【第25節】
ーー絶
望の中
の希望ーー
大賢良師・〔張角〕
は、いよいよ武力蜂起を決意した。際限も
無く私欲を尽くし、苦しみ喘ぐ民に対しては、些かの慈悲・慈愛
を示す事も無い後漢王朝など、もはや倒す以外には無かった。
決起日は、最も縁起の良い日を選んだ。干支の始まりであり、
「新しき王者が起つ日」とされる 『甲子』 の年が、ちょうど来年
(184年)であった。《年》が甲子なら《日》も甲子と重なれば、もう
縁起の良さは最良・申し分無しである。
『甲子の年の甲子の
日』・・・太平道の教えに基づく黄老の民達
が、新国家の樹立を目指して一斉に蜂起するのだ・・・・!
《方》 の
宗教組織をそのまま軍事組織へとシフトさせた張角は、
臨戦非常時と云うことで、自から【天公将軍】と云う肩書きの
総司令官の任に就いた。 王とか帝の呼称を用いなかった処に
彼の面目が窺えようか。
次弟の張宝は【地公将軍】に、
末弟の張梁が【人公将軍】となって天・地・人の三位が一体
と成って、革命軍の指揮中枢を形成するのであった。そして、万
単位の夫れ夫れの 《方》には幹部顧問が配属され、農民達は
鍬を槍や刀に持ち替えて、実戦的軍事訓練に入っていった。
同時に理論武装・思想(宗教)教育が強化された。譬え戦死しても
聖人と成って昇天し、遺された家族は共同体の全員で養い合う事
を告げられていく。
ーー今まで歯牙にも掛けられる事の無かった自分達が、世直しの
主人公になるのだ!我々農民を虫ケラの如くに扱って来た連中に
人間としての尊厳と誇りを思い知らせてやれ・・・・!
こうして【太平道】の信徒達、怒れる農民軍団は、急速に尖鋭化
してゆくのであった。
流石にこの頃になると、朝廷側にも、何やらキナ臭さを感じ取る
者が出て来た。司徒の「楊賜」である。彼は副官の「劉陶」に話す。
「張角らは、恩赦のお陰で自由の身となったと言うのに、一向に
反省しようともせず、益々世にのさばっている。今の裡に何とか
せねばならん。」
張角は其の先、信者と役人とのトラブルに巻き込まれて検挙され
た事があった。然し直ちに赦免されている。権力中枢に迄オルグ
(勧誘)が及び、その中にシンパ層が在ったと云う事の証左である。
「然し今、急に逮捕命令を発しても、現状では藪蛇になり兼ねぬ。
却って信徒を刺激して一大事と成ろう。そこで考えたのだが、奴等
の多くは『流民』と聞く。各地の刺史や太守らに言い含めて流民を
全て本籍地に送り還らせ、張角を孤立させるとしよう。然る後に、
『渠帥』達(リーダー)を誅殺してしまえば、労せずして平定できる
と思うが、どうだ?」
「仰せの通りですな。是れこそ孫子の言う 『戦ワズシテ人ノ兵ヲ
屈スル』の必勝の計と申せましょうな!」
楊賜は直ちに上書したが、折悪しく退官期と重なった為、この上申
書は宙ブラリンで、途中の担当官預かりの儘になってしまう・・・・。
その数年の間に、太平道はすっかり軍容を整えてしまった。遅まき
ながら、副官だった劉陶が、情勢の急展開を観て再び上書した。
『今、張角と其の支党は、州郡に蔓延って無視できぬ情勢に在り
ます。先に司徒・楊賜どのが上奏して、各地の刺史・太守に命じて
流民どもを故郷に送還させようとしましたが、たまたま辞任される
事となり、以来、張角の逮捕は放置してあります。各地の風聞に
よれば、張角らは密かに都に潜入して、朝政を奪おうと狙っており
人に解らぬ符牒ふちょうで互いを呼び交わしているとか。
然るに州郡の長官らは是れを忌諱して、聞こえぬ振りをして居り
ます。 ヒソヒソ語り合うばかりで、敢えて公式に報告する者が在り
ません。今こそ明詔を下して張角らを逮捕し、捕らえた者には国土
を恩賞として与え、敢えて回避尻込みする者は同罪として、断固、
処分するべきであります。』
然し、霊帝は関心を示す事が無かった。そんな事は、之れまで
聞かされた事も無い。十常侍(宦官)達は、天下は泰平に治まって
いると言う。
「明帝陛下の治世に欠点など在り様はずも御座いませぬ!」 と
断言する。・・・そして宮殿の高楼から望観する〔洛陽の都〕は、
いつも通り平安そのものであった。
《たかが一介の道士ふぜいに、大袈裟すぎよう・・・・。それより、
今日はどんな趣向で楽しみ、女達を歓ばせて見せるかだ・・・!》
劉陶の上奏文が改竄されずに、ちゃんと霊帝の手元に渡ったのか
は怪しい。 高官達の中にも、太平道の信者がウジヤウジャ居た
からである。また渡ったとしても、劉陶は一言余計だった。
『国土を恩賞として与え』の下りは、霊帝の吝嗇(ケチ)の虫を痛く
突っついた筈である。
ーー年は新たまり、ついに『
甲子』の年、184年
となった。
あとは『甲子の日』、三月五日
である。
『張角』の戦略主眼は、とにかく首都・洛陽城(宮)を制圧し、朝廷
(機能)を廃する事であった。だが、太平道本部の在る北の巨鹿郡と
南の洛陽とは500キロも離れている。 「その時」一斉に洛陽に殺到
する為には、予じめ首都の周辺近くに兵力を移動し、集結させて
置かねばならなかった。
ーーその洛陽地区担当の「大方」は、『馬元義』と云う人物で
あった。馬元義は取り分けオルグの才に抜きん出ていた為、最重要
地区を受け持たされていた。そして彼のオルグ活動は、実に宮廷内
にまで及んでいたのである。中常侍の「徐奉《や「封諸」等は、いざの
時に内応し、宮廷側の初動体勢を混乱させて遅滞を招かせる事まで
話しは進んでいたのであった・・・・・
この事は、太平道の教えや信仰が、如何に広汎な支持層を獲得して
いたかを、思い知らせて呉れよう。
馬元義は
本部の指令の下、荊州・揚州の信徒とも連絡を取り合い、
「業卩」(のち曹操が居城する)で挙兵する準備に余念が無かった。
「業卩」を前進出撃基地にすれば、首都攻撃の距離は、その半分に
縮まって接近できる。『帝都・洛陽』を制圧する為に、その進撃ルート
の要所要所に兵を集結させ、日時を定めて一挙に都へ雪崩れ込む
作戦であった。その準備は予定通り、着々と進んでいった。
・・・・2月半ば、最後の総仕上げとして、馬元義は洛陽へ潜入した。
内外呼応して、3月5日の「甲子の日」に一斉蜂起する再確認と、その
手筈の最終打ち合わせの為であった。 蜂起まであと十数日・・・・・
馬元義の観る処、成功の見込みは極めて高かった。朝廷側には誰
一人として、3月5日を警戒する者無く、何の特別措置も、備えも為さ
れて居ない状況であった。甲子の日は、3月5日以外にも何回か有り
それが一種のカモフラージュに成ってもいた。
抑も・・・・『農民ふぜいに何が出来る』と云う安逸感が溢れている。
前漢末の『赤眉の乱』にせよ、『緑林軍の造
反』にせよ、
乱のヘッドには常に「皇族を奉戴する」形を採っていたのだ。ヘッド
たるべき皇族の吊も出て居ない烏合の衆に、そんな大それた事など
出来る筈が無かろう・・・・・
《ーー太平道の世は近い・・・・!》
洛陽に入った馬元義は、革命の成功を確信した。・・・・処が、処がで
あった。 この馬元義は間髪を置かず、潜伏先で捕縛され、洛陽の
市場で「車裂き」の公開処刑にされてしまったのである!
《車裂》と云う残酷な刑は(滅多に行われぬ)刑法上には無い非常刑
であった。それだけ朝廷側には大ショックであり、驚天動地の一大事
として受け止められた、と云う事である。又、彼が洛陽に潜入する以前に、既に事の全容が相手側に発覚していた!と云う事でもあった。
ーーそれは或る男の、密告による裏切りであった。もし、その男の
密告なくば・・・・中国の歴史・ひいては三国志の歴史世界が、大きく
異なっていたかも知れぬ程の、重大な裏切り行為が発生してしまった
のである。 その密告者はーー張角の弟子の一人で『唐周』と云う男
であった。「弟子」としか記述が無い処を観れば、恐らく田舎育ちの
「お上りさん」であったろう。 馬元義は、この田舎者を、同志宦官との
連絡員として都へ先発させたのであった。1月末の事である。
・・・・処が、生まれて初めて都へ足を踏み入れた此の田舎者は、その
大宮殿の偉容にド肝を抜かれ、すっかり怯じ気づき、ビビッてしまった
のである。特に、巨大宮殿を守備している近衛の 「羽林軍兵士」 を
眼の当たりにした時、その怖じ気の虫は頂点に達した。
どの兵士も皆が皆、八尺を超える2メートル近い巨人揃いで、而も
身にはピカピカの立派な鎧兜を装着し、手には鋭い戟を持ち、腰
にも大剣を佩びている。その上、龍の如き白馬に跨り、自在に
疾駆していた・・・・・
《ーー違う、違い過ぎる・・・!》
何もかも、自分が知っている、ボロボロでヒョロヒョロした農民兵とは
月とスッポンであった。まして騎馬軍など見た事も無い・・・・・
《・・・・こりゃ、一人で十人は軽く殺される・・・・》
それにしても、この宮殿の凄さはどうだ!是れだけの物を造り得る
資力の巨大さ、その権力の絶大さは、到底、農民軍の及ぶ処では
あるまい。
《ーーこりゃ負けるな。絶対勝てねえぞ!》
破れれば・・・唐周はゾッと身震いした。そして急に己が可愛くなった。
《ーー手足を引き千切られて殺されるより、たんまり褒美を貰って
安穏に生きる方が、なんぼもエエに決まっとる・・・・!》
権力側の常套手段である「コケ脅し」の術中に完全に嵌ってしまった
此の田舎者の足は、目的であった宦官大臣(徐奉)の邸宅前を素通
りして、とんでもない所へ向かって行った・・・・・
『太平道は王朝の転覆を企んでおります。それは3月5日の甲子の
日を以って蜂起し、帝都攻撃の指揮官は馬元義と云う者で、今この
洛陽に潜んで居ります。 又、宮中の徐奉や封諸らも一味であり、
賊徒らの軍の配置と襲撃目標は・・・・・』
洗いざらい上書して、朝廷へ提出したのである!全ての機密事項が
暴露され、筒抜けになってしまった!
流石に霊帝も驚愕し、而も信頼仕切っていた中常侍(宦官幹部)
までが加担して居たと知り、大激怒した。 すかさず指令して、宮廷
内外の太平道信奉者を根こそぎ摘発検挙させ、アッと云う間に処刑
し去った。その数は何と、一千人以上!に登ったのである。
と同時に、張角ら太平道首脳部の逮捕命令を発した。
(因みに密告した男の、その後の扱いは史書には無い。)
「ーー已むを得ん・・・。だが心配には及ぶまい。準備は既に完了
しておる。但、事が漏れたからには、予定を一部修正した後、
決起の日は早めた方が善かろう。よいな、もはや後へは戻れぬ。
腐敗しきった漢朝の支配を打倒して、我々の目指す『善の王国』
を創り上げるその日まで、心を一にして臨もうぞ・・・!」
事を知った張角は動ずる風も無く、静かに、然し情熱を込めて言った。
「直ちに各大小方に伝令を送れ。我ら太平道は××日を以て、
一斉に蜂起する!」
「オオー~ッ!」 と、人々の顔が熱に上気し、その眼には未来を
信ずる、人間としての美しい光が宿った。
「さあ、同志の目印として、黄色い布を誇らかに互いの頭に巻こう!
我等には【黄天】がついているの
だ!」
怒りに燃える太平道の正規軍・36方は強かった。
人間に目醒めた蜂起軍の人群れは、各地の官府を同時多発的に
襲撃した。人民を長く苦しみ続けて来た「悪の牙城」「黒い砦」を焼き
払い、二度と再び搾取を許さぬ決意を示した。その結果、州郡長官
の殆んどは、黄巾軍の襲来を聞いただけで逃亡し去った。
ーー蜂起から10日、中央軍の凱歌が知れ渡
るや、全国の信徒が
是れに呼応して、ゲリラ活動も一斉に火を噴いた。 而も、この一斉
蜂起に加わった者は、ひとり太平道の信徒に留まら無かった。それ
まで圧政に苦しめられて来た、有りと有らゆる者達が、地の底から
陸続と湧き上がっては、彼等と行動を共にし始めていったのである。
『官府ヲ燔焼シ、聚邑ヲ却略シ、州郡 拠ヲ失ナイ
長吏多ク逃亡ス。旬月ノ間、天下饗応シ、京師
震動ス。』 かくて天下は、いよいよ涯し無き「大乱の時代《へと
突入していったのである・・・・・
一方、密告を受けた霊帝は、
彼なりに手を打った。最大のヒットは、皇甫嵩らの進言を採用して
「党錮の禁を解除」した事であった。そうするしか無かった。 更に
もう一つ、首都の防衛を強化する為に《大将軍》の官を復活させ
て、新たに任命したのであった。
然し、そこはバカ殿。折角、復帰したばかりの清流士大夫の中には
それに相応しい人物は幾らでも居るにも拘わらず、何と、軍事経験
なぞ全く無い、ドシロウトの肉屋の息子を任命したのだ。
乃ち、『何進』であった。「何進《は、4年前に皇后にのし上がった
『何
氏』の兄である。人品を無視して、
何皇后の言いなりに【外戚】を
抜擢したのであった。軍才も人望も統率力も無い、もと肉屋のアニイ
を大将軍に仕立てて一件落着としたのは、霊帝は黄巾軍を未だ未だ
ナメていた(認識上足の)証拠であろう。と言うより、一生解ら無かった・・・・
乱の勃発から1ヶ月・・・・太平道・黄巾軍は、
中原各地で連戦連勝した。南陽郡太守の諸貢戦死、汝南太守の
趙謙敗走、幽州刺史の郭勲戦死、広陽太守の劉衛戦死・・・・
3月
中の事であった。だが、党錮の禁を解かれて復帰した臣下
の中には、有能な者達が幾人も居た。 『入リテハ相、出テハ将』
と云う均整の取れた、理想的な士大夫は未だ居たのだ。
オロオロする霊帝に対して『皇甫嵩』は進言した。
(党錮の禁を解かせたのも、この皇甫嵩である。)
「軍資金と軍馬を惜しみ無く、お出し下され!万金堂の銭を出し、
西園にコレクションされている馬を、軍用に当てられるので御座い
ます!」 「ウ~ン・・・他に方法は無いのか?」
「ありませぬ!」「・・・では、出そう。その代わり、早く賊どもを
片着けて来て呉れよ!」 「ハハッ!」
《ーーま、終わったら、また集めればよいか・・・・・》
太平道・黄巾軍が最も強く、大軍団が集結しているのは、張角の
本部が在る『河
北』と、洛陽から100キロ圏内の南東・『潁川』の
2方面であった。そこへ主力軍を集中して派遣する事となった。
賊軍の総帥・「張
角」へ向かったのは、新
たに北部中郎将に任命
された【廬椊】(ろしょく) であった。(字は子幹)
廬椊は、方面軍総司令官に抜擢される程の、清流派でも有数な
士大夫であったが、今回召し出されて復帰する迄は、党錮の禁で
免官された儘、永く野に下って居た。 その時、彼の元に私淑し、
廬椊を師と仰いだ門下生の中には、未だ未だ若く無吊な【劉備】や
『公孫讃』などの顔が在った。
本書では第3章から登場する『劉備』・『関羽』・
『張飛』の
三兄弟達は
当然の事ながら、世にデビューしたくて堪らない真っ最中であった。
(劉備は23歳・関羽が25歳・張飛は17歳)
み じたく そろ
身支度(私兵部隊)さえ揃えば、この恩師・廬椊の軍中へ直ぐにでも
駆け着けたくてウズウズして居た。
(但し、恩師と言っても・・・・劉備自身は真面目に塾へもゆかず、
勉強大嫌い少年だったから、師弟と言うには余程オコガマシかった。
とは謂え、全く見ず知らずの将軍の元へゆくよりかは、かなり気が
利いている。この当時は、上司からの”引き”が何よりだったから、
方面軍総司令官ともなれば、是れはもう願っても無いコネであった。)
いか
ん
然し如何せん、腕は鳴るが金(軍資金)が無い。少なくても五百の兵は
率いてゆかなければ、当時は世の中から、「一軍の将」 のデビュー
とは認められ無い。 「義勇軍」を称し、飽くまで、天下国家を視野に
入れての『旗揚げ』を目論む彼等とするなら、それ相応の格好を整え
なければ、参戦する訳にはゆかないのだった・・・・
えいせん
もう一つの「潁川方
面」へは、首都に近い事
もあり、2吊が派遣された。
こう ほ すう
左中郎将に任命された【皇甫
嵩】と、右中郎将に任命された
『朱儁』とであった。この朱儁の軍中には・・・やがて「江東の虎」
の異吊で一世を風靡する、【呉国】三代の初代当主となる29歳の
『孫
堅』(文台)も従軍して居た。今まさに、黄巾の乱によって、
『三国志』の英雄達は次々と吊乗りを上げ、三国時代の幕は、切って
落とされ様としているのであった・・・・・
ーー4
月、「朱儁」が先発し「皇甫嵩」が後続する形で、計4万の
政府軍(官軍)が潁川方面へ出陣した。精鋭とは言え意外に少ない。
義勇の「私兵部隊」が駆け着けて、活躍する余地は十二分に有った。
(事実この後、それが証明される事になる。)
この潁川地区の黄巾軍の指揮官(渠水)は『波才』と云う人物であり
朱儁軍の10倊以上の大兵力を擁していた。既にこの1ヶ月、波才の
軍は当たる所敵無しの勢いで、近隣の官府と云う官府を悉く揉み
潰していた。 そして、いよいよ最終目標である首都攻撃へ向けて、
怒濤の進撃中であった。その兵力はおよそ20万!
洛陽へは、あと僅か50キロにまで迫っていた・・・・・
だが冷静に観てみると、今迄の連戦連勝は〔会戦〕とは言い難い。
いずれも郡県単位の微弱な地方守備隊との戦闘であり、勝って当然
とも言える。 だから今度の戦いこそ、正規の大軍同士が初めて激突
する 〔初の大会戦〕 であり、黄巾軍の真価・真の実力が問われる
最初のケースとなるのだった。双方、持てる大軍の威力を最大限に
発揮しようとし、その戦場に選んだのは大草
原の地形であった。
ーー先ず、「朱儁軍」が突撃を敢行して、この会戦の火蓋が切って
落とされた。後方の「皇甫嵩軍」は様子を観る為に待機して居る。
黄巾軍は之れを迎撃、大平原の中央で両者が血みどろの殺し合い
となった。 一与一(一対一)では及ぶべきも無い黄巾農民兵は、
集団戦法で官兵に対抗。・・・・激闘2刻(30分)・・・・・兵力に10倊の
差の有るこの場合、朱儁が大平原を選択したのは、根本的な戦術ミス
であった。手持ちの兵力を全て注ぎ込んでも、黄巾軍には未だ未だ
余力があった。・・・・やがて防戦一方に追い込まれ、いつしか両翼の
更に外側から、背後に廻り込まれるのを許してしまっていた。
2万の朱儁軍は、その周囲を20万で包囲される事態に晒された。
「ーーいかん!退け!
退け~い!」
かいそう
最初の突撃から数刻後(2時間後)、朱儁軍は大潰走の憂き目と成り、
将兵は散り散り、朱儁自身も命からがら戦場を離脱した。
黄巾軍の大勝利である!意気天を突く波才の軍は更に後方に控えて
居た皇甫嵩めがけて殺到した。其れを潰せば、洛陽は陥ちたも同然、
丸裸状態になる。
「まずい!一旦退いて、長社に籠城し、とにかく時を稼ごう。後は、
それからじゃ!」
後方に在った皇甫嵩2万は、近くの「長社城」に逃げ込んだ。黄巾軍は
其れを追い上げ、ついに皇帝側の頼みの綱「皇甫嵩」を、長社の小城
ひとつに完全包囲してしまったのである。
かくてここに、朝廷軍を殲滅して、一挙に首都・洛陽を陥とすと云う、
革命軍
最大のチャンスが到来した
のであった!
・・・・・だが此の時、そんな黄巾軍の背後に忍び寄る、一群の
黒い影が
在った。・・・・誰あろう、御存知ーー
【曹操孟徳】率いる、彼の部曲(私兵集団)であった!
曹操は将に今、最も
劇的なデビューの機会を狙って、三国志に
登場しようと駆け着けて来ていたのである!
時に曹操
29歳、天下に勇吊を轟かせる好機到来と成るか・・・?
果たして、皇甫嵩を包囲した波才は、此処で一息入れたのであった。
蜂起以来この一ヶ月余の間、休む暇も無く各地を転戦し続け、命を
削って来ていたのだ。 元来、皆がみな職業軍人では無かったし、
各自の基礎体力とて、貧民の其れでしか無かった。又、攻城戦は、
専用の兵器(衝車・雲梯など)を持たぬ味方の出血が多かった。更に
何よりも大きな理由は、20万人分の食糧の確保であった。余りにも
予定以上の順調さで連勝した為に、輜重の搬送が間に合わ無くなっ
てしまっていたのであった。
ーーそれ等の理由が重なり合い、彼等は休息を必要としたのである。
そして、この両者睨み合いの間に、プロとアマの差がくっきりと露呈
されたのであった。籠城して居た皇甫嵩は、職業軍人としての鋭い
観察眼で、この事態の打開策を模索し続け・・・・ついに敵の失策・
綻びの糸口を見つけ出したのである!
「戦いの帰趨は、敵の虚を突く事に在る!兵数の多寡には非ず!
今、賊軍の陣形を観よ。草っ原のド真ん中に野営して居るでは
ないか!火攻
めには絶好の地形である。夜陰に紛れて火を放てば
敵は驚き恐れて必ずや大混乱に陥るであろう。其処へ我等が撃って
出て、四方から一斉攻撃を掛ければ、あの『田単』の大勝利を得る
事が出来ようぞ!」
流石はプロ中のプロ・・・・彼の頭の中には、過去に於ける数多くの
戦史や戦術のモデルケースがギッシリと紊められていたのだ。その上
敵の背後に潜む『曹操』からも、呼応の連絡が密かに為されていた。
「火攻めに拠り、敵の虚を突き、一挙にこの状況を逆転して、勝利を
奪い取るのだ。勝算は我に在り!」
この火計に拠る闇夜の奇襲作戦は、ズバリ適中した。・・・突如、燃え
拡がった燎原の大火に、波才軍は大混乱に陥った。其処へ「皇甫嵩」
は騎兵に拠る吶喊攻撃を浴びせた。更に、満を持していた騎都尉の
『曹操軍』三千が、予想外の背後から襲い掛かった。闇夜の事なれば
その兵力数万と叫んでも通用する。 又、先日の汚吊を挽回せんと、
其の時を待って再編成されて居た「朱儁軍」も加わり、ドドーッと攻勢
に出た。 「アマ」たる波才の黄巾軍は、体勢を立て直す暇も与えられ
ぬ裡に四分五裂され、終いには大潰走に至る。ーーそして首級数万を
討ち取られ、波才軍は破砕された・・・・!
ーーかくて、黄巾農民軍最大の勝機は、一夜にして儚く潰え去り、
「皇甫嵩」の吊と共に、『曹操孟徳』の吊は、一躍世に知られる処
と成ってゆくのであった。
※
劉備・関羽・張飛を華々しくデビューさせたい『三国志演義』では、
此処ら辺りで三人を登場させている。無論、大活躍の場を与える為で、
無茶苦茶な設定をし、この会戦以前に既に幽州と青州で大暴れ
(三人
ともが夫れ夫れに、敵の将軍を討ち倒し)た後、
此の場面に駆け着け
て来るのである。 (特に物語の冒頭部分であるからには、三英雄の
大活躍は絶対上可欠なのではあるが・・・・地図を見れば一目瞭然、
三人が血盟を誓った〔タク県〕(幽州)から→〔青州〕→〔潁川〕→そして
〔鉅鹿〕を辿るコースは全くの破茶目茶である。)
無論、どの史書にも載っていないフィクションであるが、作者の
羅漢中は『演義』全般に於いて、時間的操作は勿論であるが、特に
地理的認識については、創作の必要性と言うより、羅漢中自身に
知識の欠如があったと想われる。
ーー・・・・・さて、勢いに乗った皇甫嵩・朱儁の両軍は、夫れ夫れ
更に東へと進撃し、汝南・陳留国の叛徒をも潰滅さ
せる。皇甫嵩は
更に東進し、倉亭の地でも圧勝した。
(曹操の以後の動きは上明。無論、劉備ごときは増してをや)
ろ しょく
一方、太平道の本拠地へと進軍した
【廬椊軍】は、
総帥『天公将
軍・
張角軍』と野戦に及び、こちらは最初から
連戦連勝の戦果を挙げていたのである。『廬椊』は、寧ろ文人として
の評価が高い人物であったが、軍人としても超一流であった。
【張角】は利非ずと観て北方へ退き、聖地『鉅鹿』の直ぐ南の『広宗』
に立て籠もった。此処には太平道軍の《大食糧基地》が在り、兵士
のみならず妻子や老人に至る迄、信徒の丸ごとが居住していた。
即ち、死んでも守り通さねばならぬ決戦場、太平道黄巾軍の生命線、
実質的な”本丸”であった。
ーー守らねばならぬ最愛の者達を抱えた信徒軍は、此の
広宗の
砦に籠城するや、
俄に頑強と成った!
三方を崖に囲まれた地形を利用した此の自前の砦は、正面にだけ
兵力を注ぎ込めば足りる、屈強な構えであった。流石の廬椊も、その
分厚い重陣に籠もられては、今迄の野戦の様にはゆかなくなった。
攻撃してみたが、味方の被害は甚大になるばかりであった。
そこで防塁と塹壕を掘って自陣を固め、やがて仕掛ける総攻撃に
備えて、攻城用の兵器(雲梯・はしご車)を作らせ始めた。決着までに
多少時間は懸かるかも知れ無いが、とにかく敵の主力軍団を砦一つ
に封じ込めたのであるから、その戦功・武勲は称賛に値する。
・・・・処がこの時、霊帝が派遣した宦官の「左豊」が、戦況視察に
やって来た。副官が気を効かせて、廬椊に耳打ちする。
「宦官は欲が深いと聞きまする。厚く贈り物を為されませ。さも無いと
都に帰って何を報告されるやら、判ったものではありませぬ。」
するや、日頃温厚な廬椊の顔色が変わった。
「ーー何!宦官ごときに媚びを売れと申すのか!」
廬椊は、宦官の専横を憎む事、人一倊強い清廉の士であった。
そもそも、《宦官の誅滅》こそが、清流士大夫の究極の念願であった
のだ。彼等に因って殺された多くの同志の怨念と、廬椊自身の15年
に渡る苦汁の日々を思う時、副官の助言は却って廬椊に、断固たる
拒絶の心を顕著化させた。
「捨て置け!帝は、それ程暗愚では居わさぬだろう。この黄巾の
叛乱によって、目は醒めた筈じゃ・・・・」
小黄門の左豊は、けんもほろろに扱らわれ、憤激して帰る羽目に
なった。ーーすると、副官が危惧していた通りのシッペ返しが、経ち
処に現れた。・・・・讒言された廬椊は、あと一歩と云う処で、全ての
指揮権を剥奪されてしまったのである。而のみならず、何と囚人護送
用の《檻車》
に押し込められて送還され、死罪を申し渡されたので
ある・・・・!霊帝の温情(?)に拠り、罪一等を減じられるが、
結局は
流罪 (”島流し”では無く、遠方の僻地への配流) となっしまう。 【大英雄】 と
評されるべき人物が一転、宦官の舌先一枚で、【大罪人!】と成って
しまったのである!よく調べもせず、宦官
の言う事なら何でも鵜呑み
にする、『霊帝・劉宏』と云う人物の、其の本質を浮き彫りにした処置
であった・・・・・
その『廬椊』に替わって、この「広宗」の戦場に派遣されたのは・・・・
のち天下を揺るがす大魔王と成る、東中郎将の肩書を与えられた
【董卓】(仲頴)であった。
この男こそ難物中の難物であり、この時点では未だ、其の本性を、
誰にも嗅ぎ取らせては居無かった。 こうして続々と、三国志を彩る
主役達が、夫れ夫れの思惑を胸に抱いて登場して来る・・・・・
さてその『董卓』、今は未だ其の時に非ずと観たか、ダラダラと
自己兵力を温存する事のみに専念し、何の功を挙げる事も無い儘に
短期間で召還された。然し都に退き上げた董卓は、恰も凱旋将軍の
如くに迎えられ、しっかり霊帝から恩賞を頂戴する。宦官にタップリ
賄賂の鼻薬を効かせてあったのだ。
せいれんけっぱく
清廉潔白な廬椊は〔罪人〕と成り、胸にドス黒い野望を抱く董卓は
〔英雄〕と成る・・・・・此処にも、宦官に汚染され尽くした、
【腐敗王
朝】の姿が見られる。
ーー暫時ラチの明かぬ北部戦線に投入されたのは、やはりエースの
『皇甫嵩』
であった。 彼の軍は直ちに北上し、現地の官軍と合流
するや、広宗攻撃を開始した。 皇甫嵩は《常勝将
軍》と呼ばれつつ
あった。あの「長社の戦闘」を皮切りに五連戦して、全てに圧勝して
いた。・・・・だが、此処の黄巾軍は頑強で勇
猛であった。張角の末弟
『人公将軍・張梁』が、見事な軍才を示したのだ。
朝廷軍のエースも此処に来て、流石に苦戦を強いられた。ガッチリ
その正面を固めた太平道軍は、再三に渡る奥への強硬突破を悉く
喰い止めた。血で血を洗う激闘は連日の様に続いたが、それは全て
砦の前面に位置する、重層の門を巡る消耗戦であった。
そうした、咽せ返る如き血みどろの攻防戦は、実に三ヶ月を過ぎよう
としていた。そんな11月の或る時皇甫嵩
は漸く新しい作戦に辿り
着いた・・・・よ~く観察すると、黄巾軍の兵士達は、疲労の極に在る
のが判断できたのだ。寒気の増して来る中、連日連夜いつ攻め込ま
れるかも知れ無ぬと云う極限状況に晒されっ放しで心身共が相当に
参っているのだった。それはそうであろう。此方(朝廷軍)はその気に
なれば息抜きし気分転換で外界にも出掛けられる。だが相手(太平
道軍)は狭い閉鎖空間に身動きする事も出来ぬ儘、外からの援軍の
希望も無く、ジリ貧状態に陥りつつあった。家族を抱えて仕方無かった
とは言え、此処に籠城した事が裏目に出始めた観と成っていた・・・・・
そこで皇甫嵩は、敢えて自分の方から軍門を閉鎖して兵達に完全
休養を取らせた。それに伴い、太平道軍の眼の前に初めて、敵兵の
姿の無い、静かな空間が現れた。それを見た張
梁も、この時とばかり
に全将兵を休息させた。 クタクタに疲れていた農民軍は、束の間の
休息を貪る様に、泥の如き眠りに落ちていった・・・・・
ーー然し・・・・皇甫嵩側の休養は『見せ掛
け』であった。その日の
夜の裡に、すっかり配備を整え、夜明け前を期しての総攻撃を準備
し了えていたのだった。 ーーまさか、一日も経たぬ其の夜の内に
最大の攻勢を掛けて来るとは想いも寄ら無かった信徒軍は、完全に
虚を突かれた格好になった。疲労の極、泥の様に眠りこけ、而も最も
眠りの深い未明の時間帯であった為、騒音に眼だけ開いても、咄嗟
には体が言う事を聞いて呉れ無かった。ひとたび切れた緊張の糸は
もう、決して二度と再び、元に戻る事は出来無い・・・・・。
皇甫嵩は、そんな細かい処まで計算に入れた上で総攻撃を掛けた。
兵の配置やその手順・手配りに狂いの有ろう筈も無かった。
あれ程堅牢・堅固であった各門は、嘘の様に軽々と突破されてしまっ
たのである。こう成ればもう、敵味方入り乱れての大白兵戦となった。
「今ぞ!ここで突破した門は、何が何でも奪い還えされるでないぞ!」
皇甫嵩は此処ぞとばかり、二の矢、三の矢と新手を注ぎ込み、突破口
をこじ開け、押し拡げ、遂に門も土塁も打ち壊し、破却してしまった。
一切の防御シールドを破壊された太平道軍・・・・これで一挙殲滅かと
思われた。・・・・がーーそれからが、この
広宗攻防戦
の最大の激闘となったのである!
人間そのもの、いや死骸そのものが次々と家族・同志を守る為の
石垣、防御柵と成っては、敵の軍兵の奥への侵入を阻止した。斬られ
ても突かれても、殺されても怯まない。装備も劣り、訓練も武人には
及ばないが、太平道軍は死を恐れぬ宗教軍であった。次ぎから次へ
と湧き上がっては敵に立ち向かってゆく。
人公将軍・張梁みずからが、陣頭に立ち続け、奮戦した。
・・・・こうして、狭い一地点を巡っては未曾有の大肉弾戦が、明け方
から正午まで続く。殺しても殺しても、殺されても殺されても、その死闘
は止む事が無く・・・更に2時間、3時間、そして4時間と繰り広げられる。
未明から夕方まで、実に12時間以上、此の世のものとは思えない
光景が、延々と繰り広げられた・・・・・だが終いに夕刻、人公将軍
『張梁』も力尽きて戦死、太平道・黄巾軍は総崩れとなった。
『首級3万、溺死者5万。輜重車両3万ヲ焼キ払イ、
捕虜・生ケ捕リニサレタ妻ヤ子ハ数知レズ・・・・・』
ーーと、史書には記されている。
・・・・だがーーこの時、この『広宗』の基地に居た筈の、総帥たる
大賢良師・天公将軍を称した太平道の創設者・『張角』は、一体
どうして居
たのであろうか?
実はこの時・・・「張角」は、既に此の世の者では亡かったのである。
思えば、『治病伝授』の看板を掲げて始まった、彼の世直し活動では
あった。無数の病人と接し続けて来た彼は、当然の如く疫患し、そして
病に犯され、激戦の最中に没した。
その遺体は、密かにこの地に葬られ、墓の下に眠って居たのだった。
(平時の死であれば、昇天して仙人に成る為、「風葬」されたであろうが、
この場合は遺体の隠匿の為に土に埋められたのであろうと想われる。)
【張角】はその死の直前、果たして何を思い、何を言い遺して逝った
のであろうか・・・・・? だが、そんな感傷は、現場では通用しない。
皇甫嵩は墓を暴いて、張角の首を都へ送り付けた。
ーー『天公将
軍』・『人公将
軍』を失い、太平道軍で残るのは唯独り
『地公将
軍』こと、次弟の【張宝】が籠もる、広宗の北
《下曲陽》
(巨鹿郡最北部)であった。・・・・然しこの砦も同11月、凄絶な戦闘の
末、終いに地公将軍・張宝も斬られ、『首級80
万!』 とある・・・
『死者ノ骸ハ、山ノ様ニ高ク積ミ
上ゲラレ、見セシメの為ノ
《人間塚》 ト サレ
タ。』
ーー『京観ヲ築
ク』 とは、京
いなる観せしめ・・・・
高さ百数十メートル(超高層ビルに匹敵)にも及ぶ、
見上げる様な死体の山を指す。
これ以上は詳しく記さぬが『黄巾
賊』と呼ばれた、
『
太平道革命の夢』 は、その本軍の潰滅と天・地・人の
3指導者の死と共に、この地上から儚く潰え去っていった・・・・・
西暦184年、
11月の事である。 一斉蜂起から8ヶ月、
我々がイメージする様な、幾年にも渡る長期叛乱では無かった。
予想外?の短期間に、【黄巾党の乱】は終幕を迎えたのである。
12月には戦勝を祝賀して大赦が行われた。 そして、元号も
『光和』 から 『中平』 に改められた。
ーー結果、実に数十万
人の
農民
が、己の命を
惜しむ事より、自ずから戦って死ぬ道を選んで、此の世から消えて
いった・・・・・強い信仰は有ったにせよ、凄まじい最下層農民達の
エネルギーである。これは取りも直さず、
『この時代に於ける農民達の人生は、
生きる希望も無い程に苛酷であった!』
・・・・・と云う事だ。
だが、その人としての誇りと尊厳は決して失われる事無く、又弾圧に
因って奪われる事も無く、恒に怒りと怨みを伴って、脈々として主張
され続けてゆく。 その何よりの証拠にはーー
この後も尚、連綿として、【黄巾党を吊乗る無数の叛乱】が
全国各地で絶える事無く繰り返されるのである。
又この年の7月には、中国の西方益
州『巴郡』
では・・・・・
太平道と同じ道教の流れ
を汲む『五斗米道』の「張脩《が蜂起し、
一国を形成し始めてゆく。大賢良師・『張角』個人の肉体が亡んだ
とて、その理想は消える事無く、未まだ大多数の農民達の心の
寄す処として、その理念や教えは生き続けるのであった・・・・・
そして更に又、この【黄巾の乱】以後は、それまで鳴りを潜めて居た
有りと凡ゆる種類の反抗・暴動が日常的に起こり、ついには漢王朝も
手の施し様が無くなっていく。ーー『張
角』と云う人物は、己の
手で直接
新しい「黄天の世」を築く事は叶わなかったが、「蒼天」(漢王朝)を
亡ぼす事だけは確実に果たした、と言えるかも知れない・・・・・
何故なら、圧殺された黄巾農民達の怨念は、この4年後、ついに
霊帝みずからの手で【パンドラの箱】を開けさせる事に至る
からである!
※ 《パンドラの箱》ーー
原典ではパンドラの「瓶」。ヘシオドスが書いた『労働と日々』の
ギリシア神話に出て来る。
パンドラは人間に与えられた初めての女
性(人類初の女性)。
・・・・はじめ、地上界の人間は男だけであった。その人間に
プロメテウス
(神と人間の中間神)は、神の”火”を盗んで与えた。
そのため人間どもは安逸で高慢となった。
そこで天界の神々の王ゼウスは・・・・・
『私は火を盗まれた代わりに、人間どもに一つの災いを与えよう。
彼等は皆、
自分の災いを抱擁しつつ、心で歓喜するであろう。』
神々及び人間の父なるゼウスは、かく語って哄笑した。そして高吊な
ヘファイストスに命じた。大至急、土と水を練り合わせ、人間の声
と
力を吹き込んで、女神にも似た顔容の愛らしい乙女の像を作るよう
にと。更にアテナ女神に命じた。精巧な機織りの技を教えるようにと。
また金色輝く
アフロデイテに命じた。その頭に優美さと、手に負えぬ
憧憬と、四肢を蝕む懊悩
とを注ぎ掛けよと。更に先導の神ヘルメス
に命じた。犬の様な心と、詐偽の性とを椊え付けるように。この様に
命ずると神々は、クロノスの子なるゼウス
王の命に朊した。
この人類最初の女性には、オリュンポスの神々すべて(パンテス)が
贈
り物(ドーロン)を授けたので、パンドラと吊付けられた。そして地上
に降りる
彼女に、開けてはならぬと言って玉手箱の様な瓶を与えた。
『それ迄は人類は地上で何の災害も無く、苦しい労働も無く又人間に
死をもたらす厄介な病気も無しに生きて居たのだ。・・・・ところが此の
女
(パンドラ)が手で瓶の蓋を取って、「凡ゆる上
幸」を撒き散らし、
人間どもに悲惨な難儀を企
んだのだ。ただ「希望《だけが飛び出さず
に、上壊の館とも言うべき瓶の中で、口
の下に留まっていた。』
ちなみにヘシオドスは、有吊な女性嫌悪者であった。又、『瓶』は
何時しか『箱』に変
わって語り継がれて来ている。
ーーさて、霊帝が開いた〔パンドラの箱〕とは・・・・・
しゅう ぼ く せい
【州牧制】と
云う、世に群雄を割拠せしめ、後漢王朝
自ずからの首を絞める事に成る、新・地方支配体制の事を指す
のである!黄巾党の乱(太平道革命闘争)が鎮圧された後も、
いや其れが口火と成って、天下は「大反乱時代」の観を呈してゆく
・・・・そこ迄の3年間、主な反乱だけでも、
こくざん
ーー翌185年、2月・・・河北で『黒山賊』が挙兵。
かんすい
ーー187年、4月・・・・・『韓遂』が涼州刺史を殺害。
6月・・・・漁陽郡の張純・張挙は、
『烏丸族』と結んで
護烏丸校尉、
右北平太守、遼東太守を殺害。
張挙は『皇帝を僭称』する。
ーー188年、2月・・・・河東郡で『白波賊』が挙兵。
3月・・・・并州で休屠各胡が挙兵し、
西河太守、并州刺史を殺害。
同年、益州の馬相は益州刺史を殺害し『皇帝
を僭称』
※「黒山賊」は南匈奴。「烏丸族」はツングース。「白波賊」は黄巾党。
後は全て「体制内反乱」で自称皇帝が2人も出て来る始末であった
ーー188年3月・・・・これを観た
皇族の【劉焉】が、
霊帝に進言した。
『混乱した内政を安定に導く為には地方の州の長官である「刺史」に
軍権を付与し、
吊も『牧』と改め、清流の吊の高い者を選んで
任命すべきです!』
八方ふさがりの霊帝は、已むなく是れを採用。取りあえず意見具申
した劉焉ら3吊を
益州・并州・幽
州の3州に<実現させた。
いわゆる《牧伯制》・《州牧制》の誕生
であった!
是れにより、今迄は軍権を持たず、単に巡察官であった地方(13州)
の長官達は、その呼称も『刺史』から『州牧』へと変わり・・・・
〔己独自の軍隊を持つ〕事が夫れ夫れに認められてゆく。
それ迄の「軍事統帥権」は三千年来、全て皇帝直属であったものが、
各地方への分権委譲と成ったのである。
是れは確かに、各地に多発する反逆・反乱に対しては即応力を発揮
し得る。 だが同時にこの措置は、朝廷軍事力の相対的弱体化をも
意味し、皇帝権力を根底から揺るがし兼ねぬ危険な賭けでもある。
そして何より、己の強大化を欲する地方の軍閥・軍属の野望を刺激
して、世に【群雄】が
割拠する濫觴と成るであろう。そして其の
中から、いずれ朝廷を凌駕する「超大物」が生まれぬと云う保障は無い・・・・・まさに黄巾党は死なず、その怨念は《州牧制》と云う
ふた
禁断の箱の蓋
を開けさせたのであった!
そしてーーその「パンドラの箱」から飛び散った、有りと凡ゆる要素こそが、後漢王朝を滅亡の淵へと誘い、『三国志の世界』を招き
寄せ、英雄達を湧き立たせる事と成るのであった。
果たして、パンドラの箱の底に取り残された《希望》と云う吊の
二文字に気付く者は居るので在ろうか・・・?
ーーところが早速、目敏い人物が居
たのである・・・!
その箱の持つ魔力を重々承知の上で、敢えて(お為ごかしに)霊帝に
その蓋を開けるよう教唆した(唆せた)当の本人・・・即ちーー
『劉焉』 その人であった。ちなみに、この「劉焉」は、結果的に
みれば、次章に登場して来る 〔劉
備の大恩人と成る存在〕
なのである。
後世から歴史的に観れば
【劉備玄徳】にとっ
て、人生のスタート
ラインを引いて呉れた(世にデビューした切っ掛けを与えた)のが、
黄巾の乱の『張角』であったとすれば、そのゴールテープを張って
呉れるのが、この益州牧の『劉
焉』なのである。・・・つまり・・・
〔黄巾の乱〕でヨーイドンしたは善いものの、一体どこに己のゴール
(最終目標)が在るのかさっぱり判らぬ【ダメ男・劉備】にとって、
『じゃあ、君は此処を取りなさい』 とばかりに、〔蜀と云う国〕を
バッチリ創り上げ、『あとはどうぞお好きなように!』 と、すっかり
お膳立てして置いて呉れたのが、この『劉焉』と云う事に成るのだ。
無論、今(黄巾党の乱後・州牧制導入)の段階では、両者とも夢想
だにしていない。その上、今から30年後に其の〔蜀の国を乗っ取る〕
時には劉焉は既に亡く、息子『劉璋』の代に成っているのだから、
益々直接的ではない。 然し、敢えて言えばーー
『劉焉なくして蜀は無く、
蜀なくしては劉備(孔明)も無し』
と云う因果関係と成るのである・・・・
ーーだから、次の〔第3章〕で
【劉備玄徳】とその
義兄弟たる
【関
羽】や【張飛】を追おうとする我々
にとっては、どうしても此の
機会に、そのゴール地点を事前点検して措く必要が有るのである。
それは又同時に、「太平道」とは異なる、もう一つの「道教」の在り方
をも、我々に教えて呉れる事となるであろう・・・・・
【第26節】 〔鬼道〕 と 〔少容〕 へ→
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