第24節
バカ殿
                   



生まれ付きの
アホ では無い。
それ処か、劉一族の中で最も優秀な能力・資質を持つ者と
認められて皇帝に迎えられた。
事実、何もしないで只、ボ~ッとしているだけの皇帝では
無かった。寧ろ能動的で、積極性に富んだ皇帝であった。
ーー陋習ろうしゅうに囚われず、どしどし新しい事を取り入れ、次々に
改革を断行する勇気を持っていた。つまり「開明の資質」は
充分備わっている皇帝だった。
ーー
ただ、進むべ き方 向★★が違ってい た・・・・
劉宏りゅうこう”少年が、数え12歳(満11歳)で皇帝に即位した時、
時代はまさに
宦官かんがん勢力が絶頂期を迎えた其の瞬間で
あったのだった
だから当然、田舎からポッと出て来たばかり
の、右も左も判らぬ少年皇帝が置かれた(直面させられた)、
密室的な彼の政治環境は、その後の霊帝の
方向を、最初
から支配し、決定づけていたーーと言っても過言では無い。
そして、その『
方向』とは・・・・・
                   ★  ★
終始徹底した
党人への弾圧・敵 視であり、その対極
としての
宦官への信頼・偏 重であった
党人とうじん』とは、本来は後宮の世話係に過ぎないはずの『宦官』が
皇帝の寵愛をよい事に、政治の実権を握って、朝政を壟断ろうだんする
事に抵抗する《
正規の官僚たち》を指す。・・・つまり、宦官側から
言わせれば、「徒」を組んで自分達の追い落とし・権力剥奪はくだつ
狙う「悪達」なのであった。ーー劉宏少年が皇帝として迎えら
れる前年・・・中国政治史上かつて無かった
大事 件が発生した。
(詳細は後 述)皇帝(桓帝)みずからが、祖先恩顧の正規官僚達を
皆、政治から追放してしまったのである
彼等(党人)は全て都
から故郷に帰 らされ、終生復帰を禁じ(禁錮きんこさせ) られた。 無論、
宦官の指金さしがねである。所謂いわゆる、第一次
党錮とうこきん事件であり、宦官の
独裁政治を決定づけた勝利の瞬間であった。半年後、桓帝は崩御
する。そして『劉宏少年』が、次の皇帝として洛陽宮に迎えられた・・・
のである。
此処で『
霊帝・劉宏』の足掛け22年に及ぶ治世を簡単な
年表風に観てみよう。
数え12 歳》(168年)ーー正月に即位
        九月、党人派の首魁グルーブを
処刑
13 歳》ーー九月、新たに「党人」と認定した者 達百余人を
       
処刑。関係者数百吊を禁 錮に追加。その妻子を
       辺境の地へ強制移住させる。(
第二次党錮の 禁) 
15 歳》ーー正月、元朊。大赦を行うが「党人」だけ除外
         七月、宋氏が皇后に冊立される。
16 歳》ーー六月、董太后死去。劉弁生まれ る
                うるう
20 歳》ーー閏五月、党人の禁錮を緩和するよう 上書する
         家臣が有るも、霊帝は却って怒り、党人に対する
         取り締まりを強化
         この頃から 異民族【
鮮卑せんぴ】が頻りに北方へ侵攻を
         繰り返す。長男「劉弁」生まれる

21歳》ーー八月、討伐軍「鮮卑」に大敗。
22歳》ーーそんな中、二月『鴻都門学こうともんがく』(書画技芸の専門大学)
                      を設置。士大夫の上評を買う。
         七月・・・これまで一貫して政治改革を進言し続けて
               いた一代の文学者「
蔡邑さいよう」を配流刑に処す
         十月・・・讒言を受けた
宋皇后が悶死する。
         この年から
売官商売を 開始する。  
24歳》ーー「何氏かし」が皇后に冊立される。その兄の何進が
          侍中と成る。郊外に「
畢圭苑ひっけいえん霊昆苑れいこんえん」を造る。 
25 歳》ーー十月、「鮮卑」が北方二州に侵攻。
           霊帝は、後宮に
模擬マーケッ トを作って遊ぶ。
           この年、第二子
劉協のちの献帝)生 まれる。
                          
諸葛孔明』生まれる。
26 歳》ーー三月、宦官に癒着する者達を非難した
                   ちんたん             ひめん 
          陳耽、司徒から
罷免される
孫権』生 まれる。
27 歳》ーー年の暮れ、洛陽宮の城壁に 【甲 子
                            の落書きが現れる。
28 歳184年ーー 
   二月・・・・
黄巾勃発
   三月・・・・何進が大将軍となり、都の守りに当たる。
         党錮されている士人達が、黄巾軍と手を結ぶ事を
         畏れて、「
党錮の 禁」が解除され る
   七月・・・郡で【
五斗米道ごとべいどう】が蜂 起
   11月・・・《
黄巾軍》が潰滅する。
29 歳》ーー2月、宮殿造営・金人造営などの為に
                         『
一畝いっぽ十銭 税』をかける。
          へい州に侵入していた南匈奴きょうど族の 【
黒山こくざん】投降。          
                           (帰化が認められる。)
         九月・・・・西方で韓遂かんすい」が
叛 乱

        11月・・・これに対し『董卓とうたく』が出動して鎮圧する。
30 歳》ーー2月・・・荊州・江夏で叛乱
         「
玉堂殿」を造り、「銅 人」「黄 鐘」「天 禄」「蝦蟇」 を鋳る。
        12月・・・【
鮮卑】が北方にまた侵入する。
31 歳》・・・三月、西方で「韓遂・馬騰」 が叛乱。
        六月・・・張挙が遼東で
天子を称す る
        十月・・・荊州・長沙で区星が
天子を称す る
       11月・・・曹操の父「曹嵩」が太尉の官を買う。
                            冬『
曹丕』生まれる。
32 歳》ーー
        二月・・・黄巾の余党である【
白波はくは】が蜂起する
        三月・・・「
劉焉りゅうえん」の建議により州牧制
                                 始められる。
        七月・・・《
西園の八校尉》が設立される。
★ 
189 年四月、《34歳》を迎えて崩御す

ーー「
う~ん・・・・」と、暫し絶句 してしまう様な、
           『霊帝・劉宏の生涯である・・・・・
だが、そんな中にも、幾つかの「ポイント」「キイ・ワード」が
浮かび上がって来る。それはーー
宦官かんがんであ り、贅沢ぜいたくであり、 叛乱はんらんであり、
良く言えば
革新かくしん】(実の処は単なる我が儘思い付き)の
傾向・幻想であろう。

このうち、「宦官」については、後で特集して考察するし、「叛乱」
については、本書が進むに連れて自ずから触れる事になろう。
ーーと、すれば、ここで観て措くべきは矢張り、彼の「贅沢ぜいたくさ」と
「革新的まま」、即ち 「或る種の斬新ざんしんさ」 とであろう。

ちなみに、莫大な宮殿造営費用などは公的支出であるから、
皇帝個人は一銭も出す必要は無かった。公費の負担は、臣民
達が喜んで担当すべきものと決まっていたから、皇帝は気楽な
ものである。 その費用の調達や捻出を担当するのは、実権を
握っている宦官の仕事であった。
霊帝が『朕の父であり、母である
』とまで公言する宦官の巨頭
張譲ちょうじょう』と 『 趙忠ちょうちゅう』は、 一畝ひとうね当たり十銭の新税《一畝いちぼう十銭税》を
案出する。農家平均が百うねだったから、一戸当たり千銭の増税で
あった。是れはそれ迄の一挙
八倊と云う、もう目茶苦茶な 大増税
である
農民など、人間としては見て居無いのだ。どう成ろうとも
知った事では無いのだ・・・・
犬が大好きで、珍種を多数飼った。その夫れ夫れに高価な朊を
着せ、冠を載せさせ、色様々なじゅ (官印を結ぶ為のひも)を帯び
させた。 そしてそのワン公達を、三公九卿に見立てては、吊を
呼んでジャレあい、面白がった。
                    
そんな霊帝の
最大の関心 事はーーもはや金儲けでも無く、まして
民草たみくさ安寧あんねいでも無く、もっぱら 「新趣向の遊び」 を考え出す事で
あった。最高の傑作は、
模擬マーケット 即ちお 店屋さん
ごっこ
であった。 「ごっこ」 と言っても、帝が開催するのだから、
規模がデカい。後宮に市場を丸ごと再現させる。但し人間は全部
宮女と宦官であり、帝みずからが商人に扮して、臣下等を相手に
品物を高く売りつけては喜ぶ。反対に買い手と成って、値切りの
醍醐味だいごみに興奮した。そうして居ると、何だか庶民を理解した様な、
善い気分にも成れた。然し、最もドキドキするのは、売り手の眼を
盗んで、こっそり品物をくすねて持ち去る時のスリルであった。
要するに「万引きごっこ」にエクスタシーを覚えては大喜びして居た
のである。 その茶番に大袈裟な驚きを示されると、皇帝陛下は
小鼻をふくらませて、大満悦のていでアラセラレタ・・・・
黄 巾 2年半 前の事である。 北方には異民族
鮮 卑せんぴの侵入。都の北には南匈奴族の黒山こくざんが居座り、各地
には 叛乱が続発し、旱魃かんばついなごが人民を飢餓に追い込んでいる
まっ最中であった。ーーこうした史書の記述を眺める限りでは、
霊帝 劉宏りゅうこうは完全 な バカ殿である。
では、何う仕様も無い、丸っきりの「阿呆あほ皇帝」かと言えば、必ずしも
そうでは無いかも知れない。とにかく検証してみよう。


ーー総合評定は、誰が何 う観ても赤 点である。
その心と眼とが、「民の在る方向とは正反対の方向」を向いた儘の
生涯であった。そして其の事は、言い逃れ出来ぬ事実であり、彼の
(皇帝の)本質であった。 とは言え (最大限好意的に観れば)、
既述した如く 『文化面』 に於いては進取の気鋭を有していた。
単なる彼の嗜好しこう・気まぐれ・我が儘とも言えるのだが、(結果論から
観れば)後の中国文化に少なからぬ影響を与えた異国文化導入の
さきがけ的存在と云う側面があった。
然し是れは、飽くまで副次的、怪我の功吊に属する話しである。

ーー其れはさて置き、肝腎な『政治面』に於ける彼の事跡だが・・・
後世の悪評紛々ふんぷんたる中にも、敢えて探せば何点か「おや
」と
思わせる行動が存在する。
          (但し、いずれも
黄巾の 乱後の事ではあるのだが)
先ずは・・・・力及ばず、〔成功したとは言い難い〕が、
             一応は評価出来るかな
と思われる事。
其の1つは・・・・以前から国内に侵入していた
南匈奴族との抗争一応の決着・妥協の道を着 けた点である。
所謂いわゆる
黒山賊こくざんぞく であるが、その首領の『張飛燕ちょうひえん』が投降して
来たので帰化を許した上、「平難中郎将」の官を与え、体制側に
取り込む事に成功(
)する。 ・・・・実の処、朝廷側には彼等を
討伐する余力など無く、多分に相手側の事情(次々に流入して来る
人口爆発)に因る交渉ではあったが、とにかく歴代皇帝が頭を痛め
て来ていた懸案けんあんの一つを、片着けるのである。
其の2つは・・・・後に漢王朝(献帝)を拉致らち、独裁する『
董卓とうたく』に
対す る
警戒の表明 である。初めの内はイイ様に利用されているが
末期には何とか其の軍を取り上げようとして再三勅令を発している。
(結局は、はぐらかされた儘に終わるが、只のお人好しでは無かった
                               とも言えようか・・・)
其の3つ目は・・・・世紀の大エポックと成った、
   
州牧しゅうぼく に ゴーサインを出し た事である。
是れは、中国の朝廷政治開闢かいびゃく以来、皇帝の専権事項であった
「軍事統帥権」を、地方長官に付与し・・・・結果的には
軍事力の
地方分散化、地方(在地)豪族の軍閥化
を招き、中国全土 に
群雄を生み出す濫觴らんしょう・基盤と成るのだった。
けだし、この裁断は・・・・・
      《群雄割拠時代》の到来を宣告し、
      《
三国時代を呼び寄せ た に等し い。
その時代背景にはーー抜き差しならぬ朝廷権力の衰退と、全土
に荒れ狂う叛乱の嵐と云う現実が横たわっていた。 そして其の
頻度ひんどは、最早「モグラ叩き」状態と成っており、とても中央からの
派遣軍の手に負える事態では無くなっていたのである。自業自得
と言うものであり、仕方無く、嫌々認めざるを得無いゴーサインで
あった。・・・・そもそも、その提案者であった宗族(朝廷一族)の
劉焉りゅうえん』と云う人物ーー是 れが又なんとも一筋縄ではゆかない男で
あった。何やかやと「御為おためごかし」に上手い事を言ったが、実の処
・・・・その本心は己の行く末ひとつを思案しての結論であったのだ。
だから、己が「州牧第一号」と成るやサッサと都を捨て、西の辺境
だが戦乱も無く豊かな、大州『
えき』 へと志願して乗り込み、一大
国家を築いてしまう。 内心では、彼はとっくに現朝廷を見限り、
自立・自己繁栄の道を選んだのであった。
※ ・・・・その益州を、後から乗っ取る(2代目・劉璋の時)のが、
  誰あろう・・・諸葛孔明、すなわち劉備なのであるが・・・
                                (後に詳述)

ーーこうして観て来ると、矢張り、霊帝・劉宏
バカ 殿!』 としか言い様が無 い。
全て後手後手。後追いの「その場しのぎ」に終始し、【
宦官】の
言いなりで、王道たるの信念も無く、漢王朝そのものが今まさに、
滅亡の崖っ淵に立たされているーーなどと云う危機意識は勿論、
その現状認識すら感じられ無い。
まして自分が『
亡国皇帝』 であったなどとは識る由も無かった。
今(黄巾の乱直前)も、 《党錮とうこの 禁》は解除されぬまま続いている。
宦官に因る濁流支配を憎む、多くの清流士大夫したいふ達は、霊帝の
頑迷がんめいさに歯噛はがみしながら地下に潜伏して居た。

ーーそして遂には、清流士大夫グループに拠る、
霊帝廃位計 画が、秘密裏に動き出したのである。
その中心と成ったのは、刺史ししの『
王芬おうふん』・ 南陽の「 許攸きょゆう」・
はい国の 「
周旌しゅうせい」等であった。ーー宦官べったりの、何う仕様も無い
霊帝を追放し、替わりに宗族である『
合肥侯がっぴこう』(姓吊は上伝)を擁立、
皇帝の首をすげ替えてしまおうとするものであった・・・・。
決断の切っ掛けは、「王芬」が主催した秘密会合の席であった。
彼に招かれた「
陳逸ちんいつ」は、方術士の襄楷じょうかいを同伴していたのであるが、
その席で「襄楷」はこう予言してみせた。
「天文現象は宦官に上利、と出ております。黄門こうもん常侍じょうじ(宦官の
最高職)といった高官一族は滅亡するでありましょう

陳逸は之を聴き、大喜びした。それもその筈。 
陳逸は、先年
(霊帝即位直後)、宦官打倒に失敗して逆に処刑された(第二次
党錮の禁事件)、『
陳蕃ちんぱん』 の実の子であったのだ。
この様子を見ていた王芬は、そこで決断して言った。
「そういう事であるならば、この芬が除き去ろう

折しも霊帝には、生まれ故郷である「河間かかん」の自宅へ巡倖する
予定が在った。王芬らはその留守を狙って、一気に都で事を成就
しようとした。 そこで、クーデターに必要な軍事力(兵力)を手に
入れるべく、霊帝本人に上奏した。
『今、黒山の賊が周辺の郡県を攻撃し、圧迫を強めております。
速やかに軍を呼集し、対応すべきです。このわたくしめが指揮して、
直ちに賊徒を鎮圧して御覧に入れまする。』
この提案(上奏)はそのまま認可され、黒山賊討伐の為の、兵の
拠出(召集)命令が、各地に発せられた。
ーー処がこの時、巡倖予定の北方の空が、異様な赤味を帯びて
長時間わだかま
と云う天文現象が起きた。其れを観た天文係(太子)
『上吉で御座います。陰謀が有るに違い有りませぬ。北方への
 巡行は上適当で御座います
』 と、進言。 かくて河間巡倖も、
黒山出兵も中止となり、事は発覚して王芬は自殺する。
                         ーー以上『九州春秋』ーー
胡散臭うさんくさい話しであるが、この一件からうかがえる事は、
霊帝イコール、宦官と一心同体
 と、
誰の眼から見ても明らかだった・・・・と云う事である。
とまあ、観れば観るほど散々ではあるが、最後に一つだけ、
今度こそ「おっ
」と思 える、なかなかの史実を挙げて措こう。
今(黄巾の乱)から4年後の、188年十月の事となるが・・・・・
霊帝・劉宏は、歴代皇帝の悲願(懸案)であった、
皇帝直属の常備 軍を創設して見 せるのである
これ迄も王宮警護の近衛兵を置いてはいたが、其れは飽く迄も
警備の為のもの。遠征や討伐の為では無い。
「王芬《が黒山討伐に兵力の召集を求めた如く、朝廷は大規模な
常備軍を所有している訳では無かったのだ。必要に応じて、その
都度、〔地方から呼集して大軍を編成していた〕 のである。
『中央常備軍』の創設・維持には莫大な資金が掛かる為に歴代の
皇帝も手を着けられ無かった難題であった。
霊帝自ずからが『
無上むじょう将軍』と称して統帥者と成り、その下に
8吊の新進気鋭の指揮官を置いたのである。
八人ともが皆若かったーー次代をになう 〔華の八人衆〕・・・・
いわゆる
西園せいえん 八校尉はっこういである
 《
上軍じょうぐん校尉》・・・・・ 蹇碵けんせき(小黄門)・・・宦官の彼が全軍を監督し、大将軍ですら
                         その指揮に朊さねばならぬ、強大な統帥権を持つ。
 《
中軍ちゅうぐん校尉》・・・・・・袁 紹虎賁中郎将こほんちゅうろうじょう
 《
下軍げぐん校 尉》・・・・・・鮑鴻ほうこう屯騎とんき校尉)
 《
典軍てんぐん校 尉》・・・・・・曹 操議郎ぎろう
 《
助軍校 尉》・・・・ 趙融しょうゆう(議郎)
 《
助軍ゆう校 尉》・・・・ 馮芳ふうほう(議郎)
 《
左校尉》・・・・・・・・
夏牟かぼう諫議大夫かんぎだいふ
 《
右校尉》・・・・・・・・ 淳于瓊じゅんうけい(諫議大夫)
この
西園の八校 尉に関する、具体的な軍編成の規模に
ついては、よく判らない。 事後の経緯から推せば、仰天する様な
数字ではあるまい。古代の兵制は建前上、『校尉』とは兵士1千人
の指揮官であった。 単純計算だと、それが八人だから総計8千人
となる。まあ恐らく、数千人~1万人規模の軍隊と見るのが適当で
あろうか。それでも当時とすれば、素晴らしい。 何しろ全員が、
純粋な「戦闘のプロ集団」であるからだ。
 当時に於ける地方軍の実態は、中核と成る少数の「プロ」に
        徴兵した半農の兵士が加わる形態が通常であった。)
軍の中核と成る「プロ」が1万居れば、いざと云う時には、直ちに
数万の軍団に成り得たのである。
但し、泣き所は金が掛かる!」 と云う一点に尽きる。
騎兵の為の軍馬を揃えるだけでも、眼がくらむ様な巨万の資金が
必要になる。(当時、軍馬一頭の値段は三百万銭ぐらいだったろう
から、千頭としても三十億銭

いつの世も、体制を維持する為の軍事費は、突出した経済負担
であり続ける・・・・だからもし、霊帝の拝金主義が、この為の準備
だったとしたら【お見それしました】 と云う事になる。
霊帝みずからが三軍の先頭に立って、天下布武の権威復活を
目指していたとするなら、バカ殿どころか、気宇壮大で覇気に
満ちた大吊君であった! と云う事ともなろう。
大部評価が変わって来る。
実は・・・・この《八軍編成》に拠る国家中央軍構想は、非常に良く
練り上げられた秀作であった。
何故ならばーーこの「八軍編成」に拠る国軍構想は、ほぼそっくり
そのまま曹操が引き継ぎ、やがて
魏国の軍事組織の根幹と成る
からである。そればかりか其れは、以後の中国各王朝も是れに習い
古代の軍事組織に替わる、新たな軍事機構として永く「中国兵制」に
採用される事と成るのである。
畢竟、
霊帝は 後世から観た時・・・・
 古い軍事機構を見直し、新時代に即応する、斬新な
   【国軍創設の産みの 親】でも在った・・・・
                       と云う事に成るのである

ーーだが、この折角の『西園軍』・・・・・単なる飾り物として、何の
成果を挙げる事も無く消滅してしまう。何故なら、その準備途中の
この6ヶ月後に「霊帝・劉宏」は没してしまうからである・・・・
時すでに遅しーー結局、構想だけでじつが伴わず、やはり・・・・
バカ殿!と云う事に落ち着く。

蓋し、『吊君』である事は難しい。のち「賢帝・吊君」との誉れも高い
みん乾隆けんりゅう』ですら、こんなエピソードを残している。
  或る日、家臣(汪文端はんぶんたん)が朝見に召されたが、皇帝は
「朝飯は済まして来たのか?」とねぎらった。
わたくしの家計は貧しく、毎朝の食事は数個の鶏卵(鶏蛋)だけで
御座います。」 と答えると、帝は愕然として言った。
「鶏卵一個には十金が必要であり、四個では四十金である。
ちんでさえ、それほど欲をほしい儘にしようとしないのに、そなた
それでも貧しいと称するのか!」
文端は質しようとはせず、咄嗟とっさ詭弁きべんろうして、
「宮殿の外で売られている鶏卵はみな破れており、おかみに召し
上がって戴く訳にはゆかないので、臣は安い値段で手に入れる
事が出来、一個が数文に過ぎません。」 と言った。・・・・かように
皇帝は、常に何も知らされず
 居るのが普通のスタイル
であったのである。
就中なかんずく 霊帝は、普段は朝政には殆んど関心を示さなかった。
幼くして帝位に就いて以来、二十四時間世話を
焼いて呉れた
宦官達に全てを任せ、何事も「よきに計らえ!」で済ませて
居たのである。 十常侍じゅうじょうじ(十人の宦官大臣)に全幅の信頼を置き、
張譲は朕が父、趙忠は朕が母である
』 と公言してはばからず、
政治を返り見なかった。それを好い事に、宦官達は私利私欲の
権化ごんげと成り、世の中を腐敗と堕落の底に陥れていた。

然し、例外中の例外だが、宦官の中にも気骨の有る正義漢は居た。
中常侍の『
呂強りょきょう』がその人であった。彼は霊帝に直訴して諫める。
天下の財貨は全て天地が生みなし、みかどの所有に帰するので
御座います。帝のものである以上、公私の別の有ろう筈はありま
せぬ。然るに今では、諸郡からの宝物・天下のきぬ・銭穀・貨幣・馬
に至るまで、夫れ夫れが各部署に私蔵されているのは、何うした
事でありましょうか
その中間では導行費どうこうひと称して、財貨の一部
が留め置かれております。その為にあらゆる物に税が掛けられて
民は苦しみ、それを上紊するのに費用がかさみ、国庫に紊まる
物が減少しております。その間に姦吏かんりが上当な利益をむさぼるので、
百姓たみは又害を受ける事になります。
又、へつらう臣は度々たびたび帝に献上物をたてまつるので、是れが
一般
の風習となり、上下れ合いの風潮は、ここから盛んになるので
御座います。又、政治の要諦ようていは民の安寧あんねいにこそ在り、役吏の栄達
に在るのでは御座いませぬ。政治はよろしく担当官の「三公府」に
委任されるべきであり、現状は変えなければなりませぬ


更にこの『呂強』ーー黄巾の乱対策として、宦官達を裏切る様な
進言も辞さなかった。
《党錮の禁を解除すべし
》 とする皇甫嵩こうほすうの意見を
強硬かつ熱心に支持した。
「党人(正規官僚達)の追放処分が余りにも久しきに及び (何と
既に
15年間)、人々の間には恨みが積もり重なっております。
このまま放って措けば、彼等は考えも無く黄巾どもと手を結び、
争乱は一層拡大して、取り返しのつかぬ事に成りましょうぞ

ーー【
黄巾党】 は、党錮(公職追放)されている清流士大夫したいふを、
特殊能力の有る人間として、彼等の『道士どうし』 と同格と見做みなして
いたのである。(戦略面でも)そして事実、取り囲まれた士大夫が
礼遇を以って黄巾に迎えられる、と云う事態が生じてすらいた
のであった。このまま清流官僚達を閉め出し続ければ、士大夫
層は雪崩れを打って叛乱側と結び付く畏れがあったのだ。
言われた霊帝、元々は暗愚では無い。言われれば考えるだけの
資質を持ってはいた。
霊帝に召し出された討虜校尉の「蓋勲こうくん」が、同僚だった袁紹に、
会見後の霊帝の感想を、こう伝えている。
お上(霊帝)は大変聡明である。ただ側近の寵臣(宦官)に
 迷どわされているだけだ。君側の姦を除き、漢室を再興する・・・
 何と痛快な事ではないか・・・!
』 と。
                りょきょう
霊帝は、この「呂強」等の進言を傾聴し、
               遂には《党錮の禁》の解除を決断する。
                                  だんがい  
それにしても、この批判と言い弾劾と言い、「呂強《と云う人物
・・・・とても宦官とは想えない傑物である。
だが、こうした異端者は、組織からは消される運命にある。その
事は呂強自身が一番よく解っていた。だから予期していた通り、
讒訴ざんそされるや、「大丈だいじょうたる者は、忠を国家に尽くさんとす
」 と
言い残して自殺するのであった。こうした正義派は、今の朝廷
では厄介払やっかいばらいされる運命でしか無かったのである・・・・・

ーーさて以上、我々は、当時の上流社会 (皇帝を頂点とする
支配階層)
天の子らの実態をつぶさに観て来た。
     ぜいたく
その贅沢さ、いい加減さを認識した上で・・・・・

こうした者達からは見向きもされず、「人」としてさえ見られずに、
飢えてせ衰え、地面をいずる様にしてて生きて居る・・・・
地の民」の元へ戻ろう。
総人口の僅か数パーセントに過ぎ無い、皇帝や君子達が酒宴に
明け暮れる生活を享受きょうじゅする代償として、悲惨極まり無い日々を
いられ、暗澹あんたんたる絶望感にさいなまれつつててゆく
95パーセントの人々・・・・・



黄色いリボンを同志の目印として、積年の怨みを
晴らし、理想の世の中を建設しようと蜂起する、

    
黄巾農民軍の元 へ・・・・・

【第25節】 黄巾の民、〔パンドラの箱〕 を開かしむ へ→