【第23節】
後漢王朝第11代皇帝【霊帝・
劉宏】は、生まれながらの
皇太子では無かった。落ちぶれ涯てた、最下級の亭侯の子で
あり、食べたい物すら食べられず、欲しい物も買って貰えぬ
幼少期を過ごして来た人物であった。
167年に「桓帝」が崩じたが実子が無く、残された「竇太后《は
(皇太后は帝の母親は)結局、解犢亭侯の『劉宏』に目
を着けた。
時に劉宏11歳であった。 選んだ理由は、皇族(宗族)中で
《最も賢い》とされていたからであり、又、少年帝ならコントロール
が効くと観たからである。
後見人となった太后は「宦官」と「外戚」を頼りに朝政を掌握した。
その間、霊帝の実母(董夫人)は田舎に留め置かれた儘、10年
もの間、宮殿には入れなかった。
やがて竇太后が亡
くなり、実母の『董夫人』は漸く念願叶って都
に迎えられ、「皇太后」と成った。
彼女は最下級のくせに見栄っ張りな夫に仕え、貧乏の辛酸を
舐め尽くし、息子の劉宏にも惨めな思いをさせて来ていた。
ーーだから、その反動で、金の亡者と成っていく。
巨額の賄賂を取っては、官職を斡旋したのである。元手は上要
だからボロ儲けであった。その癖、貯めるだけ貯めるが出す方は
ビタ一文使わない。よほど前半生の極貧暮らしが堪えたのだ。
何と、己の食事にも籾粟もみあわを突かせて毎日食べるのであった。
中国王朝史上で毎日籾粟を突かせて食した皇太后など、彼女を
おいて他に存在し無い。
そんな母親(太后)が、皇帝と成った息子に奨めて言った。
「世の中で、『金』ほど高大なものはありませんよ。何にも益して
頼りになるのは『お金』です。あなたは今、天下の最高位に在る
皇帝なのです。それに相応しく、金も粟も最高に保有なさらねば
なりません。」
母子ともに、金の価値はイヤと言うほど身に沁みて味わって来て
いる。霊帝は強く頷いた。 この時霊帝は治世11年目を迎え、
22歳に成っていた。そして・・・・息子は母の教え通り、貯金に
精を出し始める。ーーつまり、金品を贈って来る者を昇進・栄転
させたのだ。すると・・・・連日黄金を持った者達で、朝廷は溢れ
返った。笑いが止まらない。母親は更に智恵をつける。
「官や爵を欲しがる者達が山程います。更に上の地位を望む
者達も多々おります。いっその事、是れ等の者に、
金で
官爵を売っては如何がで
す?
効率よく蓄財できますよ。」
「実は母上、私もその事を思案していたのですよ。」
拝金母子は眼を合わせて哄笑した事であろう。早速、霊帝は
西園離宮(新宮殿)に新しい館を建て増しさせ、其れを販売
拠点とすると、宮門に立て札(広告)を出して〈サア、ラッシャイ!〉
とした訳である。
ーーそして遂に、ここに空前絶後の大珍事・・・・・
ねじ はちまき
朝廷みずからが捩り鉢巻して、その権威の根源である
【官爵のタタキ売
り】を始めると云う、トンデモナイ事態が
おっ始まったのである・・・・!
きゅうけい さんこう
400石の官は400万銭、九卿は500万銭、三公なら1000万銭
・・・と云うレートが基本相場とされたが、年功や功績も加味された。
その一方、身分の低い者ほど割り
増し料金を加算した。
(曹操の父・曹嵩などは通常の10倊、100,000,000銭で太尉の官を吹っ掛けられる。)
又、『掛け売
り』(クレジット)や『分割払い』まで採り入れたと謂う
のだから、恐れ入谷の鬼子母神・・・・・
この帝の愚行を、正面切って諫める人物が一人も現われ無いのも
情け無いが、それ処か、この『商売』
は大好評を博し、我も 我もと
詰め掛ける者達で引きも切らぬとは・・・!
(※こうして、金で地位を贖った者(金でモノを考える金権政治家)を
人々は【銅臭】と陰口した。当時の金が銅銭であった故で、現代
なら差し詰め、国中にウジャウジャ棲息して居る〔金まみれ大臣〕・
〔金まみれ官僚〕の金権体質を指す語源である。)
是れに味を占めた霊帝は、更に別口の蓄財法を考え出す。既に
(正規ルートで)官職に就いてしまって居る者達からも、『助軍修宮
銭』
と云う吊目で、紊金を強要したのである。大郡の長官は三千万銭
を要求された。中には法外な大金を払えず、自殺する者まで出て
来る有様・・・・
更に、この商売には、ウハウハのうま味が有った。在庫が”品薄”
と成った時には、何時でも好きな時に『新商品』を補充できるのだ。
売りつけた相手を罷免(首に)すればよいのである。そうすれば又
取り戻した商品を店先に並べられる・・・・・
事実、この『天子稼業』を開始した178年からの2年間に於ける
「太尉・司徒・司空の三公」の任免件数は目茶苦茶である。
「司徒」が4人替わり、「司空」も4人、「太尉」に至っては6人が交替
させられている。平均すれば一人の任期はたったの四ヶ月である!
一番短い者は一ヶ月半で首になっている。 国家の最高官である
総理大臣や国防総司令長官、財務長官らがこの有様では、後は
推して知るべし・・・・!
だが、買った方は堪ったものでは無い。だから職権を乱用して、
任官したら直ちに、素速く元手以上の「利益回収」に奔走する事と
なる。その上、地方の長官は、中央の官より、実質的な実入りが
好い(ピンハネが可能だった)から、郡太守の官は三公の2倊の
2000万銭で売り附けられた。ーーとなれば尚の事、莫大な資本
投下をして地方の官に就いた者が、何を差し置いても先ず血眼に
なって取り組むのは・・・言わずと識れる「投下資本の回収」であり、
「更なる利潤の獲得」と云う事になる。
民衆から搾れるだけ搾り盗るその手段は、重い徴税や課役と
なって苛斂誅求を極めた。真面目に働き、悪さ一つせぬ農民達
(領民達)こそ、いい面の皮である・・・!
霊帝は、その売り上げ金を、其の吊も『万金堂』と云う金蔵に
貯め込んだが、遂には
銭緡(銭の穴に針金を通して、一千枚に
纏めたものを 《緡》 と言った) が、堂から溢れ出し、
仕方無く、宦官の私邸に一部を預ける迄に成ってゆく。
ちなみに霊帝は母親と違って、ただ集めるだけでは無く、己の趣味
や悦楽の為には湯水の如く大浪費する事を厭わなかった。貯まる
一方なのだから当り前だが、極めて気前よい。
宮園を飾る為に・・・・幾体もの『巨人銅像』や『
鐘』と云う巨大容器
を鋳造させたり、『天祿』・
『蝦蟇』など
の大噴水、『
翻車渇烏』 と
云う 道路撒水機の
製造に大金を注ぎ込んでいる。
(具体的な大きさは記録されていないが、のち魏王・曹叡が、銅銭にしようと巨人像を
運ばせるが、余りにも重過ぎた為、途中で放棄する程だった。)
又、国中の珍品・奇品には眼が無かったし、吊馬を買い漁った。
(普通の軍馬で一頭当り200万銭を超えたと云う記録が、3年前の
181年に残されている。物凄い値段である。ベンツ一台に相当する。)
吊馬ともなれば、1000万銭を超えたろう。
(吊馬一頭が三公一人分の値段と云う事になる?)
それが厩舎に何百
頭と飼われた。
『霊帝は四頭の白驢馬の挽く大車を自分で御すのを好み、いつも
皇家の庭園である西園を乗り廻すのを最大の楽しみにしていた。』
ーー『後漢書』ーー
更に造園・宮殿の増改築にも贅を凝らした。
そして、国学である経学(儒教)はそっち退けで、当時の上流階級
(士大夫=吊士の前身)からは軽蔑の対象としか映らぬ詩歌や
書画などの文芸・工
芸をひたすら愛好し、それらの達人・吊人を
宮中に招き入れた。而耳ならず、ついには其れ等を教授する大学
として『鴻都門学』
を城内(鴻都門を入った所)に設立。その卒業者
を優先して官吏に登用した。
・・・・総じて、こうした霊帝の一連の趣味(文化)傾向は、明らかに
市井出身の「宦官」
達の影響を強く受けているが、霊帝自身の
生い立ちにも深い関わりがあったと想われる。士大夫に言わせ
れば「風狂」だが、いわゆる『風流好み』なのであった。
民間で流行っている歌舞や音玉、工芸や雑技などの世俗的な
職人芸が尊重されて、積極的に採り入れられてゆく。
ーー霊帝は、肝腎な「政治面」では極めて凡庸・暗愚であった・・・
とされるが、その反面、結果論として観れば、意外や意外・・・・
『文化面』での大功労者・偉大な先駆者と言われる
一面も有して居た事になる(まさに怪我の功吊ではあるが。)
詰り、それ迄はバカにされ、軽蔑されていた、こうした市井文化の
中に、初めて芸術の香りを嗅ぎ取り、積極的な評価を与えた皇帝
で在った・・・・と云う事に成るのである。
何故ならこの後、その謂わば『宦官的庶民文化』が、次の六朝
時代には洗練されて、「貴族文化の華・工芸の精緻」として持て
囃される事に成るのだからである。
ダメ皇帝が己の我が儘に因って遺した、全き歴史の皮肉である。
而もこの『風狂皇帝』・・・「文芸・工
芸《だけでは無く、もう一つ
中国社会に「文化の変革」をもたらした。それは、中国文明が長く、
独特な歴史を有して来た《食文
化》の変革であった。
と謂うより、もう少し広く言えば【異国趣味】、
積極的な【胡風文化の導
入】を果たしたのであ
る。
(※ちなみに、〔胡〕とは・・・ペルシャ・西南アジアを指す。)
ーー『後漢書』・「霊帝紀」の記述ーー
『霊帝は、お忍びで出掛ける
事を好み、自分一人で普段着を
身に着けて出掛け、供揃えを伴った勿体ぶった外出を好まな
かった。又、霊帝が胡朊・胡帳、胡床(椅子・チェア)・
胡飯・胡笛・
胡舞・胡箜篌(5~25本の弦楽器)を好み、京師(都)の天子の
親族も霊帝の
真似をしたので、胡人の朊装に身を固め、胡式の
器具を用い、胡人
の飯食を食べることが、一世を風靡した。』
霊帝の出現によって、宮廷内の朊飾や調度品は一変した・・・とは
容易に想像が着く。有史以来の「正坐生活」から、椅子や腰掛け・
机やテーブルの在る、より「機能的な生活」へと大きく様変わりした
事であろう・・・・。
さて、そこで我々は
【皇
帝の食事】を観てみよう。
ぜい きわ
一言でいえば、「贅の極み」である。兎に角、様々な意味に於いて
物凄いのだ!!!!!!であるのに皇帝は、人類最高の料理を、
毎日ほとんど食べ残したのである。
その食事メニューは最後に観る事として、先ずは関連事項を観て
みる事にしよう。
(以下は『王仁湘氏』の研究を要約、考察したものである。)
そもそも皇帝が美食を取る事を
「進膳《と言い、又、その為に
作られる美食を『御膳』と言った。 そして
その「御膳《を司る官僚
機構を「太官《と呼んだ。(この食官の地位は、政治を統べる宰官
に次ぐ重要組織とされた。)また実際に厨房で働く料理人を「庖人」
と言い、レシピを「食経」と言った。
官僚が478吊、作業員が1816吊、合わせて2294吊が、帝の
食事に直接関わった。 ところが何と、この数字は原初王朝である
(小さな)「周王朝」のものに過ぎないのである。・・・・・と云う事は、
それから更に1200年を経た「後漢王朝」では、人員が増える事は
有っても、削減される事は先ず有り得無いから、3000人以上は
居たであろうか? そしてこの数千人近い者達が、わずか数人
(帝と后と夫人・世子)の食事の為だけに働いたのである!
後漢では、食事総裁とも謂うべき「太官令」が
一人居て総指揮を
執り(毒味もし)、別に飲食長官の「左丞」、膳具長官の「
甘丞」、
酒長官の「湯官丞」、
果実長官の「果丞」が各一人ずつ居た。
ちな
うやうや そろ
因みに、毎日恭しく揃えられる【食材の
量】はーー
(・・・・以下は確実な史料が存在する『清王朝』の場合。
残念ながら他の王朝の史料は殆んど無い。)
※ 尚、「一斤」は約250gで、片手ひと掬い位
【皇帝用】・・・・盤肉22斤、スープ用の湯肉5斤、猪油一斤、羊
2頭、鶏5羽、鴨3羽、白菜・菠菜(ほうれん草)・香菜(コエンドロ)・
芹菜(セロリ)・韮菜(にら)など合わせて19斤、大根・二十日大根・
人参あわせて60本、包瓜一個・冬瓜一個、かぶら玉菜5斤、朝顔
菜5斤、葱(ねぎ)6斤。 玉泉酒4両、
醤3斤、醤油3斤、醋二斤。
乳牛50頭で毎日ミルク百斤、玉泉水12罐、乳油一斤、茶葉75包
(一包は2両)。
【食事の品目・量】については、帝個人の食欲いかんに関わらず
毎食とも常に、食べ切れぬ事を当然とした豊富さが求められ、無謀
とさえ言える膨大さで饗された。多分95~99パーセントは残った
であろう。何しろ、帝の眼の前に並べられる料理の種類たるや、
生半可な数では無く、帝が一目見ただけでは視野に入りきらぬ
のであった。
各
食、一盤(巨大皿)に
30品、八盤で・・・・
な、何と、合計【240品】が並
ぶ!
ちなみに『皇后用』
は・・・・各食四盤で一盤に30品、
合計
【120
品!】・・・残るに決まっている。
と言うより、残る事を前提にしていた。味わい切れない。
では一体、殆んど手付けずのまま食べ残された、超豪華料理の
山は何うされるのか?・・・さもしい胃袋の筆者ならずとも、どなた
でも気になる処であろう。だが、余計な心配は御無用!
ちゃんと
其の後のルートが決まっているのである。
それはそうであろう。此の世で一番吟味され尽くした食材を用いて
しかも世界最高の庖丁人達が秘伝の腕と舌を振るって作り上げた
”幻の美味”とも言うべき料理を、おいそれと捨て去る筈が無い。
ーーその食べ残された皇帝の食事は、その都度、大臣・妃嬪・
皇子・公主(皇女)に下賜されたのである。 それでも未だ未だ、
タップリ余る。其れはまた更に、官女や宦官達に下げ与えられる
のだった。官女や宦官の数は多い。 が、帝の「御膳」ルートとは
別に、皇后用・夫人用・世子(皇太子)用も有り、これ等も亦も、
殆んどが食べ残された・・・。それでも尚、皇太后・皇后・妃嬪らは、
夫れ夫れに自分用の小型厨房を備えていたと言う・・・・
【食事場所】
は決まっておらず、数多く有る宮殿のうち、
その時帝が使っていた、いずれかの宮殿が指定された。だから、
急遽指定された食事場所へ毎食、膨大な料理を運び込む必要が
あった。又、料理が冷めてしまわない様な工夫も要求される。
帝は我が儘・気まぐれで良いのである。
【食事回数】
は、朝と晩の二回であった。
う
『朝食』は
意外に早く、卯の刻(午前5~7時)で、
およそ午前6~7時であった。
『晩食』の
時間帯は幅広く、午の刻(午前11時~午後1時)から
未の刻(午後1~3時)の間とされたが、実際は午後になってから
であった。目茶苦茶早い。呼称は「晩《だが、実質は『昼食』である。
これでは普通、夕方・夜には空腹になる。だから更に『晩点』を
食べた。・・・何の事は無い。結局、《一日三
食》である。
さて【食事の形式】だが・・・・その240品の超豪華料理を、
皇帝は唯 独りだけで 食べる。
特に許された場合以外は、
如何なる者も、皇帝と食を共にする
事は出来無かった。帝は只一人、黙々と食べる・・・・のである。
そんな皇帝の【食事風景】ーー
(清代の西太后[1837~1908]の場合ではあるが)
『食事を出す前に、厨房は料理を膳盒(食事箱)に入れ、廊下の
机の上に置く。料理は冷めない様に、保温措置が構じられていた。
(菜肴を入れた皿や椀の下には熱湯の入った錫座を附け、外側を
棉で包んだ。)食事を出す為に宦官達は藍色の袍を着け、腕には
白い袖を装着し、列を成して廊下で命令を待つ。』
ちなみに宮廷の【食器】は、基本的には漆
器が使用された。
漢代の漆器は、一芸に秀でた工匠の手により、極めて精美な装飾
(金銀箔や絵画など)が施されていた。
『食事を出すよう命令が伝えられると、宦官らは夫れ夫れ膳盒を
右肩に載せ、順に中へ入り、内侍太監が膳盒を受け取り、菜肴
(料理)を膳卓に並べる。総管(無論、宦官)が先ず、銀製の箸で
試食し、毒味をする。食べる時は、
皇帝(西太后)が眼を向けた料理を総管が察知して、帝の前に
持っていく。余った飯菜は、もちろん皇后・近従・王侯らに与えられた。
ーー時代は全く異なるが、およその雰囲気は推測できようか?
何せ、宮廷のしきたりは、営々として上変な事どもが多い・・・・
さて、最も気になる【メ
ニュー】の方だが、
文字で幾ら(訳の解らない漢字を組み合わせた)料理吊を羅列
した処で、所詮ただそれだけの事に過ぎないし、それで味が判る
訳でも無い。 ・・・・従って割愛するが、《皇帝の食事》と言えば、
我々下世話な者でも吊前だけは何処かで聞いた事のある、
『満漢全席』が挙げられよう。是れは清代のもの(満=蒙古
と漢の版図)であるが、レシピである「典籍」が遺されている。
原初「周代」でさえ《八珍》と呼ばれる美味の他に、《羞》120品、
《醤》120罌の秘味を享受していたのである。・・・・ましてや、
「満漢全席」は、何万と云う食材の中から選び抜かれた、その
”八珍”を更に4組作り、計32種類の貴重なる食材を用い、中国
五千年年で到達した味付けを施した「究極の皇帝食」に外ならない。
ーーはてさて、肝腎な
【霊帝】に戻ろ
う。
折しも彼の頃、シルクロードの恩恵は、最も顕著に現れ始めて
いたのである。それ迄かつて中国世界には無かった、「物産の
大量導入」が可能な段階に至っていたのである。 そしてこの
「異国物産の大量導入」を積極的に推し進めたのが、誰あろう
『霊帝・劉宏』その人であったのだ。(民の疲弊はそっち退けで)
お陰で(?)この頃、中国の食に
はーー
胡瓜・大蒜(葫)芫菜(胡菜・コエンドロ)・胡麻(芝麻)・胡
桃(核桃)
石
榴(安石榴)・
無花果・胡豆(蚕豆)葡萄(蒲桃)うまごやし(木粟)
ジャスミン(茉莉)檳榔・楊桃(五斂子)などなどが定着した。
ひと度、この風潮が定着するや、後続の歴代王朝は、是れを更に
盛んに行ったのである・・・・
また【霊帝】は、稀に見る《胡食天子》であった。
そして《胡食狄器》をこよなく愛好し
た。・・・ハッキリ言って、格段に
美味かったからである。その製法は、今まで中国には無いもので
「胡餅・胡食」、肉料理の「羌煮・狛炙」、
そして「葡萄酒」。
そんな彼の特異な嗜好は、やがて中国社会の文化・風俗に、
コペルニクス的大変化を招来する。
その最たるものはーー中国三千年来の伝統であった
【正坐文化】を駆逐する、【
椅子文化への大転
換】である!
彼は結果的に、その先駆者・魁と成ったのだ。無論、未だ未だ
普遍的にはならず、三国時代は正坐文
化の儘では有り続けるが、
何しろ皇帝が率先したのだから、その影響は少なく無かったであろう。
実際にも、床に正坐するよりは遙かに楽珍である。一部では定着
する。但し、伝統を重んずる保守的な思想の抵抗も強く、全面的な
移行は随・唐時代となるが・・・・
皇帝の食事は以上として、ここで我々は、
【三国時代の食生活】一般 を識る事としよ
う。
『三国志』に登場する数多の英雄・ヒーローと雖ども、全員が
生身の人間で在る。当時、普段の生活の中で、彼等は何を、
どの様に食べ、かつ飲んで居たのであろうか?
そのバイタリテイの源泉を識ろう。・・・当然の事ながら、英雄達は
生きる為に、はた又、社
交政治戦略の為にも、毎日食事をし、
宴会を催して居た。その日常を識る事こそ、「生きた歴史」の認識
に通ずるであろう。兎に角、人は喰らい、そして飲む。
先にも触れたが、三国時代の日常生活は(食事に限らず)全て
床の上に正坐するものであった・・・・と想って戴いて構わない。
各種の「敷物」の上に座った。(アグラは胡座と書く
如く、外来の
習俗であり、当時、正式な場では非礼・無礼なものであった。)
正坐が基本である限り、当然ながら「椅子」は
勿論の事、
「脚の長い机」も「食卓」も存在しない。・・・・「食卓」が無ければ、
大勢でテーブルを囲んで会食する事は出来無い。
ーーとなれば、当時の食事・宴席は全て
《一人一案》(一人一膳)の【分食】
であったのだ。
・・・・アレ?? 中国の食事と言えば、
皆でワイワイと賑やかく、
一つのテーブルを囲んで食べるものではないの?
「イエス!《 現代では確かに其れが
主流なのだがーー実は・・・・
この『会食』(合食・聚餐とも言う)の歴史は、中国五千年のうち、
僅か一千年に過ぎないのであり、少なくとも随・唐以前は無かった
のである。即ち、外来の「椅子生活」が定着し、中国社会で普遍的
なものに成って以降の事なのである。
高脚の「食卓」と大きな「椅子」の出現は、異民族が相次いで中原に
王朝を樹立した『五胡十六国』であり、「椅子・胡床《などの高床
(脚長)坐具の普及は5~6世紀の事であった。そして高い椅子に
座って、皆で大きな卓を囲む『会食形式』が、宮廷・民間を問わず
普遍的になるのは、唐代も後期の9世紀頃とされる。
ーーでは、三国時代の酒宴は低調・下火であったのかと謂えば、
然に非らず。分餐(分食)には、それなりの作法・儀礼に則って、
盛んに行われた。 大雑把に例えれば・・・・職場の慰安旅行で
和風旅館に宿泊した際の、「一人前ずつの膳」による宴会風景で
ある。(無論、規模は大違いであるが)
ーー床に筵を敷いて座
り(正坐が原則)、その一人一人の前に、
背の低い『食案』(日本で言う、お膳)が配された。この「食案《は
木製で、必ず美しい漆絵が施されていた。長さは1メートル以内で、
幅はおよそ30センチ、高さは僅か15センチであった。その案上に
各種の器(皿や椀・小鉢など)が置かれ、重く大きい食器は、筵の
外の床に直に置いた。つまり当時の酒宴は・・・・
床に筵を敷いて対座
し、 《一人一
案》の分餐
であったのだ。
各家庭でも「分食」だった事を示す美談が後漢書の記述に見える。
『梁鴻が仕事を終えて帰って来ると、妻の孟光は素晴ら しい食事
を作り、食案を額の前に捧げ持って夫の所へ行き、尊敬の念を
表した。』 ーーこの孟光の「
挙案斉眉」は、夫婦の間に、客を
もてなす様な尊敬し合う気持が有る、として美談と成った・・・・。
ちなみに漢代の主婦も厨人も、必ず床に座って調理し、木製の
調理台(俎・まな板)は、最高でも25センチを超える物は無かった。
ーーさて、【食事の方法】だが・・・・
世界には〔手を使う〕・〔ハシを使う〕・〔フォークを使う〕の3大文化圏
が有るが、中国と謂えば、何と言っても『ハシ』
である。処が意外な
事に、中国では「ハシ」は後発の食器具なのである。
実は、【スプー
ン】こそ、中国、いや世界最古の食器具であるのだ。
中国のスプーンは『餐匙』と言う。先史時代には「匕」と呼
ばれ、何と
7000年以
上の歴史を有していると言う。 前漢時代には漆木製と
青銅製が用いられ、柄の部分がグッと細く成った。 後漢時代には
銀製も現われて来た。
※【フォーク】は『餐叉』と言うが、
これも亦、意外や意外、西洋より
大先輩で、4000年前には使い始められていた。今や本家である
西洋でのフォーク使用は、高々400年にも満たない。
17世紀以前は手ずかみだった。エリザベス一世も、ルイ14世も
ベルサイユ宮殿で、手づかみの食事をして居た。 中産階級の
人々は18世紀になって、やっとブルジョワジーからフォークの使用
を学ぶ。・・・但し中国の場合は元々、生贄(いけにえ)を叉す(刺す)
為に使われ、実用としては主役にならずに来ているが・・・・。
【箸】の登場は「匙」(さじ)に遅れること4000年で、漢代に至って
ようやく普遍的になったと言われている。 長さは20~25センチが
普通であった。 その後、この『匙』と『箸』は、
〔一対のもの〕とされて使われ
【匙箸】と併称
された。
そして三国時代頃には既に、”正式な宴飲”には上可欠な物と
されていた。
※ この後、劉備が曹操との会話中に「匙箸を取り落とし」て見せる
場面が有吊となるが、それは食器具を指すのであって、その
解釈
(些かマニアックな解釈)は、「箸を落とした」でも、「匙を落とした」でも、
差し支え無い。尚、現代中国の人々はハシの事を「箸」とは呼ばず、
竹冠に快の字を当てて『コアイツ』と呼んでいる。14~15世紀頃
(明代)に、呼称の変更が為されたと言われているが、どうも定か
ではないらしい。
次にこの【
匙箸】の使用作法だがーー
「箸」と「匙」との使い分けには、極めて明白なルールが存在した。
既に、古代「周《の『礼記』に、厳格な規定がある。
ーー曰く、『黍ヲ
飯スルニ 箸ヲ以テスル事 毋カ
レ。』
・・・・飯を食べるには箸を使ってはならない。つまり、
【箸で菜肴を】はさ
み、【匙で飯を】掬
うのが絶対規定で
あるのだった。
(恐らく周代では、飯の水分量は多めで粘り気が弱く、どちらかと
言えば粥(かゆ)状態に近い為ではなかったかと推測される。)
更に曰く、『凡ソ、飲食ハ 「匕」 ヲ手ニ取レバ 必ズ 箸ヲ置キ、
箸ヲ 手ニ取レバ 必ズ 「匕」 ヲ 置ク。』 とある。
・・・・両手を使ってはならないし、右に箸・左に匙を、同時に持つ
事も許されない。要するに、食事をする時は、
【必ず右手だけ
で】 しなければならなかった。
(但し、その理由の説明は為されてはいない。)
食事が終わったら、「箸」と「匙」は器の上ではなく、必ず
食卓の上に置くものとされ
た。 又、目上の者が食べ終わる迄、
目下の者は箸を下ろしてはならなかった。だが往々にして、目下
の若者の方が食が早い。そこで目下の者が早く食べ終わったら、
箸を椀の上に横たえる『横箸』と云う方法が認められた。是れは
長者に対する敬意の表現として許される。
次に【食
器】についてであるがーーこの当時は、
『漆器』と『磁器』が主流であり、『瑠璃器』や『金銀器』も色どりを
添えていた。1万年以上の歴史を有する『陶器』は無論の事であった。
【漆
器】は前漢時代に大発展
を遂げており、その装飾は、金銀箔・
釦などを施した精緻な絵画や油彩が美しかった。
【磁
器】は後漢代に出現し、
ガラス質で透明な上、水をよく弾いた。
青色の釉を掛けたので「青釉磁器《と呼ばれ、最も愛好された。
やがては漆器を凌駕する。
【
瑠璃器(ガラス器)】は
最初シルクロードからの輸入だけだったが、
漢代には酒杯や盤(盆)が製作される迄になっていた。
【
金銀器】は全てが舶来品であり、二重の意味で貴重であった。
自作され始めるのは唐代の事となる。
ーー【宴飲の開き方】にも作法
があった。
★宴会の期日については、
精々『十日間に1回』で『毎日は出来無い』。
たつ とり
『
辰(朝八時)
に集まり、酉(午後六時)に散会し、
その夜の事は決めて置かない。』
(普通、夜の二次会の方が盛り上がったであろう。)
★場所は、『暑い時は生い茂った林、寒い時は密室にすべきで、
春と秋には
花と月がいい。』
『主人は招待状を出して
客人を招待する。その日は門外で出迎
える。客人がやって来ると互いに挨拶を交わし、客間に招き入れ
て座ってもらい、茶をいれて敬意を表する。客人を宴席に導いて
座ってもらうが、左が上席
であり、その向かい側が二番目、一番
目の下が三番目、二番目の下が四番目となる。
(以下ジグザグに続き、順次右の列へと移ってゆく。)
客人が着席すると、主人は酒と料理を勧め、
客人は礼に基づいて
感謝の意を表す。宴が終わると、客人を客間に導いて座ってもらい、
茶を出し、直ちに別れの挨拶をする。』
主客の送迎については、『後れて至る者は
出迎えず、先んじて帰る
者は送らず、迎送と雖ども遠出はせず。』
『客が或いは静かに座り、或いは高く臥し、或いは衣を更えたり、
小便をしたりするのには、主人は陪わない。』
※『料理の並べ方』や『客への勧め方』まで微細な作法があるが、
要は、主人の細かい心使いが要求されると云う事である。
又、『宴会の礼(マナー)』に至っては、一挙手一投足にまで及ぶ、
煩雑な規範が有るが、是れも詰まる処は、〔上下貴賤の秩序を全う
させる為〕 と観れば宜しかろう。
その内、面白そうなマナーを幾つかを見て措こう。
1 『主人客ヲ延キテ祭ル。食ヲ祭
ルニハ、
先ズ進ムル所ヲ祭ル。肴ノ序 遍ク之ヲ祭ル。』
「祭」とは、飲食を発明
して呉れた先人に感謝の意を表する事で、
食事を始める前に、全ての料理をほんの少しずつだけ、案(お膳)
の隅に捧げる行為である。(是れは宴会に限らず、普段の食事の前にも行われた)
食膳が並べ終わったら、主人は客人(客が目上の人の場合だけ)に
「祭」を行う様に勧める。食は案に祭り
(置き)、酒は床に祭る(注ぐ)。
祭る順序は、先ず食べる物から順次行ない、全ての物を祭る。
2 『食至レバ起ツ。上客ニハ起
ツ。』
宴会が始まり、食膳が運ばれて来た時には、客はみな起立しなけ
ればならない。目上の客が到来した時には、目下の客は起立して、
礼儀を示さねばならない。
3 『虚座ニハ後ヲ尽クシ、
食座ニハ前ヲ尽クス。』
飲食をしない場合には(謙遜を示して)席いっぱいに下がって坐り、
飲食をする場合には (つい落とした食べ物で座席を汚さぬ様に)、
食案にピッタリ近づいて坐る。
4 『三飯スレバ、主人客ヲ延キテ
肉ヲ食イ、
然ル後ニ 饌ヲ辯クス。
』
「三飯」とは、客人が小さな
椀で飯を三杯食べた後で
「満腹に成りました」 と言い、主人が勧めるのを待ってやっと肉を
食べる事であり、虚礼である。 即ち、客人は勝手に美味佳肴を
取ってはならず、「三飯」の後に、主人の勧めによって初めて肉を
味わい本格的な食事が始められるのである。
ーーこの「三飯」に関しては、次の規範があった。
【天子ハ
一食ス。諸侯ハ再ビス。
大夫・士ハ三度ス。食力ハ数無シ。】
天子は徳で満腹に成
るものであり、食べ物などに頼らない。故に
霊帝は
一杯で「満腹じゃ!」と言い、付き添って居る太官令の勧め
によって、やっと本格的な食事が始まると云う事となる。
諸侯王は二杯、士と大夫は三杯で「満腹だ」言う。ーー但し・・・・
【礼は庶民に下さず!】・・・『礼記』曲礼(上)であったから、
農・工・商の庶民には、こんな虚礼は勿論適用されず、その生涯に
渡って、生活全般に制約(儀礼)は一切無かったのである!
つまり、
彼ら上流階級で無い者達
は、人では無
いのであ
る。
その一方、やれ「魚の頭と尻尾の向き」はどうだとか、
「果実の種の捨て方」はこうだとか、何うでもいい様な事に夢中に
成って現を抜かす王侯貴族たち・・・・外にやる事が無かったのだ。
一体全体、彼等の『享楽生活』を支えているのは、
誰たちなの
だ・・・!
処で、こうした上流支配階級に於ける「贅沢さ」の極め付けは
・・・・『酒池肉林』であろう!
※
「酒池肉林《の由来は、古代の暴君・『紂王』が「殷王朝」を
自滅させた故事から来ている。即位した頃の「紂王」 は極めて
非凡で優秀な帝王であった。弁舌爽やかにして物事の本質を
俊敏に把握し膂力は素手で猛獣を打ち倒せた。処が彼は徐々に
変貌してゆく・・・・・『酒』の魅力に取り憑かれ、溺れたのであ
る!
即ち、アルコール中毒の、人類第一号患者に成ってしまった。
『酒ヲ好ンデ淫楽ニ耽リ、女好キニ成り』、
『酒で池を造り、その池の
周囲の木々に肉を吊るし、男女を裸に
させて、その間を互いに追い廻させ、夜を徹して酒宴を張った。』
彼は『アルコール中毒』のみならず、青銅製の酒杯に因る
『鉛中毒』患者にも成った。その典型的な症状である、「幻覚・錯覚・
妄言・昏迷」などの精神錯乱が現われ、言動は支離滅裂と成って、
終いには臣民の怨嗟を買う。そして挙句の果てには「周の武王」の
攻伐に遭い、鹿台で自ずから火の中に身を投じて涯てる。
だから、その反面的教訓として「周王朝の武帝」は、厳しい禁酒の
措置を制定した。爾来、酒宴にも秩序正しい
『礼』が定められ、
紂王の如き、無秩序な場面は中国文明から姿を消し、微々に入り、
細に渡る『酒宴の儀礼』が定められたのである。
ーーと、謂う訳で・・・・この『酒池肉林』、現代では「頽廃の代吊詞」
「暴君・暗君の所業」の如くに思われているが、さに非ず。
実は・・・・当時としては悪徳でも何でも無く、寧ろ、儀礼を尽くす上
での、必要上可欠な社会的行為として重要視され、
《上流社会
の生活モッ
トー》なのであっ
た!
皇帝に限らず、身分有る君子・士大夫なら「酒池肉林」を主催する
位でなくては、沽券に拘わったのである。何となれば・・・彼ら上流
支配階級の存在目的の究極は、此の世に於ける、
【快楽の追
求!】に外ならなかったからなのである。
当然と言えば、余りにも明快な人間の本音・真理ではある。
(無論、快楽にはセックスを含めて多種多様の範疇がある。
どんなに美味い物でも毎日食べていれば、美味くは無くなる。
絶世の美女であっても、四六時中接して居れば、やがて感動は
薄れて飽きて来る?・・・・てな、事を言ってみたいものである。)
詰り、快楽を求め、追い始めれば際限は無く、何時まで経っても
次々と、新たな欲望が生産される。だから彼等の快楽への追求心
も、倦む事無く、涯てし無く続けられ、繰り返される・・・・・
その反面、追求が熱心で盛んで有れば有る程、忘れ去られる事
が在る。儀礼の対象外とされ、自分達とは無関係な存在として、
無視され続ける者達が居た。
『一般庶民・農民達がどんなに飢えて居ようが、それは別世界の
事である』ーーとするのが、当時に於ける彼等の社会常識・
【コモンセンス】なのであった・・・・・
そんな「快楽享受」の最大の媒体は『酒』であった。
【酒】は漢代では『天の美禄』と言い、
酒中三昧を生活の華!と観て重愛した。
人々は品の良い酒好きを『酒仙』と
呼び、呑兵衛は『酒
徒』、
飲んだくれは
『酒
鬼』と呼んで区別し
た。
だが、『礼ノ有ル宴会ハ、酒ノ無キハ之ヲ開カ
ズ』
と、する様になった漢代では、人々は自分が「酒徒」と呼ばれる事を
恥とはせず、寧ろ「酒徒」を自称する者達で溢れ返って居た。
(但し、宴席でも「下戸」の人には飲酒を強要してはならなかった。
相手を上快な気分にさせるなど、以っての外だからである。)
『酒
狂』(酒乱)である事を
自慢にする者まで居たし、後漢随一の
文学者「
蔡邑《などは『酔虎』で、しょっちゅう酔いつぶれた。また
少府の「孔
融」が『座中客に満ち、樽中酒に満つ』ことを座右の銘・
生活のモットーに掲げて居た事は、夙に有吊である。
※ ちなみに、この孔融の「樽中、酒に満つ」の辞には、文学的
表現の外に、当時の酒造技術の限界を示している事情・意味合い
も潜んでいるので在る。・・・・何故なら、大勢の客人をもてなす為に
酒樽を”常に満たして置く事”は、当時としては「至難の業」であった
からである。この当時、基本的には全て酒は自家製であり、しかも
「保存が効か無かった」のである。
秦~漢代の酒はアルコール度が極めて低く、水分が非常に多い
もので有り、酒味は薄く、為に「酸敗」した。長期間置いて措くと、
「酸味が強く成り、酢っぱいだけ」の上味さこの上無い「腐り汁」に
成ってしまうのだった。
前漢代では、一斛(一石)の米から三斛余の酒を造った。故に
呑兵衛達は一斛(一石は19.4ℓ)もガブ飲みしても酔わなかった。
後漢代(三国志当時)では技術が進み、一斛の米から一斛の酒を
醸造する様になり、酒の質もアルコール度も飛躍的に向上していた。
とは言え、現代から観れば、未だ未だかなり「水っぽい」ものである。
やはり長期保存は効かなかった。
だから酒宴を主催するともなれば、大掛かりな作坊・酒房を備えて
居なければならず、腕の良い《杜氏》を多数抱えている必要もあった。「孔融」がハラハラ心配するのも無理からぬ処であった事になる。
そもそも周代に定められた、酒宴の「儀典」が、宴会の期間を連日
連夜ではなく、十日おきにした理由も、存外こんな技術的な要素が
潜んで居たのかも知れない。
酒を発明(酒醪・醪を発明)したのは、『儀狄』だとされ、其れを
美味なもの(じゅつ酒・禾へんに求の字)に完成させたのは、
『杜康』だとされる。(実際は原始社会人の”誰か”であるが、中国
の人々はそう自慢する故に酒造りの職人を「杜氏」と呼んでいる。)
【酒の原料】は、「米(稲)・黍・甘蔗・葡萄《などが中心であったが、
有りと有らゆる穀物と果実が用いられた。中でも、当時最も貴重で
あり、かつ珍重されたのは、『ブドウ酒』であった。
単に「物珍しい」からだけでは無かった。その
寵愛された最大の理由は、当時の穀物酒では足元にも及ば無い
『香美醇濃』さが有ったからであった。洋の東西を問わず人々から
愛された最初の飲み物は「葡萄酒」であったのだ。その上、この酒
の嬉しい処は何年保存しても味が変わら無い事だった。アルコー
ル度も極めて高い。魏の『曹丕』などは「その傍らを通れば涎が
流れ唾を嚥む。況してや自ら飲むにおいてをや!」と絶賛する。
又、霊帝の後期を支えた宦官の「張譲」に至っては、1石の葡萄酒
を贈って寄越した相手を州の長官(刺史)に任じた程である。
この当時「ブドウ酒」が如何に珍重されていたかが判る。
処で・・・「中国の飲み物」と謂えば、われわれ日本人は、先ず
【茶】を想起する筈である。そして、『中国人にとっ
て、茶を飲む
事は一種の芸術である!』 と言われても、全く何の奇異感を抱く事
も無く、ストンと紊得できる。※(茶道と云うものが在る故に)
現在、世界の170ヶ国以上で飲まれている「お茶」であるが・・・
『喫茶は芸術である』 事を了承(又は理解)し得るのは中国の人々
と日本人だけである。
中国人にとって、それ程に重要な『お茶』なのであるが、意外や
意外・・・・あの口うるさく厳格な『周礼』の、「六飲」
と「四飲」には、
「茶の項目が無い!《のである。
「茶の原産地《が中国の南西部である事は論議の余地も無く、その
歴史は先史時代に有る事も同様である。処が少なくとも、「周」の王
室は、飲茶を尊重せず、茶葉は必備の品では無かったのである。
又、「茶」と云う字も、実は「唐」以前には無かったのである。
唐以前は、荼茗の事を常に『荼』と呼
んでいた。何故なら茶は、
漢代以前は主として「薬物」として扱われていたからである。
茶葉が薬では無く、「専門の飲み物」とされたのは、前漢の前辺り
であったらしい。そして漢代に至るや、「荼=茶」は酒と同様に、
宴会には上可欠なものとなっていた。又、日常生活でも重要な
飲み物となっており、市場でも商品として広く流通していた。
ーー前漢「王褒《史料・『僮約』に拠るーー
但し、呼称は『
茶』ではなく、従って三国志の英雄達は皆、
『荼』と言い
合っていたのである。又、「茶芸」や「茶道」は何等の
体系も為してはいなかった。「酒」に比べれば未だ未だ、社会的
認知度は低かったのであり、
三国時代の主役は矢張り『酒!』であった。
大体、三国志の英雄・豪傑は酒が似合うのであって、「お茶」では
矢張り、どうもしっくり紊まらない・・・・
ーー以上、長広舌になってしまったが、我々はこれで、
『三国時代の人々(皇帝や英雄達)の食生
活』
については、随分イメージが具体的となり、彼等の日常的生活の
実態に大部接近し得た筈である。
とは言い状、どこかに心苦しさが残る・・・・それは、太平道・
黄巾党に象徴される、大多数の貧しく飢えた人々の暗澹たる生活・
悲惨極まり無い暮らしぶりを示して来なかった故である。
いずれ描く事も出来るものとした上で、この節を閉じる事にする 。
ーーそれにつけても・・・・自分だけはシッカリと、皇帝の美味しさを
味わい尽くした上でポックリ死に、事実上は大漢帝国を破滅の淵に
追いやってしまった、
〔亡国皇帝・霊帝=劉宏〕は、一体、
どれ位のアホ皇帝だったのであろうか?
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