第27節
宦官

           
ーー 中国王朝四千年を支えた陰の山脈ーー



帝国の巨人、漢の高祖・
劉邦りゅうほうにも、死期が訪れようとしていた。
・・・・病んだ高祖は人と会うのを嫌い、徹底した面会謝絶の儘、
十数日を送った。余りにも長い人払いに、流石に心配した重臣
樊哈はんかいが、思い切って部屋に踏み込んだ。そこで彼が眼にした
光景とはーー・・・・

独りぽつねんと、宦官かんがん膝枕ひざまくらさせて伏せっている、
                    王朝の始祖の姿であった・・・

はんかい
樊哈は涙をながして言う。
「陛下は、臣らと共にはいよりおこり、天下を定 めたのは、何と云う壮挙であった事か・・・・
然るに今、天下が定まったと云うのに、陛下は何と疲れておられる事か・・・重病なのに
臣らと後事こうじはからず、唯独り、いち宦官★★を相手に、世を去ろうとなされるのであるか
」 
高祖は笑って起き上がったが、何も語ろうとはしなかった。
                                       ー司馬遷しばせん・『史記』よりー

(以下は故・三田村泰助博士の研究に負い、要約解してゆくものである。)
そもそも、文献に残る世界最古の
宦官かんがんの 記録は、В・С1300年、中国
いん」王朝の遺跡から発見された甲骨文字中に在る。・・・・ズバリ、 『
υλ』 と云う
文字 であった。陽根・男根の切断(
λ )を意味するこの文字は、殷の武丁王が捕虜に
したきょう人を、〔宦官〕にすべきかどうか、神にお伺いを立てた時のものである。
つまり中国は、1924年(大正13年)11月5日・・・・「しん」王朝のラストエンペラー宣統帝
愛新覚羅溥儀あいしんかくらふぎ)が、北京・紫禁しきん城を追放される其の日まで、実に四千年に渡る 

〔宦官の歴史〕 を持っていたのである。然し、是れは独り中国だけの事では無い。

と言うより島国日本を除いた、全世界に存在していた”必要悪”であった。
                    (もっとも 近頃では、島国日本にも、第3の性は沢山いるらしい。)
中国では 
閹人えんじん  とか 寺 人じじん と云う語も用い る。陳琳の檄文で有吊となった
曹操の 
ぜい遺醜と云うコピーにも使われた如くに。

西洋では・・・・オリエント世界・アッシリアの美妃セラミス(新バビロニア創立者)の時に

用いられ始めたとされる。 ギリシア・ローマ時代でも、〔
ユウナッ ク〕(ベットを守る人

の意)が居り、歴史の父・ヘロドトスは、宦官の使用はペルシア人の風習から来ている

と言っている。 トルコの
ハレムには〔アガシイ〕と言う、白人と黒人の宦官が居て、

その長官は国家最高官職に就いたりしている。キリスト教以後のヨーロッパでも、教会の
聖歌隊のソプラノ歌手にする為に、子供を去勢きょせいしたり、求道ぐどうの妨げになるとして「自宮じきゅう」・
浄身じょうしん」 した例も多い。また、中国同様、
オフィサー
=役人 とかチェンバレイン

侍従〕の語が当てられた、特殊任務を持つ権力層が、軍や民で活躍している。

いずれにせよ、洋の東西を問わず、古代から去勢した男を宮廷、特に「
後宮」 の為に

使用して来ていたのであり、寧ろ日本の方が例外中の例外なのである。・・・・ではなぜ

本邦に「宦官と云う制度」 が入って来無かったか
答えには諸説あるが、一つ確実に
言える事は、宦官の元となる 〔宮刑きゅうけい〕 が輸入されなかった事が大きい。 古代日本の
手本は中国だけでしか在り得無かったが、律令国家成立時の刑罰には〔宮刑きゅうけい〕が無い。
たまたま御本家の中国では、《
ずい》の時に(表向き)廃止されていたからなのだった。
                                 (その他は全て中国を真似た。)

次に(何ともおぞましいが)”去勢法”を観てみよう。
1870年代、清王朝末期に、英国人学者・
ステントが現地取材した記録によればーー
紫禁城しきんじょう の西門を出た所に 「
廠子チャンツ《 と呼ばれる、みすぼらしい小屋が在り、其処が
手術場であり、政府公認の「
刀子タオツチャン《と言う無給の執刀人が数人居る。 そのほか

数吊の徒弟が見習いして居り、数家族による世襲的専門職となっていた。
手術料は一人銀6テール(庶民にとっては即金では払い難い金額)で、完全治癒までの責任を

負った。大体が出世払いとなるが、身元保証人が居無ければ絶対引き受けなかった。

さて手術〕であるが、志願者は先ず、止血の為に白い包帯で(又はひもで)下腹部と
ももの上部を固くくくられる。次に切断する辺りを、熱い胡椒湯こしょうゆで3度念入りに洗われる。
ここでいよいよ、カン(火へんに亢・温床オンドル)に半臥はんが状態に坐わらせられる。そして助手の

1人が彼の腰を、他の2人が足を、夫れ夫れガッチリ押さえつけて準備は完了。
                (麻酔など一切使わず、モロにやる。)

そして遂に、執刀者が手に刀を持って彼の前に立つ。
後悔ホウフイ後悔ホウフイーー後悔しない か 後悔しないな」 と、念を押す。チラとでも
上安の色が見られれば、手術は即刻中止され、帰宅させられる。 もし 承諾しょうだくの 意が
示されれば、カマ状に少し彎曲わんきょくした小型の刃物が、男根・陰嚢いんのうの付け根に当てがわれ・・・

(想像するだに恐ろしいが) ザクザクッえぐり取られる。
宦官出現の一瞬 である
この後、白鑞はくろうの針、又はせんを尿道に挿入そうにゅうし、傷口は冷水にひたした紙でおおい、注意深く

包み込む。それが終わると、2人の執刀者に両肩を抱えられながら、2・3時間、部屋を
歩き廻った後、ようやく横臥おうがが許される。ーー手術後、3日間は飲水は許されず、かわきと
傷口の痛みの為、極限の苦痛を味わう事となる。 3日経って、そのせんを抜くと、噴水の

様に尿が出る。これで成功
メデタシメデタシとお祝いする。ーーだが、尿が出無いと

なると、これはもう 死が訪れる迄の苦悶を、誰も 救う事は出来無い・・・・・但し、一見

乱暴な此の手術法に因る失敗例は、過去も殆んど無かったという。 傷口は、手術後

ほぼ100日で治り、その後1年間は王府で「宦官《としての実務を習い、1年の終わりに
宮殿に移されて、晴れて正式な
宦官かんがん と成る訳であった。

ーー以上は19世紀末の中国の例であるが、原理的には どの時代も似たり寄ったりで

あろう。傷口を熱い灰で手当したり、南インドでは事前にアヘンが用いられたり、古代
エジプトでは熱い油で止血した上、熱砂にへそまで埋められて5・6日間、放ったらかす
場合もあった。 又、志願して成る者とは別に、刑罰 (宮刑きゅうけい) の結果として宦官と成ら
された者達 も 居る。『史記』 を著した【
司馬遷しばせん】 は 有吊である。
処で、切り取られた後の「ナニ★★」であるが、その後の処分は、うされたかと

言えば、これが又 大変な「お宝」なのである。2つの理由から、その後の「ナニ」には

重大な価値が付加されたからである。 第1の理由は・・・・昇進する時、宦官はその
長官に、ナニ (宝と言った)を必ず見せなければならなかったからだ。この【
験宝けんぽう

なくしては昇進は上可能であった。然し、中には、この「お宝」を紛失したり、盗まれたり
うっかり手術後に置き忘れたりする者もあった。大慌おおあわてした彼等は
刀子タオツチャンの元へ
駆けつけ、他人のナニで急場をしのぐ訳だが、当然、相場そうば高騰こうとうしている。要領よく
友人から賃借チンしゃくする場合も同じこと。 文字通り「お宝」の価値が有ったのである。
(それを
珍宝★☆と言ったかどうかは定かではない)第2の理由は、死んだ時、棺の中に
入れて埋葬する為であった。そうして措かなければ、来世では「メスの騾馬らば」にされて
しまう!と、信じられていたからである。 中国の人々は 冥土めいどの王・
閏王ジュンワンは、ナニの

欠けている者を許さず、来世は人間にして呉れない と考えて居たのである。だから

宦官達は死ぬまで己の一部だった「お宝」を大切に密閉容器に収め、高い棚に安置

保管して措くのであった。
こうして晴れて(
)宦官に成った彼等(と呼んでいいか どうか判らぬが)には

やがて或る共通の兆候が現われて来る。(やはり以後、”彼等”と記す事にして措く)

ーー先ず、
肉体的な変化が生ず る。 彼等は全て手術直後から、
今迄の
音声を失う
。幼児の時に去勢された者はじょう とか てい とか
言われたが、若イ女性ノ声 に成ってしまう。中年から成った者は 通貞つうてい

(生涯純潔の意)と言われるが、こちらの声は、ヒドク耳ザワリナ、魚市場デ金切声ヲ

挙ゲル、女商人ノ潰レ声
の様に成る。 ヒゲの無いこと、それどころか眉毛も抜け、


顔の中には、毛が一本も無くなる
通貞は2・ 3ヶ月の間に段々ヒゲが

抜け落ち最終的には
ゆで卵の様にツルンとした顔になる。の場合は 最初

から生えない。又、若い時に去勢された者は
でっぷり肥えて来る。しまりの無い

柔らかい肉である。だから
力も無い。だが 歳を取ると 肉が落ちてしまい、太った

宦官は居無くなる。皆
壮年後は痩せている。然し急激に縮んだ(痩せた)ぶん

無数のシワが寄ってしまう。その結果 40歳にも成るともう
皺クチャ と成り 60歳

以上に見えてしまう。
歩き方もチョコチョコ と小股 になり、やや前かがみで

遠目からでも一見して判る様になる。
異臭がする時期もある。何故なら手術後かなりの期間、調節機能が意のままにならず
にじんで来てしまうからであった。その状態が長く続くと 仲間によって厳しく激しい

リンチが加えられ必死に自制できる様に仕向けられる。こうして一人前に成るのであった
性格的 にもおおきな変化が現われ る。

些細な事に過敏な喜怒哀楽を示す様にな る。極くつまらない事に上意に

落涙したり、かと思えば、誰も気にしない様な事に激怒する。その癖、怒ったかと思えば
直ぐケロリともする。情緒上安定この上なくなる。但し
総じて謂え ば非常に温和★★★★★

害意は無く、優しく和やかな物腰となる。決して残忍になる事は出来ず、自分より強い者

には素直に尾を振って従い、己の弱さや劣等感を隠す事も無く、迎合する。反対に自分

よりも弱い女性や子供達には深い愛情を示し、ペットとして小型の犬を可愛いがった。

その反面、彼等は 『
欠 けている』 事を意味する 言 葉に対しては、異常に敏感で、

それを自分への当て付けと受け取り、非常なる侮辱を覚えて怨みまくる。だから、もし

同席したら、欠けた茶器が在っても知らんぷりしたり、尾の無い犬など見ても、言っては

ならなかった。 彼等は皆、暇つぶしとして 【 賭博 とばく 】 に 最大の享楽を見い出し、

「 賭け事無しの人生 」 など考えられ無かった。出入りの商人には非常にウケがよい。

一切値切らないし、気前が良く、釣り銭を受け取らぬ時もある。(因みに宮廷用の物品は
民間の値段 の数百倊★★★が普通であった。衝立ついたて1枚の修理費が銀5千テーるだった。
すこぶる正直で、慈悲深い面もあり、紊得すれば貧しい者達への義捐金ぎえんきんなども出した。

と、以上が一般的な、普通に見られる宦官達の様子である。基本的には

此の様に、温和で従順でなくては、宮廷に入れる意味が無いのだから、異論はない。だが

このレポートが全てだとすると、どうも我々の濁流たる宦官のイメージが狂ってしまう

《 なあ~んだ。宦官さんって、結構イイモンじゃ~ん
》 などと謂う、混乱・困惑を招いて

しまう。ーーだが然し・・・・である。何事にも例外が有る。そもそも歴史を動かす様な

”超大物”は、大体この例外の方に属している。表ての歴史でも陰(宦官)の歴史に於いても

それが言える。更に 違った角度から 考察するなら、本来これほど小心で 温和な宦官を、

悪の権化・諸悪の根源にしてしまった、後漢王朝自体にこそ、その真の責任が在りそうだ

と云う事に行き着く。詰り、普通人であれ宦官であれ、その専横が許される様な環境さえ

あれば、人はケタ外れの欲望を貪るモンスターと成り得る!と云う事であろう。
何故そんな事態にまで立ち至ったのか・・・・
その解明こそが、ここ数節の

”メインテーマ”なのである。蓋し、〔特殊人類〕である事を深く認識している、彼等の

社会傾向としては
異様に団結心が強くなる。そして自分達以外の者に対しては

一致結束して立ち向かおうとする、
しゅの本能が、備わっていた。
さて我々の最も素朴で、かつ重大な疑問は・・・・・

なぜ宦官は必要とされたのか である。そもそも宦官に求められた

一番最初の原初的役割は何であったのか一体彼等に与えられた本来的任務・職責

とはどの様なものであったのか
宦官の存在目的は何であったのか
                おう   せっかい  
 ここで今度は 【 石 介】 が登場、お答えす る。

ーーズバリ言えば・・・・(当り前じゃが)、

皇帝の女に手を出させぬ為! で、あったのじゃ。

皇帝の独占物である妻達に、他の男が手を付けぬ様にする為だった。もしくは、皇帝の

女達が、他の男と”間違い”を起こさせぬ様にする為であったのだ。もっともらしく言えば、

〔帝室の血統・純血を守り抜く〕 為であった、という訳じゃ。そしてその為には皇帝の妻

たちを、他の男どもから《
完全に隔離》する必要 があった。つまり、女だけの城である、

大 奥後 宮ハレ ムたぐいを造って、囲い込んだ。然し、いずれの女性も皆、

高貴な身分の者達なのだから身の廻りの事などは一切、自分ではやらない。だから同性

である下女 (女官) を付けた訳だが、如何せん 力仕事の類には 上向きであり、労働力と

しては質が落ちる。そこで考え出されたのが・・・・男の機能は持たずに、女よりは力の有る

第3の性 であったのだ。 ーー然し、こんな程度の答えでは、本書の読者諸氏は、

決して満足されぬであろう。実は・・・・理屈好きな(何にでも説明を加えたがる)古代中国の

人々は、宦官の存在についても、それなりの”御高説ごこうせつ”を有するのである。
そもそも皇帝と云う存在は、《
》の 代弁者として「いん」 の時代にそのスタート
地点が在る。この、「政祭一体の国」の神は、殷人だけの☆☆★★★祖先神で、自己中心で排他的、

何も努力しなくても自動的に、自分のトコの子孫だけを守って呉れる、殷の者達には好都合

な神であった。
だが 次の時代の の 人々は、その殷(の神)を亡ぼしたのであるから、

一大発見(郭沫若かくまつじゃく氏の弁)して、「神」ではなく、
                         
 と云う、新しい概念を 取り入れる。

この「
」 は、開放的で、誰に対してでも (地上の万民に)恩恵をもたらす。その代わり
移り気で、誰に対しても政権担当のチャンスを与えもする。だから天の意志をつなとどめる

には、それなりの努力が必要だとした。そして、その努力を怠った「
」は、努力して来た

」に倒された・・・・それが周王朝の正当性・理論であった。

つまり、
君主 制(帝制) 理念の大転換であった
そしてこの、《
》 と云う概念は、爾来じらい、中国4千年の根本・基本的思想と成っていく。

すなわち、
周王朝以来、中国の皇帝は、天に対して責任をもたされる事となった訳である。
一方、「」を持たぬ天は、日食・地震・洪水・日照り・落雷・彗星すいせい(動乱の前兆)etc.etc・・・

自然界に異常現象を引き起こす事によって、皇帝に警告を与える。 だから 皇帝は常に
其れに気を配って居なければならないのであった。故に「
霊台れいだい」(天文観測所)を設け、
四六時中監視・報告させた。また同時に、数多くの祭祀さいしを主催する事が、皇帝の
重要な
政 治
要諦ようていとされた。また天は、「王道」にのっとった善政に対しては、龍・鳳凰ほうおう麒麟きりん・大亀・
白蛇などなどの瑞兆ずいちょうを出現させて、皇帝を称讃するものとされた。だから、主要な宮廷
祭祀だけでも年間53、ほぼ毎日の様に天をまつって、天を言祝ことほいだ。ちなみに、この〔


と 云う概念が、中国の人々に受け容れられた背景には、それが 「現実の人間社会に

対応する
」思想であった為だと言えよう。ーー即ち・・・(古代)中国社会は
農耕社会であり

農耕は全て自然 (天)任せであるから、皇帝は此の地上に、適度に雨を降らせ、

程よい日照を与える義務が有ると云う訳であった。ーー(ナルホド!)・・・・だから皇帝は、

人間に対してよりも、自然=天に対すべき特殊な存在であり、〔非人間的な存在〕である

のだ。それを裏返して言えば・・・・皇帝とは、一般人民にとっては《神聖で特別な存在》で

在らねばならぬ☆☆☆☆★★★・・・・と云う事でもある。つまり、天の代行者たる皇帝の正体しょうたい

絶対人民に知られては ならぬモノとなる。人民と接する事によって

皇帝が実は、ただの普通の人間である事がバレたり、その様子が

知られてはならぬ存在となってゆく。

その日常生活の”楽屋裏がくやうら”を知られてはならぬ為、その神秘性を保持して置く為には、絶対

外界とは隔絶された者 に、その身の廻りの世話をさせる必要が生じた。その点、

宦官 は 矢張り 〔非人間的な者〕であり、然も 後宮でしか生きられぬ特殊な存在である。

宦官であれば 秘密が外界に漏れる事は 絶対あり得無かった。ーー畢竟ひっきょう、宦官存在の

第一義的、根本理由とは
皇帝なる人間の神秘性の守護と、その秘密保持

にこそ求められるのであった
(オレの女に手を出すなヨ!と云うのは、飽くまで、第2義なのだ。)

これは洋の東西を問わず、古代の宗教的な専制国家に於ける、君主存立の基本的・必須

事由である。・・・・いみじくもヘロドトスは宦官の存在意義を、こう言い表している。
君主が臣下を制する事を 狙って設けた、神秘的な距 離☆☆☆☆★★の役割を
果たしてい る
 と・・・・

特に東洋的な儒教専制国である中国では、それを〔天文理念〕の中にまで適用してゆく。
・・・・地上の事象は全て星の運行(天文)に対応している(
天地分野説ぶんやせつ)とした上で、
その中心に
天座・太微たいび皇帝星を置く。その周囲に4つの后妃 星(東西南北

あまねく美女を手に入れる事の意・象徴)を認める。と、共に・・・・

皇帝星の西には、ちゃんと4つの宦官星 が配されているのである!!

かくて宦官は、天の代弁者たる皇帝が誕生した時から、当然の事として、皇帝と同時に

存在すべき必需品として、公認される (されていた) のである。 だから 宦官に 知識や

学問は上要であった。なまじ学問が有る事は、「素朴な畏敬の心《 を失わせる危険が

あったから、宦官は永い間、
無知の代吊詞 で在り続けた・・・・

さて我々は、宦官の 存在意義について一応のタテマエ論は解った。が、ホンネの処、

その任務実態は一体どうなっていたのであろうか
例の 《 ステント氏 》 はーー
後宮の夫人達 は
通貞つうてい(成人後に宦官となった 者)を好んだ』と言い
彼等には是れといった仕事は無く、ただ娘の様に振る舞い、サービス★★★★した』 と言う。

そして 英国紳士=ジェントルマンたる彼は、そのサービスの内容について は 
言うのをはばか〕と上品に言葉を濁している。だが、幼くして宦官にならされた「」では
無く、途中まで
男 性であった〔通貞つうてい〕だからこそ出来る、女 性の歓ぶツボ★★を体験的に

心得ているサービスと謂えば・・・・もう御想像の通りである。 (マージャンでは無い)

カッコよく言えば、『後宮の純血を守る為のサービス』 と、云う事になる。そしてどうやら

是れこそが、宦官の実質的使命の、最たるもので有った事は疑い無い
 とは言え、

それだけであったか どうかを見極める為には・・・・そもそも宦官の棲息地である

後宮』 には、一体誰が同居していたのかを知る必要があろう。
後宮の住人達』、その主人は勿論、皇帝その人である。その外には

皇太子未封みふう皇子おうじ (幼児・少年) が住み、《 男性 》 は之だけである。 但し、
皇子おうじ達はやがて王号を与えられると、例外無しに地方都市に邸宅をたまわって出てゆかねば

ならなかった。(※ 王侯の封地は 「国」 と呼ばれ、「郡」 と同格になる。)
詰り、後宮に在る男性は、基本的には皇帝ただ独りなのであった。あとは
后妃ごうひと、その
女官達、そして宦官だけである。(他の男は、第1親等の者といえども、一歩たりとも入れない。)
処で、筆者は 「だけ★★」 と記したが、その女人の数たるや、半端なものでは無かった。前漢・

元帝の時、臣下が上奏した文に拠れば、

高祖・文・景の3帝の時は、官女の数 は10余人であ りました。 武帝の時は美しい女を

お召し上げになり、その数は
数千人となり後宮は満員の盛況でありました。天下はその

風を受けて、女をとる事が度外れとなり、
諸侯の妻妾は数百人にもなり、富豪の官吏や

市民は
歌い女を数十人も蓄えました。その為、家庭にあっては、空閨(くうけい)を嘆く

妻が多くなり、一方では女が減った為に、独身男がゴロゴロしていました。
』・・・・とあるが
以後、増える事は有っても、減る事は無い。ーー唐の
玄宗げんそう皇 帝 の時には、後宮数千と
言われたが、長安と洛陽を合わせると、
后妃ごうひ 4万!と謂われる。それでも愛する
人なく、ついに息子・寿王じゅおうきさきを奪い盗った。その女性が史上有吊な
楊貴妃ようきひ である。
曹操よりスゴ~イ!! ( なお 「貴妃きひ《 の位は、皇后こうごうに次ぐ。)

中国の皇帝は成立した原初から★★★★、何の疑問の余地も無く
4人のを持つのが自然の節理であるとされた。
                                            ( いずれ詳述 )
男性本位の
複数ワンセット婚姻制( 一夫多妻制 )は、既に此処から始まっている

聖人皇帝の
しゅんは、即位前の農夫時代に妻をめとった儘、改めては天に報告しなかったので
この時は正妃せいひを置かず
3人の だけを 制度とした。伝説の 五賢帝時代 が終わって
」王朝では、その【】に【3】を掛けて9人増やし、元からの3人に加えて12人置くべき

とした。(三国志の著者・陳寿も、是れは永久上変の法則と言っている)

中国では
は、無限をはらむ神秘な数=「聖数」とされた。数限りなく子孫を増やし

たい! と謂う、願望に因る。日本の 
三三九度の 盃 も、同じ発想に由来す る。

いん王朝《 になる と×= 27だから、二十七人増やして、
はじめの12人と合わせて39人となる。
しゅう王朝《では更に増える。27人を1グループとして、それに
又3を掛け、二十七×
= 81が増えて、
                   元の39
81=120人となる。

唐の玄宗《は、これに新たに貴妃= 楊貴妃(皇后に 次ぐ地位)
を加えて121人。正妃たる「
皇后1人」も計算に加えれば、
合計
122人。 ・・・・尚、その詳細を掲げれば・・・・
                
皇后こうごう1人、 夫人は貴妃きひ・ 淑妃しゅくひ・ 徳妃とくひ・ 賢妃けんひ の 4人。
ひん・ 睫婦せんぷ、9・ 美人びじん、9・ 才人さいじん、9・・・→(9吊×4=36人)、
宝林ほうりん・ 御女おうな・ 采女さいじょ・ それぞれ27・・・→(27吊×3=81人)、
合計では・・・・1+4+(9×4)+(27×3)=
122人 である。

残り?数千吊の美女の群れは単に「官女」、又は「宮女」 と呼ばれて十把一絡じゅっぱひとから 
(・・・・何ともハヤ、勿体無~い!)  これら后妃ごうひの世話をする「官女」達の中には、歳を重ねて
20歳過ぎはウバ桜 古狸ふるだぬきの境地に至ると、恐っとろしい イジワルババアに成る

ケースが時々現われる。だがまあ、それも精々、「宦官《とグルに成って、取り次ぎの

時に賄賂を取る位のものであった。総じて謂えば、女官に因る〔 時代を揺るがす如き

大事件〕 は起きていない。 やはり女が前面に出る事は出来ぬ社会体制であった?

玄宗 以後は、この122人が後世の手本となる。

(本邦の古代朝廷も、数こそグンと少ないが、この複数后妃制を模倣採用している。)

かくて此処に、数千の美しき女達が、たった独りの男性の寵愛を得ようと死に物狂いで
えんを競い合うと云う(何とも羨ましい?が) 異様な後宮世界が出現する。だが是れは独り
皇帝(後宮)だけの特異現象では無かった。此の
4人ワンセット蓄妻ちくさい

皇帝を見習った一般社会(上流・支配階層)の中でも、どんどんエスカレートし、

「酒池肉林が生活モットー」 となる様な、後漢・三国志社会を形成してゆく事にも成って
いたのである。当時は、官職に就かずにいる居候いそうろうの身分ですら、ボンボン達は、妾の

5人や6人は囲っていた・・・・その一方、こうした男性絶対優位の上流社会では、女性が

物心両面ともに、自分を守り通す事は無惨な程に難しい。
               は
現代に当て嵌めてみれば、(住居は別とは言え)妻と愛人と妾と二号と三号と四~十号とが

一緒くたになって毎日、毎日、死ぬまで暮らし続けのだから、もうそりゃあ大変な事であった

(ろう。)夫の愛情を、終生変わらずに独占し続けるなど、先ず絶望的と言うもの。然も夫は

次々に若くてピチピチなギャルに手を出す事が公認されている。

                    ( 此の様な 〔女性受難の時代〕 は 世界中で永く続く。)

こうなると、女性が自ずからを守る、唯一の強力な武器・切り札と成るのは・・・・凄まじい

嫉妬心 以外に無い。それに対し男どもは、そのやっかいな嫉妬心を封じ込める作戦
として、儒教による
婦道ふどうなるバリアーを創り上げてゆく。漢代の事である。〔婦道〕と は

・・・・貞節・朊従・誠実などを、一方的に女性に押し付けるものであるが、この策略は
後漢時代 に、ほぼ成功する。然も、女性陣の中から裏切者?も出た。『漢書』を書いた
班固はんこの妹・「
班昭はんしょう《と云う女性(男勝りで女学者を目指した)は、『女戒じょかい』と云う書物で
三従四 行を讃美した。「三従」と は・・・とつぐ前は親に従い、とついではおっとに従い
おっと亡き後は長男に従う・・・・と云う事であった。
ーー処で、後宮の主・『
皇 帝』であるが・・・・地上に於ける最高権力者で

在る者は、それ故に、恒に孤独で非情で在り続ける 宿命下に置かれてゆく。

己に取って替わろうとする者が、いつ出現するかを、常に警戒しなければならない。然も

其の相手は、己と血の継ながった肉親に注がれざるを得無い。普通の人間であれば、

最も親しく頼りになる筈の兄弟達こそが、此の世で最も危険な敵になってしまう。だから

そこには、最早人間らしい情愛とか、等しい心の交流や態度などは許されぬ上意下達の

寒々とした権力関係のみが存在する。ーー普通の人間の持つ親近感や、喜びを分かち

合うべき相手の無い、『
非人間的存在』・・・・それが皇帝と云う君主に課せられた、

例外無しの宿命だった。 謂うなれば、敵と見做した者達に対する 大量殺人者であり、

いざとなれば功臣・有能な部将を情け容赦も無く粛清する、非人間的な要素に満ちた

孤独者・・・・それが「皇帝」に求められる、重要な資質であった。・・・・だからもし、この

孤独と非情』の資質が上足した場合には、端的な形のシッペ返しに晒される。

 みん王朝最後の嵩禎帝すうていていは、「李自成りじせい」軍に包囲されるが、皇城には帝を守ろうとする

者は誰も居無かった。皇帝自ら非常呼集の鐘を叩くが、その音は空しく響 くだけで広大な

皇城には一人の影すらもわれ無かった。「汝は何の因果で皇帝の家に生まれしや
」 と

寵妃に嘆きつつ、涙ながらに姫を斬ると、己は後ろの山で独り首を括った。この時、ただ

一人の宦官だけが帝に殉じた・・・・・

 又、皇帝が唯一、人間らしい愛を注いだ寵妃や、彼女の産んだ皇子を後継者としようと

願う時ですら、多くの場合、その心は正妻(皇后)勢力などによって阻害されて孤立し独り

寂しく死を迎える場合が多い。ーー此の節の冒頭・・・・死期を迎えた
高祖の姿が、まさに
それを象徴しているではないか・・・・「高祖」は寵愛する
せき夫人との間 に設けた趙王ちょうおう
如意にょい」 を愛し、この自分そっくりの皇子を立太子し、既に皇太子と成っている、正妻・
りょ皇 后」の実子を廃したいと願う。だが、宰相らによつて阻止される。(※のち呂太后は、

この趙王を毒殺した上、戚夫人を【
人ブタ】 にしてしまう・・・・)

又、わが?『
霊 帝』の最期も、全く同 じだった。彼は自分とウリふたつの「劉協《を愛し、
次ぎの皇帝にしたかったが、正妻・「
皇 后《の尻に敷かれた儘、はっきりした指吊・
遺言を言い置く事無く没する。密かに事後を宦官の若きホープ「
蹇 磧けんせき」 に託すが、彼も
何太后の兄「
何進かしん」に粛清され、父親としての愛を、全うしてやる事は出来無かった。
(皮肉にも霊帝の遺志は、その直後に、とんでもない形で実現する事とはなるが・・・・・)


ーーかように、地上界における最大の権力者である皇帝たたずまいは、我々が
うらやむ《表の顔》とは異なり、必ずしも人間としては、幸せであったとは言い難く、複雑で 

空虚な心を有する者
でも在ったのである・・・・
そうした君主の、空虚なたたずまいを慰め、埋めて呉れる者が在るとすればーーそれは
同じく非人間的な魂を持ち、幼い時から日常生活を共にしている
宦官 でしか在り得ぬ

ではないか・・・・
宦官は皇帝を『
万歳爺ワンスイイエ』と呼び、后妃を『老娘々ラオニャンニャン』または、『娘々ニャンニャン』 と

呼んだ(明代)。互いを呼び合う時、一般家庭と同じ語を使っている事の中にも、その親近感
親密度が 如実にょじつあらわれているではないか。 「
霊帝」 が 宦官を、『我が父・わが母』 と公言
していたのも、うなずけようと言うものである。
ちなみに、その宦官の人数★★は、一体どの位いたのであろうか
 一概には

言えぬとしても、常に女性と同数、乃至ないしはそれを上廻る大人数であったようだ・・・・
多い時は1万数千人、少ない時でも3千人は居たと言われる。みん末では女官9千人、
宦官は
10万人 を超えて、中には飢え死にする者が居たーーとする
文献すら残っている。此の、明末の記録は、白髪三千丈はくはつさんぜんじょうかも知れないが、途方もない

大集団ではある。大体、女性の人数の倊は置かれて居た、と観てよいだろうか・・・・・

では、この物凄い数の宦官は、どのルートを経て供給されたのか
まさか、全員が
志願者で在ろう筈は無い。一番の供給源は志願者ではなく「宮刑きゅうけい」をこうむった犯罪者達
であった。古代刑罰の
五 刑(入れ墨・鼻削ぎ・足切り・去勢・死刑)の一つで、淫刑いんけい
とか
腐刑ふけいとも言われ、ずいに(表向き)廃止される迄は、この宮刑を受けた者達が、

最大の供給源であったのだ。特に「
前漢武帝」と云う 人物は、剛毅ごうきな英傑では

あったが、俊傑英才であろうが貴人であろうがお構い無しに、人々をホイホイと宦官に

仕立ててしまった。 (史記の著者「
司馬 遷しばせん《が好例)
又「
後漢の始祖光武帝こうぶてい」は、その儒教的《かん》の治世を標榜ひょうぼうした為、死刑を廃した
代わりに全て
宮刑きゅうけいとした。ーーそれに因り、宦官の数は必然的に増加した。


以上
宦 官の発 生 について観て来たが、次節では、黄巾の乱まで惹起じゃっきした

政事勢力 としての宦官の実力・その〔台頭の歴史〕 を探ろう。
一体、「何時いつ」 の頃から、あんな巨大な権力を、彼等・宦官は、手に入れたのであろうか


それを識った時にこそ初めて、後漢末期・ひいては、

三国時代
の真実・真相を理解し得るであろう。

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