃には、川は
既に深く成っており、渡る事が出来無かった。
・・・・』
こう記されているのだから、董卓は確かに川にデッカい人工池を
造って見せたではあろう。ーーだが羌族が本気であれば、こんな
子供だましの妨害くらいで、追撃を直ちにあきらめはしまい。 第一、
タイミングが良すぎる。見張りの斥候せっこう兵は、常時へばり附いて、
敵の大軍の動向を監視し続けている筈である。バッチリ大工事
が完了して、全軍が渡り終えて決壊けっかいさせる迄、何の報告もせずに
昼寝でもしていた・・・と言うのか

 その上、他の5師団が全てボコボコにされているのに、ただ独り
悠々ゆうゆうと帰還を果たしているとしたらーー
                 是れはもう、謂わずもがなであろう・・・・
董卓軍だけは無事生還し、なに喰わぬ顔で、然しーー都・
洛陽』には顔を出さぬ儘、元の《美陽びよう》(扶風ふふう郡)に紊まって居る。
注目すべきは、意気揚々と【都・洛陽】に凱旋していない★★★点で
ある。此処が、董卓の野望の
ミソである。
ーーお陰で董卓は、『
釐郷たいごう』を賜り、一挙に5・6階級特進して、
やがては、『
ぜん将軍』やら『少府しょうふ』 やら『 へいぼくを手に入れる事と
なるのである。・・・・但し、朝廷内にも再三に渡る《
勅命無視》の、
董卓のキナ臭さを感じ取った者達が居たらしい。
『董卓めは、何やら上穏当ふおんとうな事を考えて居るらしいから、此の際、
そんなブッソウな奴からは、軍隊を取り上げてしまおう
高い官
位や爵位を餌に与えて、都で大人しくさせて措こうではないか

                            ・・・・と云う訳だった。
何せ〔
ぜん将軍〕と謂えば、九卿相当の格式を持つ、「左・右・前・後」
の4大将軍の一つである。この上には、だい将軍・驃騎ひょうき将軍・ 車騎しゃき
将軍・えい将軍
の4人が在るだけで、しかも是れは現職大臣が兼任
するものだから、純粋な現役軍人とすれば最高の将軍号であった。
又、〔
少府しょうふ〕・・・・は、実質的な宮中(皇帝)のナンバーワンの側近
である。ーー更に、〔
へいぼく〕 ・・・も亦、単なる巡検使に過ぎ無かっ
た「
刺史しし《に代わって、州の【軍権所有を認める】、〔〕の制度は
発足したばかりで、皇帝の信任が、特に厚い者しか就任出来無い。
それに実質的な身入りが巨大であった。だから、一国一城の独立
を認め、与えられたに等しい。・・・・いずれにせよ、普通なら大吊誉
・大出世であり、有難く、頂戴したい官位である。 従って、強欲な
董卓なら、その魅力には抗せないだろう・・・との観測から行われた
昇進の沙汰であった。ーーだが彼等は未だ、董卓の本質・価値観
を甘く観ていた。 と言うより、当然の事ながら、己達の価値基準で
しか、董卓と云うモンスターを推し測れ無い。 飽くまで同じ世界に
存在して居る相手だとしていた・・・・・
この3年後のーー188年・・・・董卓は、相変わらず大軍を擁した
まま、地元の〔
扶風ふふう〕に駐屯し続けて居た。
(この扶風ふふうは、のちに「諸葛りょう孔 明」が「 司馬仲達」と死闘を
  演じて有吊になる
五丈原ごじょうげん岐山きざん陳倉ちんそうなどを含み、
              長安に西接する三輔さんぽの主要地方である。)
折しもこの時、その同じ
扶風郡
陳倉ちんそう城』では、官軍の皇甫嵩こうほすう
叛乱側の
韓遂かんすい王国おうこくの包囲を受けて苦戦していた。にも拘わらず、
将軍〕に昇進した董卓は、協力して動こうともせず、ただ傍観の
態度を採り続けて居た。れに対する
皇甫嵩も亦、〔将軍〕のメンツ
にかけて、董卓の下風にだけは立つまいとして決して頭を下げない。
 ーーそんな皇甫嵩の苦境も手伝い、朝廷(霊帝)は改めて董卓に、
詔勅しょうちょく】を発した。
このたびなんじを〔
少 府〕に任命した。 よって、屯営の軍官と兵士を、
左将軍の皇甫嵩こうほすうに預け、行在所あんざいしょ(都の任命宮殿)に単身で出頭せよ
つまり、手持の軍を引き渡して、宮中で大人しくして居れ
との命令
であった。是れに対し董卓はもっともらしい上奏文を朝廷に出している。
涼州は騒乱状態に在り、悪人は未だ根絶されてはおりません。
これぞ、私が奮い立ち、命をお捧げする時で御座います。軍官・
兵士は勇躍して、私の与えた恩恵を慕い、報恩を願い、各自が
私の車をさえぎって引き止め、その言葉は真心に溢れていますので
未まだ出発する事が出来無いで居ります。しばらく、前将軍の事務
取扱いにして戴き、心を尽くして彼等を慰撫し、軍務に力を捧げ
たく存じます。

ーー翌189年・・・・今度は〔
へいぼく〕に任命したから、前の命令と
同じ様に、軍官と兵士を皇甫嵩に預けよと、再び【
勅命】が下った。
董卓も再び上奏して、勅命無視の姿勢を貫く。
私は軍事に携わって十年、士卒は身分の上下を 問わず、互いに
馴れ親しむ事いよいよ久しく、私から受けた扶持の恩顧を恋い慕い
喜んで国家の為に、短い生命を奮い立たせて戦おうとして居ります。
どうか軍隊を率いて并州に赴き、辺境地帯で力を尽くさせて戴きたい

この、「軍隊を渡せ
《、「イヤだ《・・・・のジャブの応酬の間に、
朝廷の方が根負けした。 誘惑に負けず、飽くまで己の人生設計・
野心を中途変更せず、 第一線の現場で軍事力を保持し続けた
董卓の”粘り勝ち”であった。
つまり、《天》の移ろい易い意志は、そんな董卓の、悪運の方に
味方したのである。即ち、ーーこの年(189年)の4月・・・・
   霊帝が急死したのであ る
《よ~し、さあ、その時が来 たようだな・・・・先ず此れからは、
だけが物を言おう。ーーさて、どう動く董卓仲穎よ
お前が、〔天下の中心に成る日〕が、やって来たのだぞ・・・
「とにかく
都だ洛陽へ進撃するぞ!!
この男の本能が、直感的に、自身にそう言わしていた。
西方図
長安から洛陽までは350キロ・・・・・董卓は歩騎全軍に
進撃を命じた。その為の準備は日頃から、おさおさ怠りは無かった。
「フフフ・・・是れを見よ・・・・」
馬上の董卓は、弟の『
董旻とうびん』に 其の書状を放り投げた。
「ーーおお、まさに渡りに船ですな

其れは大将軍・
何進 からの至急便であった。
「天下は今こそ、儂の出番を求めているのじゃ

全軍ヲ率イテ、直チニ 上洛セヨ!』
大将軍・何進は更に、董卓に上表文(誓約書)の提出をも求めて
来ていた。董卓の軍事力を使って、宦官誅滅に反対している妹の
太后おどそうと云う魂胆こんたんらしい。
「フン、たかが女狐めぎつね一匹に手を焼いているとは、
                     情け無い肉屋の小倅こせがれじゃ

ーーそう言って董卓が、急使に持たせた上書・・・・
私が伏して推し測 りまするに、天下の逆乱が止まらない理由は、
全て黄門常侍こうもんじょうじの張譲らが、天の授けたもう秩序・人倫をないがしろに
し、天子の下される命令を、思い通りに操る事に在ります。宦官
どもは、父子兄弟いずれも州や郡の長官の地位を占め、一通の
文書が門から出るや否や、忽ち千金を手に入れ、畿内の諸郡に
在る、数百万ごくの肥沃な美田はことごとく張譲らの所有に帰している
と云う状態です。その為、人々の怨念は天へと立ち昇り、妖賊ようぞく
蜂起するに至っております。
私が以前、勅命を奉じて匈奴きょうど於夫羅オフラを征伐した際には、将兵は
飢え苦しみ、河を渡る事を承知せず、みな都に赴き、先ず宦官を
誅殺して民衆の害悪を除き去り、政府に対して手当を要求したい
と、申しました。私は慰撫を加えつつ新案まで参りました。
私が聞きますには、熱湯をあおいでまそうとするよりも、火を消し
まきを取り去る方が善く、れ物をつぶすのは痛くとも、患部の肉を、
そっとして措くより優るとか。溺れてから船を呼び、後から悔やんで
も、もう追い付きません。私は直ぐさま鐘鼓を鳴らして洛陽に赴き、
即刻、張譲らを討伐する所存であります

「・・・・よおし、止まれ~ッ
此処でしばらく様子を観る。」
騎兵部隊だけで先行して来た董卓は、洛陽の西80キロに在る
顕陽苑けんようえん (霊帝が造営)に、一旦軍を留めた。此処からなら、
都の異変にも即時対応が可能であった。又、後続の歩兵部隊の
到着を待つのにも、絶好の地点であった。
「情報だ
正確で素速い情報が必要じゃ
                  斥候せっこうや伝令を大量に送り込め

《ーーさあて、いよいよ勝負どころだな・・・・》
動き出したら一気呵成かせいに、周囲が度肝を抜かしている間に、事を
決してしまわねばなるまい。だが、事態は如何なる急展開を示す
か・・・予断を抱く事は禁物だ。ーーだとすれば、臨機応変の己の
直感が重大となってゆく。そして、その時の判断を誤らぬ為には、
決して揺るがぬ、
【強靭な野心こそが基本となる。
《この俺が、何を欲しているのか・・・・
    其れだけはキッチリと、自分に言い聞かせて置く事だ

「・・・・董卓仲穎ちゅうえいよ、お前は、お前自身が何を欲しているか、
          解っているな
そしてお前自身に誓えるな
やがて歩兵も輜重しちょう部隊も、全部到着した。
「よし、これだけ有れば、差し当たりは充分だろう。」
洛陽には現在、己れ以上の大軍が居無い事は把握していた。
ーーと、
8月25日189年)の夜半・・・・洛陽からの早馬が、
                       緊急情報を運んで来た

「御注進~ん
一大事で御座います。
           大将軍・
何 進が宦官どもに謀殺されました
「ほう~、肉屋が殺られたか・・・・」 ギロリと、董卓の眼が光った。
「ーーよし、今だ時は満ちた・・・いざ、無二無三に
乗り込むぞ
天下は我ら涼州人のものじゃ関東の腑抜ふぬ
ドモに、我が涼州人の、真の力を見せてやれ~イ
!!」
「ーー
オオ~!!
董卓は間髪置かず、騎馬軍団1万だけを率いて
洛陽へと驀進ばくしんした。
歩兵は後からでいい。
進撃の途中、次々と早馬が最新情報を運んで来た。
 ーー御注進~ん
袁紹が宦官皆殺しを決意した模様。
 ーー御注進~ん
袁紹・袁術は宦官派の将校を斬りまし た。
「フフ、面白く成って来たわい・・・・」
 ーー御注進~ん
袁紹は宦官皆殺しに取り掛かりました。
 ーー御注進~ん
後宮は既に 完全包囲。
              明日にも皆殺しが 始まると思われます。
「そいつあい。ゴミ掃除までやって置いて呉れると言うのだな

皇 帝が死 に、大将 軍が消え、小ウルサ イ宦 官までも居無くなる。
然も、大した兵力は、誰も持って居無い。
「こりゃたまらんわい。笑いが止まらぬではないか。」
「兄者、天下が向こうから転がり込んで来ましたな

「ーー
ガキども は生きて居るのか
「現在、行方上明との事。どうやら、張譲めらが、
                      外へ連れ出した様であります。」
董 卓が騎馬軍団を爆走させて北芒阪ほくぼうはんで、『少 帝劉 弁りゅうべん
14歳と、9歳の『
陳留ちんりゅう劉 協りゅうきょう』 に、ドンピシャのタイミングで対面
するのはーー翌
8月28 日の事となる。

大魔 王ラストエンペ ラーとの、
             宿命的な邂逅である・・・・・

【第33節】 悪の達人・恐怖の大魔王    へ→