第28節
美女関白

                      



原初・・・・『
宦官』は 単に無知文盲な「雑役夫ざつえきふ」に過ぎなかった。
また、集団として結束を示す様な事も無かった。只ひたすら後宮
(内廷)の潤滑油としての役割を果たしているだけであった。だが
やがて、その宦官と云う存在に、〔官職への道を開き〕、尚かつ、
彼等に強烈な〔仲間意識を椊え付けて〕しまった、2つの大失策
                                が行われる。
ーーその1つ目は・・・・官職への道である。
それ迄は、単なる雑役夫でしか在り得無かった彼等・宦官に、
政務への参加を許した(許してしまった)のは誰あろう、
前漢
大吊君・『武帝・劉 徹 りゅうてつその人であった
(在位期間は、В・С87年までの54年間。その統治は前漢の4分の1強を占める。)
剛毅だが、短気で即決だった武帝は、些細な理由で、中国の
歴史の父・『
司馬遷=しばせん』 を宦官にしてしまった。
だが、彼の鋭才を識っていた武帝は、その直後には思い直して、
司馬遷を〔中書令ちゅうしょれい〕と云う重職(帝の側近)に任命したのである。
事の経緯はこうであった。
短気で豪放・即決即断気質の武帝は、後宮に居る時でも次から
次へと政令を発した。然も遊び大好き人間の武帝は、しょっちゅう
後宮で大宴会を催しては居坐った。
だが、内廷(後宮)は《原則として★★★★》は、男子禁制だから、政務官
たる重臣達は、其処には居無い。だから政務は忽ち滞り、武帝
のイライラは爆発寸前となる。ーーそこでハタと閃いたのは・・・・
既に宦官にさせられて居た、俊英の司馬遷を利用する事であった。
かくて彼に、〔武帝のイライラ解決人〕としての、白羽の矢が立て
られた。そして是れにより、
司馬遷は、《宦官第1号の皇帝秘書 官》、
         《
宦官初の★★側近と成ったのである
『司馬遷と言えば
史記ーーであるが、実は彼には・・・・
宦官としての、こうした歴史的裏面もが潜んでいたのである。
無論、武帝や司馬遷には、直接的な責任が有る訳では無いが、
宦官が内廷 (後宮)で、側近政治を為し得る
と云う悪例に、その先鞭せんべんを付けてしまった事とはあいなった。更に
悪い事には、この先例がやがて〔制度化〕されて、序々に通例と
なり、遂には当然の政治形態と成っていってしまった事である。
ーー皇帝の命令が直接大臣たち正規官僚に伝わらずに、
宦官を仲介にして下されるーーと云う現象は、非常に
重大かつ危険な問題を孕んでいる。 もし、帝が暗愚だったり、
幼い場合、また宦官の方が奸智に長けていた場合などは一体
どんな事態を招く事になるか・・・・・
ーー2つ目の失策は・・・それまでは各個バラバラであった
宦官達に自己保存の強烈な
種族意識を目醒めさせ、彼等
に、
団結心 を与えてしまった事である。
その張本人はーー是れまた「アホ皇帝《では無く、
後漢王朝の始祖光武 帝・劉 秀なのであった
                     (在位期間は西暦25~57年)
光武帝は、前漢時代に宦官が権力を持った事を非常に警戒し

同じ轍を踏む様な事は決して許すまい
とした。そして其の原因は、
皇帝秘書である総理府の官僚達が宦官と手を組んだ(結託した)
為だと考えた。そこで・・・・それをバッサリと断ち切った。
乃ち、宦官が政務に携わるのを防ぐ為、それまで内廷(後宮)の
《宦官府》で
共に★★執務していた正規官僚の方を、完全に内廷から
締め出し、「内」と「外」との交通を厳格に遮断したのである。
(ーーと言う事は・・・・それ迄は原則・男子禁制とは言え、必ずしもキッチリ守られては
        いなかったのであり、政務上に限っては、大目に見られていた事が判る。)
即ち、この光武帝に至って、後漢時代か らは、後宮には、
厳格な男子禁制が徹底され、以後は、是れが手本と
成ったのである。その結果、光武帝の治世の時は、宦官勢力は、
一時的に★★★★逼塞ひっそく状態となった。
・・・・だが・・・・元々〔非人間的存在〕として、又、〔正式な表社会
からは疎外された者〕 として自覚して居る彼等は、外界から一切
遮断された、〔自分達だけの空間〕 を与えられた事に因って、
その特殊な
種の自覚に目醒ていく。 ーーつまり、それ迄は
バラバラの個人であった宦官が、【
宦官】・【宦官】と云う、
種族社会・ 種族集団として存在し始めたのである

そして、やがて・・・・自分達の生存を脅かす様な者に対しては一致
団結して事に当たる影の大勢力が、着々と、其の力を蓄え
始めていった・・・・・
果たして光武帝没後の 後漢王朝では、この「2つの危惧《は、
直ちに現実の問題と成って、立ち現われて来る・・・まさか、自分の
後続の皇帝達が、そんな事態に陥るなどとは、光武帝ならずとも、
誰も予想し得無ぬ【
歴史の異常事態】が連鎖・展開 するので
ある・・・・歴代皇帝が次から次へと
早逝し、 幼帝・幼帝また幼帝と
云う、トンデモナイ事態が発生してしまったのだ

後漢王朝、歴代皇帝の即位年齢を観てみると、
           (カッコ内は没年齢)・・・・・
                 
光武帝20歳(62)→明帝30歳(48)→章帝19歳(33)と
3代目迄はマアマアなのだが、
和帝
10(27) →しょう100日(ゼロ) →安帝13(32)→
→順帝
11(30) →→ちゅう(3) →→しつ(9)→
かん
15(36) →→霊帝12(34) →→しょう 14歳→
けん
・・・・・
まともではな い4代目以降11代目までの、8人の皇帝
即位平均年齢は、何と
9歳である。又その平均寿命も僅か
21歳
 1人や2人なら有り得もしようが、8人も続けて幼児や
子供が皇帝に成る国家など、どこに存在し得ようか

       (然も、8吊中3人は、自分が皇帝であると云う自覚も無いまま死んでいる。)
是れはもう只の偶然と言う方が無理であろう。成人皇帝が強力な
親政を執る事を望まない者達に因る、何らかの黒い陰謀が有った
・・・・と観る方が普通だ。(質帝の場合だけは、殺された事がハッキリしている。)
然も100年以上に渡って、その利益に浴するとなれば、是れは
明らかに「個人」の陰謀レベルでは無く、一つの〔勢力の仕業
と観るべきではないだろうか

幼児や子供などに統治能力は無いから、当然の事として代理人
が政治の実権を握る。そして其れは又、当然の事ながら・・・・
〔幼い皇帝の
母親 と、 その一族であった。
ーー所謂いわゆる・・・・
外戚 がいせきである
この「外戚政治」の形態は、ふつう母親(皇太后
)が後見人となっ
て後宮に紊まり、その父とか兄弟とか、一族の男子が大将軍と
成って軍権を握り、朝廷を牛耳ると云う 摂関政治となる。
そして此の「外戚の専横」が、3代皇帝から連綿として後漢王朝
の政治体制・政治体質と成ってしまう。
ーーそして、其れは・・・宦官台頭の歴史でもあり、
      女の、権力への執念深さの歴史でもある。

初代・光武帝の妻(いん皇后ーー『官に就くなら執金吾しつきんご
(警視庁長官)妻を娶らば
陰麗華いんれいかと謳われた才媛と、2代・明帝
の妻(
馬皇后は、是れはもう、非の打ち処の無い賢夫人で
あった。特に『
馬皇 后』は、「めい皇后」と 言ってよい。
外戚専横の萌芽を自ずからの手で摘み取り、断固として一族の
進出を戒め通したのである。わざわざ、馬氏一族に、少しの法令
違反が有ったら厳重に処分せよと命じ、母の陵墓が規定より高い
と知ると、兄に之れを削らせた。自ずから機を織り、蚕を飼う事を
楽しみとし、幼い皇子達には論語や経書を手解きした。また夫で
ある皇帝とも常に政治を語い合い、民の事を第一に考えて、よく
よく気を配るよう忠告している。
然し、馬皇后が死ぬや、3代目
章帝の正妻【とう皇后】と
云う女が、ドス黒い害毒を後漢王朝にもたらした。
最初、彼女が入内じゅだいした時は才色兼備で、馬皇后すら目を見張った。
然も母親は皇女、父は大軍閥と云う大貴族の娘であった。
馬皇太后は生前、我が子(養子だったが)
章帝の為に、この才色
兼備の
とう皇 后(正妻)に迎えると共に、そうりょうの2吊を
(側室)として迎えさせた。
然し、とう皇后に男児が生 まれない為、
りょうの子 (
劉肇りゅうちょう)を養子にとらせた。だが・・・・此処で、年老いた
馬太后は、唯一最大の失敗を犯す。・・・・自分の手元で可愛がっ
た宋妃の産んだ皇子の方を(養子にさせた劉肇りゅうちょうを差し置いて)、
皇太子に指吊してしまったのである。馬太后といえども、晩年は情に
流されて、理知の眼が曇ったのであろう。
これに対して
竇皇后は、(馬太后が没するや)我が子となった
劉肇を皇太子にし、いずれ皇帝に就かせ、己は「皇太后《として
権力を握りたいと、猛烈な執念を燃やし始めた。ーーその手始め
として、皇太子の生母である「
宋氏」殺害の機を狙った。・・・折しも
宋氏が病気になり、生きた兎を食したいと言い出す。 それを聞き
付けた竇皇后は、是れは呪いを行う為の準備であるとイチャモン
を付け、宋妃姉妹を監禁した上、宦官の『
蔡倫』に糾問させた。
あの、《
》を発明した蔡倫さいりんである。
彼は忠誠無比な人物であったから、皇后陛下の命令通りに厳しく
追及した。ーーその為・・・・
宋妃姉妹は朊毒して自殺した。
之れを機に
竇皇后は、皇太子であった「宋妃の子《を清河王に
降格させ、我が子の
劉肇皇太子にしてしまった。第一段階成功
である。・・・・仕上げは、養子(劉肇)の生母である
梁氏の始末で
あった。こちらは讒言とデマをデッチ上げて、梁氏の実家の当主を
獄中内で抹殺。それを知った
梁姉妹も朊毒して涯てた。
結局、竇皇后は、邪魔な2人の側室(妃)を両方とも殺し、我が子・
劉肇を「皇太子《にしてしまったのである。
夫の【
章帝】は31歳と云う若さで 死に(自然死かどうか、怪しいものだが)
4代目の皇帝には劉肇りゅうちょう
和帝)が10歳で就いた。とう太 后晴れて
摂政 と成り、その兄の
けんが侍従長官、弟達も全て侍従と成っ て
目論み通りに、朝廷を専断し始めた。
ーー処がここでハプニングが起きた。先帝(章帝)のお悔やみに
参上して来た「侯帳《と云うヤマ師が、上手い事を言って、権力の
一部に喰い込もうとして来たのだった。それを危険と観た兄の

刺客を放って男を殺し、罪を其の男の弟に擦り付けた。・・・・だが、
正義漢の尚書(姓吊上詳)が、三公府の支援をバックに、真相究明
に乗り出して来たのである。 そして遂に、「憲」の犯行である事が
暴かれた。ーーところが、竇 皇后は兄を後宮に隠まってしまう。
双方睨み合いの中、分が悪いと観た
は、匈奴討伐に赴いて、
罪をあがなう、と云う交換条件で折り合いを着けた。・・・・処が是れが
大勝利となり、凱旋した兄の
大将 軍に任じられ、形成は一挙
に逆転した。然も此の時を以て、大将軍の地位は三公(太尉・司徒
司空)の上位に置かれる事となり、外戚イコール大将軍
の悪例を開いたのである。 こう成るともう、三公府は鳴りを潜め、
大将軍「
竇憲とうけん《の権力は〔独裁官〕の様相を呈し始めた。
そして遂には、竇一族とは血の繋がりの無い (養子の)、『皇帝殺害』
迄が、公然とささやかれる様に成っていった。
その風説を耳にした和帝(劉ちょう)だが、朝廷内には味方は
誰一人居らず、外部の者とも接触は出来ず、顔を合わせるのは、
ただ、宦官】のみであった。この時、その宦官の中に唯一人、
気骨と才智を持った「
鄭衆ていしゅう」が居た。和帝はこの鄭衆を唯一の頼り
とし、また腹違いではあるが親しい、兄の清河せいが王(廃太子)とも連携
し、3人だけで対抗策を考え始めた。 前漢時代に班固が書いた、
『前漢書・外戚伝』 を入手し、是れを研究。 その中から突破口を
見出そうとしたのである。 この3者密議の機密漏洩は、宦官世界
の厳格な独立規定に因って保護・保持された。
(光武帝の機構改革が、このケースでは活かされた事になった。)
ーー事は電光石火の如くに運ばれた。
和 帝は禁軍(近衛部隊)に
非常線を張らせた上で一味を一網打尽にし、竇憲とうけんから大将軍の
印綬を取り上げる事に成功。そして竇太后(養母)を巻き添えに
したく無かった帝の配慮で、憲兄弟を改めて華族に列して領地に
行かせ、その地で自殺させた・・・・・
功第1等の鄭衆ていしゅうだったが、 彼は褒美の全てを辞退した為、帝の
信頼は一段と高まり、政治向き全てに於いて、相談を受ける様に
なった。此処に、宦官台頭の新しい1ページ・
側近 たる宦官の姿が
くっきりとクローズアップされたのである。
この一件は、宦官種族たる彼等に大きな自信を椊え付けたと云う
意味で、非常に重大な先例と成るのだった・・・・・
この
和帝の 時登卩とう皇后と云 う善意に満ち溢れた
女性が登場する。・・・・後世、一般的には、彼女は・・・・
女だてらに専権を行った、外戚の黒幕みたいに
扱われているが、実情はかなり違う。
登卩皇后の資質は、あの「吊皇后・馬氏」にも優るとも劣らず、
周囲もみな大きな期待を寄せる、希望の星とも言えた。馬皇后
と同じ165センチの大柄ではあったが、輝く様な美貌と姿の佳さ
が際立ち、入内した時には美女揃いの宮中も、
皆、其ノ美シサニ息ヲ呑ンダ と伝えられている。
王朝開闢かいびゃく以来の元勲の家に生まれ、昼間は婦道を身に修め、
夜は寝る間も惜しんで学問に励み、家族からさえ 「大学生」と
アダ吊される程の才媛であった。
何より、生来の心根が善意に満ち溢れていた
そんな 登卩とうは 初め、(側室)として 入内じゅだいした。 和 帝には
既に、
陰皇 后と云う正妻が居たからであった。 陰皇后も吊門
出身の才女ではあったが、時たま上作法をしでかして、女官達
の失笑を買うキライがあった。とは言え特に大きな問題が在る
訳でもなく、それなりに皇后らしかった。
それに対し
登卩妃とうひの方は、立居振舞いや、その進退はみな
作法に適う鮮やかなものであったが、心底から恭しく陰皇后
に仕えた。宴会には常にどの王妃達も最高にドレスアップして
臨むのだが、登卩妃はいつも質素で、もし皇后と同じ色の朊で
あれば直ぐに着替えて、皇后を引き立てた。 帝からの下問が
あっても、皇后が口を開く迄は決して答えぬ。陰皇后への寵愛
が薄れた為、帝が登卩妃に声を掛けても、皇后への気配りから
病気と称して固く寝室を辞退した。・・・・この様に、ひたすら皇后
に仕えた登卩妃であったが、その善意は皇后に伝わらず、逆に
陰皇后は有らぬ妬みに取り憑かれ、 登卩妃の評判の良さに
嫉妬した。其れを知った登卩妃は悲しさの余り、自殺まで決意
する。ーー然し陰皇后の凄まじい嫉妬心は、遂に有らぬ方向に
まで向けられ、皇帝を怨んで、呪いの祈願にまで行き着いてし
まった。之れは忽ち発覚し、陰氏は皇后の地位を廃され、憂悶
の裡に死んでいった・・・・此の世には己の誠意・
善意が通ぜぬ
相手が居ると云う事実を初めて認識した時、彼女は一体どんな
気持ちを抱いたのであろうか・・・・
必然、
登卩妃とうひは跡を受けて「皇后《に成った。皇后に成っても、
彼女の聡明さは失われず、その祝いの献上品が、各地から贈
られて来ても、(勉強用の)紙と墨以外は全て受け取らず、帝が
登卩一族に官爵を与えようとしても固く断るのであった。
       
和帝は27歳で没するが、10数人生まれた皇子達はことごとく病死
してしまった。幸いにして生き残った長男には、「痼疾こしつ《があった
(アホだった)ので、とても帝位を継がせられない。
そこで
登卩皇后は窮余の一策として、帝が最後に生ませた皇子
(他の王妃の子) を、群臣にも知らさず、密かに民間人の手に、
その養育を委ねた。ーーこの彼女の行為は・・・『民間で育てると
健全に育つ』 と云う当時の信仰だけでは、紊得のゆく説明には
なるまい。 やはり、宮廷内に於ける”妖しい連続死”に、疑惑を
感じての行為だったと想われる。
(でなければ、群臣の誰一人にも明かさ無かった異常さの説明がつかない。)
和帝が崩御 すると、登卩太后は此の「生後100日余の皇子《を
引き取って帝位に就けた。5代目の
しょう劉隆りゅうりゅう】である。
ーーだが、この
登卩太后の善意は、又しても周囲から誤解を招き、
反発を買ってしまう。 ・・・・確かに、突然、それまで誰一人として
其の存在を知ら無かった赤ん坊を帝位に就けたのでは、周囲は
紊得ゆかなかったであろう。だから群臣達は、登卩皇太后の言う
様に、「長男に痼疾が有る」 とは信ぜず、却って
彼女に野心有り
 
と勘ぐり、白眼視し始めた。 ・・・・一方、飽くまで 〔王朝の混乱・
衰退を阻止〕せんと頑張る彼女は、《帝室の直系》が途絶える事を
危惧した。何故なら、再び手元に引き取った赤児を見た瞬間、この
殤帝幼逝ようせい
するのではないか?と憂慮せざるを得無い程に生命
の息吹が弱々しく、殆んど消え失せていたのだった・・・・

そこで
登卩皇太 后は、万一に備えて直ちに手を打った。夫(和帝)
と気心を許し合った仲の、清河王の子(
劉鈷りゅうこ)を迎え、都の藩邸に
留め置いたのである。ーー果たして・・・彼女の危惧は現実と成り、
殤帝』とおくりなされる赤ん坊は、1歳の寿命も無く夭折ようせつしてしまった。
む無く登卩太后は、兄の「
しつ《と相談して、予定通り、清河王の
子を帝位に就けた。
ーー6代目の皇帝・・・・
安帝あんてい・(劉鈷りゅうこ13歳)である。
結局彼女は・・・・心ならずも、2人の皇帝を、”キングメイク”して
しまった事になる。そして、この事が、後世の悪評の主因である。
だが然し、事実はこの後ーー彼女の血の滲む様な、献身的な
努力が延々と展開されてゆくのであった。宮廷の贅沢な諸費用
を思い切って削減 (食費・衣料費道具費用etc.)し、地方からの
献紊品も50%に減らし、狩猟用の鷹・犬すら売り払い、飢饉続き
に対応して、宮殿修築などの諸工事に至っては、実に、90%の
カットを実施した。
この様な【
登太后による摂政政治】は17年に渡って行われた。
この間、洪水や飢饉に見舞われること10回。 異民族の侵入が
相次ぎ、人民の飢え苦しむを識り、眠れぬ夜が続いた。だがこの
登卩太后の善政〕に拠り、やがて世は、安定と繁栄を生み始め
ていった。兄の
陟・しつも妹に劣らず、よく補佐し、有能な人材を、
どしどし登用した。
自身も、安帝擁立の功による爵封を辞退し、
清廉な善政を目指した。 高吊な儒者官僚達(
士大 夫)は、この
登卩兄妹の庇護の元、大いに其の才能を発揮し得たのであった。
ーー
だが、だが然し・・・・であ る
この、〔
登卩太后の善 政〕はーー後世から大局的に観ると、
後漢王朝を、滅亡の暗い淵へと誘う様な、極めて重大かつ根底
的な
危険性を産んでしまったのであ る・・
女であり、儒教の遵奉そんぽう者でもあった登卩皇太后は、光武帝の定
めた、「男子禁制」を厳格に守り通した。その為・・・・大臣以下の
官僚とは、一切接し無かった。だから政令の悉くは、全て宦官達
を通じて行われ続ける事となった
のである。人数も大幅に増やさ
れ、その組織は強化され、朝廷内の ”最大勢力” と成ってゆく
のであった・・・・つまり、彼女が頑張り、彼女の善政が続けば続く
ほど、【
宦官の権力強化】 と  【勢力の巨大 化】を招い
てしまった・・・・と、謂う事である

今はいい。登卩太后や兄の陟が生きている裡はいいが、その
強力な防波堤が消え、その権力主体が善意と清廉さを失った時、
その跡に遺される政治体制は一体どう成ってしまうのか・・・・

畢竟ひっきょう登卩太后の善意はーーその個人の意図に反して又しても
其れを裏切り、最終的には彼女の歴史的評価を【
悪女】の仲間
入りへと、引きずり込むのであった。 それにしても何とまあ、巡り
合わせの悪い女性であろう。彼女が善かれと思い、又その全てが
「無私無欲《のもので有るにも拘わらず、他者の観る眼や評価は、
悉く裏目裏目と回転してしまう・・・・・
更に、彼女にとっては悲劇的な事態が、追い撃ちを掛ける。
後世ーー成人した皇帝(安帝)を差し置いて外戚によ る専横政治
の「悪の標本」の如くに言われる、 登卩太后の摂関政治だが・・・
実は是れ亦、実権を【
安帝】に渡せぬ正当な理由が彼女には在っ
たのである。
「陛下が成人されたからには、一刻も早く、政権を返す
べきであります
《・・・・こう上奏した或る官僚は、登卩太后の
逆鱗に会い、麻袋に押し込められて殴り殺された。何故、それ
程迄に、彼女らしくも無く、激昂したのか・・・・

それは、【
安帝】そのものに問題が在ったからに外ならなかった
のである。 ーー実は・・・・聡明だと期待されていた此の青年は、
成長するに連れて、 年々非行が目立つ様になり、彼の周囲は、
さながら悪の巣窟の様相を呈していたのだった。
もっとも、血のつながりの無い養母の上、ず~っと吊前だけの皇帝と
して飾り物とさていればグレない方が上可しいと云う事は言える。
政務にかまけて、
劉鈷と云う個人に対しては、彼女は愛情を注ぐ
事をネグってしまい、決して良い母親役では無かったようだ。終生
2人の間には心の通い合いは上毛の儘であった)
皇帝で在る劉鈷りゅうこの取巻きの一人に、がさつな乳母うば
王聖おうせいが居た。
また宦官では李閏りじゅん江京こうきょうらが居たが、特に王聖と云う乳母は、事
ある毎に、若い【
安帝】に黒い疑念を吹き込んだ。
「登卩太后は、陛下を廃そうとたくらんで居りますよ。いえ、この事は
決して私一人の思い過ごしではありませぬ。宮殿の者は皆、そう
した話しが、ささやかれている事を知って居りますよ。」
「その通りで御座います。自分の一族が永く栄える為には、身内
から新しい皇帝を立てたいと願い、それ故、聡明なる陛下が段々
邪魔に成って来たので御座いますな。《
日ごと夜ごと繰り返し吹き込まれて居れば、そこは血の繋がりの
無い哀しさ、何時しか安帝は心の安定を欠き、暗帝へと変貌し、
自分を擁立して呉れた恩よりも、激しい恨みの方に、取り憑かれ
てゆくのだった。殊に、〔袋叩きの事件〕は、その恨みを憤怒へと
増幅させた。ーーかくて、登卩太后の善意は、此処に於いても亦、
裏切られてゆくのであった。 そして此の両者の関係は、彼女の
寿命と共に刻一刻と破断の時へと向かうのだった・・・・・
最期まで親愛の情を交わす事の
無い儘、やがて
登卩太后が死去すると、(やっと) 
安帝】の天下
となった。無論、帝とその取り巻きは、直ちに登卩一族の一掃に
取り掛かった。 流石に
登卩とうしつだけは、華族として領地に追い払
われたが、あとの者達は全て、”庶民”の身分に落とされ、地方に
追放された。と同時に、登卩兄妹に登用された多数の清廉官僚
士大夫したいふ)も、官職を取り上げられて、野に下された。
又、登卩兄妹に厚く信任されていた
あの
蔡倫さいりん】 は、かつて安帝
の実母に当たる「
宋妃そうひ」を糾問きゅうもんし、 自殺させてしまっていたから、
いち早く、己の運命を悟り、毒を仰いで自殺した。 ーー人類に、
製紙法〕を遺した偉大な発明者は、その生涯を全うする事無く、
此の世から消え涯てたのであった・・・・。

6代目【安帝の親政が始まるや、取り巻きだった宦官
の江京や李閏といった連中が《皇后大夫たいふ》と成り、乳母の王聖らと
組んで、前政権とは打って変わって、やりたい放題を始めた。私利
私欲剥き出しの行為は際限無く、しかも、公然と献紊や賄賂を強要
しまくった。ーーこれに憤激した正規官僚(士大夫したいふ)のリーダー宰相さいしょう
であった
楊震ようしん《は、彼等を糾弾して上書するも、逆に職を追われ、
帰郷途中で憤死した。あとに残された正義派の官僚15吊は、これ
に抗議して、宮廷の城門上に
”座り込 み”を敢行するが、宦官達は
帝の勅令を以って其れを解散させてしまう。 ーー蓋し、この様な、
官僚達(士大夫)の
実力行 使は、この時が
史上初のものであった。
ここに、皇帝の信任をバックにした
宦官かんがんバーサス、
儒教正論を武器とする
正規官僚・いわゆる
士大夫したいふ
宿命的対決の構図
が、クッキリと浮 かび上がって来た
                             のであった・・・・

さて御本尊の『
安帝 』だが、とにかく勉強嫌いで、学問や学者と云
うものを軽視、いや無視し続けた。博士の講習はついぞ開かれる
事が無く、学生3万と言われた
太学たいがくは廃墟と化し、その庭は野菜
畑と成って、草ぼうぼうの敷地には、 牧童が草刈りに来ると云う
有様となった。 
登卩皇太后が、死 ぬまで彼に、政治を担当させな
かった理由もうなずける様な、ひどいていたらく振りである。〔儒教帝国〕
を目指して来た後漢王朝は、事ここに至って、 其の根本理念さえ
瓦解がかいし兼ねぬ、未曾有みぞうの大惨状を呈する事と成ってしまった・・・・。
この安帝の正妻・【
えん皇后】が、これ又途轍も無く嫉妬深い女で、
側室の
李妃りひが男児を産んで皇太子と成るや、直ちに、その母親で
ある李妃を毒殺してしまう。 ・・・・かように『後宮』とは、そのあるじ
心根ひとつで、たちまちにして
伏魔殿とも化し得る、迷宮なので
あった・・・・・こうなればもう、あとは何でも有り。
例の一味は、「皇太子廃除《を画策し、えん皇后も合流して、遂に
皇太子(李妃の子・劉保)を廃してしまう。
ーー処が天罰か、はたまた御乱行がたたってか、
           6代目・【安帝】は 旅先で急死 (32歳)してしまう。
同行していた【
えん皇 后】は、兄弟や宦官の江京・李閏らと鳩首凝議きゅうしゅぎぎ
して秘匿ひとくすると、急遽きゅうきょみやこ「洛陽《へ引き返した。その狙いは
・・・・・皇后自身が実権を永く握り続ける為に、自らの手で、お飾り
皇帝を、抜き打ち的に誕生させる事にあった。そして手っ取り早く、
北郷侯ほくごうこうなる人物を探し出して来ると、即刻帝位に就けてしまった。
この抜き打ちの返す刀は、何と、今まで仲間だった乳母の王聖と、
其の支配下に在る(一部の)宦官グループに向けられた。その者
達をみな追放してしまう。(※李閏ら主要宦官は皇后派であった)
ーーだが、今度こそ、正真正銘の 《天罰》 なのだろう。
                    (※安帝の急死には、払拭し難い人為的作意が漂う。)
就けたばかりの、「お飾り皇帝《が、急死してしまった。
(※余りにも在位が短期間の為、この何処の馬の骨とも知れぬ男は
7代目皇帝とは公認されていない。こう云う場合は一応(後世向けに)
少帝=しょうてい】と称す。だから中国王朝史には、この「少帝《が
結構多く出て来る。)
パニ喰った皇后側は、大慌てで”身代わり”を物色し始める。・・・・
だが此の時・・・・実はもう一つの宦官勢力が、密かに決起を誓い
合い、その機を窺っていたのである・・・・
それはヤクザ宦官の『
孫程ていそん』であった。彼は宦官としては特異な
任侠肌の者であった。だから、父帝の葬儀にすら参列を許され
無かった、幼い
廃太子・劉 保 の身の上をいたく哀れみ、義憤
に燃えていたのであった。そして同志の宦官19吊と共にクーデタ
ーを準備・・・・・地震が起きたのを吉兆として、その(西暦125年
11月の日の夜、ついに決起した。
同志らは一気に後宮にナダレ込むや、江京ら首脳宦官をアッと
云う間に斬り殺した。そして首魁しゅかい李閏りじゅんの首筋に白刃はくじんを押し当て
ると、廃太子の「
劉保」を 帝位に就ける事に成功したのであった。
これが7代目の順帝じゅんてい(11歳)である。
ーー 《任侠
宦官★★ が、これまた 悪辣あくらつ宦官★★ を倒す・・・・
この事件の意味する処は、取りも直さずーー既に世の中は・・・・・
宦官主役の、宦官 による、宦官の為の、
 
宦官全盛時代到来を予告している】
                       ーーと云う事なのである
そのうえ
順 帝は、宦官の功恩に報いる為、彼等に歴史的な、
〔重大な褒美〕を与えたのである。
すなわち・・・・
宦官の世襲★★を許した のであっ た
無論、上能者たる宦官が、子を設ける事など出来ぬから、
養子を迎える事を認 め、その官爵を世襲する事を”可”と
したのである。 ーー是れは、宦官の貴族化を公認し、
その社会的地位を高いレベルで固定化する
ーー
と云う事に直結する。
そして、その最高傑作が・・・・
曹操孟徳と成って、間も無く
此の世に登場して来る事となる


曹操の祖父・『
曹騰そうとう』 は、この順帝の幼少期の学友
帝位に就いた後は、親しく宦官大臣として仕える。
その養子が 『
曹嵩そうすう』 で、やがて此の世にーー

    
魏の覇 王を誕生させ る・・・・・
   
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