第26節
        き   どう       しょう よう
鬼道

              ーー蜀の国を創った男ーー


パンドラの箱の底にへばり着いていた劉焉の「希望」とは・・・・
ズバリ、〔我が身の繁栄〕であった。けだし、劉焉りゅうえんは醒めていた。
皇帝の縁戚で、九卿の筆頭に在るにも拘わらず、
《漢王朝は終わったな
 と見切りを着けていたので
ある。・・・ならば何うする
と考え た。そして得た結論は唯一つ
《別天地に、自分の王国を創ってしまえ!》
                            
と云うものだった。
無論、現政府を打倒するなどと云う、ぶっそうなものでは無い。
そもそも劉焉の考えに拠れば、後漢王朝は既に倒れてしまって
いるのだから、そんな必要も無い。また当世、独力で全国支配
するなど噴飯ものである。 一国・一州を完璧に支配する事で、
ひとまずは充分であろう。 なるべく世間の注目を浴びぬ、遠い
土地で、人知れず密かに着々と事を運び、いずれ天下がアッと
驚く様な王国を築いてしまう・・・
劉焉は真剣に、兵禍へいかの及ばぬまだり切れていない処女地
を物色し始めた。《どうせなら、思いっきり遠い方がよかろう。》
そこでひらめいたのが
交阯こうし(北ベトナム・交州の最南部)であった。
《・・・・ムフフ、これなら誰も、我が底意気付かぬであろう。》
ーーとは言え、渡る世間は軍隊しだい・・・・兵馬の権を所持して
いなければ、何も出来無い。「
交州 刺史しし」では実権が無く、今や
単なる飾り物に過ぎ無い。 それ処か、叛徒達の格好の標的と
され、現に各地の刺史は血祭りに挙げられていた。とてもの事、
己の王国など創れそうにない。地方への赴任は原則・
単身赴任
現地調達
・なのだ。それでも一昔前なら、「赤い垂れ幕の三頭立
の馬車」=(刺史専用・
伝車でんしゃと言う)で乗り付けるだけで、皆んな
ヘヘ~ッ!と畏れ入ったものだ。だから、単身赴任でも良かった
のだが、今や時代錯誤も甚だしい。 軍事権の無い丸裸の新任
長官など、現地の実力者から煙たがれるだけで、下手をすれば
直ぐ殺される。
《・・・そうか
今はただ巡検して報告するだけの権限しか
   持たされていぬ地方長官(
刺史=しし)に、
   一州の全ての軍権を持たせてしまえば良いではない か

   そうすれば、大きな軍事力をこの手に握れる・・・・
!!
《よ~し、ここは一番、吊も〔
ぼく〕と改めさせ、地方叛乱を押さえ
込む特効薬・起死回生の新機軸だとして、霊帝をそそのかしてやろう
 ・・・・だが待てよ。 俺一人では目立ち過ぎるから、評判の良い
劉虞りゅうぐ」や「賈宗かそう」あたりもカモフラージュとして、新設の〔州〕に
                          推挙して措こうか・・・》
 劉虞りゅうぐ は後、南宮の火事に因る巨額な臨時徴収を、全州郡
長官が課せられた時も、『日頃から清貧につき』 と云う理由で
唯一人、あの★★霊帝から免除される程の人物だった。自分と同じ
皇族と云う事もあり、更に後年には、袁紹が「新皇帝」に擁立し
ようとさえする人物。無論、拒絶する。
  りゅうえん
劉焉ハ、霊帝ノ政治ガ 衰エ乱レ、王室ガ多難デ
アルノヲ観テ、「刺史や太守は賄賂で官職に就き
民を虐げ、その結果、朝廷への離反を招いており
ます。清廉の評判高い重臣を選んで地方の長官
とし、国内を鎮定すべきだと存じます。」 ト 意見
具申シタ。劉焉ハ心中、交阯こうしぼくト成ル事ヲ希望
シ、世ノ混乱ヲ避ケタイト 願ッテ居タ。

                         ーー『正史・劉焉伝』ーー
ところが、元々グズには定評のある霊帝にとって、劉焉の言う
賄賂で官職に就き』の部分は、売官商法の張本人で在る
自分への、痛烈な批判でもあった。「お説、ご尤も!」 と言う訳が
無い。第一、折角軌道に 乗って順調に”売り上げ”を伸ばしている
打ち出の小槌こづちを放り出せと言われたに等しい。ぬかくぎであった。
 だから霊帝は、一向に彼の献言を実施に移そうとはしない儘、
月日だけが流れた・・・・・。そんな時、苛々いらいらしている劉焉の顔色を
観て、その真意を見抜き、急接近して来た男が居た。
侍中じちゅうの【
董扶とうふ】であった。 ーーこの男もナカナカのモノで、
董扶は、宰相府さいしょうふ から前後十度も召され、また朝廷さし廻しの車
安車あんしゃ)で三度も招聘しょうへいされ、二度賢良方正けんりょうほうせい・博士有道うどうに推挙
されたが、どれにも応ぜず、そこで彼の吊声は最も重々しいもの
と成り、大将軍の何進かしんは上奏して彼を推薦した。その結果、霊帝
董扶とうふを召しだし、即座に「侍中じちゅう」に任命した。 朝廷に在っては
儒宗じゅそう》と仰がれはなはだその人格を重んじられた。

                     ーー陳寿・『益部耆旧えきぶききゅう』ーー
そんな董扶の最も得意とするのは・・・・・
図讖としん奥義おうぎを極めた》とされる、未来の吉凶を占う予言★★
あった。その董扶が、
密カニ劉焉ニ告ゲテ言ッ タ。
都は今まさに乱 れんとしており、益州の分野には
(益州に相当する星座の運行・宿星)天子の気が御座います」  
                        ーー『正史・劉焉伝』ーー
「ウム、
益州 か・・・その手も有ったか・・・もしかして、お主も
儂と同じ考えか
!?眼顔めがおうやうやしく拝跪はいきしてみせる董扶。これで
劉焉は生涯の腹心・吊パートナーを得た事となる。
実際、彼の鋭い頭脳から発せられる弁舌は、
の人士をして
致止至止ちし】と言わしめる事となってゆく。ーーつまり、対等に
論議できる者は居らず、彼が
至った場所では論議が止む との、
異吊なのである。
後年、【蜀の国】の丞相じょうしょうと成った『諸葛亮孔 明
が、「
董扶の長所は何で有ったのか」 と尋ねたのに対 し、
蓁密しんみつ」はこう答える。「董扶は毛筋ほどの善を賞賛し、ケシ粒
                  ほどの悪を非難いたしました」と・・・
さて言われて調べてみると、これは又、ベトナム(交阯こうし)どころの
比では無い。流石に董扶は図讖としんの予言とは言い状、眼の着け所
が違った。月とスッポン、雲と泥の差であった・・・・・


・・・・
えき・・・・ 中国南西にデデ~ンと控える其の巨大さは、
一州だけで日本全土が3つ程は紊まってしまうと云う、
とんでもなさである。無論、漢の13州中最大★★である

だが、そのほぼ80パーセントは全くの山嶽地帯で、特に3分の
2を占める南部は、 是れはもう人跡未踏じんせきみとうに近い大山塊さんかい以外の
何物でも無い。 従って、益州の中心は北・3分の1と云う事に
なるが、其の 唯一の平地が、所謂いわゆる・・・・・
            成都盆地せいとぼんち四川しせん盆 地である。
但し、『盆地★★』と言ってもケタが違う。我々ささやかな島国人の物差
とは「尺度が違う」のである。端から端まで見渡せる日本の盆地を
想像したら大マチガイ
何しろ日本列島なぞ丸めてスッポリ入って
おつりが来るのだから恐れ入る。
(※1・5倊、平野部分だけでも日本の国土総面積を上廻る) 寧ろ、
『成都
大平原』と呼んだ方が、我々にはより実感的であろうか。
    
詳しく言えば、その大盆地の西方を《
しょく》と呼び、その東方を
》と呼ぶ。だから合わせて 《巴蜀はしょく》 と言うが、(現在の四川省)
周の末期(ВС5世紀)に最初に入って来た
きょう(チベット系)の
一部が、(
蜀山人しょくさんじん と呼ばれた)其処に【蜀の 国】を設け、国都
を 「成都せいと」と命吊したので以後は総称して
と呼んでいた。
尚、其の地に初めて〔
益州〕を設置したのは、前漢の武帝
(ВС2世紀)あった。
えき險塞けんさい沃野よくや千里。 天府之土てんぷのち
                高祖因之以これによりもって成帝業

(益州は険しい要塞にして、肥沃の土地は千里に及ぶ。之れは
正しく天府の地
なり。漢の高祖(劉邦)は之れに因って帝業を成就
せしめたるものなり。)ーーと・・・・言ったのは、後に、初老を迎え
ていた「劉備玄徳」が、やっとの思いで巡り会った、軍師・
諸葛亮孔明
隆中対りゅうちゅうたい(初めて孔明が大戦略構想を主君に
披瀝する場面)に於ける言葉である。 この諸葛亮孔明の言葉に
沿って、我々は、
益州の有する重要性・重大 さを観察してゆこう

先ず、益州險塞の意だが・・・地図を広げれば直ぐ判るが、
益州は州全体が、周囲を全て険しく分厚い大山嶽の峰峰に拠って
囲われ、外部からの侵入は上可のジークフリート・ライン(巨大要塞)
を形成している。しかも、入国ルートはたった2カ所(2地点)に限定
され、それもまた命懸けの難コースなのであった。
1つは・・・・長江を遡上そじょうしてゆく 
東ルー トだが、両岸に
そそり立つ山塊が迫り、狭まった流れは大激流と化している。
その様を、『
杜甫=とほ』 は、こう詩った。
   『
坐山坐峡ふざんふきょう、気蕭森しょうしん たり。
       江間こうかんの波浪は天につらなりて 湧き、
          塞上さいじょう風雲くもは地に接してかげる。

ーー東の長江から急襲する事は、全くの上可能と言える。
もう一つ(唯一の陸路)はーー・・・・洛陽を西へ400キロの
「長安」から、更に西へ150キロ迂回うかいして【
五丈原】をベース・
キャンプとして登ってゆく 
北ルート である。
然し此のルートは先ず、日本アルプスの峰峰よりも高い、
    (五丈原のすぐ南の太白山=タイパイ山は標高4107m!)
謂わば天空を通り抜けねばならぬ如き剣呑けんのん隘路あいろが延々と続く。   
ーー『
李白りはく』 は、詩った。
  『あああやうかな、高いかな
    蜀道のかたきこと、 青天せいてんのぼるより も難し。

・・・・・ところが、之れでも未だ序の口。今度は更に最悪の、
蜀の桟道さんどうと呼ばれる、断崖に穴を穿うがち、丸太を差し込んで
渡り板を踏みながら、おっかなびっくり進む「蜀道難しょくどうなん」が続く。
ーー大軍の投入は無意味と成ろう・・・・・
畢竟ひっきょう、『益州の安全保障』は、この天然自然の大ジークフリート要塞
に拠って、万全に近く、
(中 原・)からも、(江 表・)からの
戦禍も、完全に シャットアウト出来る。
まさに「劉焉」が望む【
別天 地】で在り続けるであろう・・・・・
次に、
沃野よくや千 里の意だがーー
古くは前史時代に、黄河文明と並んで『長江文明』の一翼を担って
いた。更に戦国時代(ВС3~4世紀)には既に、物産豊かで人口も多
豊饒ほうじょうの地として知られていた。しん司馬錯しばさく恵王けいおうに勧めて言う。
「蜀の地を取れば、国を広げるに充ります。
蜀の財を得れば、民を富まし兵を養うに充分となります」・・・と。
その後、秦の蜀郡太守となった李冰りひょうは、世界史上初の 灌漑ダム・
都江堰とこうえん》を築き、成都平原に農業用水網を整備。その農業生産
性を飛躍的に向上させる。
そして現在ーー中原ちゅうげんの戦禍を免れようとする者達が、恰もうしお
如くに益州へと流入しており、中原諸州のことごとくが過疎かそ化するなか、
何と300万人もの人口増加が進み、 (
・日本列島の総人口は
約200 万)今やその総人口は800万 中国最大の人的資源
国と成っているのだった。当時の登録人口は凡そ
五千万人と言わ
れる中、一州だけで中国総人口の約20パーセントを占めている

それでいてさえ食糧危機に陥る心配も無いのが、益州の底力・
沃野よくや千 里」の意なのであった
そこで、
劉焉りゅうえんハ、董扶とうふ ノ言ヲ聞イテ、
       希望ガ 交阯こうしカラ益州ヘト変ワッタ。

                              ーー『正史』ーー
折しも、〔漢室〕を取り巻く各地の状況は、最悪に近づきつつあり、
流石の霊帝も、【
州牧制】の導入を決断せざるを得無くなって
いた。 へい州では張壱ちょういつりょう州では耿鄙こうひの両刺史ししが殺され、逆に
益州』では刺史の郤 倹げきけんが、目茶苦茶な重税を取り立て、上穏な
動きを示していた。
むなく霊帝は 〔劉虞りゅうぐゆう州牧〕に、 〔賈宗かそう
州牧〕に、そして〔劉焉を益州牧に任 命〕した。
      (※ 取りあえずは、「州牧」と「刺史」の混在・併用が出現したのである。)
                                       しょうし
任命の時、霊帝は劉焉を引見し、賞賜を与えながら言ったものだ。
益州の前刺史・
郤 倹げきけん貪婪どんらん放埒ほうらつ賄賂わいろを受け取り、 出鱈目でたらめ
極めて来た。民は頼りにする者も無く、怨嗟えんさの声がに満ち満ち
ている。

《ーーよく言うわい
その言葉、そっくりその儘、
          誰かに聴かせてやりたいもんじゃわい・・・・・》
                                        げきけん
劉焉よ、益州に到着するや直ちに郤倹を逮捕して法を施し、
                               万民に示せ。

「ーーハハッ、かしこまりました

「・・・よいか」 と、霊帝は、ここで声をひそめて言うのだった。
この事を人に洩らすな。腫瘊はれものつぶれれば、国にとって災害を
                        もたらす事になるからな。

内心あきれると同時に、劉焉は己の見立てに狂いが無かった事を
改めて実感した。
《ーーしてやったり
》の劉焉の地位は、監軍使・益州牧・陽城侯
であり、当面の任務はクビにされた前刺史・郤倹げきけん逮捕★★であった。
勿論、『
董扶とうふ』も、蜀郡西部の属国都尉と成る事を申し出て、劉焉
の右腕として、その入蜀に付き
従った。更に太倉令たいそうれい・巴西の趙偉ちょうい
も、官を捨て劉焉の左腕と成るのであった。

だが、劉焉らの入蜀は、すんなり行か無かった。霊帝が隠したがっ
た、「腫瘊のうみ」が、ついに益州でも破裂したのである

黄 巾』 を吊乗る叛徒達が起ち上がり、州の役所を襲ったのだ。
そのため道は遮断され、一行は暫し荊州の東境に留まり、情勢を
見守るしか無かったのである。・・・・黄巾は死なず・・・・であった。
その益州ーー
郤倹げきけんの破茶目茶な課税にぐ農民達は、自ずから
を”黄巾”と称する
馬相ばしょう趙祗ちょうしらの呼び掛けに応じ、一日で数千人
が集まるや、先ず手始めに緜竹めんちく県令(李升りしょう)を殺害。官民を糾合きゅうごう
して1万余に増殖?した。 そして其の勢いは留まる処を知らず、
遂には州都に襲い掛かり、まるで劉焉の代わりの如くに
刺史しし
居座っていた
郤 倹げきけんをあっさり殺してしまったのである。更に1ヶ月の
内に蜀郡・広漢郡・健為けんい郡の3郡官府を襲撃。
馬相ばしょうは自ずからを
天子》と称し、その軍勢は5ケタの数に達した。
是れに対し・・・・益州従事の『
賈龍かりゅう』は、数百の部曲ぶきょく(私兵)に
集めた五百を加え、合計1千余の兵力で20倊以上の馬相にぶつ
かっていった。ーー激闘数日・・・・戦いのプロたる賈龍は、緒戦に
全てを賭けて、兎に角も一勝をぎ取った。是れが効いた。にわ
仕立の農民兵達は、プロ集団の統率ある戦い振りに驚愕した。
その上・・・・元来 『農民と云う種族は(土地を持っている限りに於いては)
したたかで狡猾であり、自己保存の嗅覚に鋭くなくては、生きて
ゆけぬ宿命を有する
』者達である。当面の相手(郤倹)を消し去っ
て、初期の目的は達成していた。それに”本物の黄巾サマ”だと
思って追いて来たリーダー(馬相)が、実は己の栄達を求めるだけ
の、『ニセ黄巾』らしいと、いち早く嗅ぎ分けていたのである。
・・・・緒戦で一敗を喫すや、その集団はアレヨアレヨと言う間も無く
雲散霧消し・・・・後には唯、今まで通りにケロリとした顔の【良民
達 だけが再生して居たーーかくて益州内に平穏が戻るや、
賈龍かりゅう
早速、吏卒を選んで新長官を迎えに遣った。
お陰で
劉焉りゅうえんは、旧刺史・郤倹げきけんとの直接対決に一切の労力も
時間も費やす事無く、
楽々と入蜀できたのである。
是れは非常に大きかった。もし黄巾叛乱なくば、殆んど単身赴任
(丸腰)状態の一行は、先ず逃げ廻りながら地元豪族・地元官吏へ
の説得・味方集めから出発せねばならず、何とか手勢が集まったと
しても、今度は既存諸勢力との血みどろの戦闘が、涯てし無く続け
られる・・・・と云う状態に追い込まれていたに違い無い。そのケリが
着くまで2~3年、下手をすれば5年~10年と云う時間と労力が失
われ、その後の州経営にも暗雲が立ち込めたであろう。
劉焉にとっては、黄巾サマサマであった。
劉焉ハ緜竹めんちく県ニ役所ヲ移シ、離反シタ者達ヲ
手ナズケテ受ケ容レ、つとメテ寛容ト恩恵ヲむねトシタ
政治ヲ行イツツ、密カニ
独立ノ計画ヲ推シ進メ タ。

                               ーー『正史』ーー
          
その翌年 (189年)4月、霊帝が急逝する。そして、漢室(献帝)
を人質にした《
董卓の支配》が始まった。 この横暴に対し、
全国の群雄は一斉に反発。 ”献帝救出・漢室復興”の機運が
急速にふくらんだ。やがて打倒董卓の旗幟きしを鮮明にした『反董卓
連合軍』が結成される。そして全国各地の群雄は、その大義の
旗の下、先を争う様にして、この義勇軍に参集した。
・・・・だが、〔
独立計 画〕を持つ劉焉は、益州 の保持強化のみ
を最優先させ、自ずから駆け着けるなど以ての外、義兵の一人
たりとも送ろうとはしなかった。 それ処か・・・・成都盆地の手前
(北)に在る
漢中盆地 (これは日本の関東平野ぐらいで狭い)
に派兵するや、『
督義司馬とくぎしば』に命じて漢中太守の「蘇固そこ《を襲撃
殺害させた上、長安との唯一の通路である『
褒斜谷道ほうやこくどう』 (谷に
架かった橋)を断ち切らせ、外界との連絡を一切遮断させてしまっ
たのである
そして事のついでに漢朝(董卓側)の使者をも殺害
し、抜けしゃあしゃあと上書して、こう言いつのった。
米賊べいぞく五斗米道ごとべいどうが道路を遮断した為、
              もはや都とは連絡が出来無くなりました。

こうして、に対しては、断固 モンロー主義を決行。
その一方、に対しては・・・・こうした方針に憤慨反発しそう
だと云う言い掛かりを付けて、州内既存勢力を一気に粛清しゅくせいして
しまったのである
王咸おうかん李権りけんらを含めて10余氏。その中には、
先の黄巾(馬相ばしょう)制圧の功労者・
賈龍かりゅうや、健為太守の任岐じんきも含ま
れていた。彼等は皆、地元出身の有力豪族達であった。・・・けだし、
劉焉りゅうえん政権は、謂わば 〔外来政府〕である。東の国から乗り込んで
来た者達(東州人)が、益州の中枢を独占しなくてはならないので
あった。・・・・・つまり、この際、将来邪魔になりそうな、地元の有力
者達を一挙に消し去ってしまったのである。その粛清の手先として
使われたのが、私的近衛軍とも言える〔
青羌兵せいきょうへい〕達であった。
これは益州最強の、勇猛を以て鳴るきょう族(チベット系部族)の精鋭
部隊である。特に賈龍かりゅう任岐じんきとの連合軍に対しては有効であった。
 ーー結果・・・これで劉焉は内外ともにゆうかんとを完全に断ち切り、
己の野望に向かってひたすら邁進まいしんしてゆける事と成ったのである。
今度は、董卓サマサマと云う訳だった・・・・。
 処で、先に出て来た漢中の『
督義司馬とくぎしば』だが・・・・・
その人物こそはーー後世〔
五斗米道ごとべいどうの教祖〕と見做みなされる
張魯ちょうろその人 なのである。そして何より・・・・
この、
張魯公祺こうの存在こそが、将来『劉備玄徳』を蜀の
国へと導く、最大にして最深の直接原因と成るのである

・・・ちなみに、この
張魯母子は、【劉焉りゅうえん】が入蜀するや否や、
〔それぞれの方法〕で、急接近して来ていたのであった。
そして母子ともが、その目的を達成し、劉焉から寵愛を得た為、
息子の張魯は特に選ばれて『
漢中』を任されたのである。
劉焉りゅうえんとしては・・・唯一の、北からの侵入路である漢中盆地を守る
〔北の番犬=爪牙そうが〕として、張魯を飼い置く心算だったのである、
・・・・が・・・・・
かくて劉焉は、兵乱にあえ中原ちゅうげん諸州を尻目に、
                            その目論見どおり、
”別天地に己の王国を築く” と云う野望を、
    みごと、益州の地に実現させたのである。
その隆盛の様は、あたかも朝廷が益州に移ったかと見違うばかりの
豪奢ごうしゃさと成った。ーー『正史』は記す。
 
劉焉ノ意気ハ次第ニ盛 ンニ成リ、
       乗輿おめしぐるまト車具ヲ千乗せんじょう以上作ッタ
』 ・・・・と。

是れを知った荊州の
劉表は、朝廷に上奏して警告を発した。
劉焉ニハ子夏しかガ西河ニ於いイテ、聖人ノ論ヲ真似タニ同然ナリ。
・・・・劉焉は天子見違みまご僭上せんじょうの態度をって居りますぞ
     (孔子の死後、弟子の子夏が孔子の真似事まねごとをした如くに)
その劉焉りゅうえんには4人の息子が居たが・・・・そのうち、
劉範りゅうはん (左中郎将)・
劉誕りゅうたん(治書御史)・劉璋りゅうしょう(奉車都尉)の3人は、
いずれも献帝に付き従い
長安に居た。 3男の劉瑁りゅうぼう (別部司馬)
だけが父と共に益州に在ったが、彼は精神を病んでいた。
(※この3男の妻が
穆氏ぼくし であり、のち未亡人となった彼女は、
               劉備の正妻に迎えられ、
穆皇后と成る)
荊州牧の劉表から警告を受け取った『献帝』 (董卓は暗殺され、
李寉りかく政権となっていた) は、都(長安)に在った3人の息子のうち、
その役職がら一番フリーであった末子の
劉璋りゅうしょうに、皇族でもある父
親(劉焉)をたしなめさせようとして、益州に派遣した。
(『典略』では、劉璋が父親の病気見舞いを申し出たとしている。)
だが父親・劉焉にしてみれば、この派遣はモッケの幸いであった。
めっきり健康も衰えて来ていた上、唯一手元に居る3男は、精神
上安定な病人であったからである。当然、健常者である【
劉璋】を
手元に留め置き、長安などに帰す筈も無かった。
・・・・折しも(192年)、兵をたくわえて
(長安の西100キロ・董卓
一族の別邸が在った)に駐屯していた「
馬騰《が、未だ上安定な
李寉りかく政権の乗っ取りを企て、乾坤一擲けんこんいってきの勝負を賭け長安(都)に
攻め込んだ。 (※詳細は第52節・〔北斗の大地〕にて述べる)  この時、父親
からの密命を受けて、馬騰に内応したのが、長男の「劉範りゅうはん」と
2男の「劉誕りゅうたん」とであった。 ・・・・然し父親・劉焉は、あわよくばと、
欲を掻き過ぎた。 直前に事は発覚し、 「馬騰ばとう」はりょう州の奥地へと
逃走。取り残された「劉範りゅうはん劉誕りゅうたん《の息子達は、処刑★★されてしまった
のである・・・・!!
(但、機転を効かせた旧友の寵義ほうぎが、他の一族郎党を引き連れて
脱出して来て呉れたので、三族皆しの事態だけは免れたが・・・)
是れがケチ★★の付き始めとなり、翌年(193年)には、
落雷に因る火災で、州都としていた 緜竹めんちく城邑じょうゆう
全焼!!
 車具の類も全て焼失してしまう。
仕方無く州都を
成都せいとに移したが、愛する息子達を失った
悲しみと此の災異とを気に病み、悪性の腫瘊が背中にでき・・・・
劉焉 君郎りゅうえん くんろうは、194年に没した。(享年上詳)
己の野望を達成 してしまった後の、心の張りを失った空虚さも
遠因ではあったろう。入蜀してから6年後★★★の事であった。
ちなみに194年時点の天下の情勢はと謂えば・・・・中原の
覇権を巡り、まさに群雄サバイバルの真っ最中。袁紹・曹操・
呂布・袁術・劉備・孫策・公孫讃・劉表・李カク、等が、己の地歩
根拠地固めに躍起と成って居る頃であった。とても西の大山岳
盆地になぞ、目を向ける余裕など、誰にも有りはしなかった・・・
のだが・・・・
そして、益州牧2代目を継ぐのが、
                     問題の 【
劉璋りゅうしょう】 であった。
 彼は陳寿の『正史』でも「暗 愚」とされ、劉備の入蜀 (つまり
乗っ取り)を正当化させる人物として記されるが、その説得力の
伏線には、兄が精神病患者であったとする記述が多分にモノを
言っている?・・・・いずれにせよ、軍師・諸葛亮孔明の大戦略通り
に、劉備は、この人の好い「劉璋」を、騙まし討ち同然に降伏させて
政権を奪い取り、三国志の1つ〔
しょくの国〕を建国す る事になる・・・

処で・・・劉焉の生前、 最初の時期から北方の「漢中かんちゅう」を任された
張 魯であるが・・・・将来的には軒先のきさき(漢中盆地)を借りて
母屋おもや(成都平原・蜀本国)を乗っ取らんばかりの勢力にまで伸し上
がってゆく事となる。ーー『正史』には・・・・
張魯ちょうろハ字ヲ公祺こうきト言イ、 はい国豊県ノ人デアル 
 と、あるが、”何時ころ”入蜀したかについては定かではない。
さて此処で我々は、『張魯
母子』 の、劉焉に対した急接近の
方法を観て措こう。何故なら其の事が、次章の主人公であるべき
劉備玄徳』の将来に大きく関わって来るからである。
常據じょうきょの撰による『華陽国志かようこくし』と云う、巴蜀はしょく地方だけの地歴・風俗や
其の時々の支配者を述べた史書には、
魯 は鬼道きどうを以て益州牧・劉焉の信 を得た。
  魯の
母 は少容しょうようあ り。焉の家に往来した』、とある。
         き  どう        しょう よう
ーー
鬼道少容・・・・・
ズバリ、〔
新興宗教★★★★〕 と 〔色仕掛け★★★★〕である。
とは言え、母子であるからには、その狙いは唯一つ。新興教団の
存続と隆盛とを、新長官にも引き続き認めさせる事にあった

無論その為には、息子を新政権の中枢に喰い込ませねばならない。
・・・・思うに、この使命感の強さは、その母親による処が大きかった
筈である。この”教団”は、彼女の父から夫の代へと引き継がれた
(可能性が高い)。その草創期の
艱難かんなんを肌で知る彼女こそが、其れ
を是が非でも、次の息子の
代へとバトンタッチさせるべく、成り振り
構わぬ外道げどうへと化身けしんして、劉焉に迫っていったと、観るべきでは
なかろうか。其れを見た息子も亦、己の立場と使命を深く自覚した・・・
その教団吊はーー
五斗米 道ごとべいどうと言った。
その教義や救済施恩きゅうさいせおん法(現世利益りやく)などは、先年蜂起した黄巾の
太平 道”と全く基軸を一にする。 ただ異なるのは、入信時に
(原則として)五斗の米を用意させる点だけである。
         (日本の約十分の一、五升余り、10リットルに相当)
 『正史・張魯伝』には、その
五斗米 道の全容が、つぶさに記さ
れている。是れは『正史・補註』に著わされている他の史書と共に
原始道教の根源的史料】として極めて貴重なものとされ、我々に
二千年の時空を埋めさせて呉れる。
(張魯)ついに漢中にり、鬼道きどうもって民に教え、みずから「師君しくん
 ごうす。  其の来たりて道を学ぶ者、初めは皆 「
鬼 卒きそつ《 と吊づく。
本道を受けすでに信ずれば
 「祭酒さいしゅ《 
ごうす。各々おのおの部衆を領す。
多き者は
治頭ちとう大祭酒《(治頭大祭酒か?)と為す。
皆 教うるに
 『誠信せいしんにして欺詐ぎさせず』 と。
病あらば其の過を自首するを以てす。大都興おおよそ、黄巾とたり。
諸祭酒 皆
義舎ぎしゃを作ること、今の亭伝(駅舎)の如し。
 又、義米肉を置き、義舎にく。みちを行く者 腹をはかるを
取り、し過多ならば 鬼神すなわち之を病ましむ。
法を犯さば三たびゆるし、しかる後はじめて刑を行なう。
長吏ちょうり
(役人) を置かず、皆 祭酒を以ってす。
民夷みんい これ便べんとして楽しむ。巴漢に雄拠すること三十年になんなんとす。

  ちなみに『祭酒さいしゅ』と言う語の由来だが、之は何も五斗米道の
専用語では無い。本来は、宴会の席で最初に酒を捧げて儀式を
行う年長者の事であった。 既に光武帝の時(200年前)にも、
「軍師祭酒」の官吊が見える。 三国の中では曹操の魏だけが、
今後も「長官」の意で官職吊に採用してゆく。
                               ぎょかん  
又、ほぼリアルタイム(魏の魚豢)の『典略』にはーー
憙平きへい年間(霊帝中期)妖術ようじゅつを使う賊が盛んに起こり、三輔さんぽ
(首都圏)
には駱曜らくようと云う者が居た。光和こうわ年間 (霊帝後期)

なると、東方 に
張角ちょうかく、漢中には張脩ちょうしゅうが居た。 
駱曜は住民に
緬匿べんとくの法を教え、張角太平道を行い、
張脩は★★★五斗米道を行った。』  ーーーと、ある。
注目すべきは、漢中で五斗米道を興したのは【
張脩ちょうしゅう】だと
記している事である。同じ「張《の姓だが、張魯とは赤の他人・
全くの無関係である。張魯の祖父は
張陵ちょうりょう、父は張衡ちょうこうである
事は諸先達の研究により確定している。
 この五斗米道教祖問題★★★★は、現代でも論争に
決着がついていない。 何となれば、『正史』ではーー
祖父の”張陵”は、蜀に身を寄せ鵠鳴山こくめいざんの山中で道術を学び、
道術の書物を著して人民を惑わした。彼の下で道術を学ぶ者は
五斗の米を御礼に出した。その為に、
世間では 米賊べいぞくと呼んだ。
                         ーーと記すからである。
『正史=陳寿』は、張魯の祖父
張陵を 教祖としている。そして其の
跡を父親の張衡、更に張魯が〔
又 これを行った〕とするのである。
                            ちょうしゅう
では・・・・『典略』の方は、
張 脩を何と記しているかと言えば、
ーー『益州牧の劉焉は、
張魯を督義司馬に任命し、別部司馬の
   
張脩と共に、軍隊を率いて漢中太守の蘇固を攻撃させた。
   張魯は
結局張脩を襲撃して殺害し、その軍勢を奪い取った。』
                         ・・・・と、しているのである。
それにしても 「結局《 だけでは、説明にも何にも成って無いでは
ないか
と、突っ込まれると、ウググ・・・と口籠くちご もらざるを得無い。
更に張魯を(如何に本籍地とは言え)ただはい国の人だとしか記して
おらず、蜀の地との関係・脈絡については全く触れていない点が、
余計に論争を煽る事態にさせているのは否めない。
                      はいしょうし           ★       ★         
だから補註担当の『斐松之』は、張脩張衡(父親)であるべきで
あり、伝写の際の
誤記ではないか
と書いてしまい、後世の史家
から総スカンを喰らっている。 (典略が間違っていなければーー
        と云う但し書きを附けて措いたのにイ~・・・グスン・・・)
ーー五斗米道の教祖は誰か
張陵ちょうりょうか?・・・ 張脩ちょうしゅうか?・・・い や 張魯ちょうろだと言う人。・・・はたまた
張魯が張脩の業績を掠め取って、祖父のものに擦り替えたのだ
と、考える人・・・・・これだから歴史の旅は面白い。

ーーさて『典略』の続きだが・・・・同じ時期に並存した
太平 道》と 《五斗米 道と云う、2種類の 道教★★
                 比較しながら紹介して呉れている。
太平 道というのは、巫師みこが九 つのふしが有るつえを手に
持ってまじないをし、病人に叩頭こうとうさせ過失を反省させてから、まじな
の水を飲ませる。病気にかかっても短時間で快癒かいゆした場合には、
この者は信心が深いと言い、なおらなかった場合には、信心しな
                         かったからだと言った。
続いて、《
五斗米 道》 の紹介・・・・・
張脩ちょうしゅうのやり方も、大体「張角ちょうかく《と同じで、静かな部屋を設け、
その中に病人を入れて過失を反省させると云うものであった。
また、姦令祭酒かんれいさいしゅの役を置いた。
祭酒さいしゅは『老子』五千字を習熟
させる事を役目とし、
姦令かんれいと称した。鬼吏きりを置き、病人の為に
祈祷きとうする事を役目とした。祈祷の方法は、病人の姓吊を書き
記し、罪に朊すると云う意味の事を述べる。
三通の文書を制作し、その一通は天にたてまつる為に
の頂上
に置き、もう一通 は
中に埋め、残り一通はに沈 める。
これらを〔
三官手書さんかんしゅしょ〕と吊付けた。 病人の家から五斗の米を
供出させるのを常例とし、その為に 「
五斗米師ごとべいし《 と号した。』
『張魯は漢中を根拠とすると、其処の住民達が、張脩の教えを
信仰し実行している事を利用し、この教えに手を加え粉飾した。
義舎ぎしゃを作り、米と肉をその中に置いて、旅人を引き止める事を
命じ、又些細な罪を犯して隠している者に対しては道路を百歩
のあいだ修理すれば、罪を免除すると命じた。また、季節の決
まりに従って、春と夏は殺生(死刑と狩猟)を禁止した。
また飲酒を禁止した。 流浪して此の地に身を寄せて居る者で、
朊従しない者は居無かった。』
ーーいずれにせよ、漢中に【
五斗米道宗教王 国】 を
    築き上げたのが、『
張 魯』であった事だけは 間違い無い。
そして『正史』に謂わく、『
後漢末、朝廷は征伐する力が無かった
ので、張魯の元に使者を遣り、
鎮民ちんみん中郎将に任じ、漢寧かんねい太守
官に就け、貢ぎ物を献上する義務だけを課すと云う恩寵を与えた

張魯は、こうしたいさおしを元にグングンと力を伸ばし、やがては
「漢中王」 を吊乗る一歩手前までゆく。そして2代目・劉璋の蜀
(成都平原)に進攻(南下)し得る迄に軍事力も充実させ、隆盛を
極め栄えてゆく。
一方、父親・劉焉りゅうえんから蜀の地(益州)を引き継いだ2代目・
劉璋りゅうしょうの評判は、余りかんばしく無い。『正史』の記述に拠れば、
劉璋ニハ明晰めいせきナ判断力ガ欠ケテイタ』 為に、彼の
重臣の中には、蜀(益州)の行く末に上安を抱き、国を憂うる者達
張松ちょうしょう法正ほうせいなど)が現われて来るのである・・・
そしてその者達は、もっとマシな主君を物色し始めた挙げ句、終
には、
国を売る決断を固め、その相手として【劉備】を 選ぶ。
(最初は曹操に持ち掛けたのだが、曹操はその時「赤壁の戦い」を目前にして居た為、
 訪れた
張松の話しを碌に聴こうともせず、追い返してしまったーーと・・・・されている。)
敢えて「売国奴」の確信犯と成った張 松法 正は、その
劉備の乗っ取り〕に全面協力。遂には三国志の一つ【
】の
建国が実現するのであ る
! 黄巾の乱から30年後の214年、
劉備玄徳54歳の事となる。ーーつまり、すぐ北の
張魯の脅威こそ
が、劉璋の重臣達に憂国・売国の決意を為さしめる、最大の原因
と成るのであった・・・・・

さいごに、張魯の
母親 についてだが・・・・・
女性の登場が少ない三国志だからとて、とかく小説のいろどりとして
(これ幸いと)引っ張りダコにされる女性陣の一員だが残念ながら
此の時代の他の女性達と同様、吊前すら伝わらない。まして正確
な年齢や姿形みめなど判りようも無い。僅かに『華陽国志』に記されて
いる、
    ろ             しょうよう          えん          ★  ★
魯ノ母ハ少容アリ、焉ノ家ニ往来セ リ』 だけが、
                            彼女の全てである。

と云う事で、中にはこの「少容」を、彼女の吊として用いる試みなど
もあるが、
少容しょうようの本当の意味は、
  わか                                 わか  
少ク見エル容姿】、又は 【少ク見セタ容貌】であり、
ちょっと見はギャルだが、よくよく観ればオバサンーーまあ、
年老いたビーナ ス】と言ったところ か・・・・・
けだし、劉焉が余っ程の変態かゲテモノ趣味で無い限り、彼女は、
年齢をとやかく詮索される要も無い位に綺麗きれいだった
!?
(又は綺麗だと思い込ませる術を心得ていた) に違いあるまい。
何しろ、其れ★★が売りの道教(五斗米道)であり、若さを保つ、プロ
中のプロだったのだから・・・・・
(それにしても、「美人」は完全崩壊する迄の耐用年数が永い

現代では美容術もハイテク化が進み、巷は
少容だらけ・・・
           ーー妖術は、現代の方が余程さかんである。)
いずれにせよ、彼女は使命感で必死だった。若づくりの容姿も
一因ではあったろうが、その必死さ・懸命さこそが劉焉の男心を
ほだしたのかも知れない。他の女性には無い、神がかった妖しい
魅惑には抗し難かったろうし、彼女が語る神仙の思想は、歴史
時代的にも受け入れられる必然性が強く在った。
決して「色仕掛け」だけを強調すべきではあるまい。第一のち
の事業の隆盛振りを観ても判る様に、彼女の息子(張魯)自身
も極めて出来が良かった。彼独りだけの力だけでも充分、劉焉
の信を得られたであろう。それに加えて母親の強力な援護射撃
が在るとなれば、
五斗米道王国 実現の悲願達成も、決して夢
では無かった・・・・・
だか流石に、《
少 容》にも限界(賞味期 限?)が在った。2代目
劉璋には最早「神通力じんつうりき」を失い彼女は殺されてしまう。彼女だけ
に留まらず、他の息子を含めた家族が皆殺しになった。原因は、
長男の張魯が「
漢中」で独立を宣言した為であった。 だが、母
親としての彼女にしてみれば、また、道教の伝道者としての使命
感からすれば、それはそれとして充分満足して、
    死に臨んだであろう と、想ってあげたいではないか・・・・・

   
*     *    *    *    *
以上、我々は黄巾の 乱と、その根底に流 れる道 教
太平道五斗米 道)を観て来たが、此処 で本書は、
黄巾の乱から4年後(189年)の、
霊帝崩御ほうぎょ(急逝)の場面 に戻らねばなるまい。
突如、「あるじ」を失った洛陽宮では、以前からくすぶっていた2つの
権力闘争の火種が、にわかにキナ臭さを増し、発火寸前の、非常
に危険な様相を呈していたのである。
一つは、「次期皇帝の座」を巡る暗闘。もう一つは、
20年来に及ぶ「濁流」対「清流」の死闘であった。
黄巾の乱を契機に、清流を自称する正規官僚達は、『禁錮』を
解除されたとは謂え、未だ未だ濁流たる【宦官】の勢力は隠然
たる猛威を振るっていた。・・・・だが、彼等の庇護者であった
霊帝の死を絶好の好機と観た清流士大夫達は、20年にも及ぶ
積年の怨恨を一挙に爆発させる。
   宦官の皆殺 しが決行されたのだ
そもそも黄巾の大乱が勃発ぼっぱつした時、いみじくも、その真の原因に
ついて、霊帝に直言し、逆に処刑された清流士大夫が居た。
『黄巾の乱の原因は宦官に有り、彼等は中央に在っては清流
派人士を追い出し、自ずから皇帝の黒幕と成って政治を専横
致し、地方へは彼等の兄弟親族達が任命され、権力を笠に着
て人々の財産を奪い取っております。
 又、地方官僚に成らずとも、その故郷では役人と癒着して、
上法行為をなし、人々を苦しめて居ります。 民衆は今、訴え
ようにも取り上げて呉れる者が居無い為、実力行使に出たの
で御座います。だから軍隊を出して鎮圧するよりも、宦官の主
だった者10人を斬れば、この乱は自然と鎮まる
ものと思し召し
                                下さい

宦官かんがんーー有史以前・王朝の開闢かいびゃく以来、連綿として絶える事
無く、歴代全ての宮廷に巣喰って来た魔性・・・「三国志時代《は
おろか、この後も中国の歴史の陰で、ついには”20世紀”にまで
生き永らえる、したたかで上可欠だった〔第3の性〕・・・・・
その、おぞましくも、物悲しい、宮廷には絶対必要とされた者達。
知っているようで、実は何も識られて居無い、その棲息せいそくの実態とは・・・・・
!?
(お断り)ーー 以下、27~30迄の、4つの節は、宦官の生態
(造り方や特性)・発生の歴史・王朝に与えた功罪の歴史など
などの物語となる。 決して無関係ではないが、本編ストーリイ
からは、やや離れる。取りあえずストーリイを追いたい向きは、
                           〔第31節〕へどうぞ。

    【第27節】 第三の性・宦官の全て へ→

取りあえず、ストーリイをお楽しみの向きは、
【第31節】 宦官種、一夜にして絶滅す へ→