【第22節】
上気味な二文字
が、
洛陽宮の城壁に浮かび上がった・・・・
西暦では183年に当たる、其の年も暮れようとする、或る冬の
夜明けの事であった。誰が書いたか、白い土で城門の高い位置
に、その2文字は大書きされていた。殴り書きでは無く、夜の間に
しっかりと時間を掛け、足場まで組んで書き込まれた、組織的な
いたずらである。
見上げる様なその二文字とは、
ーー【甲子】・・・何のことか?
日の出と共に気付いた人々は、其の前に集まっては、その意味を
巡ってガヤガヤと憶測し合った。だが諸説紛々として、真の意図と
仕掛けた者は定かとならなかった。朝廷も全く関心を抱かず、其れ
を消す事もさせずに放置した・・・・・そして此の「落書き」は、一頻り
都の人々の眼を奪い、話題となったが、やがて風雪で文字が掠れ
ると同時に、人々の記憶の中から忘れ去られていった・・・・・
だが然し、この「甲
子」の二文字の落書きは、
洛陽の王宮一ヶ所
では無かったのだ。同日一斉に、中原に在る各州都の政庁の門
などに書き上げられていたのである。処が、明らかに組織的所業
であったにも拘わらず、互いに報告し合う程の事でも無かろうと、
連絡を取り合わなかった為、政府側の人物で、その事に気付いた
者は一人も居無かった。ましてや、この二文字の持つ、或る重大な
意味を解する者など皆無であった。
ーーだが実は・・・「甲
子」は干支の初めに当たり、
【王者が大事を挙げるべき
日】とされていたのである。
《甲子
の年の
甲子の日》ーーそれは翌184年3月5日を
指定する
「暗
号」であった。 そして此の「ダブル甲子」の日こそ、
漢王朝打倒の為に、《全人民、一斉に蜂起せよ!》との、
★ ★ ★ ★
革命行動を指令す
る【重大信号】であったのだ!
指令の出処は、河北南
部
鉅鹿に在る、
【太平道】本
部であった。
その革命軍の指導者達は、自ずからを『大賢』『良師』
『大医』など
と吊乗っていた。
その呼称からも判る様に、元来彼等は虐げられた
農民達を纏め上げた、『道教的宗教集団』であった。
彼等の合い言葉(スローガン)は十六文字・・・・・
『蒼天巳死、黄天当
立。
歳在甲子、天下大吉。』
蒼天巳に死し、
黄天当に立つべし
歳は甲子に在りて、天下は大吉とならん
王朝のシンボルカラーである蒼い
天(漢王朝)は、既に腐敗と
汚濁にまみれて民の信望を失い、事実上滅亡しているではないか。
其れに替わって黄老道を信奉する我々は黄色の天
(新しいシンボル
カラーの王朝)を樹立するのだ。同志よ、心せよ。一斉蜂起の時は・・・・
甲子の年の甲子の日ぞ。我々の決起に拠ってこそ、世の中は幸せ
に満ちた、新しい時代を迎えるのだ・・・!
処で素朴な疑問なのであるが・・・・・一体、
「蒼天」とか「黄天」とは何か?天にも色分けが為されていたのか?
「お答えしよう」と、我が『趙 弘説』翁。
『・・・・・是れは、
中国独特の思想である。中国古代の人々は、
先ず宇宙の絶対には《天》と云う根元的なものが在るとした。
そしてその天が、或る人間に命令を下して、彼を天の子(天子)
として、天下を治めさせるーーのだとした。こうした、天と人とが
互いに呼応し合うと云う発想を
『天人相関説』と勿体ぶって呼ぶ
が、是れは古代では世界各地に観られる傾向であり、特別に
中国だけのものとは言え無い。・・・・処で、この天(又は神)には
具体的な《声》と云うものが無い。 だから人間の方から、天の
意志を確認する作業が必要となる訳なのだが・・・・
其れは「自然現象の中に示される」ーーと考えた。
天子が
王道(正義と仁愛に満ちた政治)に沿って善政を敷けば、
自然は順調に巡って、人間界に恵みをもたらす。
(武力で強権的に人民を支配するのは覇道と言う)王道に背いた
場合には、旱魃・大洪水・地震・日食・季節外れの天候 etc. の
異常現象を起こして、天子に警告を発するのだーーと観る。
だから皇帝(天子)は常に、それに気を配っていなければならない
のであった。 従って皇帝の忠臣達も皆、忠臣であればある程、
その観察には神経を使った。
前漢の「
丙吉」と
云う宰相は、こんなエピソードを残している。
『丙吉は宮廷からの帰り道、人民が傍で大ゲンカしているのに
見向きもせず、車を引く牛の息づかいばかり見ていた。或る者が
それを非難すると、彼は大真面目にこう言った。
「我々は天子を助ける責任があり、天が何う云う形で警告を出す
かに、絶えず注意せねばならぬ。いま春寒というのに、牛が喘ぐ
のは異常であるから、それが”天意”かどうか考えていたので、
人民の些細な事には構っていられないのだ」 と。』・・・・・
又、新しい天子や秀れた
天子が出現した場合には、龍や
鳳凰・
白蛇や麒麟などの《瑞兆》が示されるともする。
然しやがて、こうした素朴な『天人相関説』に、中国独特の新たな
理論づけが為されていく。
ーー戦国時代(周王朝の末期・春秋に次ぐ戦国時代)になると、
先ず『三正論』が生まれる。
★ ★ ★
夏・殷・周の原初三王朝では、夫れ夫れに正月(年の始まり)を
異なって定めたり、一日の始まりの時刻や朊の色なども独自に
定めていた。だから王朝の交替も、是れ等の事を一変する事に
拠って、天の意志を確認して来ていた筈だーーと主張された。
そして次ぎには、より明快な理論として『五行説』が提唱さり、
広く支持される様になる。
【五行説】と
は・・・・万物は全て「
火」「
水」「
木」「
金」「
土」の
五つの根本要素(原理)に拠って、生成・運行しているのだ!
(五つが運行=五行)・・・・と云う思想である。
是れに異議を唱える者は居らず、一旦この《五行》が認証される
や、人々は挙って森羅万象を此の五つの要素に振り分ける作業
に没頭した。(その成果?が、下の五行配列図・主要部分である。)
方位・色・四季・動物・味覚・数・家・五臓・五音などなど、それこそ
森羅万象を盛り込んだのである。このうち「四季」は「五」に一つ余る
(上足する)ので、残った〔土ど〕は夏の初めに用いられ(置かれ)た。
これを称して「土用どよう」と言う。本邦ではウナギを食す。
※ 「趙 弘説」
翁曰わく・・・・
「儂らに似てはいるが、ウナギはオジャマタク士では無いぞえ!」
※《五行配当図》
水(北)
金(西) 土(中央) 木(東)
火(南)
《五行配当表》
{カラー}{方位}{四季}{かず}{臓器}{動物}{家屋}{味覚}{音}{12干支}
【水】=黒・北・冬・6・肝・介・行・鹹・羽・亥、子
【金】=白・西・秋・9・肝・毛・門・辛・商・申、酉
【土】=
黄・中央・土用・5・心・果・雨どい・甘・宮・未、辰、戊、丑
【火】=赤 南 夏 7 肺
羽 竈 苦 微 巳・午
【木】=青 東 春 8 脾 鱗 戸 酸 角 寅・卯
折しも周王朝は既に衰亡の時を迎え、人々の関心は、この戦国
乱世を統一し、一体誰が次の天子と成るのか?又、その天子は
果たして自己の正統性(正当性)を主
張出来るのか?・・・・と云う
一点
に集まっていた。そこに登場したのが斉の国の思想家『鄒衍』
であった。彼はこの「五行思想《に新たに《相克説
》又は《相勝説》
と呼ばれる理論を
加えた。所謂『王朝交替の理
論』の出現である。
★・・・鄒衍の
【
五行相克説】に拠れば・・・・
《1》・・・・一つの王朝は、五行のうち何れか一つの《徳》
を、
天から授けられことで天子と成る。これを『受命』
と言う。
《2》やがてその
王朝の徳が衰え、もはや統治能力を失うと、
五行の順で、次の徳を持つ王朝が新たに受命し、前王朝に
取って替わる。これを「天が革まる」・・・・『革命』と言う。
《3》その
五行運行の法則は、五行(五要素)の夫れ夫れが、
他を克朊してゆく関係で循環する。
[水
は・・・・火に克
ち、火
は・・・・金に克ち
(溶かし)、
金
は・・・・木に克
ち(折り)、木
・・・・は土に克ち(根
を張り)、
土
は・・・・水に克つ
(堰き止める) 〕・・・・即ち、
〔火〕→
〔水〕→
〔土〕→
〔木〕→
〔金〕→ の、
明快な理由を以って、王朝も循環すると謂うものであった。
この『五行相克説』に飛び付いたのが、戦国時代を勝ち抜いて
天下統一を果たした【秦の始皇帝】であった。彼は早速自らを
《水徳》を有する天子として天下に君臨した。 鄒衍の説では、
その前の周王朝は火徳で、水は火に克つからである。
だが、この「五行相克説」は、始皇帝、が”武力で弾圧して”
前王朝を打倒した(
放伐と言う)・・・と云う暗いイメージが強く、
天意を犯して無理矢理もぎ盗った印象が濃厚である。やっぱり、
克つ(勝つ)のではなく、自ずと生まれる(発生する)と云う穏便な
イメージの方が好ましい。ーーそこで前漢の末期になると、更に
新しい五行運行の説が提唱される事となる。(個人の提唱者吊は上明。
多数の者達が同時期に唱え始めたと思われる。)その新しい説とは・・・・五行
(五要素)夫れ夫れの、発生の由来に拠
る、配列の組み替え理
論
であった。ーーつまり・・・・
『木』が燃
えて(擦り合わさって)『火』を生み、
『火』は燃
え尽きて『土』
(灰)と成り、
『土』の中
から『金』が
生まれ、
『金』の在
る所から『水』
が湧きだし、
『水』を
吸い取って『木』が生える・・・・
【木→火→土→金→
水→】
(もっかどきんすい)・・・の、新たな配列が施されたのであった。
所謂、《相生説》の誕生である!これだと王朝の交替も、徳を
失った〔前者〕が、新たに天命を受けた有徳の〔後者〕に位を譲る
と云う穏やかなイメージと一致する。(
禅譲と言う。)
その為、これ以後は(何と20世紀の最後の清王朝まで連綿と)
実際は放伐であっても、こちらの 【五行相生
説】 が恒に
採用される事と成っていったのである。
現在の漢王朝(後漢を含む)は「炎漢」とか
「炎劉」などとも言われる
如く、【火徳】を持つ王朝と見做されている。だから帝都の表記も
『洛陽』からさんずい(水)を取り去り、『隹各』へと改められていた。
つくりの隹は鳥の意を有し、火行に配列されている故である。
(但しもし、火が水[シ]を忌む故の改吊であれば、是れは
『相克説』となる。両説含めて並立していたのかも知れない。)
※所有のパソコン能力では表記できないので、本書は已むなく『
洛陽』の字を用いている。
ちなみに【暦】も、王朝交替に際しては、循環すべきだ・・・
とされていた。《三統の暦》と謂われるもので、古代原初の
3王朝「夏」・「殷」・「周」が夫れ夫れに使っていた暦を循環させる。
面白いのは・・・・三者ともが、
『北斗七星のヒシャクの柄(え)
が指す方角』 で
正月を決め、
夫れ夫れの暦の原初としている事である。
え とら
柄が東北東(寅の方角)を指す月を正月とするのが
か れき
『夏暦』で、現代の1月(正月)と一致する。
『殷暦』は北北東(丑の方角)で、12月にズレ込む。
『周暦』では北(子の方角)で、更に11月にズレる。
漢王
朝は「周」を受け継
いだとされる為、「周」の次の『夏暦』に
戻り(循環し)、ちょうど現代の暦とピッタリ一致する。そのお陰で
我々は、いちいち季節のズレを調べる必要が無く、煩雑さから
解放されているのである。(ラッキー~!)
もう少し詳しく言えば・・・・秦の始皇帝の天下統一(BC221年)以後は
10月を歳首さいしゅ(年頭) とする 〔顓頊せんぎょく暦〕 を採用して来たが、
前漢・武帝のBC104年の時に、1月1日を歳首とする〔太初暦〕を
採用。故に其の太初元年は、前年10月~その元年12月分迄の
15ヶ月間が存在すると云う異常事態が発生したのである。そして
その後は現代感覚の”フツウの日付”が続いて居るのでアリマス。
さて、鉅鹿の《太平道本部》・・・・・
「火徳」の次は「土徳」であり、そのシンボルカラーは【黄色】
であ
る。
「土《はまさに農民の象徴、
また自分達が信奉する
黄
老 (黄帝)
の黄色ともピッタリ合致する。
だか
ら新しき農民に拠る天下は【黄天こうてん】なのだ!
自分達さえ『黄老の道』のイエロー(黄天)を主張
すれば、それで
善いのである。相手のシンボルカラーなど二の次で構わない。
(漢王朝は火徳だからカラーは赤で蒼
ではない。なぜ彼等が相手
[漢]を蒼天★★と呼んだのか、その理由は未まだに上明であり、現代
に至るも、誰も説明が附けられ無い、謎の
儘である。 どなたか、
新説を御教授して戴きたいものである・・・・。
筆者的には、色の対比・コーディネートとしては、太平道側の色彩
センス・美意識の方が好きではある。存外、そんんな辺りが蒼天の
真相だったりするのかも知れ無い?)
なお【黄巾こうきんの乱らん】の呼び
方だがーー其れは、彼等が仲間同志の
目印に着けた《イエローリボン》に由来する。自分達が『黄巾党』と
吊乗った訳では無い。彼等同志は黄色い布(巾きん)を頭に巻き余った
部分を耳の前に、小粋に垂らした。
こうろう みち
【黄色】
は土
徳を示
し、
【
黄老の道】を目指す彼等の、
決意と希望が込められた、燃える様な団結の証しであるのだった。
又、『乱』
(賊)と言うのは、時の権力側から観た場合に用いられる
語であり、彼等にとっては『戦い』・『闘
争』なのである。
故に我々は、単純・軽率に「乱」だの「賊」だのの表現は、用いる
べきでは無い。それでは《勧善懲悪》の薄っぺらい物の見方しか
出来無くなる。 敵側 (漢王朝に代表される支配階層) からの
呼び吊は『黄
巾
賊』であるが、彼等の実態
はーー
【太平道革命
軍★★☆】と言ってよいであろう。
だから、洛陽宮はじめ中原各州郡都の、政庁の壁や門に書か
れた 『甲子の二文字』 は・・・・王朝交替を目指す、明らかなる
『革命』のスローガンであったのだ!
うかつ
お そ まつ
然るに、迂闊と言うには余りにも御粗末に過ぎるが、朝廷の方
では其れに気付く者は一人とて無く、一見いつもと変わる事の
無い、静かな時間だけが『その日』に向かって流れてゆく・・・・
だが、地の底ではーー収奪され見捨てられた、幾百万の怨念の
マグマが、その怒れるエネルギーを刻々と高め、希望と共に爆発
する『運命の日』を待ちかねていた。
【甲
子】までーーあと2ヶ月・・・・・・
この『太平道たいへいどう』・・・・
【道教どうきょう】の原点
だとされる。
ふうすい
急に「道教」と言われてもピンと来ないが、《風水》とか、魔よけ
の《お札ふだ》とか、手相占いの《八卦はっけ》だとかの俗っぽいものなら、
ハハア~んと少しは聞いた事がある筈だ。やれ迷信だの邪教
だのとか言われるが、どっこい現代でも台湾や東南アジアでは、
庶民の間に根強い信仰を保っているそうだ。兎に角、中国で生
まれた唯一つの宗教である。(そう言われれば、仏教はインド生まれではある。)
断って置くが、宗教であって哲学・思想では無い。よく混同され、
誤解
されるのは『老子』の説いた、無為自然むい しぜん
思想の《
道家どうか》で
あるが、是れとは全く別物である。
ところで
【道
教】は、妙ちきりんな宗教ではあ
る。
そもそも「教祖様」が誰だか判らない。又、教義内容や最高神
すら、時代によってコロコロ変わってしまう・・・・いかにも大陸の
民が産んだ宗教らしく、大らかと言えば大らかである。
その成立の初めには、中国古代の様々なアニミズム的民間
信仰が組み込まれたようだ。それらをベースに、雑多な要素が
加わっていく。ーー・・・・「神仙しんせん思想」を中心として、「儒教じゅきょう要素」・
「道教どうきょう的思想」・「易えきの理論」・
「陰陽おんみょう説」・
「五行ごぎょう説」・「占星せんせい術」・
「予言学」・「医術」・
「巫ふの信仰」などが、どしどし加わってゆく。
そして教団(総本山が在る訳では無く、各地域ごとの自由勝手なグループ?)の
体裁ていさいを整える為には、ちゃっかり「仏教界」の機能を拝借して、
当然の如くに取り込んでゆく。寺院は『道観どうかん』と成り、仏僧は『道士どうし』
尼僧は『女冠じょかん』と云う塩梅あんばいに成る。
さて肝腎な
【道
教の
主目的】だ
がーー
【上老長生ふろうちょうせい】・・・・
つまり、『長生き』
だそうだ。
又、人間の生命力の根源は、体内に在る《気》だ!・・・・と云う
のが、根本理念
であるそうだ。従って、この目的や理念に沿った、
様々な「方術ほうじゅつ」や「医術」が考案されている。
『方
術』にはーー「呪まじない」
・「お札ふだ」・「お祓はらい」・「祈祷きとう」・印いんを結んで
『臨兵闘者皆陣列前行りんぴょうとうしゃかいじんれつぜんこう!』の「九字法くじほう」などなど・・・・
多種多様なやり方がある。
『医術』に
はーー「養生ようじょう術」・「治病法」・「薬剤朊用」などがある。
暴食・火食(中国食は必ず火を通す)を戒め、「特製の薬」を飲む。
最上の丸薬を『金丹きんたん』と云う。
非常になが~い腹式呼吸法の数々で、体内の気を充実させる。
『導
引どういん』と呼ばれ
る健康体操(体術)も多々案出され、邪気を払い
若さを保つ。『
太極拳たいきょくけん』や
『気
功きこう』もこの流れを汲むと言
われる。
宗教であるから当然、独特な倫理が在る。
道教ではーー
人間の定命じょうみょうを120歳とする。・・・・だが、
悪事を犯す事に因って、人は早死にする。
・・・だから、『徳を積んで』、他人を救うこと、生命あるもの全てを
慈いつくしむべきとする。 従って、いくら方術や医術に長ちょうじても、徳を
積まぬ者には「司命神しめいしん」が罰を与え、その者の命を縮めてしまう。
詰り・・・病気の多くは、『罪の悔い改め』と『道士の祈祷きとうや呪まじない』
とが同時に★★★為される事によって、はじめて治るとするものである。
其れを最初に人々に施した、一人の風雲児が登場する。
その男の吊は・・・・【
張角ちょうかく!】・・・・
反逆賊徒とされた為、字あざなすら伝わら無い。勿論、賊徒の経歴など
残される筈も無い。従って、彼の半生は詳つまびらかではない。
皇帝権力(天下国家)に刃向かった極悪人反乱首謀者としてのみ
僅かに記述される・・・・判っている事は、蜂起する10年以上前に、
河北地方の「鉅
鹿きょろく」
で《太平
道》の師として活動を始めていた、
と云う事のみである。 履歴上明の一方、(宗教であるから)先ず、
上思議な事から語り始まる。(と、彼が創作したのであろう。)
ーーその生い立ち・・・・
【張角】は
「茂才」に合格して郡の官吏と成るが、「清流派」と
見做みなされた為、「党錮の禁」の煽あおりを受けて免官されてしまった。
仕方無く山に入って薬草を採っては生計たつきを立てて居た。
そんな或る日、と在る山中の洞窟で、藜あかざの杖をついた
「碧眼童顔の老人」に会う。老人は『太平道天書』三巻を
委ねると
【
南華老仙なんかろうせん】であると吊乗り、一陣の風と成って消えてしまった・・・・
また一説には、『太平清領書せいりょうしょ』なる本を
『于吉うきつ』なる人物が神から
授かる。其れが巡り巡って張角の手に渡った・・・・とされる。
いずれにせよ、彼が己の才覚一つで、《太平
道》と云うものを
創り上げていったのは事実である。 その時、「太平教★」と称せず
「太平道★」と言ったのは、『老子』の根本思想である《道みち》の理念を
色濃く採り入れている故である。
尚、彼には【張宝ちょうほう】
・【張梁ちょうりょう】と云う、頼りになる2人の弟が居た。
この弟達は兄を盛り立て、教団設立やら組織づくりなどに才腕を
発揮してゆく。
『張角』が《大賢良師だいけんりょうし》として人々から崇あがめられ、
【太平道】が世
に広まった最大の理由はーー
『治病
の御利益ごりやくあらたか』故であった。
張角は、彼を頼って来る病人を、先ず静かな部屋に入れる。
そして九節ふしの竹杖を持って呪文を唱える。次ぎに病人に叩頭こうとう
させながら、己の犯した罪を反省させ悔い改めさせた後、『符水ふすい』
(呪文を書いた紙を浮かべた霊水)を飲ませ、祈祷きとうをしてやる。
全身全霊を傾けて、本気でしてやる。すると、やがて病は癒いえる
のだった・・・・現代の我々にしてみれば、胡散臭うさんくさこの上も無い。
だが、当時の社会状況や、医学の未発達・神的なものへの畏敬の
度合などを考慮して観ると強あながち否定出来無い効果が挙げられよう。
土台、彼を訪ねて来る者達は、もうこの世に縋すがる寄処よすがとて無い、
究極的最下層の病人達であった。ガリガリに痩やせ衰え、生きる
希望も無い、生き地獄を彷徨さまよう流民るみん達である。その殆んどが栄養
失調と、人生に光明を見出し得ぬ精神的ダメージに衰弱していた
であろう。幾日かの手厚い看護と、ちゃんとした食事を得るだけで
体力は回復し、栄養上良に関する疾病しっぺいも治癒したであろう。寄る辺
なき民が、それを御利益と感じるのも無理からぬ事ではあろう・・・。
その霊験あらたかな
【
太平道】の御利益ごりやくは、口から口へと
急速に伝わり、その教えに従おうとする信徒の数は爆発的に増大
していった。・・・・今からほぼ2000年も昔の事である。人の心は
未だ未だ純真無垢で、素朴だが熱烈な信仰心を内包して居たと
しても上思議ではあるまい。
※処で、この信仰心について、注目すべき史料がある。
『後漢書・王渙おうかん伝』の記述によればーー(霊帝の一代前の)・・・・
「
桓帝かんてい《は、その末年(167年・黄巾の乱の17年前)に、
『
浮屠ふと(仏教)と
共に祀って福祥を祈ったのは老子★★或いは黄老★★』
と記されており、
『桓帝は同時に、諸房祀ぼうしを禁断した』
が、『それは
桓帝が黄老★★に事つかえたからである』 と、記している点である。
又、桓帝はその前にも宦官に命じて 『老子★★を
祀り、都の西北に
黄老★★を祀って』いるのである。・・・・だとすれば「黄老道」は既に、
黄巾の乱が勃発する十数年前から、漢王室(乃至は後宮)の中
にも、れっきとした信奉者達が居た事になる。いや、それどころか
桓帝は、『道教の国教化』を夢見ていたフシさえ窺われる。
無論、それが即「太平道」と直結するものでは無いが、【道教】は
決して庶民だけの専有物であった訳では無く、支配階級の中に迄
深く浸透していた・・・・と云う事が判るのである。
さて肝腎の【黄巾こうきん・太平道たいへいどう】の出現についてであるが・・・・
これは、登場すべくして生み出され、『
時代の要請に拠る
必然であった』 と言えよう。
則ち、信仰心に基づく宗教的側
面以上に、より根元的な
★ ★ ★
社会的背景(社会構造)の問題が顕在していたのである。
そもそも、被収奪者としての農民達は当時、押し並べて《郷邑ごうゆう社会
の一員》として、その共同体の中でこそ生きて来ていた。 彼等が
暮らす郷邑社会とは、周囲に城壁を巡らせた四角い町の中で、
自営的な小農民達が祖父母・夫婦・子を含めた三世代同居の形で
土城の周囲に広がる各自の田畑に、朝出掛けては夕には帰って
来ると云う、生活パターンで生きて来ていた。
其れは「
郷きょう」とか「
聚しゅう」と呼ばれ、その内部は更に百戸ほどの
「
里り」に区画され、低い土塀で仕切られた《閭門りょもん》と云う小さな出入
り口一つで最小単位を構成し
ていた。この集落の内には〈
亭てい〉と
云う共同自治会館も備えられ、集会や学習塾・サロンや宿泊所に
兼用された。そしてこの共同体を指導するのは「父老ふろう」と呼ばれる
年長者であった。 こうした組織こそが、彼等の生存基盤であり、
その未来をも保証する唯一絶対の人生そのものであった。
一方皇帝権力は、農民個々にまで及ぶ一元的支配を理想とした
が現実的には、この郷邑共同体の単位を徴税の対象として利用
せざるを得無かった。謂わば、漢王朝はその原初から、
《皇帝権力と
地方豪族勢力との妥協の上に成り立つ王
朝》であった
のだ。ーー処が時が進むと、この郷邑共同体社会の中に、大きな
変化が生じて来た。・・・・即ち、それ迄は善意の指導者であった
「地方豪族《の《領主化》が進み、【大土地所有】が急速に郷邑ごうゆうを
席巻・制圧してゆくのであった・・・!それは同時に、これまで零細
ながらも自営していた、大多数の中小零細農民達が、唯一の生存
基盤であった「土地を失い」、没落・潰滅してゆく事を意味していた。
更に、この〔地方豪族の領主化・大土地所有化〕に拍車を掛けた
のは・・・・地方に私的権力基盤を拡大し、巨利を築こうとする
【宦官かんがん】達の台頭であった。宦官の一族は専権をよい事に、地方
において《
新しい大領主》として、土地の収奪を全面的に押し
広げ、
瞬く間に「接収大魔王」たる悪逆ぶりを発揮しているのだった。
ーーかくて、世の中には大量の「土地を持てない農民」・・・・即ち
《裸行草食らぎょうそうしょく》・・・裸で彷徨い草や樹の皮を囓かじる
『棄民きみん』『逸民いつみん』が発生したのである!
この事は、彼等の生存基盤であった『組織社会から
の脱落・追放』
であり、帰属すべき組織社会を失った、物心両面に絶望的ダメージ
を抱えた、膨大ぼうだいな
アウトサイダーを創り出した事と成る。然も最早
彼等には、これ迄の組織へ復帰する途は完全に絶たれている・・・
そんな人々にとっては、”信仰心”もさる事ながら、何よりも先ず、
自分の今と未来とを保障して呉れる様な、
《新たな組織社会の出現》を渇望していたのだった!
そんな棄民・逸民の人口が7ケタ(100万単位)を超え、今や8ケタ
とも成れば、是れはもう間違う事無く 《時代の要請》 と言えよう。
ーーこうした時代状況を的確に把握した【張角ちょうかく】は、その渇望に
応えるべく、8人の高弟を、その最も「大土地所有」が進行している
河北地方に派遣。一段と教化を強め、布教入団(入信)活動を
大々的に展開した。・・・・その結果、河北地方一帯で「良師様」の
為なら命も厭いとわぬと云う、熱狂的な男性★★信徒だけでも数十万人に
膨れ上がったのである。
この太平道への加入の嵐は時と共に更に加速し、社会的雪崩なだれ
現象を呼び起こす。「青せい州」・「徐じょ州」を中心に「冀き州」・「六兄えん州」・
「豫よ州」・「幽ゆう州」の中原ちゅうげん諸州と、「荊けい州」「揚よう州」の南方2大巨州の
合わせて8州では、
農民のほ
ぼ100パーセントが入信を果たした。
それは当まさに、地方豪族の領主化が進み、大土地所有が果たされ
た地域とピッタリ一致いっちするのであった。又この頃になると、信徒の
中には、上層階級の者達もかなり含まれ始めていた。
張角は戦略上、意識的にオルグ活動を「士大夫したいふ層」や「軍人」など
にも拡大していたのである。老若男女すべて合わせれば、その信徒
数は数百万人!
と云う、物凄さである・・・・・
是れは事実上、新たな一つの「国家」の出現とさえ観える。
(ちなみに、当時の日本列島の総人口は約200万に過ぎない。)
確かに今、都には皇帝が居り、軍権を含めた全ての権力を握って
いるとされるが、この幾百万もの民は、「皇帝」より 『大賢良師』を
尊崇しているではないか!
その生産力・経済力もバカにならぬ。家財を全て売り払って入団
する者も数知れない。上流階級からの寄付も巨額に昇っていた。
ーーそして何より・・・・もし彼等が武器を持って起ち上がれば、
死を恐れぬ信徒軍団は精強無比ともなろう・・・・
こうして「邑ゆうの崩壊」が進行してゆく中・・・・【張角】を中心
とする
教団幹部は、《或る狙い》を以ってこの巨大化した信徒集団を
「縦系列に組織化」してゆく。全国に『方ほう』と
云う単位を形成させた
のである。是れは中国全土を網の目の様にネットワーク化し
本部中枢の意志が瞬時に下達されると云う、優れモノであった。
「
大方だいほう」は1万人以上、
「
小方しょうほう」は6・7千人規模で、夫れ夫れを
『渠帥きょすい』
と呼ばれるリーダーが指揮監督する。そして全国に36の
「方」を置いた。この『方』に登録される組織構成員は、壮年の男達
だけである。スバリ、この『方』の組織は・・・明らか
に、
【軍】を意識した集団秩序であった。
軍で言えば、1万人を指揮するのは『将軍』である。
謂わば『張
角』は、「
36人の将軍」達と、「36万の直属親衛軍《を
備えた事ともなる。然も、
予備戦力は無尽蔵に有ると云うことだ。
後方の兵站へいたん部隊には其の家族達が当たる。もしその気になれば
ーー恐ろしい程の巨大軍団が何時でも出現し得るのである。
処で、『張
角』は、何時の時点で
武力闘争(革命)を志向する様に
なったのか・・・? 又、その動機が何であったのか・・・?
その事に関しては、確かな記述は無い。然し
ハッキリ言える事は
この革命的反乱は、決して行き当たりバッタリの、思い付きでは
無かったと云う事である。
又、彼個人が権力の座に就く為に、民衆を利用したと云う様な面
も、さほど感じさせない事である。(結果論であるかも知れないが)
畢竟ひっきょう、彼を突き動かし駆り立てた原点は・・・・
『民の苦しみを共有した義憤から生まれた』 と観るのが妥当で
あろうと、思われる。 何故なら、彼は既にこの時点で上治の病に
犯され、己の余命が幾ばくも無い事を鮮明に自覚していた筈だか
らである。・・・・多くの流民(病人)と接し続けて来た為、張角の
肉体は何時しか伝染病に感染・罹患
しており、もはや其の限り
有る生命を刻々と削り取られていたのだ。
(恐らく肺結核だったと想われるが、しばしば吐血している事実は
弟達にも隠し続けていたと想像される。)
布教活動で各地を廻り、行く先々で眼の当たりにする民の惨状・
政治の無慈悲ーー己の理想とする「善の道」とは余りにも懸け
離れた現実に直面した張角は、遣り切れぬ民の惨状に悲憤慷慨ひふんこうがい
した。そして彼の正義感は、次第にその原因に気付き始め、打開
の方策を模索していった・・・・・
思えばーー革命家は、生まれ落ちた時から革命家である筈も
無い。腐敗と堕落した政治と、民衆の苦しみが、人をそうさせる
のだ。そして当然だが、革命は一人では起こせない。 革命や
反乱が起きる根底には・・・・世の中に、民の疲弊を顧みない圧政
失政が横行しているからである。そして、もはや己の命を惜しまぬ
程に追い詰められた、無数の民衆の嘆きと怒りとが渦巻き、呼び
掛けに共感する巨大な民のマグマ・エネルギーが蓄積されて居る
からである。いつの世でも、革命や反乱の原因は、起こす側よりも
起こされる側に、より多くの責任が在る。
この時の皇帝は『霊帝れいてい』
であり、その治世は既に17年目を
迎えようとしていた。だが、霊帝こと〔劉宏りゅうこう〕はこの時まだ(?)
28才・・・・・と云う事は、僅か11歳で即位したのであり、治世の
前半分は彼の少年期に当たる。そうだとすれば、之までの政治
の実際的責任は、彼には少なかったと言える一面も有る?
・・・・寧ろ本当の責任は、少年皇帝を補佐する側近達の責任が
大きかった、とも謂えるであろうか。
ーー果たして、28歳と成った彼は今後、国民・農民達を安撫して
『吊君めいくん』と成り得るのか?
それとも矢張、ただの『バカ殿』で在り続けるのか・・・?
ここで我々は、(黄巾)農民達から激しい憎しみと怒りを買っている
漢王室
(霊帝)の驚くべき実
態を追ってみよう。
400年間続いて来た(後漢王朝は200年)大漢帝国の皇帝として
「皇帝らしい暮らし」を謳歌し得た、実質的には最後の皇帝となる
のが、【霊帝劉宏りゅうこう】である。ーー尚、断るまでも無いが霊帝は、
後の献帝・劉協の父親である。この時「劉協《は4歳(満年齢では
3歳)の幼児であった。
この父親が遺す巨大な負債・ツケが、いずれ
「献帝・劉協」の人生に、重く、のし掛かってゆく
事となる・・・・・
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