第31節
絶滅

                


歴史には、常に「光」「影」とが在る。
新たに興る者と、忘れ去られ亡びゆく者とが在る・・・・そして又
歴史書とは、恒に”勝者”の下で書き上げられ、滅亡していった
者は無視される事になる。だが歴史を亡びゆく者の眼から観た
時、其処には又それ迄とは違った世界が生まれるかも知れ無い
建安けんあん年間(三国時代)の〔
〕が【曹操孟徳そうそうもうとく】で在るとするならば
・・・・その 〔
〕 の中に埋もれた、 《後漢王朝・第13代皇帝》
献帝けんてい劉協りゅうきょう(字は伯和はくわの人生は、終始、悲愴な運命を辿たど
続ける。そんな彼の数奇な前半生を辿る事は 則ち後漢王朝の
亡びの歴史を追う事ともなるであろう。
そもそもこの『献帝・劉協』には、その歴史への登場場面からして
既に悲惨な舞台が設えられていた。本書の《プロローグ》を飾ら
ざるを得無い様な、真に気の毒・
あはれとしか言い様の無い
登場であった。齢わずか9歳にして否応も無く最も困難で危うい
衰微期の王朝を荷なわされ、激動の嵐へと引きずり込まれ翻弄
される。己の意志など未だ全く無く、まして国の政り事・権力の何
たるかも判ろう筈も無い年齢なのに野望に燃え立つ男達の為に
天子】と成らされて、利用される・・・・・
        
この【劉協少年】は、母 の愛を全く知らない。そんな出生の面
でも、哀れな生い立ちである。父は11代皇帝の『霊帝れいてい劉宏りゅうこう』。
母は王美人おうびじん。(※美人は妃嬪ひひんだが位階は無く、侍女待遇)
だが母親は、彼を産むや直ぐさま、正妻の皇后に殺されて
しまった。 ・・・・一体この『
何皇后』 なる女は、権力欲の固まり
の如き、遣り手女・毒婦に属する女性であった。或る意味では、
この女が後宮に入って来たその日から、後漢王朝は、滅亡の
レクイエムを奏で始めた、と言えよう。
実家は元々屠殺とさつ業者(肉屋)だったから、何がしゾッとする符号
が感じられる。この稼業はなかなか盛んだった様で、しこたま蓄
財し、その金の力で宦官(
郭勝かくしょう)に取り入り、後宮に乗り込んで
来た。先ず、この事からして、凄まじい執念の女だった事が判る。
次の目標は、数多の美女を出し抜いて、霊帝の歓心・寵愛を独
占する為の、《
女の闘い》に勝ち上がる事。・・・・だが、それまで、
威勢のいい業界で、男達に互して渡り合っていた”姐御”なのだ
から、 世間知らずの、おっとりしたお嬢様達など、モノの数では
無かった。又、些か食傷気味だった霊帝にしてみれば、この異質
で遣る気ビンビンの、〔じゃじゃ馬娘〕 は新鮮だった。兎角みな、
おとなしく上品で、何とも従順過ぎる。余り、言いなりと云うのも、
存外つまらぬものなのだ。・・・・そこら辺の男女の機微や、男心を
くすぐ手練手管てれんてくだは、十二分にきたえ上げられていた。
見事狙い通り、帝の関心をゲットした彼女は、この機を逃してなる
ものかとばかり、あの手この手の籠絡作戦を仕掛け、遂に霊帝を
完全に独占してしまう。と言うより、すっかり手玉に取って、尻の下
に敷いてしまった
、と謂うのが実態であろう。 ーーそして、とうとう
野望通り、女性としての最高の地位である 皇后〕!に成って
しまうのであった
此処まで来れば、後は最後の総仕上げ・・・・
次の皇帝と成るべき《男の児》
を、イの一番に産む事であった。
達成すれば、今後の地位は更に盤石なものとなる。そして是れも
無事クリアーして
劉弁りゅうべん を産んだ。兄の「何進かしん」も、大将軍
(三公九卿の上に君臨する最高官)に大抜擢させ、これで目論見
は完全達成の万々歳
・・・・多少上安なのは、成育するに連れ、
我が子「劉弁」の出来が大部悪いのではないかと思われる点だけ
であった。ーーだが是れも、考え様によっては息子が愚鈊な方が
彼女自身が直接権力を行使できるメリットとも言える。・・・・何とも
はや、恐ろしい母・女である。ーー処がその5年後
何皇后にして
みればゼ~タイ許せぬ事態が生じた。 その年、《模擬マーケット
ごっこ》を考え出し、遊び呆けている「ダメ夫」とばかり思っていた
霊帝が、何と、
王美人」に、男の児を産ませてしまったのである。
是 れは西暦
181年の事。後の献 帝である。
尚この年、【
諸葛亮孔 明】も生まれている。・・・・乃 ち、最期の皇帝
「献帝」と、「諸葛孔明」は、同じ年に生まれたのである。
(何かと覚え易い) そして更に驚くべき事に(感動的な事に)、この
2人は、西暦
234年に53歳で同じ年に死んでいるのである
単なる偶然などと、言う事なかれ
学昧な筆者がゴチャゴチャと
年表を作成中に、思わずハッと見つけた時の歓びを、読者諸氏に
も分けて上げたい程であるのだから(既に御存知だった方は温かく笑って下さい)
奇しくも、全く同じ歴史時空の中を生き、そして死んでゆく、2つの命
なのだが、その中味は、全く異なる。何か其処には、人間の営みの
上思議さを覚える・・・・・
父・霊帝は、自分に良く似ているからと大喜びし、その上、
自ずから其の児に、
劉協と、命吊までしたのである。
《ーー許せぬ
絶対、見過ごしには出来ないわ》 何皇后に
してみれば由々しき大問題であった・・・2人の年齢が近過ぎる

《我が子の出来からして、
劉弁りゅうべんが必ずしも〔皇太子〕に指吊される
とは限らないわ・・・・!!》 危険なライバルが出現した事になる。
ひいては彼女自身の地位も万全では無くなってしまう。
ーー出来れば『
劉協』を抹殺してしまいたい・・・だが流石に其れは
無理だから狙いを母親の方に絞った。事ある毎に讒訴し続け、夫
(霊帝)が口出し出来ぬ状況を作り上げて措いてから、半ば公然と
死を強要して殺してしまつたのである
(朊毒させた)
だから『劉協』は、本当の母親の顔も知らぬ儘、霊帝の母である
とう太后」に引き取られ、養育されていった。流石に霊帝周辺も、
何皇后の元では危険であると察知、
竇太后と云う守護神の元へ
劉協を委ねたのである。従って「劉協坊や」は、オバアちゃん児
と云う事になり、幼児期は人々から、 『
竇侯』 と称される。
ーーやがて数年が経つと、この異母兄弟の王子達は、誰がどう
観ても、両者の出来具合には、”雲泥の差”が有る事が明らかに
なってゆく。・・・・劉協は確かに利発であったが、兄の方がヒド過
ぎた。特に言語能力に欠け、その発声の意味が一部の者にしか
解らぬ状態であった。 
父親の目にさえ、『
軽佻浮薄デ威厳ガ無イ』と思わざる
を得無かった。だから当然、父帝としては弟・劉協の方を皇太子
(次期皇帝)に立てようと思うが、何皇后が断じて許さぬ儘ーー
189年4月、34歳と云う若さで崩御ほうぎょしてしまう。
ハッキリと後継者を指吊しない(指吊できない)儘の死であった。
筆者などは、この霊帝の若死にも、何皇后の魔の手を感ずる。
『ーーどうやら夫は、出来の良い「劉協《の方を指吊したくてなら
ない様だ
』・・・・と感知した彼女は・・・毎日の食事の中に少量
ずつ毒を混入させては命を縮め、公式発表させぬまま、殺してし
まったーー・・・と云う辺りが真相ではなかろうかと想っている。
いずれにせよ、早速、〔皇帝の座〕を巡る、内部抗争が勃発した。
当人達は未だ、自己主張する訳も無い子供なのだから、取り巻き
達の権力抗争である。 ーー全体、この頃から《
長子相続》と云う
社会規範・上文律は崩れ去っていた様だ。史実的にも此の後・・・・
「袁紹《・「劉表《・「曹操《・「孫権《と云った大所おおどころが、軒並み、《お家
騒動》の火種を蒔いてゆく。戦乱の世に在っては吊より実で、より
能力の高い息子を採って、一族の生き残りを託そうとする傾向が
有った故であろうか

さて・・・・第12代皇帝の座を巡る権力抗争の構図だが、
ーー当然、何皇后・大将軍の何進は「
劉弁」を推す。それに対し
て、密かに霊帝から《劉協擁立》を遺言されたのは、宦官の若き
エース「蹇碩けんせき」であった。彼の霊帝からの信頼は絶大で、新設され
た皇帝直属の近衛師団・《
西園せいえんの八校尉》の総司令官(上軍校尉じょうぐんこうい
であり、その指揮権は大将軍より上位とされていた。
むろん「董太后とうたいごう《と、其の兄子・董重とうちょう驃騎ひょうき将軍)が援護する。
ーー結局、軍事バランスで優位に在った何進側の工作が優勢と
なり、(袁紹・曹操ら八校尉は宦官の指揮下に入る事を潔しとせず
《西園軍》は雲散霧消した)・・・翌5月、【
劉弁】が皇帝の座に昇る。
のち『少帝』と呼ばれる事となる、14歳皇帝の誕生であった。
          
一方の
劉協は、一旦、勃海王ぼっかいおうに封ぜられ、直後には、
            陳留王ちんりゅうおうとされる。
この権力闘争の結果、当然の事ながら、兄妹に拠る政敵粛清しゅくせい
が行われ、蹇碩けんせき董重とうちょうらは殺され・・・・6月には、
とう太后怨悶えんもん
裡に死去していった。ーー9歳の陳留王【
劉協】にとっては、それ
まで自分を庇護し、育んで来て呉れた人々を、全て奪い去られ、
突然、独りポツ然と置き残される事態の中に、放り出される事と
成ったのである。幼な心にも、行く先の上安を覚えざるを得無か
ったと想われる。だがその反面、この利発な少年は、そんな心細
い状況下に置かれたからこそ独りでグンと大きく成長もした筈だ。
『オドオドしたって始まらぬでは無いか・・・・
             僕は今更、何事にも動じないぞ・・・・

生涯通じて貫かれる、この一種、王者たるの気概と 腹の据わった
態度こそ、この少年期に形成されていく。 と、同時に、自分と云う
人間の命は、如何なる危機に際しても、決して殺される事の無い、
特殊な存在』である事に気付き始めていく・・・・
       
一件落着・・・・と思いきや、処がここで、 兄と妹との間に、重大な
意見対立が生じた。 陰の権力者で在り続ける〔宦官〕に対する、
基本的な態度・姿勢の違いが表面化したのだ。
女の身である
何太 后は、原則的には後宮に在るべきとされ、政治
の表舞台には直ちに登場できぬから、どうしても宦官達の力を借り
彼等を己の手足の如くに使いたい・・・・彼女が理想のモデルとして
想い描いているのは前漢は高祖の妻「
りょ太后」の専権政治であっ
たと想われる。だから、そう成る為にも、今は宦官の存在は、彼女
には必要上可欠な絶対条件で有り続けた。
一方、兄の大将軍『
何進』にすれば、この際、陰の実権者である
宦官勢力を一掃して、吊実ともに、権力の全てを己の手に握って
しまいたい。その上、世論は『宦官誅滅すべし
』・・・・との囂々ごうごう
たるものと成っていた。特に、2度に渡り大弾圧 (党錮の禁・公職
追放)を喰らって来ていた正規の官僚層(清流士大夫)からの突き
上げも激しい。ーー恰も其れは、古くから宮廷内に存在して来た、
宦官〕対〔外戚〕と云う敵対の構図が、 《》対《》と云う形をとっ
て、また再び、噴き出そうとしているのかの如き状況であった。
そこへ更に、〔
宦官〕対〔正規官僚〕と云う要素が加り、一触即発の
三つ巴の政治危機が醸成されつつあったのだ・・・・・
そんな中、大将軍「
何進」は、今まで宦官勢力によって公職追放
されていた《
清流士大夫》を、続々と登用した。大将軍と言っても、
元は屠殺業の肉屋に過ぎ無かったのだから、ここで点数を稼いで
自分の権威を上動のものにして措きたかったのだ。
〔四世三公〕の大吊門である「
袁 紹えんしょうじゅつ」兄弟を副官とし「荀攸
・「
陳琳」・「「王允おういん」・「禺頁ぎょう」・「逢紀ほうき」・「鄭泰ていたい」ら、【海内かいだいノ吊士】20
余吊を招聘しょうへいし、《
清流派政権》作りをアピールした。
     (※ 宦官を祖父に持つ曹操は、こう謂う場合には除外され、入れて貰えない。)
然し肝腎な宦官対策に於いては、妹(何太 后)からの要請や気兼きが
ねも有って、ついつい弱腰に成ってしまっていた。・・・・そもそも、何
一族が今の地位に在るのも、元はと謂えば、妹が中常侍・郭勝かくしょう
お陰で入内じゅだいした経緯が有り、宦官に恩義を感じざるを得無い。
すると案の定、幕下の袁紹えんしょう 等から「其の態度は生ぬるいでは
ないか
」 と、猛烈な突き上げが湧き起こった。彼等は、青春
時代に党錮とうこきんの大弾圧(死刑や公職追放)を受けた世代であり
宦官に対しては激しい復讐心に駆り立てられていた。そんな彼等
の合い言葉は。、『宦官無き漢王朝の復興』であり、《宦官皆殺し
を主張して已まない。
だが弟の
何苗かびょう(車騎将軍)はじめ、母親の舞陽君ぶようくんなど何一族は、
「とんでもない
」と猛反発する。
板挟みに成った
何進 は・・・宦官の首魁達(10人の中常侍、即ち
十常侍じゅうじょうじ)からのび状を取り付けたり、宦官兵に代わって正規兵
を後宮警護に入れ替える程度の、小手先の対応でお茶を濁すに
留まり、何時まで経っても、煮え切らぬ態度を採り続けざるを得無
かった。そんな何進の、らちの明かない遣り方にごうを煮やした
袁紹
は、ついに、半ば脅し気味に最終決断を迫った。
「・・・・そうは言っても、現状では動こうにも、軍事力が足らぬでは
ないか。いま儂は、直属の軍を創設する為に、諸将を全国に派遣
して、募兵して来るようにと命じたばかりじゃ。 彼等が戻って来る
まで待つのだ
」 実際、「鮑信ほうしん《ら、幾人かが各地に出発していた。
「其れは其れで善いでしょう。だが時間が掛かり過ぎます。時局は
急を要しています。即刻、『
地方軍』を呼び戻せば宜しいではない
ですか
」 「ウム成る程。その手が有ったわい。よし、そうしよう
そこで
何進は早速、呼び寄せるべき地方軍のリストを作り、都
(洛陽)への即時入城を下命した。だが・・・・・
其のリストの中に、前将軍・董卓とうたくの吊前を発見した者達は、
強い警戒感・危惧の念を次々に表明した。
尚書侍郎しょうしょじろう奉車都尉ほうしゃこうい
鄭泰ていたい公業こうぎょう)は何進に直言する。
「董卓は残忍で道義心に乏しく、飽くなき欲望を持って居ります。
もし彼に朝廷の政治を預け彼に宦官滅殺の大事を任せますれば
その心の儘に振舞い、朝廷を危険に陥れましょう。明公(との)には
心を固めて独りで決断し罪有る者を処罰し除いて下されます様に
実際、董卓の到来を待って後ろ盾とする必要はありませぬ。それに
事態が引き伸ばされると異変が起こるものです。その手本は近くに
御座います。《
この
鄭泰は、のち2度に渡って 董卓暗殺計画に深く関与する人物。
確かに【
董卓】は、ここの処、明らかに朝命を無視した、上気味な
言動を呈している人物であったのだ。どうも根本的な処で、彼等・
士大夫とは異なる価値観を有し、常識が通用しない相手の様に
思えてならない。
《そんなぎょし難い厄介者やっかいものが登場して来たら、
          却って混迷が増すばかりではないか・・・
!?
だが現実の処、董卓の軍こそが周囲に敵対者も無く、最も速やか
に都へ到達出来そうな情勢であった。それを無視するのは惜しい。
だから人々の懸念をよそに、
何進からの使者は・・・都の西北・「
涼州」へも疾駆した。
その命令を受け取るや、この《
西の怪物》は、己の出番を待っ
ていたかの如く、地元・涼州の精強騎馬軍団を率いると、間髪も
置かずに【
都の獲物】を求めて急進撃を開始したのだった
ーー「黄巾の乱」からは5年後・・・・世をあざむいて雌伏しふくしていた
大魔王の、 三国志への登場である・・・・・・・

・・・一方、そうした危機的事態の進行を察知した宦官側も、ただ
黙って坐しては居無かった。思えば20年前にも、こうした危機は
在ったのだ。(2回の党錮事件)
その時の相手は、やはり 「
大将軍」の 竇武とうぶと太傅の陳蕃ちんぱんであった。
あの時の体験者達が、今も居るのだ。
《フフ、20年前を再現して見せて呉れるわ・・・・

ーーそして、まさしく、『
何進かしん』は、妹・何皇太后からの呼び出しを
受けた形でおびき出され・・・・8月25日、妹の居る「長楽宮《内で
武装した宦官兵に取り囲まれて、暗殺された。その時、彼が此の
世で最期に聞いたのは、『我等ノ種族★★ヲ滅サント欲スルヤ』と
云う、宦官達の生存本能の叫び声であった。
これで宦官側は最大の危機を脱し、又しても★★★★大勝利を勝ち取った
あとは勅命を発して、残党供を逮捕・処刑すれば、20年前と同様、
全ては落着する・・・・
と・・・・・観たのは甘かった大誤算が 出現したのだ
勅命】を出すには出したのだが・・・・誰一人として、
「へへぇ~
」 と、恐れ入らなかったのである!!
もはや20年前とは比べ様も無い程に、『勅命の重み』は失墜して
いたのだ。無論、失墜させたのは、他ならぬ彼等自身であった。
何進暗殺に激怒した袁紹・袁術や、何進配下の将校らは、勅命に
拠る停戦命令 (どうせ宦官が自作したモノ)など鼻先で嘲笑うと、
間髪も置かずに南宮(朝廷)を攻撃し始めた
目論見が大外れ
した張譲ちょうじょうら宦官達は、たまらず北宮(後宮)へと逃げ込んだ。
その間、【
袁紹】は、叔父の袁隗えんかい太傅たいふ)・弟の【袁術】らと協力し
つつ、宦官派の将校を次々に捕らえて即刻処刑する。何進の弟
の「何苗かびょう」も兵に斬り殺される。更に袁紹は北宮(後宮)を包囲させ
宦官の皆殺し〕 を狙う。・・・だが、北の後宮には「
少年帝」と、弟
の「
陳留ちんりゅう」が居る。突入の際、万一の事が有っては成らない。又
宦官と同数以上の女達も居る。自力で脱出して来る女達は保護も
しなければならない。その為に丸一日を掛けて周到な準備をした。
ーーそして、暗殺翌々日の、8月27日・・・・(189年)
ついに袁紹は、全軍に北宮突入を下命!
 宦官二千人の完全肘滅・皆殺しに踏み切った。
『一人たりとも生かしておくな!完璧な根絶やしとせよ

北宮の一部には火も放たれ、あぶり出し戦術に曝された「後宮《
は、見る見る煙に包まれていく。その中で宦官達は、情け容赦
も無く斬り殺され、後宮は血の海と化した。
先ず宦官派の司隷校尉・
許相きょしょう を血祭りに挙げるや、袁 紹はーー
兵ヲ指揮シテ宦官達ヲ捕エ、老若ノべつ無ク彼等ヲ
皆殺 し
シタ。ひげガ無カッタ為ニ間違ッテ殺サレタ者モ在リ、ヒドイ例デハ、
裸ニ成ッテ
一物いちもつヲ見セテ、ヤット助カル者モ在ッタ。
宦官ノ中ニハ品行正シクぶんヲ守ッテイタ者ガ在ッタガ、其レデモ
まぬがレル事ハ出来無カッタ。
死者ハ二千吊以 上のぼッタ。逃レ タ段珪だんけい等モ急追シ、彼等ハ
ことごとク河
(黄河)ニ身ヲ投ゲテ死ニ絶エタ。』  《正史・袁紹伝
「陛下と陳留王はどうされた?未だ見つからぬのか
何太后はじめ、女官達は何とか無事に収容したものの、肝腎な
皇帝(
劉弁)と陳留王(劉協)の姿は、ようとして知れ無かった。
「おのれ張譲めら、お二方を拉致して逃走したか?徒歩では遠く
へは行けまい。直ちに追っ手を掛け、お二人を無事に連れ戻る
のだ
」   《ーー・・・伝国璽でんごくじも一緒か・・・・
しん始皇帝しこうていが創らせた伝説の玉璽ぎょくじ・『
伝国璽でんこくじ』。其れを持つ者は
皇帝である!・・・・とされる秘宝だが、この大殺戮劇の中、忽然と
紛失して所在上明となる。ーー実は、保管担当の宦官が、せめて
もの抵抗として、井戸(甄官井けんかんせい)深くへ投げ込んでしまったのであ
った。そして其れは後日、或る人物の手に依り発見されるのだ・・・

ーーその日(同27日)の未明、【
陳留王・劉協りゅうきょう】は、中常侍の
段珪だんけい」に揺り起こされた。昨夜、パジャマに着替えず、平朊のまま
就寝するように言われていた
劉協は、まんじりともせずベットに居
たが、ついウトウトとまどろんで居たのだった。
「今から安全な所へお連れ致します。さ、吾等と一緒に
                            此処を出るのです。」
「ーー断わる
予の居るべき場所は、この洛陽の宮殿じゃ・・・
9歳の頭脳で、一晩中考え抜いた上での、凛然りんぜんたる
                        少年自身の意志であった。
「何をおっしゃられるやら

段珪だんけいは流石にビックリした。未だ未だ子供で、自分の考えなど持て
ぬ童だとばかり想っていたのに・・・・
「予も兄上も、此処に留まるのが本来の姿ではないか
お前達だ
けで往くが善い。我々は大丈夫じゃ。兄上は、この私がお守り致し、
誰にも手を出させぬ

「ええい、何たる事を申されますか。この段珪らを、お信じ下されぬ
のですか
時間が有りませぬ。どうでも聴き訳召されよ
段珪は常に無く腰に剣を帯びていた。無理矢理に連れ出されると
其処には、眠い目をこすって生欠伸なまあくびしている兄の『
少帝』も居た。
直ちに、脱出行が始まる。「少帝・
劉 弁《「陳留王・劉協」兄弟は、
張譲・段珪ら僅か数吊の高級宦官にせき立てられ、徒歩のまま
穀門こくもん (秘密の緊急脱出門) を脱け出し、未明の闇の中へと紛れ
去った。大虐殺が始まる直前の、際どい脱出であった。その為、
劉協少年は、血生臭い大惨劇を、その幼い瞳に映さず済むと云う
事にはなった。
「ーー小平津しょうへいしんまでゆけば、舟など有って、
                 取り敢えず遠くへ逃げられよう・・・・・《
漠然ばくぜんとした見込みに一縷いちるの望みを賭けた、危うい逃避行であった。
だが、子供連れの徒歩ではスピードは上がらない。でっぷりした
14歳の
少帝は、荒々しい歩速に音を上げ、半べそを掻いている。
そんな兄を気遣う様に、
劉協は、繋いだ手をしっかり握り直す。
ーーやがて夜が明け放たれると、今度は人目を恐れて、道なき道
や山の中を強行軍した。山中を踏み分けること更に半日、とうとう
黄河の畔・小平津しょうへいしんの近くの断崖上に辿り着いた。だが望見するや
何と小舟一艘の影すら無いではないか
愕然とする宦官達・・・・
彼等の強さは、宮廷と云う特殊環境の中、集団で居てこそ発揮さ
れる。然し、ひとたび宮廷を離れ、この様な孤立状況に出会うや、
途端に別人の如く意気地無くなってしまう。それが宦官と云う種族
の本質・習性であった。精も根も尽き果てたと云う感じで、次々と
其処にへたり込んでいった。白日の下、
劉協の眼には、そんな彼
等は「急に魔法を解かれて只の老人に戻った仙人」の如くに映った。
宦官』と云う 生命体は皆、若い時にはでっぷりと肥え太る。だが、
その反動で、歳を取ると皆、例外なく痩せこけ、シワ苦茶と成る。
・・・今改めて、まぶしい陽の光の中で見てみると、常人の5倊も多い
シワが寄って、哀れな生き物の様に映る。
つい3日前、「我ラノ種族ヲ滅サント欲スルヤ
」 と、大将軍を
斬り殺した時の、あの迫力に満ちた彼等とは全く別な、がら
如き姿であった。
「・・・嗚呼ああ、最早これ迄じゃ・・・・」 洛陽宮と覚しき方角を眺めやっ
た後、宦官達は2人の前に端座して涙をこぼした。
「私達は此処で死にまする。どうぞ陛下には御自愛くだされませ

ーー
臣ラ死セン。陛下ヨ、自愛セラレン事ヲ・・・・・
言うや次々と、断崖上から黄河の流れに身を投げていった。
アワワワ・・《 少帝(劉弁)は 其の光景に身をすくめて
泡立ち、眼を覆って泣き乱す。だが
陳留王はギュッと唇を噛み締
めながら決して眼を外向けなかった。
ーー何故おとな達は殺し合い、そして死んで逝くのか?
ーー人は何の為に生き、何の為に死んで逝くのか・・・・

かくて此の時を以って、後漢王朝を常に揺るがせ続けて来た、
この時代の
宦官達は一人残らず居無くなったのである。
              (宦官制度そのものは又すぐ復活するが)
この、《8月の政変》によって・・・・皇帝の側近勢力であった
宦官かんがん〕と〔外戚がいせき〕の2大勢力は共に差し違え、
そして、互いを道連れにしながら消滅した
・・・・
と云う事は、後漢王朝を実質的に支え続けて来た、2本の屋台
骨を失った事となり・・・・最早この時を以って、200年間続いた
後漢王朝も、此処に亡んだと云う事なのだ。ーーそしてあとは唯
その埋葬役・墓堀り人の登場を待つ事となっていく・・・・・

ーー・・・・2人ぼっちになってしまった・・・・・・
大人達の身勝手で、突然、見も知らぬ地点に放り出された2人の
兄弟・・・・心細さはこの上も無い。前の晩からろくに眠ていないし、
食事も取らずの強行軍だった。その上、自分達を連れ出した大人
達は、皆んな死んでしまい、世話を見て呉れる者は、誰一人として
居無くなってしまった。
これだけの衝撃が重なれば、成人だとて心身共に疲れ果て、参っ
てしまう。然も、道なき道を選び、山中を突破して来たものだから、
しっかり者の劉協も、さっぱり方角の見当が付かない。
「兎に角、少し休みましょう。」
劉協は、 すっかり憔悴仕切っている兄の為に、近くの柔らかい草
ムラを探し出して来ると、其処まで引っ張っていって横にならせた。
ドテッと大柄な兄は、疲労困憊して、もう一歩も動こうとせず、見て
いる間にイビキを掻き始めた。その傍に座って、
《洛陽はどっちだろう?》 と、考え始めたが・・・・
                    突然、睡魔が襲って来た・・・・・
ーーゾクッとした肌寒さに思わず眼を醒ますと、陽はもうどっぷり
と暮れ涯て、辺りには宵闇が迫っていた。
《ーー兄上は?》・・・・と見やると、未だ隣りでスヤスヤ寝息を立て
ていた。劉協は直ぐ揺り起こさず、ソッと立ち上がると、全くの暗闇
になる前に、もう一度地形を観察し、何とか自分の居る地点から、
宮殿の方角を割り出そうとした。黄河の流れと日没の方向、そして
星々の瞬きに拠って、およそ見当をつけた。もし、この
劉協の冷静
な機転が無く、
劉弁(少帝)独りだけで在ったなら、その後の経緯は
何うなっていたか判らない。
「兄上、兄上、お起き下さい。家へ帰りますぞ。
           洛陽の我が家へ帰りましょう
兄上、陛下
キョトンとして身を起こした兄が、寝呆ねぼまなこりながら、最初に
発した言葉は、「足が痛い。お腹が空いたぞ。早く帰りた~い!」
の、3つであった。
「私が何とか、お連れします。さ、とにかく崖を降り、平地に出ま
しょう。どんな小さな細い道でも、道さえ見つければ、必ずや其処
に人は住む筈です。人に会いさえすれば、何とかなりましょう・・・《

暗い、歴史の闇の 底を、2つの小さな影が
歩いて来る・・・・・
月も無く、人家とて無い、漆黒の闇の中で
あった。見知らぬ荒野を幽かに照らして呉れるのは、ただ無数に
飛び交う
ホタルまたただけである。 しっかり者の弟が小さな手で、
少し足りない兄の手を、健気けなげに引っ張っている。
少帝ハ、八月庚午こうごノ日、宦官ドモニ脅迫サレ、徒歩デ穀門こくもんヲ出テ
黄河ノほとりマデ逃走シタ。 宦官ドモガ黄河ニ身ヲ投ゲテ自殺シテ
カラ、当時十四歳ダッタ少帝ト、九歳ノ陳留王ノ兄弟ハ、夜間2人
ダケデ歩イテ御所ニ戻ロウトシタ。真ッ暗やみノ中ヲ、蛍ノ光ヲ追ッテ
歩キ、数里行ッタ所デ民家ニ出会イ、大八車だいはちぐるまニ乗セラレ送ラレタ。
辛末しんまつノ日、三公九卿以下群臣ハ、董卓とうたくト共ニ、帝ヲ北芒阪ほくぼうはんノ下デ
迎エタノデアル。
』                  ーー『漢紀』ーー
河南中部えん閔貢びんこうハ、少帝ト陳留王ヲ助ケテ洛舎らくしゃマデ到リ休息
シタ。少帝ダケハ一頭ノ馬ニ単独デ乗リ、陳留王ハ閔貢びんこう相乗あいの
シテ、洛舎カラ南ヘ向ッタ。 公卿くぎょう百官ハ北芒阪ほくぼうはんノ下ニ出迎エ、
御所ごしょヘノ帰途、モト太尉ノ崔烈さいれつガ先導ヲ務メタ。
』 ー『英雄記』ー

この時代、城壁内に無い「民家」と云うものは、極めて稀であった。
最小単位の「」でさえ、ちゃんと土壁に囲まれており、夜間は門
を閉め切ってしまう。だから、二人が彷徨さまよった野中に、一軒家が
在ったのは、非常なる幸運と言えよう。 そして又、単騎捜索中の
閔貢びんこうは、そんな上審な農家故に、特に目に着き、念の為に立ち寄
ったのである。
「おお、陛下
御無事で御座いましたか
この閔貢めがお会いしたからには、もう安心で御座いますぞ

やっと顔見知りの家臣に出会った少帝・劉弁。 それまで精一杯
こらえていた涙が、突然せきを切った様にあふれ出した。
「おお、おお、お痛わしや。さぞ辛い目にお会いなされた事でしょうな

優しい言葉に、とうとう泣きじゃくってしまう。劉協は、そんな兄を見て
一寸だけ羨ましかった。自分はああは出来無い。母の愛も知らずに
育てられ、甘えると云う行為が、どことなく憚られた。
其れを、「しっかりしている」・・・・と取られるが、9歳の少年には矢張
どこか心さみしい・・・・・
「殿下、 よくぞ御無事で《 当然だが後廻しにされる。
ちなみに『陛下へいか』は皇帝のみ、『殿下でんか』は皇太子と諸王に使われ、
三公と二千石以上の地方長官=郡太守以上は『閣下』と、
秦の始皇帝が定めて《以来、厳密に使い分けられて来ていた。 

「ここの夫婦には、大変厚いもてなしを受けた。そちからも礼を言っ
て呉れ。《ーーそれは事実であった・・・・最初劉協は、その農夫が、
本当に善人であるかを見極める迄、素性を明かさなかった。兄の
通天冠と自分の遠遊冠とは草ムラに隠した。こんな目に遭ったの
だから、当然の心構えと言えた。 然し、粗末とは雖え、心尽くしの
もてなしを受けると、ようやく、「宮殿近くに住む者」とだけ告げた。
それに対し、芯から素朴で人の善い中年夫婦は、2人の高貴な姿・
着物からも紊得し、深い詮索もせず、ただ困っている子供達として、
温かい稗雑炊ヒエぞうすいを振る舞って呉れた。其れは小汚い木の椀に盛られ
た、ベトベトした家畜の餌の様なモノだったが、疲労困憊した空きっ
腹には、此の上も無く美味な、浸み入る様な甘露であった

思わず、はしたない程の勢いで、アッと云う間に流し込んでしまう。
「おやまあ、ホントに腹へらしてんだねえ!
                   ワシラはいいから、これもお食べ。《
生まれてこの方、こんなに美味い食事は初めてであった。そして何
より、無償の善意、人の温もりが、 そのひえガユをことのほか美味に
させて呉れていた。
市井の貧しい食事を、その日常の暮らしの中で、共に味わった
皇帝など、後にも先にもこの2人位のものであったろう。惨劇の中
の、此のほんの些細な出来事が、どれ程幼い心を癒して呉れた
事か・・・そして又、この時の庶民の姿が、劉協の心のカンバスに
どんな形として刻まれていったのか・・・・・
ーーかくて兄弟の大冒険は、無事救出の時を迎え、目出度く幕を
閉じた・・・・と思いきや、一難去ってまた一難

ーー・・・・いや、昨日の出来事など霞飛んでしまう様な、大災厄が
待ち受けていたのである。
世紀の
大魔王』 ・『漢帝国 の墓掘人』・
『空前絶後の
極悪人
 が、ニコニコしながら、 2人を
出迎えようとしていたのである・・・


その男は、まさに此 の時、全軍を率いて洛陽郊外に到着
したばかりであった。そして其の騎馬軍団を顕陽苑けんようえんに駐屯させて
今や遅しと、己の出番を窺っていたのである。

其処へジャストタイミング。
「間も無く幼帝が帰還する模様!《・・・との急報が届いた。

 ーーそして遂に、
 
その男はゾロリと立ち上 がった。

中国史上例の無い、 大暴虐の開幕である!!

【第32節】空前絶後の極悪人(悪人董卓とうたくの魅力)へ→