第175節
カッコウの攪卵
                               飲めや歌えの百日宴
カッコウ凶鳥である。他人の巣に卵を産みつける。 ヒドイ場合には、1つの巣に3~4羽の異腹の親が子を産んで知らん顔する。之を攪卵と言う。
(学術上の正式な言い方は托卵である。然し本書は文学的表現として、敢えて《托す》のでは無く 《攪乱する》 の字を用いる) 更に驚くべきは親鳥も然る事ながら、その産み付けられたヒナが 是れ亦、凄まじい。他種鳥 の卵 よりも、必ず1~2日前に孵化し、その途端、目も開かぬ 孵化したばかりの状態で、己の背中に 全力を込め、自分以外の卵を全て巣の外に押し出して墜落させてしまう。万が一孵化が遅れて他種類の雛が孵化してしまった場合には、押し競饅頭で墜落死させる 同族の郭公同士が孵化した場合でも例外では無い。己以外の異腹の雛と争い唯1羽だけが巣を独占するまでサバイバルを貫徹する。
生まれ落ちたヒナの瞬間に先ずやる事が殺人
(殺鳥)なのである!
その後は、真っ赤な咽を究極まで広げ続けて媚を売り、他人の母性本能を擽っては餌を受け続け
遂に
他者を騙し通して巣立ち、独立する・・・・。
森の王者 然として、大きな顔で 〔カッコウ~!カッコウ~!〕 と 鳴き声を木霊させている 郭公が、
全てそうした凶悪な本能で出生して来た実態を識った後では、何だか気味の悪い怖気に襲われる
古人が
《凶鳥》とした所以も 頷けようと謂うものである。

その一方、騙され続けて 巣を奪われ、さんざん苦労して他人を育て上げる、そのバカ な親鳥こそ
いい面の皮である。今この場合 ”バカ” と謂えば、それは【劉璋】を指す。では何故馬鹿なのか?

何故に劉璋は暗愚と言われてしまうのか!?
本当に 彼は 無能だったのか
??

それを判断・推測でき得る であろう 史料が、補注の『英雄記』に載っている。

これより以前に、南陽・三輔の人々が 数万家族も 益州に流れ込んで居たが、それ等の人々を集めて兵士とし、〔東州兵〕 と吊付けた。 劉璋は、其の性格が優柔上断で威厳が無く、東州人が其の地に古くから住んで居る民衆を 侵害しても、取締る事が出来ず、また 政令にも欠ける処が多かったので、益州の住民は 随分と怨みに思って居た。 趙韓が かねてから 人々の心を掴んでいたので、劉璋は趙韓に此の問題を任せたが、趙韓は民の怨嗟を利用して謀叛を企み、荊州に手厚い賄賂を送って和睦を請うと共に密かに州内の豪族と手を結び、彼等と共に挙兵し、引き返して劉璋を攻撃した。 蜀は趙韓を恐れ、みな心を一つに力を合せて劉璋を助け、誰も彼も必死になって戦った結果、反逆者を撃破し、進軍して江州城に居る趙韓を攻撃した。趙韓の配下の部将であったホ統・李異らは寝返って趙韓を斬殺した。

詰り、劉璋は・・・
急激な人口爆発・大量の難民問題に直面させられた
のである。何しろ、当時の日本の総人口の1、5ばいに相当する300万人もが、戦禍を逃れてドッと

押し寄せて来たのであるから手の施し様が無かった・・・と云うわけだ。然も、その先進地域からの

難民達(東州人)の中には寧ろ有能な者達が多く、忽ち劉璋政権内にも喰いこみ、軍事的にも1大

勢力を形成していった。当然そこには、先住していた地元豪族との権益を巡る軋轢が生じた・・・・。

こんな深刻な大問題を前にしては、それが劉璋で無く誰であっても、解決困難は無理と云うもので

あろう。『政令にも欠ける処が多かったので』 などと、如何にも劉璋1人だけが暗愚であった様な

書き方をされているが、それは重臣達の総力を挙げても追いつかぬ程の難問であった!と云う事

でもある。万策尽き、結局は
内乱勃発を招きかろうじて外来勢力の〔東州人〕の力を借りて

やっとこ鎮圧に成功したーーだが、旧来からの権益を失った地元豪族の中には、今でも劉璋に対

する上満と怨みが渦巻いて居た・・・・それを暗愚と呼ぶ立場の人物達も多かった・・・・のである。

いずれにせよ、劉璋個人に対しては、恩顧を感ずる者は少なかった訳である。総合すれば豊かに

見える益州も、その内情は、利害関係のみに拠って保たれている、何とも危うい基盤の上に、かろ

うじて国の体裁を成立させていたに過ぎぬのであった。ーーそこに、外部から来た者が新人君主と

して、スンナリと向かえ入れられる土壌が在った!! シビアに言えば、抗争を上手く裁いた上で、

己の権益をしっかり保証して呉れるなら誰でもよかった。いや、そう云う君主をこそ望む下地・情勢

が既に用意されていたのである。

そう云う大掛かりで大規模なゴタゴタや揉め事を、四方丸く治めて 紊得させる能力や人格・・・・

それが
である。そのゴタゴタの集団が小さければ〔親分〕であり、中規模ならば〔豪族〕、

大きくなれば〔君主〕となる。然し片方だけに味方すれば
ではあっても、〔仁〕にはならない。

だから武人・
関羽義の人なのであり、人心収攬役の劉備仁の人なのである。

その揉め事解決の分野に於いては、劉備は若い頃から有能であった。

『儂は 戦争にゆくのでは無い。人間集めに 行くのじゃ!』 と言ったのは、その 自信の現われでも

あったのだ。【諸葛亮】も亦、そうした益州の内実を見抜いていたから、劉備の単独行を黙視した。

ところで
ミミズクは、親上孝おやふこうの鳥とされる。 いざと云う 窮地の追い込まれると
親を殺して餌にしてしまう!と謂われる。ミミズクは
ふくろうである。だから、軒先を借りておいて、 母屋に当る 主家を乗っ取る様な人物 の事を 梟雄きょうゆう と謂う。
劉備は梟雄である!・・・・観る人によっては、劉備とは、そう映る人物でもあった。
カッコウであるのか?? 梟雄であるのか?? はたまた仁者であるのか!?
カッコウ鳥



『劉璋は歩兵と騎兵の合計3万余人を率い、車の帷をキラキラと太陽に輝かせながら、
出迎えに行き会合した。 先主の率いる武将や兵士達は、代る代る出掛けて行って、
歓飲すること百余日に及んだ
劉璋は先主に張魯を討伐させる事とし、援助物資(米20万石・騎馬1千匹・
車1千乗・絹織物・錦・練り絹
) を与えてから別れた。』 ーー(劉璋伝)ーー

(FU)に着いたとき、劉璋みずからが出迎えに来て会見し、大そう歓待した。
劉璋は先主を行・大司馬
司隷校尉に推挙し、先主もまた劉璋を行・鎮西大将軍益州牧に推挙した。 劉璋は先主の兵を増強してやり、張魯を攻撃させる事とし、同時に白水関の指揮権を与えた。 先主は全軍あわせて3万余人、戦車・甲冑・武器・資材を豊富に持つ事となった。この年(211年)、劉璋は、成都に帰還した。』  ーー(先主伝)ーー



会見の内容については、後でジックリ検証する事として、先ずは、この大仰で御祭り騒ぎの光景を

想い浮かべて試て戴きたい。小さな培の城には、とても入りきらぬ大軍勢に大群衆。城を囲んでの

野営テントが、見渡す限りに密集している中ーー連日連夜、飲めや歌えのドンチャン騒ぎ。楽団や

雑技団に踊り子達。酒池肉林の出現であった!・・・・然もそれが3ヶ月以上続くのである!!

《ムフフ、饗応が1日でも長ければ長い程、其の分だけ、劉備の儂に対する恩義 (忠誠心) は強く

成るのじゃ!!》ーーそう考える事しか出来ぬ暮らしに在る劉璋こそ、”あはれ”と謂えば哀れでは

あるか??・・・・然もーーこの煌びやかで派手派手しい友好ムードの直ぐ裏側には、

ドス黒い陰謀が蠢いていた!のである・・・・が、それについても後でジックリ見よう。

ま、この際、そんな薄汚い裏側の事情には敢えて目を瞑り、一先ずは、その
百日宴に於ける、

雑談・エピソードの1部を紹介して措こう。


”コンチワ~ッす!!”

身の丈
尺のその大男は、勝手にズカズカと上がり込んで来た。

その容貌は甚だ魁偉!
龐統の宿舎での事であった。まあドンチャカ騒ぎの友好ムードで、

言わば無礼講の真っ最中だったから、初対面の者達が次から次へと挨拶に遣って来るのは当然

ではあった。様々な立場の、誰が来ても上思議は無かったのだが、その男は些か変わっていた。

当然ながら 先客が有って、
龐統は 応対して居る最中であった。 だが、新しい客人の到来と

あって中座して応対に立ち上がろうとした。と、その男は、ざっくばらんに言った。

「あ、いいから、いいから。おいらの事なら放っといて呉んな。ど~ぞ御ゆっくり、先客様とお話して居て下され。こっちはこっちで勝手にやらせて貰ってますから。

言うや、
レレレのレ??そのまんま、主人の背中を通り越して、な、何と、龐統のベッドの上に

寝っ転がってしまったではないか
!?・・・・唖然・茫然・愕然としたのは先客の方だった。

”高メイな、お知り合いの方・・・で 御座いますか?”

余りの振舞いに、先客はてっきり、その男が龐統とは実懇の 大人物 かと疑った。

”いえ、顔すら存知ませんが。”

”で、しょうナ。あの頭は・・・!?” ヒソヒソ声で喋る先客が指摘した彼の頭ー→カッパみたいに

テッペンの皿の部分が剃られていた。
髠刑こんけいである。

”ーーで、では、あ奴め、罪人の分際で・・・!?”

だが御本尊は、絶句する客の様子などには一切お構い無し。手枕状態で横たわった儘、ボリボリ

と胸元を掻きながら、傍若無人の大声で呼ばわった。

お~い、おいらにも酒!取り合えずは酒だけでいいっから、持って来てお呉んナよ~!〕

そのデカ声にびっくりした客人は、思わず振り向いた。

「あ、イヤ、どもどもスンマセン。気にせんで下され。酒さえ来れば、後はもう大人しくしてますから。
 あ、こりゃまた失敬、失敬!

・・・・ったく、図々しいったら有りゃせん、この男ーーそのnameを
彭漾えいようと言った。

益州の地元民であった。此の培
県の直ぐ南の〔広漢郡〕の出身。 人望は丸で無し!

彭漾は字を永年といい、広漢郡の人である。身長8尺、甚だ容貌魁偉であった。性格は驕慢で、

人をぞんざいに扱う事が多かった。
』・・・・とあるから、全く良いトコ無し。官職も州の”書佐”と云う

下っ端のペイペイに過ぎ無かった。然も、他人から悪口を告げられ、劉璋によって髠刑に処せられ

現在も労役囚として現役バリバリ?の進行形であった。

〔 あんなアホにゃあ、俺の素ん晴しさが判るめえ。〕 と常々思って居た処へ、劉備入蜀の噂。

《こいつぁ~一番、劉備んトコに雇われた方が、出世も出来るに違え無エわさ!》

と云う訳で、自分を売り込みに遣って来た、と云う次第であったのだった。

さて先客は、どうも居心地が悪くて落ち着かないので、早々に面談を切り上げ、また改めて後日に

出直す事として、楚楚草 (ソソクサ) と 帰って行った。

「や、こりゃ、どうも、どうも、お待たせ致しましたな!!

龐統とて、破茶目茶を好んだ水鏡先生の門下生。野放図さや野太さでは人後に落ちない。いや、

この方面では大先輩であったから、彭漾の振舞いの1つや2つで気を害する様な事も無かった。

するや彭漾、調子をこいて、のたくった。

「じっくり話し合う為には、先ず食事で御座ろう。美味い御馳走をタップリ味わい、その後で天下の事なぞ語らい合いたいモンですな!!

「いや~、ご尤も!お~い、御客人に料理を出して呉れ~!!

・・・・てな塩梅で意気投合。彭漾の野郎は2泊3日の食事付きで、龐統と話し込んだトサ。

こんな野郎の一体、何処に どう惚れ込んだのか 解らぬが、兎に角、龐統は すっかり彭漾が気に

入った。 聞けば、法正とは 一応の面識が有る と言う。そこで直ちに 法正を介添えにして、劉備に

面接させた。するや劉備も 2、3日付き合ってみた結果、やはり 彭漾が気に入ってしまい、試しに

各地への使者として用いてみると、是れがまた 結構ヤルではないか!

”宜しい。正式採用じゃ。重い役職を担って貰おう。頑張って呉れヨ!”

ーーで後々には何と、〔治中従事〕に大抜擢されてゆく。・・・・が独り、この胡散臭い彭漾と云う男を

上信の眼で見る人物が出て来る。
諸葛亮である。ーー何や彼やの経緯は後に語るが、結局

の処、この、囚人から一躍大臣に出世した彭漾は、謀叛の廉で牢屋へ逆戻りと成り涯てる。

筆者が何故、こんな詰まらぬ男を紹介したか?・・・・と言えば、それは、『正史・蜀書』の中に、この

〔彭漾伝〕が立てられているからである。 つまり、こんな詰まらない男までを、《伝》として立てざるを

得無い程、蜀には人材が乏しかったーーと云う事を識って戴きたかったので御座いマスル。

と同時に、諸葛亮が乗り出して来て、冷静な識別を為す迄の間、劉備は味噌も糞も一緒で、玉石

混交でも構わず、兎にも角にもガムシャラの勢いで、人材集めに奔走・精力を傾注していたーーと

云う事を言いたかったのでアリマスル。

 ”お~い玄ちゃん、元気してる~?”

遣って来ました
宴会大好き男の簡雍クン・・・・途中で行方知らずになっていたが、誰一人

として気にも留めて居無かった。それが宴会の匂いに誘われて、ちゃ~んと舞い戻って来た様だ。

「凄えナア~!豪勢だナア~!劉表さんチの宴会も凄かったけど、こりゃ又どうにも、ド偉えもんだ
ガヤ!好いナア~、ホント好いナア~!だからオイラ、玄ちゃんと一緒で良かった、良かった!!

「人の苦労も知らねえで、一体、何処ほっつき歩いてたんだヨ?

「やだナア、人聞きの悪い!玄ちゃんの、そう云うネガティブ発言、オイラ嫌いかな。

「へん、お生憎様!お前に嫌われたって痛くも痒くも無いワイ。

「あ、又そう云う事すぐ言うシ・・・・人が折角、物見遊山ついでに、玄ちゃんの事、吹聴してやってるノニさ・・・・オイラ拗ねちゃおうっカナ?

「あ・の・なあ~、お前が拗ねたってゼンゼ~ン可愛いく無いんだ
ケド

”ま、それもそっか。” 簡雍は専ら宣伝隊・外宣、広報担当であるらしい。

「で、何の用だヨ?用が無えんだったら、サッサと消えちまいな。

「言われ無くたって、そんなムサクルシイ顔、こっちだって見て居たくは無えモンネ~。

「ったく、相変わらずだな~!

「オモロイ男、1匹めっけた。”

「オモロイのは、お前一人で充分、間に合ってるワイ。

「そんな事、言っちゃってイイのかナア~??オイラよりもグ~ンと面白いんだゾ~!

とか何とか言いつつ、簡雍は振り向いて、紹介すべき相手を示した。ーー筈だったが・・・・

「アリャ、アレレ~?レレレ~のレ~??今さっき迄、オイラの横に居たのにナア??

ドンチャン騒ぎでごった返す大広間の最上席から、高手小手に探して見るとーー

「あ、居た居た!あの御仁で御座るヨ!

言われた劉備、首を伸ばして覗うが、辺りは人ごみ状態で判然としない。

「ほれ、ほれ。あの柱の根元に座ってる御仁ですワイ!

座って居るのでは無かった。ヘベレケに酔い潰れて、ミットも無い 状態で、顎が外れる程に大口を

開けた儘、鼻ぶくチョウチンで爆睡して居るのであった。

「人呼んで
眠り虚四郎で御座いまする!別吊を眠り熊のカッチャンと申しまして1日の内で目を開けて居られるのはホンノ時間。立った儘でも居眠りしてしまうと云う、全く珍しい御仁でありまするゾいや~、感心する程、よく眠る男で御座る

「ーー・・・・・あ・・・の・・・ナア~・・・・

このグウスカ眠りこけて居る男ーーnameは
何祗かし・・・字を君粛と言った。

若い頃は貧乏であったが、寛容で情に厚く、捌けた人柄で、体格は物凄く立派だった。また、よく
食べよく呑んで、音楽と女色を好み、節度を保つ事が無かった。
』 ーーわざわざ書かれると云う

のは 余っ程の事だから、もう羨ましい位の 《遊び人》 だったと云う訳である。

『その為、当時の人で彼を尊重する者は少なかった。その癖いつも朝会の時には、上司の楊洪の
隣りの席に座ったので、楊洪は、からかって言った。

「君の馬は一体、何うすれば走るのかネ?? すると何祗は平気で答えた。

「私の馬が走らないのは、ひとえに殿が未だ鞭を振るわないからですナ。”

或る時、井戸の中に桑が生えている夢を見たので、何祗は夢占いの趙直に訊ねると、

「桑は井戸の中の物では有りませんから、必ず椊え換えねばなりませぬ。しかも桑の字は四十の下に八を書きます。(
桑の俗字は)故に貴方の齢は多分、それ(48歳)以上には成らないでしょう。

〔ワハハハ、それだけ有れば充分じゃワイ。〕ーー後の事となるが・・・・初めは郡の役人として採用

されたが、やがて州牧属官と成り、《督軍従事
たぶん監獄の長官》と成る。処が元来からの遊び人間

仕事なんぞはソッチ除けで放蕩三昧。その噂を聞きつけたのが諸葛亮だったから、ふ意打ちでの

査察が行なわれた。然し其の前日、何祗を案じて呉れる奇特な者が、その情報を伝えて呉れた。

そこで何祗は急遽の事、囚人達の厖大な書類を取り寄せると、一夜漬けで彼等の罪状などを丸暗

記し、翌日の孔明の質問攻めにもスラスラすいっと返答して見せた。それで諸葛亮は彼を高く評価

して、多くの仕事を兼務させた。こうして認められた何祗だったが、その摘発・取調べに際しても、


彼は何時も居眠りをしていた
。にも関わらず、決める所は常にビシッと図星を突いた為、

悪人達は丸で魔法を使われている様だと恐れ慄き、やがて罪人の数は激減したのであった。また

人に算盤を持たして措いて、その読み上げる声を聞きながら暗算し、ついぞ間違う事は無かった。

彼の緻密さは是れ程であった。 蜀の版図には蛮民も含まれたが、何祗は漢人・蛮人の双方から

信頼された。趙直の夢占いの通り、
48歳で没した。』  ーー(益部耆旧伝・雑記)ーー

※このオモロイ人物のエピソードを『演義』が見逃す訳も無い。ちゃ~んと、《龐統登場の場面》に擦り変えて使っている。


”顔は草履を受ける地では無~い!”

吏卒は妻を鞭打つべき者では無いし、顔は草履を受ける地では無い!

そんな判決を下されて、処刑される事となるのは・・・・本節の《遊び人列伝?》を締め括る

劉琰である。字を威碩と言い魯国の人であった。こちらは、劉備が豫州に居た時から

の古参の遊び人。まあ、
簡雍クンの朋輩とも言うべき位置。いや其れ以下?で在った・・・・と

言った方が、簡雍クンには失礼では無いかも知れない。何せ、肩書だけは仰々しいものの、実質

的には
本物の居候・ただ飯喰らいで在り続けて来ていた。おん歳は定かでは無いが

結構な年齢である筈だ。

『先主が豫州に居た頃、召し出して従事としたが、同族の姓である事と、雅心が有り、談論を愛好

した為に、親愛され厚遇を受けた。かくて先主に随行して諸地を遍歴したが、常に賓客として側に

あった。・・・・(中略)・・・・後将軍、車騎将軍と昇進したが、国政には参与せず、ただ1千余の兵を

持ち、諸葛亮に随行して批評や建議をするだけであった。車馬・衣朊・飲食は奢侈を謳われ、侍女

数十人はみな歌や音楽が上手く、また全員に詩賦を教えて合唱させた。』

然し遂に、諸葛亮から詰問される事態を招き、陳謝する羽目に至る。ーーその文書ーー

『私は天性無内容で、元々から素行が悪い上に、酒乱癖が有りまして、とかくの物議を醸し、危うく
破滅する処でした。其処を 明公のお蔭で、俸禄・官位を保って戴いて参りました。先日は泥酔し、
誤った事を申しましたが、恩愛によって大目に見て下さり、司法の手に委ねられる事無く、一身を
全うさせ、生命を保たせて下さいました。必ず己を抑え、我が身を責め、過失を改め、命を捧げて
お誓い申しあげます。』

アララ~~である。が、肝腎なのは此の後の出来事である

話は大ぶ先走り、今から20余年も後の事になるのだが・・・・時は諸葛亮が没する年の事である。

代は蜀も
代目劉禅の時代となっていた。諸葛亮が命を削り、後出師の表最期の諫言状

奉って、五丈原出撃して征く寸前に、この事件は起こる。その内容たるや・・・・


ちょっとヤバイ!かなり深刻な
暗鬱たる事態を連想させる ものである。

『正月、劉琰の妻の
胡氏が、太后に年賀のため参内した。太后は命令して、特別に胡氏を留め 置いたので、ひと月たってから、やっと退出した。』

劉琰は先妻を亡くし、何番目かの若い妻を娶っていたのであろうと想われる。当時の常識では、吊士たる者は、たとえ老齢 (そっちは上要) であっても、妻帯しているべきだ!とされていた。

『胡氏は 美人であったので、劉琰は
彼女が後主(劉禅)と私通したのではないかと疑い 吏卒を呼んで胡氏を鞭打たせ、最後には自分の草履で顔を殴った後に離縁した。胡氏は仔細を
告訴した為に、劉琰は投獄され、(冒頭の判決を言い渡されて) 処刑された。
是れより以後、大官の妻や母が、朝賀に参内する風習は絶えたのである。』・・・・(
正史・劉琰伝)


ーーわざわざ正史(陳寿)が、恥を承知で、〔劉琰伝〕に託けて、こんな風評めいた書き方をした、と

云う事は、200パーセントの確率を以って、劉禅の禍々しい悪行を認めた事の証明である。

命令を出したのは勿論、劉禅である。また劉琰が疑ったと云う事も、事後ただちに先代からの良風

がストップされた事も、劉禅の日頃からの行為が狂っていた事を指し示すのである。

死期を自覚する諸葛亮の苦衷が察せられる、
暗澹たる未来の涯てである・・・・・

何だか、胸が潰れる様な 思いに成ってしまう 話しである。ーーだが、その反面、綺麗事だけでは

済まさぬ陳寿の、悲愴とさえ言える歴史家としての態度は、真に立派であるとも言えようか。



「此処で劉璋暗殺してしまい為されよ
 さすれば、大業は一挙に成就しますぞ!!

この浮かれ切り、弛み切った雰囲気の中であれば、実行は容易く、成功は間違い無しであった!

その一番確実で、短期決着の
策謀を、最初に企てたのは張松であった。だが、張松は

決して表に姿を現わす事をしなかった。劉備陣営の誰とも、直接に会う事を自戒し、赤壁戦直前の

3年前に1度顔を合わせて以来、一切の直接行動を秘匿し続けて来て居た。それはそうであった。

周囲は全て敵の中、孤立無援の状態で、いつ来るかも判らぬチャンスを待ち続けて居たのである

その苦悩の日々の積み重ねを、今更一瞬の蟻穴から崩壊させてしまう訳には行かなかった。

だから今回も、常に
法正と云うダミーを 仲介させ続けていた。そして、その法正は、今度の

作戦参謀・軍師の
龐統を介して劉備との意志疎通を行なった。

暗殺してしまい為され!!

・・・・それは、張松の考えと一致した
龐統自身の言葉でもあった。

張松、法正ヲシテ先主及ビ謀臣・龐統ニ申シ、進ンデ、
 会所ニ於イテ 璋ヲ 襲ウベシと説カシム。


それに対し、劉備は、暫し考えた後に、答えて言った。

この問題は重大である軽々には振舞うまいぞ
先主曰ク、此レ大事ナリ。倉卒にわかニ ス ベカラズ と。

この、劉備の発した言葉・・・・様々な要素を含んでいる。苦吟でも有り、一種、先延ばし的な優柔

上断さとも言い得るし、遠大な深謀遠慮だったと解する事も可能である。

だが一番の要因は矢張り、
”事後に対する上安”で有ったと筆者は想う。後世に於ける

大多数の見解では、己の築いて来た
〔仁者〕と謂う評判に対する配慮 を1番目に

挙げるのであるが、其れは2番目の理由であったと筆者は思う。況してや、優柔上断さとか、劉備

の個性であった・・・との要因は、後廻しになるべきだと考える。

《暗殺そのものは、成功間違い無しである。だが、その後は一体どうなる!?》・・・と想像した場合

其処に浮かび上がって来るモノはーー大混乱と悪評の暴風雨である。今し未だ入蜀したばかりで

人心の収攬も全く施して居無い此の段階では、とてもの事、上手く行くまい。

フセインを心よく思って居無い人民が圧倒的に多いとして、其れを襲って倒したら、直ぐにでも事は

万事収まり、人々は諸手を挙げて己に従い敬うだろう・・・・そんなバカで、身勝手でアホな妄想を、

2千年前の劉備は抱かなかった。諸葛亮が此処に居ても、やはり勧めはしなかったであろう。

ーー結局、この時の劉備の慎重さが正しかった事は、この後の史実が証明する事となる。 また、

21世紀初頭に、某国のアホ大統領の為した正義の戦いと称する行為が、決して正義でも正しくも

無い暴挙だった事も、その後の史実が証明する事となりつつある・・・・・。


こんな物騒で、剣呑な秘密謀議と、背中合わせで在ったなぞ、終ぞ 夢想だにしなかった

【劉璋】
は本気で【劉備】張魯を攻めてもらう心算で、兵糧20万石将兵万余

与えた。然も張魯との最前線である
〔白水関〕の軍事統帥権まで付与した。白水の関には以前

から劉璋の部将である【楊懐】と【高沛】が駐屯していたが、彼等の軍も 劉備の指揮下に置くと云う

全面的支援態勢を敷いて見せたのである。この盟約によって、劉備の軍団は一挙に

3万を超す大兵力に膨れ上がったのである!!


《莫大な兵糧と兵力と、武器・武具を与え上、贅の限りを尽した大宴会を100日以上も続けて歓待 したからには、もう劉備もイヤとは言えんだろう。その恩義の数々を思えば、よもや信義を搊う様な 振舞いは、したくても出来ぬ筈だ!これで我が策は万全・磐石じゃ!!》

それが軍事上得手な劉璋に出来る、最大の国家戦略であった。其にはれ恰好の手本が在った。

荊州に於ける、亡き 〔劉表の治世手腕〕 であった。君主は一切、戦争・軍事には関わらず、配下

部将に一任し、自分は専ら内政を担当し、結果としては国をガッチリ掌握したではないか・・・・その

先例に従えば、何とか国を保てるだろう。彼我の器量を棚上げした、何とも甘い見通しなのだが、

今の劉璋は大満足して成都へと帰って行った。
211年も終ろうとする年内の事だった。


さて、一方の
劉備・・・・百日宴も終って、劉璋が帰ってしまったからには、自分だけが何時までも

此処・
に留まって居る訳にもゆかなくなった。とまれ、劉璋との約束を果す動きだけでも見せて

措かねば収まらなくなった。
張魯討伐・漢中進攻を開始しなければならぬ。


”ではボチボチ 参ろうかそこで 劉備は、ひと先ず軍を北へ向ける

と、丸で牛歩の如き速度で、途中さんざんに道草を喰いながら、兎にも角にも 進軍を開始した。


目指すは
漢中への唯一の出入り口・白水関である。百日宴のからは150キロ
ほど北北東に在り、既に以前から劉璋の配下部将・【楊懐】と【高沛】が駐屯して居た。
ところが、レレレ~??・・・・劉備は、その〔白水関〕への谷筋にはいった直後、全軍を急にストップさせてしまったでないか!?ーー白水関へは入らず、その手前70キロも南東の葭萌かぼうの関へ入り込み、其処にドッカリと腰を落ち着けてしまったのである!!
       
白水関〕なら、張魯にとっては 直接の脅威と成るが、葭萌では 痛くも痒くも無い。逆に言えば、 劉備側にとっても、直ちに戦端を開く必要性の生じない地点であった。ーー詰り、この北上は・・・・ 劉璋の眼を幻惑する為のカモフラージュに過ぎず、劉備には、本気で張魯と戦う気持なぞ毛頭無かったのである。

それより何より先ず、劉備が此処で全力を傾注したのはーー人心の収攬であった。劉璋から付与

された部将達との絆をガッチリ固め、彼等の心を完全に、自分に心酔させる事であった。なにしろ

今後、劉備軍の中核 と成って貰わねばならぬ 将兵達であった。いざ決戦となった時に、足を引っ

張れれたら一巻の終わりである。だからジックリと時間を掛けた・・・・そうこうする裡にも時は過ぎ、

年は改まって、建安の十七年 (
212年) へと進んでいった。

この時、一向に動す気配を見せぬ劉備に対して
軍師龐統は決断を迫るべく、今後に
採るべき具体策を列挙して、その選択・実行を促した。

「此処に
上・中・下の3つの策 が御座います。最早ただ徒に思い迷って時を費やして居る 場合では御座いませぬぞ。このまま此処に留まり続けて居れば、必ずや進退に窮す事態を招くは必定!躊躇って居る時期は過ぎました。どうか、御決断ください!!

どちらかと言えば温厚で、ヌーボーとしているホ統が、珍しく厳しい表情で劉備に膝を進めた。

つは・・・密かに精鋭を選りすぐり、昼夜兼行で成都に急襲を掛ける事で御座います 戦さ嫌いな 劉璋ですから、備えなど全くして居らぬでしょう。 大軍で押し寄せれば、一挙に ケリは
着く筈です。是れが
最上の計です。
つは・・・白水関を襲い、その兵力を糾合した上で、成都へ向う事で御座います。
楊懐と高沛は劉璋麾下の吊将であり、屈強の兵を従え、白水関一帯を固めて居りますが、2人は
屡々劉璋に書状を送って、殿を荊州へ退去させるべきだ!と意見具申していると聞き及びます。
ですから軍を興す前に、彼等の所へ使者を送り、『荊州が急を告げて来たので、急ぎ救援に戻る』
と伝え、同時に 旅支度を整え、如何にも帰国する様に 見せ掛けるのです。2人とも、殿の英傑を
恐れている上、何よりも先ず殿の撤退を喜んで、さっそく騎行して挨拶に参る筈です。そこを空かさ ず引っ捕え、軍を進めて彼等の兵を併せた上で、成都に向うのです。是れは
中の計です。
つは・・・ひと先ず”白帝城”に引き返し、荊州の味方と 連繋をとった上で、おもむろに 成都を目指す戦略で御座います。然し、是れは下の計です。

いずれにせよ、決断の時で御座いまする。どうぞ、この3策の中から、今後の方針をお決め下さい
ますように・・・・!!



ーーそこで、劉備は考えた。・・・・”引き返し”は、絶対に有り得無い。? 2


・・・・採る事としよう!!




秋は 212年(建安17年)、7月となっていた。

時あたかも、荀彧を引き連れた曹操は、孫権征討の為と称して、合肥へと進軍中の頃であった。


思えば・・・・荊州を発つ時、諸葛亮は劉備に言ってみせた。

「張魯は、敵では御座いませぬ。彼が人民に施している
鬼道の政策には、学ぶべき処が 多々ありまする。張魯とは、決して戦ってはなりませぬぞ。




漢中張魯、そして関中馬超・・・・・
この時点での
2人の動きが 気になる・・・・ 【第176節】 馬超復活! (叛の申し子)→へ