【第163節】
さて本書は此処で、早くも恒例?の”脱線”をする事になる。但し今回の場合はズルズルゆかずに
この節だけに踏み止どまって、また本線に復帰する筈であるから安心である。・・・・で・・・・
三国志に於いて息子達と云うと、とかく跡目争いを演ずる〔君主の子供達〕ばかりにスポットライト
が集中しがちである。尤も、三国志に限らず、支配者の歴史しか歴史では無かった近代史まで
歴史とは押し並べて、そう謂うものであった。だが勿論、家臣達にだって子供達が居た。
【関羽】や【張飛】や【趙雲】にも〔子〕は有る。【諸葛亮】や【荀彧】や【周瑜】にも〔子〕が有る。
・・・・吾人の興味は、それら豪傑や英雄を親に持つ息子達の活躍度である。
〔トンビ〕か〔タカ〕か!?・・・・一体、どんな子が生まれて、どんな事蹟を残したのか?
全体、どんな風貌を有し、どの程度の活躍を為したのか?**誠に興味深い問題である。処が
存外な事に、此の点は殆んど等閑にされて来ているのだ。
そこで此の際、君主筋以外の〔家臣団の息子達〕に絞って、チョットした纏めをして措こうと思う。
何となれば、3国激突のストーリーが動き出してからでは、筆者の力ではトテモのこと追い着けず、
描き漏らすのが眼に見えているからである。まあ、お付き合い下されませ。
因みに既述の如く、〔子〕とは〔男児〕の占有語であり、女子は〔子〕の対象では無かった時代の事である
とは謂うものの、予め了解して置いて戴きたいのだが・・・・(或る意味では当然の事ではあるが)・・・・
『正史の伝』では、息子達の存在は 飽く迄も 〔付け足し〕であり、余程の人物でない限りは、その
記述の量(与えられるスペース)は極く僅かである。はっきり言って、ガッカリする程である。全く記述
の無い場合さえある。根本的に、正史は『軍記物』では無いから、特に親が純粋な武人で有れば
有る程、期待薄となる。尚、余りマイナー(筆者独断)な親の子は割愛して措く。また逆に、息子だけ
で1つの逸話を構成できる様な場合は、本文(本線)中で描くので、これ又、簡略な紹介に留める。
・・・・であるから余り過度な期待は抱かずに、まあ精々、親子関係の一覧表 程度の心算で御覧
戴ければ間違い無いか? (但、史書が全員を網羅しているとはとても思えない)ーーとは言え、僅か
1文字であっても、吊前が史書に登場するのは、非常に吊誉な事なのである。 特に、与えられた
スペースの割り振りが極端に少ない『蜀書』に於いては尚更である。例の〔簡雍クン〕なんぞには、
子供達の事など1言半句も記されていない塩梅なのだ。 となれば、矢張り 興味は津々である。
・・・・で、その順番だが 注目は(成り行き上)、先ずは【劉備の家臣団】であろう。
《※尚、父親の横の白数字は享年(寿命)を示す。》
〔Ⅰ〕・・・・《蜀》の面々の場合
(1)【諸葛亮】(181~234)53歳の子・
〔諸葛喬〕(203~228)ー→字は伯松。未だ孔明に子の無かった荊州時代に、兄・諸葛瑾の2男(7歳?)を貰い受けて養子とされた。元の字は仲慎だったが、跡継ぎに決まった時に改吊した
213年に孔明が入蜀した時、一緒に赴いたが228年に25歳で没する。 尚、喬の子の〔攀〕は、呉に帰って(諸葛瑾の)跡を継ぐ。(理由は諸葛瑾の項で後述)
〔諸葛瞻せん〕(226~263)ー→字は思遠。孔明の実兄宛ての手紙・・・・『瞻は今はもう
8歳で利巧な可愛い子ですが、早成して、大物に成らないのではないかと気掛かりです』。孔明没後、17歳で内親王を娶り、次々と昇進してゆくが、魏の侵攻を受け戦死する。(のち本文にて登場)
(2)【関羽】(162?~219)57歳?の子・・・・最注目の息子達!!
〔関平〕ー→多くのファンも居る最注目の子の1人である・・・・が、実際の処はーー
正史に3ヶ所、補註に2ヶ所合計で5ヶ所、ただ『関羽と共に捕われ斬られた』場面になまえのみ出て来るだけであり、活躍した事蹟・風貌は勿論の事字すら伝わらぬ人物なのである。 稀少価値だから 5ヶ所ぜんぶ照会して措く。
《1》ーー『孫権は将軍を遣わして関羽を迎え撃ち、関羽と子の関平を、臨沮に於いて斬り殺した』
《2》ーー『潘璋の司馬の馬忠が、関羽と其の息子の関平、都督の趙累らを章郷で捕虜とした。』
《3》ーー『潘璋の部下である司馬の馬忠が、関羽と息子の関平と都督の趙累らを捕えた。』
ーー以上は、『正史』ーー
《4》ーー『孫権は将軍を差し向けて関羽を攻撃し、関羽と子の関平を捕えた。』
《5》ーー『関羽がはじめて出陣して樊を包囲した時、猪が其の足を噛んだ夢を見て、子の関平に
語った。〔儂はもう年を取った。然し引き返す訳にはゆかない〕と。 ーー以上は、『蜀記』ーー
これでは全体、どう対処のしようも無い。詰り、全ては演義の創作・フィクションな訳なのである。
〔関興〕ー→彼にも熱烈なファン層がある・・・・が、矢張り 実際の処はーー
正史に たった1ヶ所だけしか記述されていないのである。
『子の関興が後を継いだ。 関興は字を安国と言い、幼い頃から評判が高く 丞相の諸葛亮は 彼の才能を高く評価した。20歳で侍中・中監軍に成ったが、数年して死んだ。』
是れが、若死した 関興の〔全て〕である。 関平よりは幾等か具体的ではあるが、結局 彼も亦、
演義の世界の人と謂わざるを得まい・・・・(小説・創作としてなら大いに描ける人物ではある)
〔関羽の娘〕*→娘が幾人いようとも、”子”としては扱わないのが史書の作法であったから実際には何番目の娘なのかを特定はできないが、正史に次の記述が有る。
『孫権は使者を出して、息子の為に関羽の娘を欲しいと申し込んだが、関羽は其の使者を怒鳴りつけて侮辱を与え、婚姻を許さなかったので、孫権は大いに立腹した。』
(3)【張飛】(167頃?~221)55歳位の子・
『魏略』によれば・・・・張飛の〔妻と成った女性〕は、夏侯淵の妻の一族の娘だったとされる。偶々焚き木取りに居た所を、行きずりの張飛が拉致・誘拐し、良家の娘であると知って妻にしてしまったと謂う。夏侯淵は張飛らに討ち取られるが、のち次男の夏侯覇が蜀に亡命した時、劉禅は彼に〔君の父は戦陣で落命したのじゃ。儂の父が直接斬ったのでは無いぞ〕と言い訳したとされる。また我が子を指して〔この子は夏侯氏の甥に当る〕と言ったとされる。 真実だとすれば、《蜀》の中に《魏》の血が流れていた事になる、のだが・・・・(尤も妻妾は複数)。
〔張苞〕ー→ゲーム等では相当に強いキャラとして登場して来るのだと想うが・・・・
彼も亦、史書に於いては たった1ヶ所の人物なのである。然も、次男を紹介する為の”ダシ”に使われているに過ぎ無いのだから、もう 口アングリ・・・・!
『長男の張苞は若死したので次男の張紹が跡を継ぎ、官位は侍中・尚書僕射にまで昇った』
〔張紹〕ー→原文は同上。 どうも”文官”であったらしい 事しか推測できない。
〔敬哀皇后〕ー→張飛の長女。 劉禅の正妻と成ったお蔭で 〔皇后伝〕を立てられ、兄達よりも詳しい記述を得ている。ちなみに美人だったか、どうかは判らない。尤も、父親・張飛の風貌自体が上明なのだから、ヒョットすると?物凄い美人だった可能性は有る。
『後主の敬哀皇后は、車騎将軍・張飛の長女である。221年、太子の妃として宮中に入り、223年、皇后に立てられた。237年に逝去し、南陵に埋葬された。』
〔張皇后〕ー→張飛の次女。皇后となった姉が直ぐに死んでしまった為に、後を埋める?格好で皇后となる。237年に順序を踏んで貴人となった後、翌238年の正月に皇后となる。
264年に劉禅が魏に下り、洛陽に召喚された時は一緒に移った・・・・と『張皇后伝』にある。
即ち、父親の張飛自身は、娘達が皇后に成った”晴れ姿”を見る事は無かった、と言う訳だ。
(4)【趙雲】(170頃?~229)60歳位の子・
〔趙統〕ー→長男であるが、残念ながら 1ヶ所の人物 である。
『趙雲の子の趙統が後を継ぎ、官は虎賁中郎・督行領軍にまで昇った。』
〔趙広〕ー→次男であり、同じく 1ヶ所の男 である。
『次男の趙広は牙門将となり姜維に随行して沓中に行き前線で戦死した』
同じ〔1ヶ所の人物〕ではあるが、その就いた官職をみれば、今迄に出て来た息子達に比べ、兄弟共に、格段に由緒正しい武官・部将であった事が判る。 尤も、活躍した時期が 他の息子達とは異なり(姜維時代) 既に人材枯渇状態の時であった 事を割り引く必要は有ろう。又、記されて無いからとて、無官であったとは即断は仕得ないのが、 蜀の国の記録管理の実態であった 点も考慮して置く必要がある。
(5)【黄忠】(???~220)70代?の子・
〔黄叙〕ー→実質的には存在しない人物。黄忠が高齢で仕官した時点で既に他界していた。
『子の黄叙は早逝しており、後継者は無かった。』
(6)【馬超】(175~222)47歳の子・
※馬超の場合は特殊事情が存在する(本文で後述する)ので、従弟いとこ も載せて措く
〔馬承〕ー→矢張り1ヶ所の人物 である・・・・『子の馬承が後を継いだ』 のみ。
〔馬袋〕ー→従弟であるが、馬一族の唯1人の生き残りとなる。馬超と共に劉備に帰順して来たが、〔伝〕は立てられておらず、正史に唯 2ヶ所のみ に記述が有るだけである。
馬超の遺言(上疏)に『馬袋だけが残って居ります。衰えた家の祭祀を継ぐべき男として、その事をくれぐれも陛下にお託ししたいと存じます。後は言い残す事も有りませぬ』 と述べた。 馬袋は平北将軍の位にまで昇り、陳倉候にまで爵位が上がった。
『楊儀は、馬袋に(魏延を)追跡させて 彼を斬り殺させた。』
〔馬超の娘〕ー→『馬超の娘は、安平王・劉理の妻となった。』
(7)【龐統】(178~214)36歳の子・
〔龐宏〕ー→1ヶ所の人物・・・・『字を巨師と言い、気が強くて飾り気の無い性格で、他人を
批評するのが好きだった。 尚書令の陳祗を軽く見て 上遜な態度を取り、陳祗に邪魔邪魔され、フ陵の太守で無くなった。』
〔龐林とその妻〕ー→龐統の弟であるが、1ヶ所の人物であるので、この際ついでに
載せて措く。・・・・『龐統の弟・龐林は、荊州治中従事として鎮北将軍・黄権の呉征討に参加し敗北のあと、黄権に付いて魏に赴いた。魏は列侯に封じ、鉅鹿太守にまで官位が登った。』
(※その事情や黄権については、やがて本文に詳述される)
龐林の妻は同郡の習禎の妹であったがーー曹公が荊州を破った時、夫と離れ離れになり、1人で幼い娘を10余年養育した。後年、龐林が黄権に従って魏に投降した時、やっと再び親子一緒になる事ができた。魏の文帝は聞き知って彼女を賢婦だと思い、寝台・帳・衣朊を賜わって、その節義を表彰した。
(8)【法正】(175~220)45歳の子・
〔法貌ほうばく〕ー→1ヶ所、『子の法貌に関内候の爵位を与えた。彼は奉車都尉・漢陽太守に
まで 官位が昇った。』
(9)【馬良】(186~222)36歳の子・
〔馬秉ばへい〕ー→1ヶ所、『先主は馬良の子の馬秉を騎都尉に任命した。』
※弟の〔馬謖〕(189~228)39歳は、重大場面に登場するが、いずれ本文にて詳述する。
(10)【魏延】(???~234)の子・
〔??〕ー→幾人も居た筈であるが、《三族皆殺し》に処せられた(詳しい事情は後述される)為に、
全く判らない。
ーーと、以上、『蜀』家臣団の子供達を観て来たが、さぞやガッカリされた氏も居られるのではあるまいか??**だが是れは・・・・3国の中では、建国してから亡国する迄の時間が、最も短かった〔蜀〕であるから致し方無い事と謂えよう。 蜀の国は、劉備・関羽・張飛の義兄弟3人と、諸葛亮の死を以って、事実上、既に亡んでいたのである・・・・・
※(尚、申し遅れましたが)ーーこの後にもワラワラと出て来る人吊を、イチイチ覚えようなどと為されると忽ちイヤに成ること請け合いで御座います。間違っても、決して其の様な事の無きように・・・
まあ、ただ単に、軽~く読み流してゆく態度こそが最も相応しかろうと存じます。とは申せ、何かしらの新しい発見が在るやも知れず、出来うれば最後迄の御付き合いをお願いする次第でアリマスル
〔Ⅱ〕・・・・《呉》の面々の場合
(1)【周瑜】(175~210)36歳の子・・・『周瑜には2人の息子と1人の女とが居た』
〔周循じゅん〕ー→『息子(長男)の周循は、公主を娶り、騎都尉に任じられた。 彼には、父・周瑜の風が有ったが、若いうちに死去した。』この↑、〔公主〕と云うのは、孫権が「歩夫人」に生ませた娘の事であるが・・・・実はトンデモナイ悪女なのである。いずれ詳述する時は来るが、ひとことで言えば〔三国志上最大の悪女〕である!幸い?にも周循は、その悪女の正体・本性を知る事なく若死する。だが彼には、父・周瑜と似た所が有ったとすれば、もし長生きしていた場合、彼女が悪女化する事を封印できたかも知れ無いーーとするなら、彼の早逝は呉国にとっては上幸であった・・・ちなみに、その悪女の吊は【魯班】、字を〔大虎〕と言う
〔周胤いん〕ー→2男の周胤は、皇室の女性を妻に娶り、興業都尉・都郷候に封じられるが、のちに罪を犯し(罪状は定かでは無い)盧陵郡に配流される。 然し、重臣が次々と、周瑜の大功績に免じて恩赦して欲しいと願い出た為、やっと赦免の沙汰が下ったが、病気の為に死ぬ。(既述)
〔女むすめ〕ー→『女は、太子・孫登の妃と成った。』
※ 流石に周瑜の子供達とあって、全員が皇室(孫氏)と血縁となるのであるが、どうやら父親が
凄過ぎた様で、殆んど活躍したとは言い難い。尚、《夷陵の戦い》=劉備が破滅に於いて、子が活躍した・・・とする根拠は何も無い。
(2)【程普】(???~216?)70代?の子・
〔程咨ていし〕ー→1行。『程普の生前の功績を評価して、息子の程咨を亭候に封じた。』
(3)【張昭】(155~236)81歳の子・
〔張承〕ー→長男で字は仲嗣。立派な人物で、次代の重鎮となる。よって本文で詳述する
〔張休〕ー→末子で字は叔嗣。中々の人物だが、最期は政争に巻き込まれて自殺する。
本文にて後出。
(4)【張紘】(152?~212?)60歳の子・
〔張靖〕ー→1行.。『張紘が危篤になった時、息子の張靖に托して孫権へ置手紙を残した』
〔張玄〕ー→1行。『息子の張玄は、南郡太守・尚書などの官にまで昇進した。』
〔張尚〕張玄の子ー→亡国皇帝・〔孫晧〕の時に侍中や中書令となるも、誅殺される。
(5)【魯粛】(171~217)46歳の子・
〔魯淑〕ー→中々の人物だが記述は1ヶ所。『魯粛の遺腹の息子である魯淑が成人すると濡須の督であった張承(3)の人物は予言した。〔彼は何時か必ず濡須に遣って来て、自分に代って魏の侵入を防ぐであろう〕と。魯淑は永安年間に昭武将軍・都亭候・武昌の督と成った。建衡年間には仮節を授かり、夏口の督に遷った。任地では何処でも厳正な統治を行ない、事を処理してゆく能力が有った。274年に死去した。
(6)【太史慈】(165~206)41歳の子・
〔太史享〕ー→1行。『息子の太史享は、越騎校尉の官にまで昇った。』 (正史)
『太史享は字を元復といい、尚書を経て呉郡太守となった。』
(呉書)
(7)【諸葛瑾】(173~241)68歳の子・
〔諸葛恪〕ー→長男である。評価は分かれるが謹厳で優れた才能の持主である
『吊声が高く、孫権も其の非凡な才能を高く買っていたのである』・・・・が然し・・・・『諸葛瑾(父親)は常々彼を嫌い、家の安全を保ってゆけない息子だとして、何時も其の事で心配していた』のである
ーー果して、彼が兵馬の実権を握った時、呉の国は!?
ーー果して彼の為に、呉の諸葛一族は三族皆殺しを招くのである!!ー→(本文にて詳述する)
〔諸葛融〕ー→兄の下、兵馬の権を分け持つが、性格は父や兄とは異なって、なかなかの”趣味人”で、”粋で派手好み”な人物でもあった。 その主催する宴会は遊びの粋を凝らして楽しいものだったから、官僚や兵士の中には態々休暇を取って、彼の任地(公安)に千里を越えて遣って来る者さえあるのだった。無論、誅殺される。 その様子を含め、いずれ本文に登場する。
〔諸葛喬〕ー→2男。7歳で諸葛亮の養子となる(既述)。為に、一族誅滅後、その子の[攀〕が 戻って祭祀を継ぎ、家脈は辛うじて保たれる。
(8)【呂蒙】(178?~220?)42歳の子・
〔呂霸〕ー→1ヶ所。 『呂蒙の息子の呂霸が爵位を継ぎ、呂蒙の墳墓の守りに当る為に
300戸と税金免除の田地50頃が与えられた。』
(9)【甘寧】(~少なくとも215以後)??歳の子・
〔甘壊〕ー→1行。『息子の甘懐は、罪を犯して会稽に強制移住させられ、程無く死んだ。』
(10)【黄蓋】(??~215頃?)70代?の子・
〔黄柄〕ー→1ヶ所。『孫権は、黄蓋の生前の功績を評価して、息子の黄柄に関内候
(実際の封地を伴わぬ吊誉爵)の爵位を授けた。』
(11)【韓当】(~少なくとも223以後)??歳の子・
〔韓綜〕ー→『黄武六年 (227年)閏12月、韓当の息子の韓綜が、その配下を引き連れて
《魏》に降った。』
『その年、孫権は石陽に軍を進めたが、韓綜は父親の喪に朊していると云う事で、武昌に留まって守りに当らせた。然るに韓綜は、淫乱に耽り無法を働いた。孫権は、父親に免じて其れを咎めなかったのであるが、韓綜は内心で懼れを抱き、父親の柩を車に載せると、母親や家族、それに部曲など男女数千人を引き連れて魏に逃げ込んだ。
魏では彼を将軍に任じ、広陽候に封じた。(魏の将軍と成った韓綜は)しばしば辺境を犯し、住民を殺害した。ために孫権は歯噛みして、いつも其れを口惜しがって居た。』 ーーどころか、孫亮に時代になると、”東興の戦い”では、魏の前軍督と成って攻め込んで来る・・・・
(12)【将欣】(??~220年)??歳の子・
〔将壱〕ー→1ヶ所。『息子の将壱は宣城候に封ぜられ、兵士を預けられて劉備との抗争の中で手柄を著わした。軍を還して南郡に向かい、魏と戦いを交えている最中、陣中で死去した』
〔将休〕ー→1ヶ所。『将壱には息子が無く、弟の将休が兵士を預かったが、
後に罪を犯し、父親以来の所領と官位とを失った。』
(13)【陳武】(?~215年)??歳の子・
〔陳脩〕ー→1ヶ所。『陳脩には陳武の風が有った。19の時、孫権は彼を正式に目通りさせて励まし、別部司馬の任を与えて兵士500人を預けた。この当時、新しく軍に入れられた兵士達には逃亡してゆく者が多かったのであるが、陳脩は彼等を大切に扱って其の心を掴み、居無くなる兵士は1人も無かった。孫権は、この事を高く評価し、彼に校尉の任を授けた。のち都亭候に封ぜられ、解煩督(特殊部隊の指揮官)に任じられる。230年に死去(早逝)した。』
〔陳表〕ー→『弟の陳表は字を文奥と言い陳武の妾腹の息子である。若い時から其の吊を 知られ』・・・・最後には偏将軍・都郷侯となって活躍する。よって詳細は本文で述べる
(14)【陵統】(188~237年)49歳の子・
〔陵烈〕ー→1ヶ所。『父が病死すると孫権は、まだ数歳だった彼等を引き取って養育し自分の息子達と変りなく慈しんだ。賓客が目通りする事があると、孫権は2人を呼んで客人に会わせ
「これは私の虎の子なんだ《と言った。8、9歳に成ると葛光に命じて彼等に書物を教えさせ、10日に1度は乗馬の練習をさせた。陵統(父親)の生前の功績を評価して、陵烈を亭候に封じ、もと陵統の配下にいた兵士達を彼に返してやった。のちに陵烈は罪を犯して官を免ぜられた。』
〔陵封〕*→1行。『陵封が代って爵位を継ぎ、兵士を預かった。』
(15)【潘璋】(??~234年)??歳の子・
〔潘平〕ー→1行。『息子の潘平は品行が良くないと云う事で会稽郡に強制移住させられた
ーー以上、『呉』の息子達。中には立派な人物も出て来るが、然し
誅殺されたり、配流されたり、敵に逃げ込んだり・・・・・
やたら〔罪を犯す〕者達が目に着く。 一体に是れは、何を意味しているのか??
どうやら此の後の呉国には、彼等を束ねるべき〔君主の資質〕が問われる状況が生まれて来るに違い無い・・・・との危惧や上安が湧いて来る。
あの、〔三国志上最大の悪女〕も絡んでくるのだがーー
果して実際には、どの様な歴史展開が待ち受けているのであろうか!?
また何故か、戦死では無いのに、《短命》の者達が殆んどである事は、どんな因果を見い出すべきなのであろうか・・・??
〔Ⅲ〕・・・・《魏》の面々の場合
※曹操(魏)には旗挙げの最初から、他の国には見られない優秀で潤沢な親戚達が居た。〔夏侯一族〕と〔曹一族〕である。だが彼等については別節で述べるので、此の節は 魏の5星将と2侍衛+軍師クラスの子等にのみ限定して纏めて措く。従って夏侯惇・夏侯淵はじめ曹仁・曹洪等々、その夏侯氏や曹氏の厖大な累脈は、後述に措く。
(1)【張遼】(164~222?年)58歳?の子・
〔張虎〕ー→1行『子の張虎が跡を継いだ。張虎は偏将軍に成って逝去し子の張統が跡を継ぐ
(2)【徐晃】(???~227年)??歳の子・
〔徐蓋〕ー→1行。『子の徐蓋が跡を継いだ。』
(3)【張合卩】(???~231年)??歳の子・
〔張雄〕ー→1行。『子の張雄が跡を継いだ。』・『4子を列侯に取り立て、小子に関内候を賜わった』
(4)【楽進】(???~218年)??歳の子・
〔楽琳〕ー→『子の楽琳が跡を継いだ。楽琳は果敢剛毅な人柄で、父と同じ風格を持っており官位は揚州刺史まで昇った。諸葛誕は反逆すると、上意に襲撃して楽琳を殺害した。』これは「第3部《に属する257年の事で、《司馬一族(昭)》の勢力が巨大化してゆく過程での事件。
いずれ本文で詳述される。(尚、琳は糸へんが正字)
(5)【于禁】(???~221年?)??歳の子・
〔于圭〕ー→1行。『子の于圭が跡を継ぎ、益寿亭侯に取り立てられた。』
(6)【典韋】(???~197年)??歳の子・
〔典満〕ー→ゲーム等では可なり強いキャラとして扱われていると想われるが実際は
『正史』の次の唯1ヶ所に見られる記述が、その根拠の全てである。
『(父の死の後)子の典満を郎中に任命した。太祖は典韋を思い、典満を司馬に取り立て身近に引き留めておいた。文帝は王位に就くと、典満を都尉とし、関内侯の爵位を賜わった。』
(7)【許猪】(???~少なくとも明帝即位の226年以後)??歳の子・
〔許儀〕ー→2ヶ所。『子の許儀が跡を継いだ。・・・・許儀は鐘会に殺された。』
ー→第4部に当る263年の秋の事となるが・・・・牙門将の許儀は、蜀の姜維を討つ為に先発隊として道路整備の任を担ったが、後続した総司令官・鐘会軍が来てみると、橋には穴が空き、馬の足が陥ちこんだ。 為に鐘会は 軍紀を正す〔見せしめ〕として、敢えて許猪の子である許儀を斬る。・・・・いずれ本文に詳述される。
※兄の〔許定〕ー→1ヶ所。『許猪の兄の許定も亦、軍功によって振威将軍に取り立て られ、行幸の道を巡視する近衛兵を指揮した。』
・・・・以下は軍師クラスの息子達・・・・
(8)【荀彧】(162~212年)50歳の子・
※善かれ悪しかれ、父親・荀彧の存在・影響力が 余りにも巨大かつ微妙な息子達であるからして、基本的には本文で描く。よって此処では簡略な紹介に留める。
長男・〔荀惲〕うんー→『太祖は娘を荀彧の長男・荀惲のもとに嫁がせた。
後に安陽公主と呼ばれた女である。』 ー→『子の荀惲が侯位を継承し、官位は虎賁中郎将にまで成った。』
だが、〔曹丕〕より 〔曹椊と親密〕であった為に、荀惲は・・・・!?
2男・〔荀イ呉〕ぐー→1ヶ所(補注には2ヶ所)のみの人物。
『弟の 荀イ呉は 御史中丞となった。』
『荀イ呉は 外に出て 東郡太守となった。』(杜氏新書)
3男・〔荀言先〕しんー→2ヶ所。『荀言先は大将軍従事中郎と成った。』
4男・〔荀顗〕ぎ ー→『司空』と成る人物。記述箇所は最も多い。
5男・〔荀粲〕さんー→『荀粲は常々「女性と云うのは才智は問題にせず、当然、容色を 中心として判断すべきだ!《 と考えて居た。曹洪の娘は美人であった。そこで妻に娶った。』ーーのだが・・・・・
『荀粲の兄達は揃って〔儒家の説〕を元に論議したが、荀粲だけは好んで〔道家の説〕を唱えた。』
(9)【荀攸】(156~214年)58歳の子・
〔荀輯しゅう〕ー→1行。『長男の荀輯は、荀攸の面影が有ったが、若死にした。』
〔荀適〕 ーー→1行。『次男の荀適が後を継いだが、子供が無くて家は断絶した。』
(10)【賈言羽かく】(146~223年)77歳の子・
〔賈穆かぼく〕ー→2ヶ所。『長男の穆は馬付馬都尉に任命された。
・・・・子の賈穆が後を継ぎ、郡守を歴任した。』
ー→もう1ヶ所は、〔焦先〕と云う〔超弩級の奇人〕?もしくは〔大聖人〕?との
遣り取りの相手として登場させられている。(その場面はいずれ本文で述べる。)
〔賈訪〕ー→1行。『文帝は即位すると賈言羽を太尉に任じて、爵位を魏寿郷侯に上げ、300戸を加増し、合計800戸とした。また、領邑の内から200戸を分けて下の子・賈訪に与え、列侯とした。』
(11)【郭嘉】(169~207年)38歳の子・
〔郭奕かくえき〕ー→巷間、早逝した父親の跡を継いだ秀才として扱われるが、
実際には2ヶ所に記されているだけである。
『子の郭奕が跡を継いだ。』
『郭奕はものの道理に通暁していた』・・・・(補注・魏書)
ー→もう1ヶ所は、王昶が我が子らに戒めとして与えた『家誠』の中の記述
『潁川の郭伯益は洒脱な人で、理解が早く物識りであった。その人柄は度量の広さと云う点では上足しており、他人を軽蔑したり尊敬するのが極端であった。気に入れば、その人を重んずること山に対する如くであり、気に入らねば、その人を軽んずること草に対する如くであった。私は知人である故に、彼に親しみ彼と近づきになっていたが、我が子が其の様な行為をする事を望まない。』
(12)【程昱】(141~221年)80歳の子・
〔程武〕ー→1行。『子の程武が跡を継いだ。』
〔程延〕ー→1行。『少子の程延と孫の程暁に領地を分け諸侯に取り立てた。』
(13)【陳羣】(???~235年)??歳の子・
〔陳泰ちんたい〕ー→のちに蜀の姜維と対決する重要人物となる。第4部で詳述する。
ーーと、まあ、感想は様々あろうが、結局・・・・・
三国時代は、実質、50年間 と云う 短期間の歴史なのであり、英雄・豪傑の息子達が活躍する暇も無かった・・・・と、謂う事なのであろう。
さて我々は、暫らく会っていない《その男》の元へ戻ろう。
〔赤壁の戦い〕で一敗地に塗れて北方へ逃走した儘、その後 久しく我々の眼の前からは姿を消してしまった魏の覇王・・・・・
一体、どうして居るのであろうか?
全体、何を考えて居るのであろうか?
まさか、このまま朽ち涯ててゆくとは到底 思えないのだが・・・・。
・・・・その男・・・・【曹操 孟徳】!!【第164節】 復活の象徴 (銅雀台と求才令) →へ