【第176節】
〔馬超 孟起〕・・・・復活した!!
【曹操】は西方問題、特に関中についてはスッカリ落着したと思っていた。昨年 (211年) の
平定戦で西方諸将連合を撃破した結果、諸将は散り散りになり、その盟主と仰がれていた【韓遂】
と【馬超】も、遙か彼方へ逃走し、もはや再起ふ能の状態と成り果てている・・・・と踏んで居た。
そして〔長安〕に護軍将軍【夏侯淵】を置き残すと、自分は業卩へと帰還した。ーーだがその
帰還に際して、楽観視を諌める地元出身の人物が居たのである。吊を【楊阜ようふ】と言い、
長年に渡って長安周辺の郡を赴任して来ていた。字は義山と言う。
「馬超は韓信・鯨布の武勇を持ち、甚だ羌族の心を掴んで居りまして、西方の州では、彼を恐れて
居ります。もし大軍が帰還しますならば、厳重に其の備えを施さない限り、隴上の諸郡は国家のものでは無くなりましょう!”ーー
即ち、馬超の底力を甘く観てはならない! と進言したのであった。曹操は、その献言を尤もだと
したが、軍の帰還が慌しかった (河間で蘇伯が反乱した) ので、充全な備えをしなかった。果して・・・・
昨年 (211年) 秋、曹操との決戦で一敗地に塗れた馬超であったが、みごと再起を果していた。
敗走して、渭水の最上流であり、涼州に接する〔隴西郡〕にまで 逃げ戻ったが、1時は曹操の
首を挙げる処まで奮戦した馬超の武勇は、却って高まっていた。敗戦の責任は、曹操との裏取引
を疑われた【韓遂】が、1人で被った格好と成り、寧ろ馬超の覇気は高く評価されていたのである。
もともと扶風郡出身で、若い頃から此の一帯には知人や縁故の者が多かった。そして何より人々
の同情を誘ったのは、彼の親兄弟・親族が一人残さず曹操によって処刑され尽くしてしまった事で
あった。就中、父親の馬騰は、間違い無く〔関中の英雄〕であった。共に戦った古馴染も
多かった。寧ろ同志と呼び合う者達であった。その彼と一族が虐殺されたのだ。心情的にも共感し
《馬騰殿の弔い合戦・敵討ち》を支援する空気も馬超に味方した。
そして、中国人(漢人)王朝とは根本的に相い容れない〔羌〕・〔氐〕と云った異民遊牧の者達が
馬超の復活に協力した。ーーそして、之まで余り知られざる史実であるが・・・・
更に 重大な支援者が出現したのである!
〔関中〕の南に接する漢中・・・其処には30年に及ぶ 宗教王国が存在していた。
その隣り合わせの2つの勢力が、遅巻きながら、共同戦線を張る事に 合意したのである。
寧ろ、
何故今まで曹操の侵攻に対して、軍事同盟が成立しなかったのか?・・・・と、上思議な位の両者で
あった。 それが流石に此処へ来て、互いにコンタクトが取られたのである。 多分、その勢力関係
から推して、馬超の方から頭を下げる格好であったと想われるのだが、
政祭一致の国家体制で五斗米道 を主宰する【張魯】であった!!
その支援関係は曖昧のものでは無く、より直接的であった。張魯が有する部将の中でも最も勇将
とされる【楊昂】将軍 ( のち215年、曹操軍の侵攻を陽平関で撃退する) を其の兵力と共に、馬超に
随伴させたのである!是れはもう、曹操に対抗する、完全なる軍事同盟の成立であった。
そもそも事の最初から、曹操が公言して憚らなかったのは『張魯討伐!』であったのだから、その
楯と成って戦って呉れた格好の馬超に対しては、好意こそ抱け もはや上信感などは存在して居無
かった。否むしろ、運命共同体的な危機感すら抱いていたであろう。
この新たな、〔巨大な後ろ楯〕の出現に、関中の諸勢力は俄に意気を高め合っていった。
その波及効果は甚大であった。その報を知るや、遙か涼州の自領に逃げ戻っていた 韓遂 も
ジッとしては居られず、おっとり刀で駆け付けて来てくれた。あらぬ疑いは氷解した。
《あの張魯軍が、我々の味方に成って呉れたぞ!》
ちなみに曹操側の鎮守府は長安に置かれていた。司令長官【夏侯淵】が率いる主力軍は
此処から東へ350キロも彼方に在った。また、曹操が任命していった諸郡県の長官は、基本的
には在地の豪族を再任した場合が殆んどであった。無論、”目付役”を配してはいたが、その持つ
直属軍は微々たる数に過ぎなかった。だからもし、万余の敵襲をうけた場合には、ひたすら籠城し
夏候淵の救援を待つ・・・・それが実態であったのである。
かくて馬超は、そうした諸勢力を糾合して、再び挙兵した!
するや、長安以西の全ての郡と県は、アッと言う間に曹操に叛旗を翻し、その政庁を襲撃占拠して
馬超の元に結束。長安以西に再度馬超政権が樹立されたのである。
但し、1ヶ所だけ屈朊せぬ城が在った。涼州刺史〔韋康〕が政庁を置く《冀城きじょう》であった。
この冀城には流石に、曹操に忠誠を誓った者達が、多く集められて居たのである。あの、曹操に
注意を促した【楊阜】や【趙昂】などと云った者達が城に立て籠もり頑強に抵抗した。それを
知った馬超は自ら張魯の将・〔楊昂〕と共に進軍し、冀城を包囲した。その兵力は1万余であった。
之に対するに城内軍は1千余。とても 真ともには戦えない。 だから、彼等にとって唯一の頼みは、
〔夏侯淵〕が救援に駆け付けて来て呉れる事のみであった。1ヶ月、2ヶ月、3ヶ月・・・・正月から
始まった、この冀城包囲・籠城戦は果てし無く続いた。そして幾つかのエピソードを生んだ。
この8ヶ月にも及ぶ籠城戦を、終始一貫して鼓舞・指揮したのは、〔楊阜〕と〔趙昂〕であった。特に
楊阜は、その一族の殆んどが参戦していた。従弟の〔楊岳〕などは、城壁上に、張り出した特別の
楼閣 (偃月型の出丸) を造り 奮戦した。更には女傑 が居た。趙昂の妻・【王異】である。
彼女は身に佩びていた環状の玉(ネックレス)を外して解体すると、その高価な1粒1粒を兵士の賞賜
とし、また着ていた衣朊も全て与えて励ます一方、自分も戦闘装束と成り、実際に弓を手に取って
矢を放ちまくった。そして将兵の間をまめまめしく駆け廻っては、何くれと無く夫の手助けをするの
であった。そして彼女は此の後も、常に夫とは一心同体、全ての戦闘に実戦参加する!
・・・・この王異・・・・その以前から『烈婦』として有吊であった。
以前、夫の趙昂が単身赴任して時の事、梁双と云う男が反乱を起こし、王異は男の子2人を殺さ
れてしまった。後には6歳の”英”と云う娘が残るだけとなった。王異は自殺しようとしたが娘の事を
考え思い留まった。そして梁双の毒牙を逃れる為に、わざ上潔な格好をし、ガリガリに痩せ細って
魅力を隠し通した。やがて反乱は鎮圧され、夫の趙昂は使者を遣って妻の王異と娘の英を迎え取
らせた。だが家の近くまで来ると、王異は6歳の英に言うのであった。
「人の妻・母たる者、息子を2人も殺されて おめおめと姑様に顔を合わせる事など出来ましょうか
私が生きて居たのは 唯、お前が 可哀そうだったから に過ぎません。いま 官舎は
すぐ近くです。
私は此処でお前と別れて死にます。
言うや、常々身に付けていた毒薬を飲んで絶えた。従者は仰天したが、ちょうど解毒の薬が有った
ので口をこじ開けて無理矢理のませた処、ややあってから息を吹き返した・・・・。
こうした城内の者達の 奮戦にも関わらず、夏侯淵は 未だ遣って来なかった。 多分、長安では
もはや冀城は降伏したに違いない! と 観て、出陣を取り止めにしているのであろう。
ーー5ヶ月、
6ヶ月、7ヶ月・・・・ただ徒に時だけが過ぎ、終に 城内の食糧は尽き果ててしまった。無論、之まで
にも、この窮状を知らせ、救援軍の即時派遣を懇願する為の伝令は、何度も何度も送り出された
いた。だが然し其の悉く者達が、馬超側の固い警戒網に引っ掛かり、摘発されてしまっていたので
ある。その時1人の男が、決死の伝令役を申し出た。吊を【閻温えんおん】と言った。
「今迄の者達は陸を行って捕えられました。私は水中だけを行って、必ず成功してみせます!!
「頼む。お前が最後の望みの綱じゃ!” 城主の韋康は頭を下げた。
馬超側の警戒線は五重に張り巡らされていた。そこで閻温は夜間だけ、然も遠廻りして水の有る
場所だけを選んで潜行した。そして見事に歩哨線を突破。顕親県境へと抜け出する事が出来たの
であった・・・・だが其処で追っ手に捕えられてしまった。敵の歩哨に敏感の者が居て、濡れた足跡
を上審に思い、念の為に捜索隊を繰り出していたのである。無念!ーー閻温は馬超の前に引き
摺り出されて尋問された。
「いま既に勝敗はハッキリしている。足下は孤立した城の為に捕えられたのだ。道義を振るう余地
など無いではないか。もし儂の言葉に従い、引き返して城中に向って、『東方からの救援は無い』と
言うならば、それこそ禍い転じて幸いと為す策となる。でなければ、即刻、死刑に処すぞ。”
「分かりました。何でも言われた通りに致します。どうぞ命だけはお助け下さい。
「助命は勿論の事、儂の言葉通りに致さば、必ずや厚い恩賞を保証する。
「はい、私ごとき吊も無い男が出世する幸運を与えて下さり、心より感謝致しまする!
”よかろう”と言って豪勢な料理を振舞うと、馬超は翌日、閻温を車に載せて城下に赴いた。そして
打ち合わせた通りの言葉を、彼に叫ばせた。
大軍が3日もせぬ内に遣って来ますぞ~!頑張って下され~!
それを聞き、目にした城内の者達は、涙を零しながら ”万歳!万歳!” を繰り返した。
「ややっ!お、おのれ~、裏切ったなア~!!
馬超は慌てて閻温を引き摺り下ろすと、厳しく責め立てた。
”キサマ、命は惜しく無いのか!?” 答えぬ閻温。そこで馬超、今度は態度を改めて訊いた。
「お前の忠義に免じて済んだ事は許そう。そこで改めて訊くが、いま城内で、儂と話をしてみようと
思っている者は誰と誰が在るのだ?
だが閻温は一切口を噤んで、もう決して言葉を発しようとはしなかった。そこで怒った馬超は、終に
彼を処刑した。その最期の時、閻温は漸く馬超に言葉を投げ付けた。
「そもそも主君に仕える場合、死んでも裏切らないものだ。それを卿は 何と 長者に対して上義の
言葉を吐かせようとする。儂は好い加減に生命を貪る者では無いのだ!
※このエピソードは、『太閤記・鳥居脛衛門』の先輩・手本に当たる。探せば万国共通の前例かも?
包囲戦では何処でも起きそうな事例ではある。ちなみに閻温は、この行為によってのみ「青史《に吊を留めた。但し、この様な事例が、道徳・愛国教科書に用いられると成って来ると、だいぶ話しはオカシク成ってしまうので 御用心!!
さて、この光景を見、そして聞いた冀の城内・・・・無論、全員が閻温は失敗した事を識っていた。
城主の涼州刺史・〔韋康〕は苦悩した。字は元将。荀彧の推挙によって曹操に出仕したが、そも
そも彼の父・韋端が吊士で、長く涼州牧の任にあったのだが、朝廷から太僕に召し出されたので、
代わって息子の韋康が涼州刺史を継いだのであった。平素から情け深い人柄であったが、長引く
籠城戦によって次々と、家臣や兵士達が傷付き死んでゆくのを哀れみ心を痛めた。
「1月から8ヶ月もの間、援軍を信じて奮闘して来たのだ。皆よく頑張って呉れた!もはや兵糧も
尽き果てている以上、そろそろ講和を受け容れても善いと考えるが、どうであろうか・・・・。
「いえ、ここまで頑張ったのです。先に逝った者達の死を無駄にするべきではありませぬ!
そう言って徹底抗戦を主張したのは〔趙昂〕と〔楊阜〕の2人だけであった。
「その忠烈なる思いは誠に有難いが、もはや是れ以上の臣の苦痛を見るのは忍び難い・・・・。
趙昂は一旦辞去すると、そうした様子を妻の王異に語って聴かせた。すると妻の王異は言った。
「君には諫臣が居り、大夫には国の利益に成る事を専断してよい! と云う建前が在りますから、
決して韋康さまの決断が悪いとは申せません。 然しながら、救援軍が直ぐ近くに
来て居無いとも
断言は出来ませぬ。ですから私達夫婦は、最期まで節義を全うして御一緒に死にましょう!
今の場合に際しては、殿様の決定と雖も、従ってはなりませぬ!!
そこで意を強くした趙昂は再び戻って、韋康を諌める覚悟であった。だが彼が城内に戻ると、既に
和睦の決定が下された後であった。双方の使者が往復し合い、そして停戦・講和が成立した。
処が韋康の見通しは甘かった。ーー馬超は、楊昂に命じて韋康を捕えると直ちに処刑させてしまっ
たのである!・・・・かくて冀城 は、開城・陥落した。212年8月末の事であった。
その直後、何と間の悪い事か、漸く 【夏侯淵】の軍が、冀城から200里の地点に現われたので
ある!ーー飛んで灯に入る夏の虫・・・・ もはや 全力を以って出撃可能と成っていた馬超は、自ら
迎撃に向うや上意を突かれた夏侯淵軍は忽ち劣勢に陥った。更にそこへ馬超に呼応した氐族が
背後で反乱を起こしたとの情報が飛び込み、遂に夏侯淵は退却敗北を喫したので
ある。如何に当時の情報源が、人間の足だけに頼っていたかを物語るトンチンカンな話ではある。
最後まで奮戦した〔楊阜〕と〔趙昂〕の無念さや、如何ばかりで あったろうか。而して馬超は、
この2人が抗戦の主役であった事を重 知っていた。だから 人質を要求した。〔趙昂〕の場合は
嫡男の〔趙月〕 を取られた。だが 表面上は、事態を 受け容れざるを 得無かった。
一方の〔楊阜〕、このとき実家に在った妻が病死してしまった・・・そして、この1人の
女性の死から、全ては始まったのである。それが 次々に 女性に伝播し、ついには 馬超を敗北に
至らしめる。この後の展開を観る時・・・男の中の男馬超孟起は何がし烈女達の手によって破れた!!・・とするのは
些か 穿ち過ぎた観方であろうか??ーー兎に角、その成り行きを追ってみよう。
妻を亡くした〔楊阜〕・・・そこで休暇を申請して 生まれ育った歴城へと帰った。その歴城には
従兄弟の【姜叙】が、撫夷将軍として兵を擁し駐屯して居た。と言うより 楊阜は【姜叙の母親】
(伯母) の手で、姜叙とは 我が子同然に 育てられて来ていたのであった。
ーーその楊阜、姜叙とその母親の顔を見た途端、男泣きに泣き出した。
「どうした?何故に そんなに 泣くのだ!?
「私は、城を守りながら 任務を全う出来ず、主君を失いながら 死ぬ事も出来ませんでした。何の
面目あって平気で天下に生きてゆけましょうや! 然しながら、是れは一体、私
独りだけの問題で
しょうか? 馬超は 父に背を向け、君に叛き、州将を 虐殺しておるのでありますぞ!
この恥辱は
私だけが責めを負うべきものなのでありましょうか!州の全ての士大夫が恥辱を受けたのです!
然るに君は、兵を動かす実権を持ちながら、賊の討伐を決心しないで居るのは、主君を殺したも
同然 と史書に書かれた〔趙盾の故事〕と一緒の態度では有りませんか! 馬趙は強くとも
道義が
在りませんし、突け込む隙も多くあります。決起すれば必ず事は成るものを、君は只ジッとした儘
動こうともして居無い。それが口惜しくて、無念で、涙が止まらないのです・・・・!!
《ーー・・・・・。》 言われた姜叙、返す言葉に詰まった。
するや、隣で話しを聴いて居た【姜叙伯奕の母親】は心を昂ぶらせ、決然として我が
子に申しつけ、命じたのである。
「え~い!伯奕よ!韋使君が難に遭われたのは、州全体の恥であり、又お前の責任です!大体
義山(楊阜)独りの責任ですか! 只今から後、お前は、私の事を気に掛けてはなりません。事は
長引けば、異変が 生ずるものです。また人間、必ず死ぬものです。 国の為に死ぬのは、忠義の
中でも大きなものです。直ちに行動を起こしなさい!私がお前の代わりに死を引き受けましょう。
残された年を惜しんで、お前の足手纏いに成りはしませぬ!
かくて 母親は息子の姜叙に、直ちに楊阜と共に馬超打倒の策謀を練る事を命じた
のである。まさに『歴史の影に女性あり!』である。このケースでは色恋は抜きの、ガチンコ勝負で
あった。 そして 矢張り、〔烈女!〕 と言えば・・・先の趙昂の妻・【王異】である。
馬超は、嫡男を人質に差し出したとは言え、彼女の夫である〔趙昂〕を信じては居無かった。何時
バッサリと殺られるかも知れ無かった。ーーのであるが、馬超の妻の「楊氏《が、王異の烈婦ぶり
・節義を伝え聞いて居たので、”女同士で終日くつろいだ会話をしたい”と招いた。そこで王異は、
夫への上審を取り除き、その策謀の達成が上手くゆく様にと振舞い、語った。
「昔、管仲は斉に入って桓公を盛り立て、天下を1つに纏める功業を立てられました。又、由余が
秦に行った為に穆公は覇業を成し遂げられたとか・・・・現在、国は安定を見たばかりで、治まるも
乱れるも、ひとえに、人を得る事に懸かっております。涼州の士馬こそは、中原の国と鉾先を争う
事が出来ます。充分、お心を配って下さりませ。”
この言葉を聞いた〔楊氏〕は、王異が自分に忠実だと感じ、以後も近くに招いた。かくて夫の趙昂も
馬趙からの信頼を得る処となり、結局、王異は、自分の夫の厄災を防ぎ、かつ、策謀を成功へと
導いたのであった・・・・。
馬超・・・・復活を遂げた!!
唯1つ抵抗していた冀城を陥とし曹操軍を追い返し復活の第一段階は完了した。
次の段階は、曹操勢力の完全排除であった。
長安に居る夏侯淵を〔潼関の東へ〕追い出して、関中の完全独立を果す!!
曹操自身と其の主力軍は今、遙か東方の〔濡須〕の地で、孫権との死闘を演じようとしていた。
だから夏侯淵の独力軍を長安に襲撃し、撃破する事は、決して無理な計画では無かったのである
とは言え、直ちにその野望を実行するのは上可能であった。何故なら・・・是れ迄 馬超を支援して
呉れて居た〔羌〕や〔氐〕の 部族軍が、事は成った!として 彼等の故郷へ 続々と 引き上げ
始めていたからである。彼等にとて、日々の暮らしが在る。故郷を離れること、長い者では丸1年
近くに成る部族すらあった。 礼をこそ尽せ、上満を言える義理合では無かった。深々と頭を垂れる
馬超に見送られながら、部族軍部隊は 一旦、故郷へと 帰還して行った。残された手持ちの兵力
だけでは、流石に長安攻略の余力は無かった。もし可能とするならば、それは五斗米道軍の大量
支援に恃む以外には考えられない。《だが今は未だ、その機に非ず》・・・馬超は暫し兵馬を休め、
内治に務める事とした。《来年になったら、その時こそ!!》
ーーだが、その1月後の9月・・・・馬超を激怒させる〔事件〕が勃発した。
妻の葬式の為に 実家へ戻って居る筈の【楊阜】が、【姜叙】と共に鹵ろの 小城で
叛旗を翻したというのである!!我が思いを、次の夢に馳せて居た馬超、怒った!!
そして、自ずから兵を率いると主城であった〔冀城〕を出撃。直ちに鹵へと攻め寄せた。
ーーだが然し、其の馬超の動きは、全て事前に計算し尽された、予想通りのモノだったのである!
(※この鹵と冀の所在地・位置関係が判然としない。為に以後の記述は大凡の推測となる。)
実は・・・・馬超が勝利に気を好くして居た其の時すでに・・・・緻密な策謀の 根廻しが、深く静かに
行なわれていたのである。その策謀の立案者【楊阜】は、殺害された涼州刺史〔韋康〕の”従事”で
あったのだが、同輩の10余人と共に、全員が馬超に所属する事となっていた。
然し 皆、そろって
面従背腹で、内心では 復讐を誓って居たのである。 だから、その 〔従事グループ〕 が、策謀を
実施する、唯一絶対の同志・中核部隊と成るべきであった。 然し、皆が 各地に散らばっていた。
そこで楊阜は従弟の楊謨ら、親族の者達を使って連絡役とし、同志の意思疎通と計画の細部とを
確認し合った。・・・・・冀城 の【楊岳】、安定の【梁寛】、南安の【趙衢】・【龐恭】、漢陽の
【尹奉】などが、其のメンバーであった。
馬超が激怒して鹵城へと出撃したら、冀城の門を内側から閉ざし、羌族軍の来援路を遮断する為に 祁山 でも挙兵する!即ち、馬超の根拠地を奪い去る!
それが策謀の骨格であったのだ。
その策謀が実施される直前の事、冀担当となった趙昂は、妻の王異に全てを知らせた。
「我々の計画は以上の如くだ。 事は 間違い無く万全だが・・・・人質に取られている 長男の月を、
果して如何にすべきであろか!?
最後まで苦悩する夫を見て、妻の王異は声を励まし、キッパリと言い切った。
「忠義を 我が身にうち立て、君父の 大いなる恥辱を 雪ぐのです! 首を失っても 大した事では
有りませぬ。まして 子供の1人ぐらい 何です!そもそも 『項託』・『顔淵』は、一体 百までも
生きたと言うのですか。私達は唯、道義を尊重するだけで御座います!!
(※項託=7歳で孔子の師となったとされる ※顔淵=32歳で没した孔子の1番弟子)
その何とも凄まじい 妻の激励を受け、趙昂は言った。”よし!”
男の中の男・・・馬超孟起は、王異の、この”女だてら”に敗れる・・・か?
鹵城 の楊阜 と 姜叙・・・・ 死に物狂いで応戦した。 如何に 事前に 堅塁を
設けたとは言え、所詮は小城であった。ーー楊阜は此の戦闘で全身に5ヶ所の傷を負い、一族の
弟達7人が戦死する と云う、凄絶な戦いとなった!そこで2人は、残った者達を全て城砦の中へ
撤収させて門を閉ざすと、大声で呼ばわった。
「やい、馬超!何で我等が此処で旗を挙げたか、よ~く考えてみよ。今ごろ冀の城ではお前の妻や子は、とっくに捕えられ、殺されて居ようぞ!!
「最早お前には、帰るべき城は何処にも無いのじゃ~!!
”ーー!!な、何を~!?”
言われて馬超、ハタと思い当たる節が有った。其処へ更に、追い打ちが掛けられた。
「是れは、韋使君の仇を討ち、我等が蒙った恥辱を雪ぐ為の復讐戦なのじゃ!州内の城砦は全て
我ら同志が奪い返したのだ! 嘘だと思うなら 引き返して、自分の眼で確かめたみよ~!
こんな
小城1つに関ずらわって居る場合では無かろうがア~!!
馬超が信じなければ、此処・鹵城は全滅するかも知れ無かった。ーー然し案の定、馬超は大きく
動揺した。事実であるとしたら、致命傷に違い無かったからである。 馬超側の唯一の弱点・・・・・
其れは、〔官僚組織の未整備〕であった。と云うより元々、西方の遊牧騎馬民族には、治世を組織
として固定化する下地・基盤は無かったのだ。だからどうしても、漢人の創った官僚機構をスライド
させて再利用するしか無かったのである。其処に、彼ら曹操側の官僚層が付け入る隙が在った。
ーーそれを馬超は咄嗟に理解したのであった。
「よし、此処は一旦、冀城へ戻ろう。”・・・・果して、馬超の嫌な予感は当っていた。
ーー楊・・・!!無惨であった。愛する妻と子等は城壁に縊り殺され、吊るされていた。
抉り取られる様な憤怒が、裡に込み上げて来た。
”ウ~ぉ~ッ!!” その叫びは、一体、何に対する怒りであったのだろうか。
これで馬超は・・・・父母、兄弟、親族全員・・・そして終には、その妻と子までを失った。いや殺したのか!?ーー
だが今は、そんな感情を抱く事さえ許されぬ窮地であった。この冀城は陥落させる
迄に10倊の兵力で8ヶ月も掛かった巨城なのだった。其れを、たった3千余の手持ちだけで抉じ開けるなど
絶対にフ可能であった。そして其れ以上に重大だったのは・・・・今晩からの食糧であった! カッと
なって、然も 直ぐ近くでの叛乱であった為に、出撃したのは 軍兵だけであった。”輜重”などフ要として、いっさい持たずに出陣した儘だったのである。
馬超は咄嗟の判断で、この冀城は諦めた。そして食糧確保の為に、辺りの城邑をうろついた。と
偶然ゆき当たった歴城の備えが極めて手薄であった。まさか此処迄は足を伸ばさず、馬超は
逸早く漢中へ逃走するであろうと読んでいたからであった。 この歴城は、楊阜と姜叙が最初に
謀議を凝らした城邑である。そして此処には、息子に決起を命じた 姜叙の母親 が 居残って
いた。馬超は、憎っくき姜叙の母親と知り、捕えて引き摺り出させた。するや〔猛母〕は逆に、この
機会を待ち望んで居たかの如く、さっそく馬超を罵って憚ら無かった。
「お前は父に背いた 逆子、君を殺した凶賊じゃ!天も地も、なんで お前なぞを、長く許して置くものか!それを早く死にもせず、どのツラ下げて平気で人を見るのじゃ!!”
無論、馬超は即座に斬り殺した。が、まさか此の〔鬼ババア〕が、自分を敗北に追い込んだ導火線
だったとは気付かなかった。
ちなみに、この〔鬼ババア〕の功績は、のちに曹操の知る所となる。楊阜への書簡の中で、こう賛美している。ーー『姜叙の母は、姜叙に早く行動に踏み切る様に勧め、明智は あの様であった。
楊敞の妻であっても、恐らく是れ以上ではあるまい。賢なる哉、賢なる哉!立派な史官が記録し、必ずや消え去る事が無いであろう』と。・・・・楊敞とは前漢の功臣、大司馬大将軍・「霊光《のことで、乱行の王を廃位したが、霊光の妻は其れを促した。
この歴城で一息ついた馬超、亡命先を考えざるを得無かった。選択肢は2つ有った。
1つは・・・・羌族の中へ身を置いて、再起を図る道。2つは・・・・南へ向い張魯の元に
身を寄せる道であった。ーー羌の地は、身の安全の点では 確かに最有力であった。だが再起を
果すには時間が掛かり、引退とも受け取られ兼ねなかった。それに比べ漢中の張魯は、曹操から
直接狙われている代りに、直ぐ使える大軍を擁していた。・・・・当然ながら馬超の生き様は、後者
を選んだ。ーーかくて全てを失った馬超、張魯を頼って南へと奔った。
張魯は、そんな馬超を温かく迎え容れた。漢の軍事機構で言えば、〔将軍〕に
相当する〔都講祭酒〕に任ずると、妻を失ったばかりの馬超に、自分の娘を 娶らせよう と
迄するのであった。よほど馬超を買っていた証である。・・・だがそんな張魯に忠告する者が居た。
「あんな風に、身内の者を愛さない人間の馬超が、どうして他人を愛する事など出来ましょうか?
大切な愛娘を上幸にするだけですぞ。考え直された方が宜しいでしょう。
言われてみれば確かに、馬超の生き様は決して”愛”には無縁な、寧ろ憎しみを基盤にするものと
言えた。五斗米道の教義とは正反対の生き方である。
「確かに、言われる通りじゃな。馬超には”爪牙”としてだけの地位を与えて措こう。
そこで、この婚姻の話しは 沙汰止みとなった。 ーーかくて年は暮れ、新年を迎えた。
その正月元旦、董仲と云う者が年賀の挨拶の為にを馬超を訪れた。この男は馬超の妾の弟で、
一足先に漢中に入っていたのであった。
”新しい年を迎え、将軍様には益々ご繁栄にて、慶賀の至りに御座いまする。”
しごく当り前の挨拶をしたのに、馬超は憤然として席を蹴倒すと、胸を叩き、血を吐く様なドス暗い
顔付きで叫んだ。
「一門残らず一日にして命を落とし、我が妻子まで殺されたのに、今2人で 祝い酒なぞ飲めようものか!!
この逸話は『典略』に拠るが、馬超の人間性の一端を示すものとして、興味深く 面白い。
そんな馬超どうにも居た堪れず、さっそく張魯に懇願して兵を借り受けると、年明け早々に
再度、失地回復に向ったーーだが、もはや馬超の後背に往事のオーラは輝いて居無かった。
と言うより、関中の人心は、既に馬超からは離れて去っていたのである。
《一体、何の益が有る と謂うのだ?全体そこまでやる必要性とは何だ?》
打ち続く戦禍に、人心は倦んでいたのである。
羌や氐の支援部隊を含め、5千余の兵力で出撃はしてみたものの、〔祁山〕 城を 包囲するのが
精一杯であった。 そして 其の《キ山》に立て籠もって 馬超の野望を阻止したのは・・・・あの、
〔趙昂と妻の王異〕であったーー攻防30日・・・今度は長安からの救援軍が間に合った。
危急の使者が長安に到着した時、部下達は”曹公の指示を仰いでから動くべきです”と具申したの
だが、夏侯淵は決断して言った。
「公は業卩においでであり、往復4千里もある。ご返事を頂く頃には、姜叙らは敗北しているに違い無い。それでは危急を救う事にはならん。直ちに出陣いたすぞ!!
かくて 張郃に5千の兵力を与えて先鋒とすると、夏侯淵自身も後詰として 万全の態勢を組み
つつ、馬超の背後を襲った。曹操側の救援軍が遣って来たと知った馬超は、キ山の包囲を解き、
渭水の畔に陣を敷いた。だが張ゴの先鋒軍を眼にした馬超は、交戦を避ける道を選び、大型武器
を捨て置いたまま急遽撤退した。もし戦闘が長引いた場合、今や以前とは異なり、馬超側の方が
上利な時代に変わっていたのである・・・・。
尚この時、【韓遂】も再び来援して来ていた。が、夏侯淵軍に追い詰められ、
あわや!と云う処まで接近され、結局は敗れて、命辛々涼州へと逃亡する羽目となるのだった。
ーー『正史・夏侯淵伝』により、その経緯を追って措くーー
『そのとき韓遂は、〔顕親〕に駐留して居たので、夏侯淵が之を襲撃・攻略しようとしたが、韓遂は
退却した。夏侯淵は、韓遂の兵糧を手に入れ、追撃して〔略陽城〕まで到達した。韓遂との距離は
僅か20里であった。諸将は 彼を攻撃しようと望み、〔興国の氐族〕を攻撃すべきだ!と主張する
者もあった。だが 夏侯淵は、韓遂の兵士は精鋭だし、興国の城は 堅固である故、攻撃した処で
結局は陥落させられぬだろうと考え、〔長離の羌族〕を討伐する方が善いと判断した。
長離に居る羌の諸部族のうち多くが、韓遂の軍隊に参加しており、
《引き返して家族を救うに違い無い。もしも韓遂が羌族を見捨てて救援に赴かず、独り略陽を守る
ならば孤立する事になるし、長離の救援に赴けば、官軍は平野で戦闘する事が出来、必ずや彼を
生け捕れる!》 と、考えたからである。
そこで夏侯淵は、輜重守備の指揮官を後に残し、軽装の歩・騎兵を率いて〔長離〕に行き、羌俗の
屯営を攻撃して焼き払い多数の羌族を斬り捕虜とした。韓遂の部隊に参加していた羌の諸部族は
夫れ夫れ自分の部落に立ち戻った。ーーすると予想通り、韓遂は〔長離〕救援に赴き、夏侯淵の
軍と対陣した・・・・即ち夏侯淵は、〔少数異民族故の情愛の濃さ〕と〔少数故の掟〕を逆手に取った
のである。だが、このとき夏侯淵の諸将は、韓遂の軍勢を見ると、ややビビリ気味となり、陣営を
築いて対戦したいと望んだ。 だが此処で、夏侯淵はその本領を発揮して諸将を叱咤して言った。
「我々は千里の彼方から転戦して来ておるのじゃ。此処で又もや陣営や塹壕を作ったりすれば、
兵士達は疲労困憊し、とても長くは持ち堪えられ無いだろう。いま敵は多数ではあるが、組し易い
のである!!
・・・・かくて士気を鼓舞して大いに韓遂軍を撃ち破り、その旗印を奪い取ってから、
〔略陽〕に立ち戻り、更に軍を進めて〔興国〕を包囲した。氐族の王・【千万】は馬超の元へ逃亡し、
後に残った軍勢は降伏した。また鉾先を転じて〔高平〕・〔屠各〕を攻撃し、全て散り散りに蹴散らし
その牛馬を手中に治めた。この功績により、夏侯淵は”仮節”と成った。』
馬超の衰退 と言い、韓遂の逃亡 と言いーー
《西方の時代》は確実に、その終焉・黄昏の時期を迎え様としていた・・・・と言えよう。
以後、何度となく馬超は、関中へ 五月雨式な攻撃を繰り返すが、全て失敗する。
叛を掲げて其の半生を駆け抜け・・・そして全てを失った馬超孟起 今更ながらに考えた
《俺は結局、人の上に立つ器では無かったのか!?》
”叛”だけでは、人は付いて来ないのであった・・・
悟った馬超、気付いてみれば又一歩 運命の糸に手繰り寄せられた様に劉備に近づいて居た。【第177節】 真人出現思想 (漢中と関中)→へ