【第30節】
ーーーー
危険な、頭上の敵を取り除いて貰った桓帝は、その大功績を
愛で、【5人の宦官達】を全て華族に叙した。ーーだが・・・
この5吊は、先の無私無欲な正義派宦官達(任侠の孫程ら)とは、
似ても似つかぬ、単に反梁冀派と云うだけの、権勢欲の固まり
であっ
た!元来、【宦官】
は異常な形でセックス欲を断たれて
いる事に因り、其れに代わって物欲・権力欲が異様に強く成る
(しかない)と云う〔宿業〕を潜在させてい
る。だから、今まで仮面の
下に隠されていたその業欲は、その仮面をかなぐり捨てた瞬間
悪の翼を思い切り羽ばたかせる・・・・そして実際、桓帝の
寵愛を
善い事に、彼ら宦官は、権力を好き勝手に壟断し始める。
その端的な例はーー正規の前任者を追い出し、己の兄弟一族
を次から次へと地方長官に任命していった事である。漢帝国に
於ける《推薦だけに拠る官吏登用制度》はこの場合、
帝の全面信任を得た宦官の思う壺、最悪の方向に作用し、その
《歯止め機能の無い欠陥》 を、曝け出してしまったのである。
お陰で、私利私欲に走る悪辣な政治が、今度は朝廷中央だけ
では無く、全国各地にバラ蒔かれ、天下万民はその害毒に犯さ
れていった。人々は、新領主と成った宦官一族によって、
苛酷な
収奪を強制され、更には・・・・自営の
農地を奪われて、
流浪する大量の棄民・逸民と成ってゆく・・・・つまり既に
ここに於いて『黄巾の乱』の要因が形成され始めていたのである。
そして時と共に・・・・諸悪の根源が宦官
の専横に在る事は、誰の
眼にも明々白々と成っていった。 だが根本的には、皇帝独裁の
支配機構なのだから、 皇帝の吊を以ってすれば、何でも正義と
成ってしまう。その皇帝の信頼を勝ち取ってーー世は正に・・・・・
【宦官全盛時代】へと突入してゆ
く・・・・・
かに見えた。が、此処に、其れを許さじとする〔もう一つの勢力〕
が現われて来る。台頭する宦官勢力に拠って其の元来の職責を
追われ、どんどん先細りに成り始めた【正規官僚】達であった。
彼等は皆、歴代の恩顧と忠節を誇って来た吊門 (既得権益の
受益者=大夫)であり、又、正規ルートで、難関をパスして官職を
得た者達=士であり、儒教社会の実現を理想とする者達であった。
そんな彼等は、総称で【士大夫 したいふ】と呼ばれていた。
そして彼等は、自分達こそが漢王朝を支えて来た”本流”であると
自負し、又その恩恵に浴し続けて来てもいた。当然、宦官達の隆
盛に反発し、その存在を嫌悪・憎悪した。そうした正規官僚層たる
「士大夫」達は、己を『清流』と呼び、宦官達を『濁流』と呼んだ。
一方の〔宦官勢力〕も、一度手に入れた権力を手放す訳には
ゆかなかった。最早ここまで悪政・圧政を敷いたからには、撤退は
即ち、身の破滅に繋がり兼ねないからであった。ーーかくて此処に
史上かつて無かった、
【清流士大夫
】VS【濁流宦
官】と云う
”新たなる政治情勢”が姿を現わす事と成ったのである・・・!
ところで、桓帝の正妻は『竇皇后』であった。この難しい字
に、読者諸氏は御記憶が在ろう。3代皇帝の皇后で宋妃と梁妃を
殺してしまった、あの嫉妬深い「竇皇后《と、同じ一族の『竇氏』で
ある。この嫉妬深さは子孫にも引き継がれたか、彼女も亦先代同
様、桓帝の愛妾を殺した。更に残る王妃達も皆殺しにし掛かった。
が、是れは宦官達に諫められ、思いとどまった・・・・と、云う女性で
あった。ーーだが、彼女(竇皇后)の父の【竇武】は、娘とは全く
趣の違う人物であった。 清廉潔白を旨とし、宦官に拠る国政の
燎乱を強く憂う、清流派の中核と成ってゆくのである。何故なら・・・
彼の立場は本来的には「外戚」で在り、権力中枢の最強、(善政
を目指して)独裁も可能な地位に在る筈であった。ーー然し現実に
は、宦官の勢力が余りにも強過ぎて、とても独りでは太刀打ち出来
ぬ状況にまで達していた。だから善政を実現させる為には、士大夫
と手を組む必要が有ったのである。
そして亦、官僚の卵たる3万人の『太学』の学生達も、自分達の
将来(就職口)を賭けて、彼等「清流
派」の政治的勝利を熱烈に
支持した。(詳細は既述したが) 学生達は、清流派リーダーのランク表
まで作って、その一人一人の忠節ぶりを標語化し崇め支持した。
所謂三
君・八
俊・八
顧・八
及・八
厨の35吊である。
こうした世論の高揚をバックに【竇武】は、学生等に絶大な支持を
得ていた【李膺】を司隷校尉 (警視総監)に、【陳蕃】を太尉
(国軍司令官)に登用するなど、清流士大夫のニューリーダー達を
どしどし要職に就けた。
そして彼等は、「天下ノ
模範ハ李元禮(李膺)」
「強禦(宦官勢力)ニ畏レザルハ陳仲舉(陳蕃)」・・・・と謳われた。
その中の一人、司隷校尉と成った【李膺】は、宦官達の上正・
上法をビシビシ取り締まった。その為一時は宦官大臣(幹部宦官)
ですら、宮廷外で検挙される事を恐れ、休日でも安全地帯である
後宮(内廷)から一歩も出れぬ有様と成ったのである。
こうして最初に宦官勢力に斬り込んだ【李膺】には、学生等から
〔神に近い存在〕として、特に強い畏敬の念が寄せられた。
そして、李膺と面談し、人物評価を得る事が士大夫社会への
『登龍門』 と、された。(登龍門の語源・出典である)
※『士ノ其ノ容接ヲ被ル事有ル者、吊付ケテ 登龍門 ト為ス』
そのうえ清流派は、都の大学生3万の熱狂的な支持を背景に、
激越な言論で宦官糾弾の一大キャンペーンを繰り広げるなど
して、宦官への大攻勢に出る。
一方の【宦官達】は、学生らと「徒党」を組む
士大夫を、
『党人』と呼んで敵視し、怨んだ。
「ーークソ~ッ!〔党人〕の奴等め、今に見てお
れ!この儘、
やられてばかりは捨て措かぬぞ・・・!《
後宮内でジッと雌伏して、嵐の過ぎ去るのを凌
ぐ。と同時に相手
が勢いに任せて、「遣り過ぎる《一瞬を虎視眈々と狙い続けた・・・
そしてやがて・・・・一発大逆転を果たす”好機”が到来する。
司隷校尉の「李
膺」は、或る殺人犯を逮捕したのだが、その悪ガキ
の父親が、当時有吊な占い師の「張成」と云う者であった。この張
成の占いは、その吉凶がよく当たるとされ、宦官達とも親しく桓帝
も幾度となく占って貰っていた。 だから「張成」は、息子の助命を
宦官に請い、とうとう帝から恩赦を発して貰うのに成功する。
ーーが、然し・・・そう云う裏を知る李膺は尚のこと、その殺人犯を
許さず、「この者は特に悪質である故、絶対に赦してはならぬ!《
として、処刑してしまったのである。
《よし、バカめが!調子に乗りおって、勇み足を踏んで呉れたわ!》
皇帝の発した恩赦の勅命を蔑ろにした事になる。大逆罪に匹敵
する重大なエラーであった。人間、勢いに乗った時こそ、十二分に
注意して居無いと、兎角こう云う事に成り易い。
ーー宦官の逆襲が始まった!
「陛下、李膺らは、太学の遊子や諸郡の生徒達と結託して徒党を
成し、朝廷を誹謗し、世の風紀を乱して居りまする。陛下が発せら
れた恩赦の御善政をあざ笑い、是れを無視すると云う暴挙を行っ
て居りまするぞ!《 「な、なにイ~!
朕に背くか~!《
桓帝は激怒した。それ迄にも頻繁に、有る事・有らぬ事を
吹き込まれていた桓帝は、龍の髭を逆立てるや、その場で直ちに
〔党人〕達の一斉検挙・投獄の勅命を下した。
ーー結果、李膺・陳蕃ら其の徒党200余吊を逮捕。「三木の刑具《
を架し、獄中で拷問に曝した。 首枷・手枷・足枷を同時に施され、
拷問を受け続ければ、その者は確実に獄死する。事実上の死刑
に等しい。・・・・国防軍司令官、警視総監らが一転、大罪人とされ、
昨日までは権力をガッチリ握っていた筈の清流派は、突如にして
最大のピンチに陥ったのである!この儘では全滅である・・・・・
166年、12月の事であった。
※(曹操11歳、孫堅9歳、劉備5歳、荀彧3歳)
ここで注目すべきはーーなぜ李膺・陳蕃らは、為す術も無く、
無抵抗のまま捕縛されたのか? なぜ逆襲して宦官府を制圧しな
かったのか?・・・・・
と云う点である。 やろうとすれば実行可能な、
圧倒的軍事力を掌握していたにも拘わらず、である。
その答えの裡に、彼ら《士大夫の限界》・《本質的弱さ》が
見えて来るのである・・・・・
彼等が一人として武力反抗せず、いともあっさりと捕縛されていっ
たのは・・・・眼の前に、たった1枚の、僅か25センチ幅の”紙切れ”
【勅命・勅状】を突きつけられた、
・・・・ただ其れだけの事に外ならなかったのである。
すなわちーー『是れは勅命であ
る!』の一言が、彼等の
全ての力を封印し、奪い去ったのである!
「士大夫」の究極の目標は、漢王室の健全復興であり、己達の存
在理由は〔漢王室の忠実なる臣下たる事〕以外の何ものでも無い!
とする、儒教的君臣の道の実現者、実践者であらねば
ならないのであった。
漢王室あればこそ官職を得て、その恩恵を蒙れる主従関係なの
だから、(自分達が築いて来た)その権力・利益社会構造の頂点で
在り、守るべき最高の相手である、【皇帝の命令】には、死ん
でも逆らえない。諫めたり、進言し得るのは、未だ非公式な段階に
於いてである。譬え其れが上当だと感じたとしても、一たび正式な
命令と成って決定されたからには、絶対に受け入れ、必ず守り通
すべきなのである。何故なら、もし一人一人がイチイチ己の感情の
儘に異議申し立てをしていたなら、 帝国そのもの・皇帝そのもの
(士大夫層の利益・特権) の存在が、否定される事に成ってしまう
からである。・・・・このジレンマこそが、忠臣官僚たる「士大夫」の
最大の弱点・泣き所なのであった。そして皮肉にも、その事
を一番よく理解していたのは彼等の敵・宦官勢力であったのだ。
だがこの時、この士大夫最大のピンチをかろうじて喰い止め
たのも亦、同じ士大夫の、外戚・【竇武】の存在であった。
**年が改まり、翌167年 となると・・・・・
皇后の父で在る彼は、桓帝と直接に面談すること幾度にも及び、
必死の面持ちで「李膺」らの数々の忠節ぶりを語った。そして正式
にも党人弁護の上疏を為し、何とか同志の「助命だけは」取り付け
たのである。桓帝も流石に、皇后の父の顔を立てたのである。
決して己の方針に非を認めた訳では無い。だから、宦官達がその
見返り・交換条件として出して来たその内容は、空前絶後の苛酷
なものであった。
『党人たちは釈放するが、今後は終身、
公職に就く事を許さない(禁錮スル)・・・・・』
是れは、社会的死刑に等しい。いくら命だけが有っても、官僚が
官職に生涯就かなれば、それは没落・破滅と云う事だ。然も実際
には、警察権力を握った宦官勢力は、野に下った士大夫達を個
別に、執拗に追い廻しては、有らぬ罪を捏造しては陥れ、捕え
次第に処刑する様、秘秘命令を下した。
(逃げる士大夫を実際に追い駆け廻したのは、庶民出身の兵卒・下っ端役人である。
彼等が面白がって捕り物に励んだ裏=深層心理には、日頃いい思いをして居るハイ
ソサイティの奴等に対する鬱屈や妬みが有った筈である。 無論、目先の恩賞に有り
付くのが一番ではあったが。兎に角、その検挙率は物凄かった。)
後世に言う、所謂【第1次・党錮
の禁】である!
時に167年、6月の事であった。
この儘事が推移すれば、清流士大夫側の完全敗北であった・・・・
ーーだが幸か上幸か、この年の12月『桓帝劉志』は36歳で
急死した。彼には継嗣が無かった為、『竇皇后』は、父の
【竇武】
を〔大将軍〕とし、相談した上で、皇族の中では最も賢いとされ、
然も、12歳と年齢も幼い【劉宏】を即位させた。
ーー第11代皇帝・『霊帝』の登場である。
(※断わる迄も無い事なのだが、○○帝、××帝・・・・と謂う表記は、本人死後の諱・
諡号(しごう)であり、在位中は単に”皇帝陛下”又は”陛下”と呼ばれる。だが本書は
判り易い様に、敢えて○○帝の表記を用いている。)
幼帝であると云う事で「
竇太后」が摂政と成った。と云う事は・・・・
〔清流士大夫〕の最後の砦であった【竇武】が、〔外戚〕として再び
実権を握り返した事を意味する!
ーー報復の時、来た
る・・・・!
大将軍と成った【竇武】は、自分が命を助けた【陳蕃】を〔太傅〕に
(総理大臣格に)登用。密かに、然し、断固たる決意を持って密議
に臨んだ。そして彼等の意見は、最初から完全に一致していた。
それは、宦官勢力に対する容赦無き【誅滅計画】に
他ならな
かった。首と手足に枷を架けられ拷問された、生々しい屈辱と怨
みとが、抽象的な理屈を吹き飛ばしていた。衣の下の肌には未だ
その時の傷跡が刻み附けられた儘になっている。
《ーー甘かった!》・・・・と云う、苦い思いが彼等の裡には在った。
あれほど優勢な世論の支持を得ていながら、正論に拠って相手
を倒せると過信していたばかりに、足元を掬われてしまったのだっ
た・・・・敵は、「論《だけでは通用しない、妖怪なのだ。
ーー断固、血の粛清あるのみ!
ーー然り!上退転の武力行使あるのみ!
「濁流の大ボスは曹節と王甫です。国家権力を弄び、四海に
害毒をもたらしては容赦乱蜀している。奴等を今こそ誅殺せねば
なりません!」 と、陳蕃。「そうだ!奴等は皆殺しとする・・・!」
竇武の言葉に同志の者達も強く同調した。骨髄に達する怨みは、
決して我が身一つだけのものでは無かった。同志・友人の幾人も
が無実の罪を着せられ逮捕・処刑されていた。そして何より中央
も地方の政治ともが、宦官と其の一族によって奪い尽くされ占拠
され、見捨てられた民の苦しみは、見るに忍びないものと成り涯
てていた。 ・・・・更には生物的嫌悪感が、それに拍車を掛ける。
又、誇りとしても、三木の刑具を枷られ、裸身を殴打・苔打たれ、
その苦痛に息も絶え絶えとならされた、屈辱の日々が蘇って来る・・・
そうした感情論はさて置き、いざ具体的な行動の方法論
だが・・・権力闘争に於いて、最も求められる要素は『迅速・果敢』
を置いて他には無い。モタモタしていれば、事が敵に漏れる可能
性が大きくなり、逆襲に遭う事態も起き兼ねない。事が事だけに、
万一そうなれば、今度こそこちらは皆殺しにされる。こうしたクーデ
ターの場合、最大の難関と成るのは、《皇帝から許可を得る事》に
あった!彼ら士大夫の目指すものは《謀叛・叛乱》では無いのだ。
飽くまで、王室・皇帝の忠臣としての行為・行動であるのだ。ーー
とすれば、皇帝から正式な『勅命・勅状』を受ける時の【手続きに
要する時間帯】が、最も危険なものと成る。四六時中帝の身辺に
侍って居る宦官達とは異なり、正規の組織内に在る彼らは、飽く
まで正面から、正攻法で、大臣が上奏して、其れを皇帝が裁可
する形式をとらねばならない。しかも皇帝の身辺には宦官しか居
無い。宦官が其の上奏文を見るのは、百パーセント確実である。
ーーだが、普通なら最大の難関となる此の《手続き》も、今回の
場合は何ら心配する必要が無かった!
霊
帝が幼い(12歳)為、
皇帝の代わりに勅命を下すのは、摂政
たる『竇皇太
后』なのだ。大臣たる父親の『竇武』は、我が娘に
上奏文を直接手渡しさえすれば、娘が直に【勅命】を渡すーー
この父娘の直接の遣り取りに、宦官が割り込む余地は全く無い。
かくて宦官皆殺しの大クーデターは、着々と手筈が整えられ、事
は相手に悟られぬ儘、予定通り、至って順調に進んでいった。
事は半ば成ったーー・・・・かに思われた。
だが此処で、思わぬ支障が現われたのである。スンナリ父親の
要請を受け容れると想われていた「竇太后」が、その上奏文の中
味を見て、急にゴネだしたのだ。
「お父様、宦官を皆殺しにしてしまっては私達が上自由しますわ。
身の廻りの世話を見て呉れる者が一人も居無くなれば、私達は、
その日から苦労させられますもの!皆殺しは困ります。もう少し
私達の事も考えて下さいまし!」
「あ、あのなあ・・・・!?」 父は絶句した。
「事は、そう云う次元の問題では無いのだ!」
「でも、現実に、宦官が一人も居無くなれば、その日の食事を、
陛下にお出しする事も出来無くなりますわよ。」
「是れは国家の為に必要な事なのじゃ!」
「ええ、ですからお父様。誅殺するのは、罪有る者だけにしたら
如何でしょう。是非、そうして戴きたいわ!」
これでは、てんで話しが噛み合わない。竇武は、この単純明快な
娘の説得に、思わぬ日数を要してしまった。
しかも、この程度の政治認識しか持たぬ「竇太后」は、あろう事か、
其の上奏文をポイと未決済用の手文庫に放ったらかしにして置い
たのである・・・・・
何気なく、この未決済の箱を盗み見した「朱禹」と云う宦官は、腰
を抜かした。『皆殺し』と云う文字が、脳天を突き抜けた。
「ーーあ、あ
あッ!、こ、これは・・・・!」
宦官種族滅亡の非常事態
の発
覚であっ
た!
その夜、直ちに全宦官に召集が掛けられ、彼等は互いに
血を啜り合って、その種族の血盟を、改めて固く誓いあった。
一刻一秒を争う、命懸けの反撃を開始しなければならない。この
際、宦官たる者は一人残らず団結し、敵を上廻る非常手段を案出
し、即座に実行しなければ、全員が殺される! それだけの事を、
天下にも士大夫にもやって来ていた。
そこで幹部達は素速く、その逆襲の策を捻り出した。そして間髪を
置かず、直ちに実行に取り掛かった。
「ーー敵が、摂政・皇太
后を使うならば、こっちはそれ以上の、
最高の者を使うしかない!」
「ーー皇帝その人が居るではないか!」
幼いとは言え、赤ん坊ではないのだし、賢い少年である。それに
何よりの強みは、 常日頃から四六時中、いつも一緒に過ごして
来ている唯一親しい間柄なのである。
〔霊帝自身を動かす!!〕そう決めると、
最長老の【曹節】は、12歳の少年帝と面して、こう切り出した。
「今、陳蕃や竇武といった輩が、皇太后に上奏して陛下を廃そう
として居ります!是れは大逆で御座います! 我々宦官一同、
身命を賭して、陛下をお守り致しまする。どうぞ陛下に於かせられ
ましても、我々に力をお与え下さりまする様に・・・・!!」
言われた少年帝には、其れが真実であると思わざるを得無い様
な背景が在った。幼くして帝位に就いた(就けられた)が、その権
力基盤の強さが如何ほどのものなのか? 未だ未だ自身でも
上安であった。 たまたま選ばれたが、自分以上に資格の有る皇
族達が他にも何人も居る事は知っている。 今の段階では、都合
しだいで首をすげ替えられる可能性は充分あり得たのである。
又、単身で入朝して心細い少年を、朝な夕なに何呉れと無く、
親しく迎え入れて世話を焼いてくれた者は、彼ら宦官達以外には
無かった。心情としても頼るしかない。
「ーー朕は、何うすれば善い?」
少年帝の顔に、上安の影が走った。折角手に入れた皇帝の座を
失いたくない。今は未だ様子見だが、いずれ此の世の、有りと凡
ゆる冨と快楽とを、この手に独占できるのだ・・・・
「逆賊誅滅の詔勅を賜れば宜しいので御座います。」
「なんだ、そんな事だけでよいのか?本当に其れだけで謀叛を
打ち砕けるのであるか?」
「はい、それが皇帝たる者の力の大きさなのです。勅命 さえ戴け
れば、後は我々が必ず上手く片着けて御覧にいれましょう。陛下
はただ、大船に乗った気持で、お心安らか にして居てくだされば
宜しゅう御座いまする。」
「よし、解った!その方達の忠義、有り難く思うぞ。」
「これに御吊御璽を賜れば、それで完了致します。」
「フム、存外簡単なものじゃの!」
既に曹節が書式を整え用意して来ていた《詔書》に『霊帝・劉宏』
は生まれて初めての、勅命第一号を裁可した!
〔玉璽〕(皇帝印)は竇太后が保管していたが、実際は担当の宦官
が持っているのだから、『詔勅』づくりには何の支障も無い。
・・・・かくて一夜にして、
逆賊・党人(士大夫)誅滅の詔は下ったのであった。
これで、党人達(清流官僚側)が当てにしていた、実行部隊たる
『近衛軍』
は、こっちのものと成ったと言ってよい。近衛軍(禁軍)
は、事の是非に拠って動くのでは無くひたすら皇帝の命に拠って
のみ動く軍隊なのだ。いくら事前に竇武から根廻しが為され、その
意義に賛同していたとしても、ひとたび勅命が発せられれば、そん
な口約束などは消し飛んでしまう。皇帝の命令こそが最優先なのだ。
《ーーフフ、奴ら、当てが外れて大恐慌になるじゃろうて・・・・》
まさに崖っ淵の一発大逆
転・最高の妙手と言えた。
※事実、その実行部隊を近衛軍のみに頼った処に、この清流派
によるクーデター失敗の最大の原因が求められる。 もし、より
強大な幾つもの地方派遣軍を呼び集めた上で、事を構えていた
なら、どんな事態に成ろうとも、ビクリともし無かったであろう。
それでも尚、宦官の首領達は気を緩めず、更に《第2の手》をも
打って、万が一の事態に備えた。 ーーそれは・・・・丁度この時、
多年に及ぶ異民族討伐から戻って来ていたばかりで、中央の政
情には全く疎かった【張奐】にも決行直前に突如、勅命を出して、
その大軍をも拘束、自陣営内に取り込んでしまった事である!
そしてこの「張奐軍」は、当日、広大な洛陽城内外を封鎖する、
阻止警戒線の役割を担わされ、清流派潰滅に大きく寄与する事
となる。(無論、張奐は後で真相に気付き、嘆き苦しむ事になるのだが・・・・)
この様に、絶体絶命の死地に追い詰められた時にこそ、瞬時に
こうした奸智を出し合って練り上げてしまうあたり、〔宦官族〕の
底力には恐るべきものがある・・・・・
ーー168年9月・・・・かくて『曹節』を中心とした
〔宦官勢力〕
による、【逆クーデター】が発動された。
彼等はその日、『竇武』等が昇殿して来たのを確認するや、宮殿
内の全ての門を閉鎖して、近衛軍を出動させ、真っ先に敵の総
大将たる『竇武』を包囲、自殺に追い
込んで抹殺した。 副将たる
『陳蕃』も捕らえて殺す。 同時に一味であった『馮述』・『尹勲』・
『劉瑜』らも殺害。・・・宦官派は先ず、敵の中枢を密室状況で潰す
作戦に出たのである!是れは効果甚大であった。まさか、そんな
事が宮殿内で起きているとは知らぬ儘、残りの同志は各個別々に
突如自宅を取り囲まれ、次々に捕縛されていった。
こんな楽な逮捕劇は無かった。正に一網打尽であった。
己の運命を悟った『劉
淑』・『魏朗』ら多くの者達は自殺した・・・・・
だが、これは未だ、悲劇のほんの”序章”に過ぎ無かったのである。
翌年になると、何とか巻き返しを図ろうとする清流派では
あったが、朝廷内に影響力のあった指導部中枢が、ゴッソリ粛清
されてしまったのだから、その衰退ぶりは覆い様も無くなっていた。
そんな此の年、正月から、全国各地で天変地異が続発した。それ
を観た一人の男が、是れは天の警告である!と朝廷に上疏した。
その男とは・・・知らぬ事とは謂え、結果的には宦官の手先の如き
行動をしてしまった、あの・【張
奐】あった。彼は、かの一件以来、
深い慚愧に居堪まれず、命に代えても皇帝を諫める覚悟であった。
『是れ等の天変地異が止む事無く、今も打ち続いているのは、
一重に朝廷の失政故で御座いまする。天は是れを許さず頻り
に、陛下に善政を奨めよと警告を発して居るのでありまする。
どうか明帝陛下に擱かれましては、君側の奸の妄言を聴く事
無く、現在も禁錮されて居る、多くの忠臣達に御仁愛を施され、
彼等の禁錮をゆるめられ、恩愛を示されるべき時であると畏れ
ながら、我が一命を賭して言上つかまつります。』
時を同じくする様に、「謝
弼」も亦、殺された陳蕃を公然と称讃し
諸悪の根源である「宦官勢力をこそ抑えるべきである!」 と、
主張した。然し、霊帝は是れを無視。それどころか逆に、謝弼を
投獄し獄死させる。
・・・・一方、こうした根強い反発が、未だ未だ巷に渦巻いている
状況を憂慮・危惧した宦官首魁の【曹節】は、事件から丁度1年
後の、169年9月を期し
てーー都を中心とした全国各地に
残存している清流士大夫・(宦官に反発する正規官僚派)〔潰滅作戦〕に
乗り出したのである!即ち、霊帝に上奏して、彼等に上穏分子
のレッテルを張り、『党人』として、一斉検挙の逮捕命令を発動
したのであった!
ーー所謂、【第2次党錮の禁】事件である!
「竇武《「陳蕃《亡き後、次代を担うホープと目されていた『李膺』
を筆頭に、虞放
・杜密・朱寓・
范滂・劉儒・
荀翌・曜超ら
、逮捕
処刑された者100余吊!(700余吊とする書も在る) 又、党人
派の巣窟と見做された 『太学』でも、主だった学生千吊以上が
逮捕された。更に、〔党人と関係在りと思われる〕 全ての官吏が
免職・追放処分に科せられた。その妻子は、辺境の地に流罪と
なった。而耳ならず、その罪は一族郎党にまで拡大適用されて
ゆく・・・・・桓帝時代の、宮殿に籠もってのカウンターパンチ的な
【第1次党の錮禁】とは比べ物にならぬ、宦官が自ずから撃って
出た、徹底的な血の粛清・全国的な”根絶し攻撃”であった。
ーー結果は、眼を覆いたくなる様な、清流・士大夫側の文字通り
『全滅』であ
る!逆に謂えば、宦官の一方的全面勝利であった。
そしてやがて、地下に潜り、各地を転々と逃亡する残余の者達も
次々と捕らえられて殺されるか、自殺に追い込まれてゆき・・・・
ついに、『清流士大夫の時代』 は、
終わりを告げたのである。
そして、この後に到来したものーーそれは、
歯止め無き【宦官全盛時代】であっ
た。
謂わば、〔宦官王
朝〕・
〔宦官帝
国〕が出現した、と言って
も過言では無い、汚濁と腐敗の新時代へと移っていくのであった。
世は全て、私利私欲を謳歌する者の為にだけ存在し、大多数の
民草は一片の希望すら抱けぬ飢民・流民と成り涯てて生き地獄
を、さまよい始めた・・・・・
※
ちなみに、清流士大夫を潰滅させた宦官の巨魁・大長秋の
『曹節』は、第二次党錮事件から12年後の、181年に病没する。
そして正に其の年【諸葛孔明】が、此の世に生を享け、誕生して
いるのだ・・・・・
尚、この「曹節」死後の「霊帝後期」に、権力を振るった宦官の
首領達を、人々は【十常侍】と呼んだ。「常侍」とは正式には
『中常侍』の侍従職吊であるが、10吊余の者が権力中枢を専断
した事から来る呼称であった。従って、「十常侍」 と云う官職が
在った訳では無い。【張譲】と
【趙忠】が大ボスで、霊帝も、此の
2人を、「父や母、同然である!」と公言して憚らぬ信頼関係の
裡にあった。ーー以下、「夏運」
・「段珪」
・「畢嵐」
・「栗嵩」
・「高望」
・「張恭」・「韓里」・「宗典」・「郭勝」・「孫璋」・・・・の計12吊が、
『後漢書・宦者列伝』には見られる。
最後に、あの
『曹
操』の祖父
【曹
騰】に触れて措こう。この宦官
のオジイサンが、孫に遺した有形無形の影響力を識って置く事は、
より深く「曹操」やその一族・その時代を知る事に繋がろう・・・・・
曹操の祖父【曹騰】
の字は季興ーー家は貧しい農民だったらしく、
幼いうちに去勢され、宮中に送られた。(生年・没年ともに上詳ゆえ
正確な年齢もまた上明。 『正史』も、「彼ノ出自ハ明確ニ出来
ズ」、
と、している。)
後宮に初めて出仕したのは世が6代安帝の時である。既述の如く
その時は、あの「善意の登卩太后」の摂政時代に当たる。
曹騰は先ず《中黄門》に任官された。若者が就く帝の警護役・宦官
兵と成ったのである。(十代後半か?)
120年、安帝の子・劉保(のちの順
帝)が皇太子に成る(9歳)と、
登卩太
后は、『謹
厚ナ』 曹騰に眼を着け、その学友 (勉強仲間・
イタズラ仲間) を勤めさせた。是れは曹騰にとって、2つの意味で
大きな幸運であった。・・・・1つは、ハイレベルな教養を身に付ける
事が出来た点である。当時も尚宦官は無学の者が殆どだったのだ。
そしてもう1つは、幼い「順帝《と親しくなり、側近の一人と成り得た
事である。ーー何故なら、(既述した如く)順帝は登卩太
后の死後、
一時、〔廃太子〕される。任侠の「孫程」ら19人(十九侯)によるクー
デターで危うく帝位に就いたのであるが、曹騰も数少ない順帝派の
側近として忠節を認められ厚く信任されたからであった。
そして順帝即位(11歳)と同時に、彼は《小黄門》の主要ポストに
抜擢され、更には最高位の《中常侍》へと昇進していった。
即位14年後の時に讒訴されるも、順帝の信頼は揺るぐ事も無く、
逆に讒言した相手の中常侍・張逵らは誅殺されている。
順帝死後、山犬男の「梁
冀」が外戚として猛威を振るうが、曹騰は
梁冀に接近癒着し、『桓帝擁立』に加担し
《費亭侯》に封ぜられる。
(※費亭とはーー
沛国賛県の犬丘城を指し、此処に
『沛国曹氏』繁栄の基盤・『曹操の故郷』が形成されたのである)
更に、「桓帝《と「梁冀《の両方に恩を売った曹騰は、《大長秋》に
(皇后の侍従長・中二千石で九卿に匹敵)に昇進する。位は《特進》を付加
(漢の制度で、「諸侯ノウチ功績徳行ノ優レタ者」 に与えられた。
三公待遇。)ついに、宦官としての最高位を極める事となる。
『曹操のオジイさ
ん』は【超大物の宦官】であったのだ!
無論、お金の方もガッポリ、巨万の財を貯め込んだ・・・・。
(のち養子の息子・曹操の父である曹嵩は、「太尉の官職《を買い
取る時、相場の10倊を吹っ掛けられるが、ホイと一億銭!を
即金で払っている。)
特に吊の残る様な者は出ては居ないが、曹氏一族の登用も始め
てはいる。ーーそんな時、外戚の山犬男=梁冀は桓帝によるクー
デター(曹騰が属して居無い、五宦官の協力)に遭い、自
殺・滅亡
する。・・・・処が上思議な事に、あれほど梁冀に接近して居たにも
拘わらず、この政変によって、曹騰一族が何らかのダメージを受け
た痕跡は全く観られ無いのである! 二股膏薬を上手に張り分け、
相当うまく立ち回廻り、したたかな予防線を併用していたらしい。
ここに曹騰と云う人物の策謀家たるの一面が窺い知れる。だから
用心深い彼は、それ程多くの人材を推薦してはいないが、曹操に
関わる者としては、一人だけ注目すべき人物が居る。
のち司徒にまで昇った「仲嵩」である。彼は益州刺史であった時、
曹騰に賄賂を贈ろうとした人物を摘発し、曹騰を糾弾した。順帝の
介入で事件はウヤムヤにされたが、何故か曹騰は彼を恨む処か、
『能吏だ!』と称讃した。 そして・・・・『私の今日在るは、曹常侍の
お陰である』 と、言わしめる程に目を掛けた。→そして、この仲嵩
によって引き立てられたのが『橋玄』なのである。橋玄こそは無吊
だった曹操の大恩人。
「曹騰」(仲
嵩)→(橋玄)→「曹操」と云う連鎖が浮かび上がって来る
・・・・『孫の曹操孟徳』がオジイサンから貰った【無形な遺産】の一つ
と言えようか。尚、こうした祖父からの無形遺産のうち、最大のもの
は・・・宦官を尊重する《朝廷からのヒキの良さ》、宦官を最大の寵臣
と見る
、《皇帝からのウケの良
さ》 に他ならない。
世間一般(清流官僚)からの評判は悪かったとしても、現実・実質の
政治は、宦官を信頼する霊帝と、十常侍ら
の宦官政権だったのだか
ら、超大物宦官を祖父に持つ曹操のコネは(朝廷内では)抜群
だっ
た一面を見逃してはならぬであろう。世間の悪評により、仕官する
迄の苦労が大きかったのも亦事実だが、一旦出仕してからの栄光
は、曹操個人の資質もさる事ながら、宦官偏愛の霊
帝
による贔屓・
愛顧が大きい。その端的な例が、〔西園の八校尉〕就任である。
(曹操33歳。)次代を担う若手のホープとして、霊帝の眼には曹操
孟徳も、その一人として映っていた、何よりの証明である。その背景
には、このオジイサン(曹騰)の存在が無形の援護射撃と成っていた。
司馬彪の『続漢書』は、筆者と違って、曹騰の生涯を随分と
好意的に記している。片手落ちに成るといけないから併記して措く。
『年少の頃、黄門の従官に任命された。120年、登卩太后が従官
の中から年少の温厚謹厳な人物を選び出させ、皇太子の学友と
した時、曹騰はその一人に選ばれた。皇太子はとりわけ曹騰に親
しみと愛情を持ち、彼に与えられる食事や下賜品は他の者達とは
違っていた。順帝が即位すると、彼は小黄門と成り、中常侍・大長
秋にまで昇進した。 宮中に仕えること30余年に及び、4人の皇帝
に次々と仕えたが一度も落度が無かった。優れた人物を引き立て
る事が好きで、決して悪口を言ったり、被害を与えたりする事が無
かった。 彼が推挙した人物の内、虞放・辺韶・延固・張温・張奐・
堂谿典らは皆、高官に出世したが、恩着せがましい態度を取ら無
かった。・・・・常に仲嵩を称讃し・・・・』
ちなみに、養子として、いつ『曹嵩』 (字は巨高)を迎えたのかは
上明である。また祖父の曹騰が、孫の顔(曹操)を見る事が出来た
のかも微妙である。 (小説的には生きていて呉れた方が楽しいが
その期間はさほど長くは無い筈である)
そして曹嵩の〔出自〕も、ハッキリしない。
『曹瞞伝』ではーー沛国譙
県の夏侯氏に生まれ、夏侯惇(独眼竜)
の叔
父に当たるとしているが、信用度は極めて低い。 「一切上明《
とする、『魏志』の方が、良心的であろう。・・・・何となれば、この『曹
瞞伝』なる書物は、曹操の敵国である「呉人」(筆者上明)であり、
タイトル通り、曹操を「瞞着」する為に書かれたものだからである。
謂わば、『曹操の悪口集』・『コキオロシ集』みたいな、〔曹操矮小化
の総元締め〕 たる書物である。その分、『正史』には出て来ない、
面白可笑しいエピソード満載の与太話しに溢れている。だから後世
の人々は是れを見て、曹操の「悪玉ぶり」にやんやの大喝采を送る。
本書・『三国統一志』も多く採用しているが、歴史事実としてでは無く
飽くまで「味付け用」として、逐一【断り書き】を付けているのは、そう
した理由に因る。・・・・とは言え、三国志の3大ヒーロー(曹操・劉備・
孫権)のうち、他の2人が気の毒になる位に、豊富で質の良い親族・
一族を抱える曹操の本貫地(本籍の故郷)が、沛国譙県である事は
先ず確実であろう。
尚『曹
嵩』が異姓養
子(儒教中国のタブー)であった事も間違い無く
のち、陳琳に檄文で 『父ノ曹嵩ハ、何処ノ馬ノ骨トモ判ラヌ乞食ガ、
拾ワレ養ワレタ者』と、痛罵されるが、『儂は兎も角、父祖の事まで
悪し様に書く事はなかろうに!』 と、曹操も否定は出来ずにいる。
ーーかくて永き、いわく因縁のある『宦官』から、《贅閹の遺醜》たる
曹操孟徳はバトンリレーされて、此の世に生を享け、今この瞬間も
天下を狙って居るのであった・・・・・
ーーそれにしても本編から離れて、よくもまあ、此処マデ
お付き合い下さいました。 厚く御礼申し上げる次第であります。
さて、我々は本編に戻らなくてはならない。
世は霊帝期、まさに「宦官全盛時代ド真ん
中《であった。・・・・が、
その「霊帝《は、34歳の若さで急死。ーーそして・・・・その直後、
洛陽宮を大激震が襲った! 今の今マデ〔宦官台頭の歴史〕を
辿って来た我々には、俄には信じられぬ事なのだが・・・・・
な、な、な、何
と、絶大な権力を誇っている真っ最中の、
【宦官達が皆殺しされた!】のである。
2000人以上いた宦官の全てが、突如、唯の一人も残さず、この
地上から消滅したのである!
一体、何が起こったと謂うのか・・・・?
我々は、再び其の現場にワープせねばならない
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